異世界審査員187.新春戦略会議

19.07.18

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。

異世界審査員物語とは

1936年1月
恒例により、皇帝陛下のアドバイザーの新年の飲み会である。場所はあいも変わらず渋谷の伊丹邸である。クーデター126事件で伊丹邸の門前で殺傷事件が起きたが、もう1年以上過ぎ、穢れも清められたと考えたのだろう。
出席者も恒例である。おっと、今年は伊丹夫妻の夫婦養子が参加している。
高橋是清はまだ総理大臣を務めている。総理大臣ももう3度目になる。彼も今年82歳、いくらなんでもそろそろ引退だろう。史実では今年起きるであろう226事件で暗殺されるはずだが、幸い国内はそんな不穏な動きはない。不満分子は2年前に126事件で一掃された。

お姿お名前職務
皇帝皇帝陛下皇帝そのもの
高橋是清高橋是清総理大臣
226事件は起きず暗殺されない。
中野部長中野皇帝の従兄弟で皇帝顧問
岩屋岩屋皇帝のお庭番、秘密機関のボス
伊丹伊丹異世界日本から来た技術者
実はこの物語の主人公なのだ
幸子幸子伊丹の妻
伊丹正雄正雄伊丹夫妻の養子
望月千代千代 伊丹夫妻の養子

右も左も写真でしか
見たことのない人たち
ばかり……

伊丹正雄
皇帝
「毎年恒例だが、ここ数年さくらの顔が見えず寂しいと思っていた。今年は若者が二人も増えてうれしいよ。
さて第二次大戦からの欧州の復興も順調のようだな。君たちも悩み事がなければないで、暇で困っているのではないか」
中野
「陛下、そうおっしゃるな。アメリカの不況は今だ解決せず、いつアメリカ国民の不満が爆発するか分かりません(注1)それが戦争となって我が国に害を及ぼすかもしれず……」
高橋是清
「本来ならアメリカが戦争景気で沸くところを、我国が上前をはねてしまいましたからね」
幸子
「アメリカが波に乗れなかったおかげで、復興需要を供給しているのは我国だけでなく、イギリスも同様で絶好調で覇権国を続けています」
皇帝
「まあ第二次世界大戦で主役をはれなかったのだから仕方がない。
あのさ、核爆弾の実現で我が国は列強から抜け出して覇権国になるのだろう?」
中野
「我国が密かに開発中の核爆弾ですが、アメリカとイギリスも同じく開発中です。完成が他国に遅れるのも恐怖ですし、どの国が完成してもその存在は恐怖です」
幸子
「もし戦争中にドイツが完成していれば、勝敗もそれからの世界も全く変わっていましたね」
中野
「そうならなかったのは幸運としか言いようがない。いやさくらの活動の成果だな。さくらは核爆弾よりも強力な兵器だ」
高橋是清
「これからは核爆弾を持たないと列強ではいられないのですか?」
中野
「そう思います。通常兵器は列強でなくても持てる、つまり量が多いか少ないかの程度問題のわけです。しかし対抗手段がない核爆弾は究極兵器で、だからこそそれを保有すれば列強国と名乗れると思うのです」
伊丹
核爆弾 「核爆弾ばかりじゃありませんから核兵器といいますが、ありゃとんでもなく危険なものであり神ならぬ人が扱うものではないと思います。だけど変な言い方ですが列強と名乗る数か国だけが持つことにより、列強以外との差別化をつけ、この世界の覇権を固定化できるのかなと思います(注2)その結果、ある程度の期間、戦争のない状況を維持できると考えます」
高橋是清
「だがどんな科学技術だってコモディティ化する。いずれ小国でも核兵器を持つ時代が来るだろう」
伊丹
「おっしゃる通りです。ですからある程度の期間と申しました。その期間はせいぜい40年とか50年でしょう。技術が進みさまざまな部品や機器が手に入るようになれば、爆弾であろうと自動車であろうと、自宅のガレージで作れるようになります。そうなるのは時間の問題で、いずれは猫も杓子も核兵器を持つようになるかもしれません。
私のいた世界では核保有国は8か国と言われていましたが、実際には10数か国あると推定されます(注3)
皇帝
「さて、これからどんなイベントが起きるんだ?」
幸子
「もう私の世界とは完全に別の道を歩き出しました。ですから想像しかできません。ただ歴史の力学は変わらないはずです。さくらがいればいいのですが……代わりに私の意見を述べさせてください。
将来といっても近くから遠くまでありますがこれからの10年間には、ひとつ、アジアやアフリカの植民地独立戦争が起きます。我国は唯一の有色人種の国ですから支援を求められるでしょう。そのとき宗主国からも植民地からも恨まれないよう注意が必要です。医療や食料などは支援しても、武器などの供与は考えないといけませんね。
ひとつ、中国と満州国の軋轢は戦争になるでしょう。ただ両国の国境線で起きるか、それ以外の場所で起きるかは分かりません。朝鮮は一応独立国ですが、その歴史と国家としての脆弱性から、両国の代理戦争として内戦になるような気がします。
ひとつ、中国が覇権を叶えようと地続きの周辺国にちょっかいを出すでしょう。あの国は内部に不満がたまっていますから、ガス抜きのため満州や朝鮮だけでなく西側や南側にも攻め込む可能性は大です」

