漢字と日本人・翻訳の罪

21.01.07
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

書名著者出版社ISBN初版価格
漢字と日本人高島 俊男文芸春秋97841666019812001.10.19720円

この本は先日、外資社員様に教えていただいたもので、年末に図書館から借りてきてお正月に読んだ。浅学な私は著者 高島俊男を知らなかった。奥付をみると多数の著作のほか、週刊文春に「お言葉ですが」というエッセイを長期間連載していたとある。私は若い時から週刊誌を買うという習慣はないが、現役時代に出張したとき移動中の暇つぶしに週刊誌を買うことはあった。そしてそんなタイトルのエッセイを何度か読んだ覚えがある。今ではタイトルくらいしか覚えていないが、全く無縁でもなかったようだ。

この本を読んで、ISO規格の問題の原因はこれか!と思った。いや、問題は漢字にあるわけでもなく日本人にあるわけでもない。著者が日本語の問題とあげたのと同じことが、ISO規格をJIS訳にして読むときにも起きたのではないかと思ったのだ。
ではまずこの本の話から始める。

この本の内容を簡単に書くと、日本語は漢字と癒着していて切り離せないものであること、そしてそのために漢字というか漢語が日本人の考えに与える影響が大きいこと、そして日本人は漢字・漢語の影響を脱することはできないだろう、そんなことである。

人間の要件として、火を使う・道具を使う・言葉を使うがあるそうだ。それが欠けたら人間以前の類人猿らしい。 原始人 だから話し言葉を持たない人類はいないわけで、どんな民族でも言語を持っている。
しかし言語といっても文字がないものが圧倒的に多い。どう考えても掛け声とか感嘆語が発展して言葉ができても、必要がなければ文字を考えるはずがない。
もちろん文字に至る前の段階では、枝を折ったりを岩に刻んだりして目印や獲物が獲れるとかの情報を記録したはずだ。
子供の頃、忍者漫画で後に続く者に知らせるために草を結んで知らせるとあった。またポリネシアの人たちは、大昔 縄に結び目をつけて航海の地図にしたと聞く。

家族とか一族の集団で、文化程度が低いなら暮らしていくのに文字による記述は必要ないだろう。だが集団が大きくなりそれを統治する機構(国)ができるようになると、文書や記録が必要になる。だから古代文明と言われるものはすべて文字を持っている。いや文字を持つようになったから古代文明と呼ばれたのだ。

しかし自ら文字を作った民族は多くない。世界には6,500以上の言語があるが、独自の文字を持つ言語は400程度といわれる(注1)6,500から400を引いた6,100の民族が、独自の文字を持っていないといっても、文字を使っていないわけではない。
例えば日本語には文字がなく、過去2000年間 中国から借用した文字を使っていることはご存じの通り。実はそういう民族が多数派である。

ベトナムも昔は日本と同様に中国の漢字を使っていたが、20世紀になってアルファベットに切り替えた。しかし漢字も継続して使われたようだ。ベトナム戦争のとき韓国はベトナムに派兵した。そのときベトナムの村に韓国兵向けに「殺さないでくれ」と漢字で書いた看板を掲げている写真を見たことがある。

ロシアでは9世紀に伝わったグラゴル文字と10世紀に伝わったギリシア文字から、
слово
今使われているキリル文字ができあがった。
英語は5世紀頃ルーン文字で書かれ、7世紀にキリスト教と一緒に伝わったラテン文字をメインにルーン文字も取り入れて、11世紀に24文字のアルファベットとなった。
最近輸入品などで見かけるタイ文字は、13世紀にクメール文字を基に作られたが、クメール文字はインドから来たという。

韓国では初めは中国から伝わった漢字を使い、その後 漢字とハングルになり、1970年代に漢字廃止政策がとられ今ではハングルのみが使われている。昔の韓国の新聞を見ると、日本の新聞と同じく漢字の熟語の次にハングルがあるという形だったが、今はすべてがハングルで書かれている。
前述した韓国のベトナム派兵は1960年代だから、ベトナムの村人が書いた看板を韓国兵は読めただろうけど、今の韓国人は漢字を読めないだろう。

2020.01.08 外資社員様からご教示をいただき下記文章を削除しました。
ハングルは15世紀に独自に造られたという。となると韓国・北朝鮮は独自の文字を持っている数少ない民族になる。


このように大多数の国や民族は独自の文字を持たず、他の言語の文字を借用している。では他の言語の文字を使って、自分たちの言葉を書き表すにはどうしているのか?
借りてきた文字が表音文字であれば、そのまま自分たちの言葉を記述できそうな気がする。しかし外国の表音文字の音がそのまま、自分たちの言葉の音と対応しているわけではない。言語によって母音も子音も音が違うしその数も違う。
自分たちの使っている言葉と音が違うのだから、まずそれを聞き取るとか発音することが難しい。結局聞いた音に近い自分たちの言語の音で代替えすることが多い。Meiasがメリヤス、American がメリケン、Square がスコヤ、Норма がノルマなど。
音を聞き取ってそれを真似るだけでも困難だが、音を文字で表記することはもっと難しい。だから借りてきた文字を使って自分たちの言葉の音の通りに、書き表すには工夫がいる。

欧州では中東で発祥したアルファベットが広く使われるようになったが、言葉の違いにより、文字を追加したりウムラウトやリング記号を付けるなど工夫してきた。

漢字が日本に入ってきたのは4世紀頃で、5世紀頃に地名や人名が書かれた遺物があるが、渡来人が書いたのではないかという。
しかしすぐに、日本人は漢字を使って文章を書こうとした。
日本語の音と全く異なる音の文字を使って日本語を書くのはどうしたのか?

