おまえはいつもISO認証の悪いことの棚卸ばかりしている。ISO認証にも良いところとか、なくては困ることもあるだろう。そういうことを考えてみろ!
そんなことを言われたことはありませんが、そうお考えの方も多いと思います。というわけで、本日は今までの気持ちをリセットして、ISO認証の良いところ、お世話になったことを思い出して褒めたたえたいと思います。
いや思い返すとISO認証のおかげ、ISO認証制度があって助かった、というのはたくさんあるのです。
ありがとう、ISO認証制度、そういわざるを得ません。
1990年代初めのこと、私は現場でチョンボして品質保証に遠島の刑になった。そこに来て半年も経たないときにISO9001(正確に言えばISO9002)認証のお仕事が回ってきた。なぜ認証することになったかは単純明快だ。当時、働いていた会社ではイギリスに電子機器を輸出しようとしていた。そしたら現地の販売会社からISO認証が必要だと言われた。
いきさつは、まもなくEU統合になる、統合されると欧州域内は自由に物と人が移動できるようになるが、それにはISO9000sを認証しているという条件があり、当然 域外の製品もISO9000sの認証受けている工場でなければEUに輸出できなくなるというのだ。
輸出するには輸入する国の法規制を遵守しなければならない。法規制ではないが、アメリカやカナダへ輸出するためにはUL規格の認定を受けなければならないのも同じだ。
ともかくそのとき、およそ半年でISO認証しなければならないという事態に追い込まれた。まさに高度成長期、私が社会に出た1960年代末の状況じゃないですか。そういう状況嫌いじゃありません。
その製品の営業は関係部門を集めて、ISO認証プロジェクトを立ち上げた。品質保証部門に来たばかりの私もその末席に加わったのである。
もちろんISO認証だけでなく、輸出に当たっては向こうの型式認定を受けなければならないなどプロジェクトの仕事は多岐にわたる。当然ISO9000の認証準備は私の担当である。
笑ってしまうのだが、まだISO認証なんて広く知られていないときだ。まずは規格を入手しようとなったが、入手できたのは英語版というかISO9001そのものである。
それから現地から新たな情報が入ってきたが、ISO9001でなくISO9002で良いということ。要求事項が少ないほうが楽なのはありがたい。
ISO規格は手に入ったものの、英語ではどうしようもない。とりあえず日本語に訳さねばならない。
実はその数か月前に、ISO9000sが翻訳されてJIS規格として制定されていた。だが我々はそれを知らず、規格を翻訳しなければならない。当然であるが、その担当は私である。
私と英語の関わりというと、中学校と高校で英語を習ったのがすべてである。外国といえば22歳のときアメリカ西海岸とハワイにジャルパックで行ったことがあるだけ。もちろん英語は話せません、聞いてもわかりません。覚えているのは Jack and Betty…これは由々しき事態である。
当時 翻訳ソフトがあったのかどうか知らない。またOSがDOS/Vの時代で、Windowsじゃないから、ワープロソフトと同時にエクセルを立ち上げるなんてことはできない。あの頃を思うとWindowsは素晴らしい。
ワープロソフトもマイクロソフトワードがデフォではない。巷には各社のハードに合わせた種々のワープロソフトがあふれていて、会社の16ビット機(8088だった)にはその一つがインストールされていた。ワープロ専用機を使っている人も多かった。
前述したように、ISO規格を翻訳ソフトとか翻訳サイトで英文和訳なんてできません。高校時代の英和辞典を持ってきてひたすら頑張りました。なにしろ左遷されてきたところですから、そこで役に立たないと社内に居場所がありません。
ISO9001規格は英文で20ページもなかったと思います。それでも1週間はかかったのではないだろうか。訳したものをプリントして関係者に配った。みんな私の粗末な翻訳で仕事をしたのだから恐縮というか恐れ多い話だ(笑)
もちろん翻訳を読んでもいわゆる一般語とは意味が違う。保管とはどんなことなのか、工程管理とは日程管理とは違うなどという説明会もした。勤めていた会社では、工程管理という言葉を日程計画という意味で使っていた。説明会で”工程管理とは生産設計のこと”と語ったら、日程計画部門の人がゾロゾロと出て行ったのを覚えている。お前たち! 自分の仕事だけよければいいのか!
ともあれ無事 期限前にISO9002を認証したのはすごいこと!
なにしろそのとき作った文書や資料はISO規格の翻訳だけではない。社内規則や説明資料などの和文、品質マニュアルやeメール・お手紙などの英文を合わせてとんでもないボリュームだった。
私は1970年代半ばから10年以上、NCプログラムを作っていたので、キーボードには慣れていた。だけどNCプログラムは使うキーは、数字、Gコード、Mコードなどに限定されていて、AからZまで26文字全部は使わないし大文字・小文字も気にしない。
でも毎日8時間 和文、英文の入力をしていれば、半年でブラインドタッチは免許皆伝!