ご参考までに: 史実の第二次大戦後の10年間には次のような出来事があった。
 ・東西対決 朝鮮戦争、ワルシャワ条約機構、ハンガリー動乱
 ・植民地独立・独立戦争 アジア・アフリカ全域
 ・中国の覇権 チベット動乱
 ・核兵器拡散 史上最も核実験が行われた

高橋是清
「昔の栄光を求めるのか?」
幸子
「中華思想・冊封体制という国家の論理が始皇帝から変わっていませんから」
皇帝
「我国の台湾や沖縄に侵攻することは?」
幸子
「十分あります。占領・統治を目的とせず、一過性の略奪の恐れもあります」
伊丹
「中東で石油がとれますから、30年前のバルカン半島のように火薬庫になるのではないですか。石油を確保するため、イギリスやフランスは植民地を維持するのか独立させて権益だけ維持するのか」
幸子
「いずれにしても10年に一度は大きな戦争、3年に一度は小規模な戦争が起きるでしょう。我国は本土と南洋群島と台湾を戦火から守ることを第一義にしていかないとなりません」
岩屋
「国内としては食料自給率の向上はもちろんですが、エネルギー自給率を7割くらいにできないものですかね」
中野
「モータリゼーションの発達で、ブルネイと新潟の石油だけでは自給率3割を切っている」
伊丹
「自給率を上げると言っても農地を拡大するようにはいきません。地質から本土で大油田が見つかることはなさそうです。となると油田を持つ国を侵略するか、我国は海だけはありますから海底油田を探すかです。あるいは石油の次のエネルギー源を考えるかですね」
高橋是清
「これから自動車の普及、家庭電化も進むだろう。そういうエネルギー源をなんとかしなければならない。
自動車産業や航空機産業を確立しても、自分が使えず輸出するだけでもしょうがない」
岩屋
「軍縮はどうなるのでしょう? 我が領土の警備、シーレーンの維持にどのような体制をとるのか?」
中野
「これからは満州のアメリカを仮想敵国として戦略戦術を考えなければならない。そうなると真正の陸軍や海軍でなく海兵隊のようなものが必要になるのか」
高橋是清
「なにをするにもお金だ。以前伊丹さんは、国民総所得といったかな? 今の所得を倍増したい。それだけあれば税金も確保できるし、飢饉や不況になっても民間の力でなんとかなるだろう。軍事費も国民の金に見合ったボリュームしか維持できないのだし」
皇帝
「戦争が終わっても明るい話題はないものだな」
幸子
「私の世界ではソ連が戦勝国になったので、自由主義と共産主義の対立が第二次大戦後から20世紀末まで続きました。冷たい戦争と呼ばれましたが、実際は代理戦争とか小競り合いは途切れなく続きました。
こちらの世界では共産主義が崩壊したのでそのような対立は存在しませんが、その分植民地独立戦争は激しくなるように思います。第一次大戦前は戦争とは軍隊が武器を持って戦うというイメージがありました。当然ジュネーブ条約などはそういう戦争の形式や手順を基に構築されています。
しかし第一次大戦・第二次大戦の結果、戦争とはカジュアルになりました」
岩屋

「カジュアル? 戦争がカジュアル?」

注:casualとはrelaxed and not worried, or seeming not to care about something、気楽で気を使わないこと


幸子
「武器が手軽に手に入るようになり、またアイデア次第で手近なものが強大な威力を持つ武器になることが分かったからです。
例えば満州で自走砲がないときトラックに対戦車砲を積んで走り回りました。あんなこと軍隊でなくてもできます。銃剣付きのボルトアクションの小銃は長さが兵士の身長くらいありました。我国の自動小銃は長さがその半分くらいしかありませんし、重さも軽いし操作に力もいらない。だから女性でも子供でも扱えます。それでいて性能は負けない」

38式歩兵銃
38式歩兵銃
左図は同縮尺
38式歩兵銃は本体だけで1276mm、着剣すると1663mm、重さ4.1キロ。
M16は本体長さ999mm、重さ3.5キロ。
M16/AR15
AR15

幸子
「それから現在のようにとんでもなく重く大きな対戦車砲などでなく、10年もすると重戦車を吹き飛ばす手持ちのロケット弾が現れます。大掛かりなものがなくても戦争ができちゃうんです」
皇帝
「なるほど、それでカジュアルな戦争とは、どういうものになるのかな?」
幸子
「これから起きる植民地独立戦争は従来のような軍隊で戦うのではなく、1人からせいぜい数十人によるテロ攻撃になるでしょう。いわゆる小隊・大隊という編成の戦いでなく、少人数で柔らかい目標、つまり事務所、学校、病院などを攻撃し、すぐに雲隠れして一般人に紛れる戦いをするでしょう。
それから成年男子ではなく、女子供でも銃を扱えるから、女性兵士、少年兵士というか、子供を集めて兵隊にするようになります」
中野
「それは……ひどい、戦時国際法違反だ」
岩屋
「それはルールに則った戦争じゃない。テロです。
奥様、そういう戦い方・考え方ですと、いきつくところ独立側も考えの違いで細かく分裂し、セクト同士が争うようになりませんか?」
幸子
「なりますね。宗主国側も交渉相手を見極めることができず、最終的には血で血を洗う泥沼になった植民地から引き上げるしかないかもしれません。残されるのは、多数の党派に分裂した武装勢力同士による終わりのない戦いです」
高橋是清
「見てきたような話だね」
幸子
「向こうの世界では、ゲップがでるほどそういう事例がありました。一般人はかっての宗主国の支配を懐かしむでしょう」
皇帝
「疑問だが、それは国民意識を共有していないからではないか。つまり植民地化される前に一つにまとまっていなかった、あるいはイギリスが良くやる分割統治の結果かもしれない」
幸子
「おっしゃる通りです。でも武装勢力同士の殺し合いが続く限り、国民国家として統一することはできないでしょう。なにしろ会戦で勝った負けたではなく、小規模なテロ組織同士の戦いの連続であり、完全な勝ちもなく完全な負けもなく延々と終わりません」
伊丹
「まあ現在植民地になっている国々も、植民地にされたとき国家であったところは少なく、もともとが昔のプロシャとかアラブのように部族社会とか小国家の乱立状態だったわけで、独立軍がひとつにまとまるわけもありません」
皇帝
「そういう無意味な戦争がこれから植民地で起きるのか?
それなら植民地独立は善とは言い切れないのだな」