もっとも引退した今は、英文入力などめったになく和文だけ。キーボードをすかして見れば、いつも使っているキーは光っているので、どれが使っているか使っていないかが一目瞭然。
使うキーはA、I、U、E、O、K、S、T、N、R、Hなどローマ字入力に使うものに限定される。Pとか促音・拗音につかうXなどはめったに使わないので、キーを見ないと打てない。それと英文入力時の大文字の際のシフトが下手になった。私は大文字になるたび手が止まってしまう。
当然 寿命が来るキーはそれらの箇所だ。私の場合、頻度が多いキーの動きが渋くなるとキーボードを買い替える。ほぼ毎年だ。いまどきは2000円くらいだから、鉛筆やボールペンと同じ感覚だ。
良かったことはキーボードのブラインド入力だけではありません。文章でも書類でもあっという間にでっちあげる能力が付きました。
この文章は6,000字(原稿用紙15枚以上)ありますが、叩くのに要した時間は2時間くらいでしょうか。原稿を見て打ち込むのでなく、考えながら作文するにしてはすごいスピードだと思いませんか?
もちろん現役時代も同様でした。会社規則なんて一日で3つ4つは作ったものです。下書きもなく、考えながら作成するのです。それくらいできなきゃISO認証請負人なんてやってられません。
お断りしておきますが、私はマニュアルとか会社規則の”ひな形”なるものを、人様に使わせたことは一度もありません。常にその会社に合わせたオーダーメイド、ワンオフ命でやってきました。そこらへんのISOコンサルと一緒にしないでね、
なにしろ18歳で工業高校を卒業してから、42歳になるまで24年間、英語なんて使ったことがない。せいぜい見かけた広告のローマ字を読む程度。三単現のSとか動詞の不規則変化なんてまるっと忘れてます。
最初にISO規格にたくさんあるshallを見たとき、意志未来だと思いました。違いました。mustの意味でした。
でもISO規格を理解するのは難しくありません。ISO規格の文型って10くらいしかパターンがありません。文学と違い同じ表現を続けることを嫌うなんてことがなく、むしろ同じ表現を使いまわすという感じです。ですからその多用される文型を覚え、かつ頻度の高い単語を覚えればオシマイ。簡単です。
注意点ですが、文章が長いです。長い文章の読み方は、日本の法律を読むのと同じ要領です。法律を読むときは、()のついた語句を全部除いて、初めに冒頭の主部と最後の述部を読み、その文章の言いたいことを理解します。それから、一番上の()のついた部分を加えて読み、順々に上のほうから()部分をひとつずつ加えて理解していきます。
ISO規格の英文を読むときも、初めは形容詞節や形容詞句を除いて読みます。それから修飾語を少しずつ加えて理解していくという手順です。
更に要注意なのは意味を英和辞典でなく英英辞典で調べることです。特に日本語化している語を日本での意味で解釈してはいけません。そうでないと「文章がわかりにくいから不適合」なんてバカを語るようになります。
ともかくISO規格は英語というよりも、数学の論理学のようなものと理解すればよい。ISO規格は時制を気にしなくて良いからラクチン
英語と思うと覚えることが大変だけど、論理学なら覚えるのは論理和、論理積、包含関係くらい。ときたま排他的論理和なんてのが出てきてたまげる。
シーケンスを個々の部品で組んでいた人はわかるでしょう?
その後、製品ごとに二度ほどISO9001(このときは9002ではなく)の認証をした。当時は工場全体のISO認証なんて考えもしなかった。A製品の客がISO認証をしろというと、その製品設計から製造・出荷までのスコープで認証を受け、B製品の客がISO認証をしろと言えばそのスコープでという歩みだった。
ISO認証を要求する顧客はごくわずか、ほとんどの顧客は「ISO?それおいしいの」という状態だったからそのほうが安くついたのだ。
品質保証の国際規格なのだから当然といえば当然だ。マネジメントシステムの規格だなんて、詐欺的なことは言わなかったのだ。
その後、海外子会社がISO9002を認証することになり、不肖私が支援するために生まれて初めて海外出張をした。とはいえそれは最初にして最後だったけどね。もっとも認証するまでの1年間に数回、一度行くと半月から長いときは三月くらいいた。
飛行機に乗るなんて、ジャルパックでアメリカ西海岸に行ったとき以来です。そのときはISOならまかしとけって自信満々でしたから仕事そのものは楽観的でしたしね。もちろん説明とか文書作成は英語とかでしたけど、自分の能力を信じればできるもんです。まさに「才能とは自分に何かができると信じること(注1)」
遠島になって以来弱気でしたがもう一転して自信過剰です。先行きが不安です。
1990年代も半ばを過ぎるとISO9000sも一巡してしまい、再び失業の懸念が……
でもご安心ください。ISO14001が現れました。
似たようなものですからチョチョイのチョイ
当時、既に労働安全衛生についてのISO規格が作られるという話がありました。そのときの総務課長が心配して私のところに話を聞きにきたことがありました。既に私はISO認証の専門家!