幸子
「植民地でも起きるでしょうし、欧州で複数の民族が混在する地域では民族自決の名のもとに……実は私のいた世界では民族浄化という言葉が広く使われるようになります。民族自決とは民族それぞれが国家を持つことができるという考えでしょう。それが行き着けば、自分たち以外を殺戮すれば自分たちだけの国家になるということです。それを民族浄化と呼びました」
皇帝
「いやはや、恐ろしい言葉というか発想だ。調停しようにも民族自決という発想との折り合いをどうつけるのかができるのかね?」
岩屋
「そんなことが起きそうな国として、オランダ、スペイン、ユーゴスラビアでもギリシア、トルコ、バルト諸国、アイルランド……まさに火薬庫だらけだな」
幸子
「幸か不幸か、冷たい戦争の時はそういう抗争は抑えられていたのですよ。1990年に共産主義国家の崩壊が起きて大きな戦争がなくなると、小さな抗争のタネを見つけて争うみたいですね」
岩屋
「しかし植民地を継続するのが良いわけではないはず」
伊丹
「植民地支配はあるべき姿ではない。しかし悪だから止めるというのではなく、独立させる前に受け皿を作るためにすべきことはたくさんあります。住民の国民意識涵養、独立した国を統治できる体制つくり、政治家の養成、官僚の養成……
そういうことをせず、俺たちは本国に帰る、あとは勝手にやれと言われても、残された方は困ってしまいます」
皇帝
「我国に置き換えて考えると、台湾や南洋群島で独立戦争が起きるのか?」
伊丹
油井 「みな立場が違うのですよ。ブルネイは保護国です。外交などを支援というか我が国が取り扱っていますが、れっきとした国です。ここは他の地域とは宗教も文化も違いますので、早いところ完全に独立してもらうのがよろしいと思います。
石油の採掘権については条約を結び維持したい。向こうもこちらが社会インフラなどに大盤振る舞いしているのを知っているでしょうから、要求してもむげにしないでしょう」
中野
「長期的にはブルネイの石油利権は失うか……まあしかたがない」
岩屋
「外国に侵略されないために、ブルネイは我が国と安全保障条約を結ばないとならないだろうな。あの規模ではまともな国防も難しいでしょう」
高橋是清
「国際連盟も大国の調停だけでなく、小国の安全保障を担わないと片手落ちだな」
伊丹
「ともかく我々もいつまでも石油利権に拘る筋合いではないでしょう。いずれ20年後くらいに海底油田が採掘できるようになれば、ブルネイ程度の油田を維持するために現在のようにお金をかけることはないかと」
皇帝
「長期プランを考えてくれよ。懐柔工作が必要なら俺の仕事だ」
幸子
「そのほかの地域ですが、台湾は植民地で南洋群島は委任統治領です。
台湾については独立させるなら住民の有力者とスケジュールを協議し、それに向けて社会制度、法制、教育などを考えるべきでしょう。本土化を目指すならそれに向けてということです。個人的には本土化を目指すべきでしょう。地下資源はありませんが、地政的にも農業地帯としても価値は大きい。手放したくはないですね(注4)
南洋群島は委任統治領ですから、住民が国家運営できるようになれば独立させるのは必然です。しかし我が国は本土以上にインフラに投資していますし、将来の領海を思うと、手離しては丸損です。本土に編入する一択ではないでしょうか。
千代ちゃん、どうかしら?」

千代は突然話を振られて驚いたが臆することはなかった。

千代
「僭越ながら申し上げます」
皇帝
「おいおい、伊丹さんの義娘なら僭越もへったくれもない。この席にいる限り考えるところを自由に語ってくれよ」
千代
「そもそも現在のように将来の地下資源や領海拡大時の権益を考慮して、原住民を甘やかすのはいかがなものかと考えます。よく植民地出生者の差別など言われますが、現実には委任統治領出身者を優遇して本土人への差別です。
併合するかどうかは先の話でしょうけど、現在の納税と行政サービスの収支実態を原住民に知らしめて甘やかすのを止めるべきです」
皇帝
「おお、義娘さんは硬派だねえ〜、その意見はまっとうだと思うよ。
お聞かせ願いたいが南洋群島から大勢が、といっても数万だろうが、本土に住み着いたとき人種差別とか生じないかな。生じたときどうする?」
千代
「人種差別とは、ひとつは外観などのイメージから始まるもの、もうひとつは現実に迷惑を受けて生じるものがあると思います。
差別を起こさないためにはその二つにおいて予防すること、前者には学校教育、報道機関、政治家、皇室の方は異民族を同等に扱うこと、後者には移住する人に…本土から南洋や台湾に行くのも含みますが…先方の風習や価値観、タブーなどを十分に教育し日常生活でトラブルを起こさないようにすることでしょう。あるいは土地固有の慣習を破壊しない限り価値観とか風習を本土と同じように誘導することでしょう(注5)
皇帝
「なるほど、当たり前のことで簡単といえば簡単、困難と言えば困難だな。
とりあえず伊丹夫妻は良い義娘を得たことは分かった。
南洋群島を積極的に内地化することを考えてくれ。まあ10年くらいのスパンだろうけど。
変なことを思ったんだけど、我々の話は2年前、3年前と変わらんな。核兵器、植民地独立、エネルギー対策、全く同じだ。進歩がないというべきか」
幸子
「陛下、そうではありません。
私たちはこの場で1年間だけを考えているわけじゃありません。今日も数年から10年先までを考えて話しています。1年後に数年先を改めて考えてみても変わらないなら、それは前に考えていたことが間違いなかったこと。そして時と共に将来について具体的に信頼性が高い話ができるようになっています。
今回、願望や懸念だったことが来年はより具体的な話になることでしょう」
皇帝
「なるほど、千代さん、あなたの義母上は天才だよ」

正雄は嫁が会話を正しく把握して、更に対策を考えていることに驚いた。そしてこれは夫婦養子となった自分たちへの口頭試問なのだろうと解した。次回には自分もまっとうな話ができないとまずいぞと正雄は思った。


1936年2月

結局、正雄は半年ほど現在の造船所で働いて、仕事が一段落したら退職することになった。それまではできるだけ伊丹のそばにいていろいろな話を聞くことにする。もちろん伊丹が策を練るときは一緒に考える。
今日も一緒に酒を飲んでいる。幸子もいるし、子供を寝かせてきた千代もいる。