私は「そのときは総務で引き取ってくださいよ」なんて応えました。ISO14001もすぐに一巡するだろう。そうなればまた失業の危機ということは認識していました。
もっともその総務課長は私より早くリストラで……
注:そんな体験とか聞いたことを基に書いたのがケーススタディ 病院に行くでございます。
1980年代イケイケドンドンだったのが1990年代半ばから、あらゆる指標が頂点を過ぎた二次曲線のように推移しました。
バブル崩壊って内閣府の公報では1991年から1993年までらしいが、当時私の感じでは1993年頃から2000年くらいまでの期間に思っている。山一証券倒産(廃業)は1997年だったし、ゼネコン問題とか庶民の暮らしからは、1990年代末から2000年以降までバブル崩壊の感じがする。日本は大きいし、産業構造は多層だからその始まりは1993年に起きたにしろ私自身の身の回りまで迫ってきたのは1990年代末と記憶している。
自分自身にとってバブル崩壊は2002年、リストラですよ。
幸い拾ってくださるお方がいらっしゃいました。ありがたいことです。私がISOに関わっていなかったならありえなかったことでしょう。
これこそISOに関わったことで感謝すべき最大の出来事です。
感謝、感謝!
当時、娘も息子も大学生でした。二人それぞれ一人暮らしでは親が破産してしまいます。二人一緒にアパートで暮らしてもらっていたのです。
私が東京で働くことになり、家族がバラバラで暮らしては金がかかるから、4人で住むことにしました。
最初は息子と娘が住んでいたアパートに住みました。娘が就職してから、息子の大学、娘の勤め先、私の勤め先の三角形の真ん中に住むことにしまた。
いや結構楽しかったですよ。とはいえ1年半後には娘は結婚して、2年後に息子も卒業して遠く仙台に就職…家内と私で新婚生活です。いや二人で住むには広すぎ、すぐに狭いマンションに転居しました。
新しい仕事は監査でした。監査とは相手先に出かけること。いや楽しいですね。飛行機に乗るのが楽しい。月に数回乗りました。
大阪出張はほとんど毎週、札幌とか福岡は毎月、四国・沖縄は毎年、こんな素敵な旅ができるお仕事なんて美味しすぎる!
もちろん仕事ですから、名所旧跡なんて訪れることはなく、土産を買う時間もありません。
それも50代は楽しかったのですが、60を過ぎると辛い、いや飛行機に乗るとか電車に乗るのはつらくありません。でも札幌とか福岡なら羽田の到着ゲートは出入り口に近いですけど、熊本とか宇部空港から帰ると羽田ではゲート直結でなく、飛行機から降りてバスに乗りかえてターミナルまで移動することも多いのです。夜10時過ぎ着で最終のリムジンバスに乗ろうとすると、全力疾走ですよ! 運動不足の身にはつらすぎます。
深夜のターミナルで心臓麻痺なんてしゃれにもなりません。
ISOに関わって、ぶらっくたいがぁ様、名古屋鶏様をはじめ多くの友人・知人を得たこと。これに勝る喜びはない。
少年ジャンプのキーワードは「友情、努力、勝利」ですが、私にとってはISO認証はまさにそのものズバリ!
悪しき審査員や認証機関を相手に、仲間たちと連帯し戦い勝利をゲット!
いいですねえ〜
私はとうに引退しましたが、当時の仲間の多くは「俺たちの戦いはこれからだ(注2)」とか「さあ戦いはこれからだ(注3)」と今もダークサイドと戦い続けています。
もしISO認証制度に関わらなかったら、たぶん私はバブル崩壊の1990年代末には早期退職の肩叩きにあい、非正規雇用で働いていたか、正社員になれてもその仕事は高度でもなくエキサイティングでもなかったと思う。
年金などに不安であれば定年後スパっと引退できたかどうかわからないし、仕事によっては肉体・精神的に疲れ果てていたかもしれない。
振り返ってみれば私の過ごしてきた人生は最高だ。家族、友人、同僚、知り合い、みなさんに感謝するほかない。
なによりもISO第三者認証制度の存在に感謝する。審査員には感謝しないけど
本日の気づき
おお!私は本日、いかにISO認証制度にお世話になってきたかということに気が付いた。
決して審査員がアホだとか、認証制度の問題をあげつらってはいけないのだ。審査員がアホであればあるほど私の活躍の場があったのだ。
まあISOMS認証制度のおかげで私は飯を食ってきたし楽しく暮らしていたのは間違いない。
それに忘れてはならないことだが、私も結構努力はしたのだ。
注1 |
フリーダイバー岡本美鈴の言葉 | |
注2 |
連載物が諸事情で打ち切りになった時の定番のセリフ。 連載は終わるけど物語は続くのだ……という気持ちかな? | |
注3 |
ジョン・ポール・ジョーンズの言葉。 アメリカ独立戦争のときのアメリカ海軍の英雄。イギリス海軍に撃破され沈みつつあるとき、イギリスのピアソン艦長が「降伏するか」と問うとジョーンズは「俺はまだ戦いを始めていない。戦いはこれからだ」と答えたという。 ちなみに世界三大提督として、無敵艦隊を撃滅したイギリスのネルソン提督、日本海海戦の東郷平八郎、そしてこのジョン・ポール・ジョーンズなのだそうです。 奇跡の海戦史「さあ戦いはこれからだ!」 |