伊丹
「私たち夫婦が別の世界から来たことは聞いているね?」
正雄
「はい、中野さんから聞きました。異世界というものが理解できませんが」
伊丹
「私自身よく分からない。この宇宙にはこの世界に似た世界がたくさん存在しているらしい。自分がいる世界以外を異世界と呼んでいます。異世界はこの世界に似てはいるがすべてすこしずつ異なっているらしい。実は私もふたつしか異世界を知らないんだ。
私がいた世界はこの世界より1世紀ほど時間が進んでいた。だからこの世界にきて100年分の進歩した技術を小出しにして利益を得たかといえば、そんなことはなかった」
正雄
「100年後の技術をこの世界に展開するのは極めて困難ということですか?」
伊丹
「そうです。よくそう考えましたね。多くの人は100年先の知識と技術があれば大儲けできると言いますよ」
正雄
「私はアメリカ留学しました。扶桑国も工業水準が上がりましたが、まだアメリカとは相当差があります。じゃあアメリカの技術をこちらに持って来れば、すぐにも技術があがるかといえば、そんなこと簡単にできません」
幸子
「そうだよね、向こうでは店頭に並んでいる部品がこちらでは作られていないとか、頼めばすぐできる加工が、こちらではできない、使いたい機械がないということは多いもの」
正雄
「おっしゃる通りですね。技術というのは砂山みたいなもので、頂を高くしようと頂上にいくら砂を積み上げても崩れ落ちてしまいます。すそ野を広げ全体を大きくしないと頂上は高くならないのです」
伊丹
「その通りだ。この世界に来て25年になるが、最初の仕事は砲兵工廠のレベルアップだった。 ノギス 当時は機械加工の現場にノギスもなかったし、ブロックゲージもない。計算尺もない。刃物は炭素鋼だ。職工は加減乗除を知っていても対数は知らない、三角関数は知らない。だからノギスも作っただけでなく、算数教育もしたし高速度鋼も作ったし……」
正雄
「ノギスを作ったのですか?」
伊丹
「そうだよ。公式には砲兵工廠で開発したことになっているがね。私は別に名前もお金も欲しくない。
正雄さんは大学時代ノギスを使いましたか?」
正雄
「はい、もちろん。学科ではバーニヤの理屈を習いました」
伊丹
「私はノギスを作り三角関数や対数を教えて、正雄さんが言ったように砂山のすそ野を広げて頂を高くしてきたんだ。
おっと、昔話を語るつもりはない。正雄さんも改善をしようとするときは頂上だけでなく、すそ野を広げることをしなければならない。しかし自分ひとりですそ野を広げるのは大仕事だ。
だから同じ志を持つ仲間を増やしていかなくてはならない。だが同志を作るのも簡単ではない。改善しろと言っても誰もついてこない。人を動かすには、まず自分が何事かを成して相手を納得させなければならない。今の仕事を、今している人より速く良く楽にやって見せる、それを相手の目の前でやって納得させる、それがスタートだ」
正雄
「伊丹さんはそういうことをしてきたのですか?」
伊丹
「もちろんだよ。作業改善を頼まれて改善提案をしても、誰も言うことを聞かない。だってそうだろう? 長年やっている仕事場に見知らぬ奴が来て、こうすれば良くなる、こうすれば速くなると言っても信用されないよね。
だから自分がその仕事をして見せて、今までしていた人より速く、良く、楽にできることを見せないと言うことを聞いてくれない。口だけでなく手を動かして、相手を納得させないと
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」というでしょう。あれは真実であるし、それ以外の道はないんだ。
正雄さんが会社でどんな方法で部下を動かしているか知らないが、多分そういう方法だと思う」
正雄
「いや、そんなことできません。そもそも私には腕がありません」
伊丹
「一言申し上げておくが、私や家内と話すときは謙遜は必要ない。言葉は常に真実を語らねばならないし、語っているとみなされる。
正雄さんは職工の腕があると思っている。もしそうでないなら腕を磨くしかない。昔は「技師に腕なし技手に学なし」なんて言った。それは事実だったかもしれないが、あるべき姿ではない。技師に腕は必要だし技手も学が必要だ。そうでなければ研鑽するしかない」
正雄
「伊丹さんは腕があるということですか?」
伊丹
「そうだよ。とはいえ、私がどんな機械でも使えるとか、あらゆる仕事を知っているわけではない。しかし知らない仕事の改善を頼まれたなら、その仕事を一生懸命勉強する。さもなければオマンマの食い上げだからね。我々はそうやって今を築いてきたんだ」
幸子
「千代さんはミシンを使えますか?」

千代は突然声をかけられたので一瞬ギョッとした。

千代
「はい、簡単なものなら作れます」
幸子
「じゃあ、ミシンを女中さんたちに教えることはできますよね。でも射撃とか自動車修理となると、したことがないかもしれませんね。半月後にそれを教えてくださいと言われたら、勉強して教えることができますか?」
千代
「うーん、難しそうですね。しかも今のお義父さんのお話を聞くと、単に教えるのではなく改善するのでしょう。ますます難しそうです」
幸子
「でも千代さんの応答をみると、やれるとしか聞こえないわ、アハハハ」
千代
「私もバカではないつもりです」
正雄
「伊丹さんの後を継ぐなら、そういうことができなければならないのですか?」
伊丹
「そういうわけでもない。人は皆ユニークだから、その人のキャラクターで仕事をすべきだ。
それにこの世界に来て知り合いも実績もなく、明日の飯を食べるために必死だった私と、一応食べることは確保され一層の躍進を期待されている正雄さんの立場は違う。
おっと、正雄さんの方が楽というわけではない。正雄さんは常に私と比較されるリスクがある。いずれにしても成果を出さなくてはならない。世間は無能の存在を許してくれない。
人を動かして成果を出すのも一つの方法だ。ただ有能な人を使えても、並みの人を使えないかもしれない。並みの人を使えても有能な人を使えないかもしれない。世の中は面白い。
まあ、私のしていることを眺めれば簡単なことだと分かるよ」


1936年3月
今晩も4人で晩酌をしている。

正雄
「お義父さんは今日どんなお仕事をされたのですか?」
伊丹
「政策研究所に行って、今後10年間の新技術開発のテーマ案を聞いてきた」
幸子
「聞いてきたというのはね、研究所の人たちがいろいろ発表するのよ。洋司はそれを黙って聞いているだけなの。よく黙っているもんだと思うわ。私なんかすぐツッコミを入れたくなるわ」
伊丹
お酒 「発明発見というのはストーリーがあるんです。そりゃ流れから離れた孤島のような発明発見もあるだろうけど、技術発展の流れに沿っていないものはおかしいと思うね。皆の提案を聞いているとなるほどというのと、ずれているのがある。もちろん私が全知全能じゃないから、勘違いとか考え間違いもあろうけど、流れに沿っていないのはやはりおかしいね」
正雄
「お義父さんは聞くだけですか?」
伊丹
「まあ、最初はとにかく聞くだけだね。何十件もあるんだから」
正雄
「私がそういう場にいたらどうすればよいでしょうか?」
伊丹
「多数のものを比較評価する手法として、評価項目をいくつか事前に決めていて、話を聞きながら項目ごとに採点とか優良可をつけて、最後に合計を比較するなんてのがある(注6)
正雄
「そういうのが良いのですか?」
伊丹
「いや、ダメだと思う。実行手段の比較検討ならともかく、新規のアイデアならひたすら聞いて、先進性とかユニークさを重点的に評価すべきだろう。多くの点で魅力がなくても、誰も考えたことがないことなら、ぜひやってほしいと思う」
正雄
「なるほど、直感ですか?」
伊丹
「そう、直感能力だ。私が今まで会って直感能力がすごいと思ったの……」
幸子
「さくらでしょう」
伊丹
「言われちゃったなあ、アハハハ」
千代
「さくらさんとは中野様のお嬢様でイギリスの王子様とご結婚されたという……」
伊丹
「そう、彼女は考えることなく、どれが正しいのかひらめくんだ。後でいろいろ検討するとその選択が正しいことがほとんどだった、というかいつもそうだったね。
残念ながら私はそういう才能がないからたくさん情報を集めて考えるほかない」


うそ800 本日予測するクレーム
なんだよ、人生観かよという悪口がとんでくるだろう。仰せの通りです。
ただ私の40数年間に及ぶサラリーマン生活で、経験を通して実感したことは多々あります。
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじというのは真実でしょう。そして指導者がやってみせることもできず、言葉で説明もできずでは、体罰でも使わないと人を動かせない。
有名大学を出てとんとん拍子で出世して、あの人は有能だと言われた人を何人も見てきました。でもそういう人って単に有能な人を使えるというだけだったようです。困難にぶつかったとき周りに人がいないともうお手上げというのを何度も見ました。皆さんだって大地震のとき病院に逃げ込んんだ電力会社社長とか、クレームが出たとき記者に俺は寝ていないんだと豪語()した社長を覚えているでしょう。

人生勇気が必要だ〜、
くじけりゃ誰かが先に行く、
あとから来たのに追い越され〜、
泣くのが嫌ならさあ歩け ♪
 「水戸黄門」のテーマ「あゝ人生に涙あり」2番
水戸黄門

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注1
アメリカが大恐慌から復活したのは政府の施策ではなく、第二次大戦のおかげというのは定説である。もし第二次大戦がなかったら、あるいはイギリス・フランスが自力でナチスドイツに勝利したら、日本がアメリカと戦争しなかったらと考えると、日本にとっては良かっただろうし、イギリスの覇権は継続して万々歳だったろうが、アメリカの大不況は解決されなかった。第二次大戦はアメリカにとって慈雨といえば聞こえがいいが、アメリカ復興のためにアメリカが企てたとも言える。ハルノートなんてその一例だ。

注2
アメリカやイギリスなどがイラクやイランの核兵器保有を重大問題ととらえて対応しているのに対して、北朝鮮の核兵器に真剣に取り組まないのは、極東がfar eastというくらい西欧社会から遠くどうでもいいと思われているからだ。だからこそ、隣人であり当事者である日本が実力でなんとかしなければならない。
注3
核拡散防止条約(NPT)で核保有国の資格を認められたのはアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5か国。NPT非批准はインド、パキスタン、北朝鮮であり、その他イスラエル、南アフリカ、イランが保有していると考えられている。

注4
日本が台湾を得たのは日清戦争後の下関条約で1895年で、中華民国に返還したのは第二次大戦後の1945年である。この間の統治方法はいろいろ変遷があった。
そもそも日本が海外の植民地とか領土をもったことがないので、植民地を持っている国の統治方法を見て真似をしたらしい。
最初の20年は特別統治主義といい、日本本土の法律と異なる法律で統治し、ゆくゆくは本土と統合するにしてもそれまで条件整備が必要という考えだった。反日運動などがあったから一挙に施政を本土と同じにはできないと考えたのだろう。とはいえ、この期間に台湾の長官に後藤新平が就任して阿片追放などを徹底するなどそれないの改善が図られた。
次の20年は内政延長主義といい同化を柱とする統治に代わった。教育や法規制などを日本本土に合わせるようになった。
最後のほぼ10年間は皇民化が強まり日本語の徹底、徴兵制度などが行われた。
結局統治側も確固たる考えがなく、状況に振り回されて終わったようだ。ポリシーを持っていたら良かったと思えるが、国際社会の変動も大きかったから、そうもいかなかったのだろう。

注5
私は人種差別する気はないが、外国人であれ住む場所のルールを守ってほしい。
ゴミ捨ての曜日を守らない、ごみを出す日の早朝には良いものがないかとあさって、ゴミの紐とか袋をめちゃめちゃにされた。
勘弁してくれよ いやその前に一人がマンションを借りて2LDKに10人近く住み着いていた。
ああいうところに住むのは神経が太くないとやられてしまう。
そんなこんなで我が家は2年少々でそこを脱出した。
彼らがルールを守ってくれれば、私が外国人嫌いにならなかった。
個人の体験を一般論で語るなと言われるかもしれないが、個人にとっては個人の体験がすべてだ。

注6
昔、1980年代、小集団活動真っ盛りの頃の思い出である。
小集団活動は半年とか1年の活動の発表会があり、順位付けをする。私も管理者だったから審査員になることが多かった。審査員といえど評点を好き勝手にできるわけでなく、活動の仕方、テーマの選び方、活動状況とか進捗管理とか、成果とか、それぞれに配点があり、それぞれの項目での評価にその配点(重み付け)を掛け、点数を合計して大きい順から各人が1位2位と順位をつけ、審査員の合計で順位が決まるという方式が多かった。
ところがこれって全然だめなんですよね。
そんなんじゃなくて、テーマが画期的なら集団でなく一人の人がやっつけても価値は偉大だし、テーマの選び方が独善であろうと、管理者からの指値であろうと、まっとうなテーマならいいんじゃないですか。どうせ次期活動は今期の延長ではなくリセットされるのだし。まあ、そういうことを考えながらしていたものです。
それじゃ自分が良いと思ったものを上位にしなかったのか? というご質問があろうかと……
ご心配なく、自分が上位にしたいものには各項目の点数を調整していましたよ。私が環境側面を点数でやるときもそういう経験が生きていたからこそ、簡単にでっちあげたのです。キリッ

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