最初は記録や文書が必要であれば中国語で記述した。読み書きするには中国語の知識がいるが、中国語を中国の文字で書くのだからなにも問題がないのは当たり前だ。
その後、いろいろ工夫された。ひとつは日本語の意味を持つ漢字を書き並べて、それをその意味の日本語で読んだ。古事記がその具体例である。太安万侶(おおのやすまろ)の苦労がしのばれる。

例えば…古事記 上巻より 原 文:「天地初發之時」
読み方:「あまつちはじめてひらくるとき」
現代文:「天と地が初めて開けたときに」
  cf. 「古事記」中村啓信、角川ソフィア文庫、2009

「天地」は中国語で「天地/世界」を表し読みは「ティンチ」だが、日本語でその意味を表す「アメツチ」と読んだわけだ。でも「アメツチ」なのか「アメトツチ」なのかわからない。実を言って「天地初發之時」は今でも正しいというかこうであったという読み方は定まっていない。ネットをググると数多くの見解がある。上記の中村啓信はその一例に過ぎない。そしてその問題は「天地」だけでなく古事記全編の言葉についてあるのだ。

現代でも漢字熟語とか複数の訓読みがある漢字は人により読み方が異なることがあるが、皆どうでもいいと思って聞いている。式辞などはその最たるものだろう。
いずれにしてもその方法は読むのが難しいし、誰が読んでも同じとは限らない。だんだんと漢文の中に返り点や送りかな(注2)を付けるようになった。そこから「かな文字」の発想が生まれ、やがて「漢字」と「かな文字」を使った文章が書かれるようになる。
もちろんそういった変化の流れがどうだったのか、あるいは考えた人たちが誰かはわからない。

しかし進化(?)が止まることはなかった。日本語の言葉を漢字熟語で書いたものが漢語だと思われ、音読みされるケースが発生する。
例えば伝言を頼まれた人が相手に伝えて先方の答えを依頼者に報告することを、古い日本語(大和言葉)で「かえりごと」と言った。それを漢字で「返事」と書いた。初めのうちは訓読みで「かえりごと」と読んだが、いつしか返事を「へんじ」と音読みされるようになり、話し言葉でも「かえりごと」の代わりに「へんじ」と言うようになった(注3)
「返事」は中国語の熟語のようだが、音も意味も中国語と関係ない日本製である。
中国語にも「返事」という熟語があるが、それは「何が起きたのか?」という意味で、日本語の「返事」は中国語では「回」と書く。

注:■は「夏」の冠を「毎」の冠に替えに、「目」の代わりに「日」にした文字。

古い日本語で、遠出することを「ではる」といい、それを漢字で「出張る」と書き、それが「しゅっちょう」と読まれるようになった。
会社員時代、ひょうきんな同僚はいつも「ではります」と言ってたが、あれはふざけていたのでなく正統な日本語だったのだ。
そういう事例は現在でもたくさんある。身近なものでは「英雄」と買いて「ひでお」と名づけると、「えいゆう」とか「ヒーロー」と呼ばれるなんてのは良くある。野茂英雄のあだ名は「ドクターK」だったそうだが、それは漢字とは関係ない。


明治以降ジャンジャンと、西欧の先進国から機械や技術や思想が入ってきた。該当する機械も技術も概念もなかったのだから、当然それに該当する日本語も中国語もない。シャッター、アトリエ、ギブスなど英語、フランス語、ドイツ語などをそのまま取り入れたものもあるが、多くは漢字を組み合わせて新しい熟語を作り日本語に取り入れた。
common senseは常識、lifeは生活、modernは現代、societyは社会、銀行、会社、証券、不動産、機械、精密、線路、道路…… 打者 それまで常識も生活も現代という言葉もなかったのだ。
いや過去から並びが同じ熟語があったものもあるが、意味するところが全く異なるものは新語・造語といって良い。
スポーツ関係はこれまたおびただしい。一塁・二塁、競技、卓球、野球、選手、打者、投手……
私たちはその多くを昔からあった言葉だと思っている。そうではなかった。そしてそういう言葉がなかったのは、そういう発想、概念、品物がなかったからだ。

ただわからないことも多々ある。アメリカ映画でアイスホッケーや野球の監督を「コーチ」と呼んでいた。和英辞典で野球監督を引くとbaseball coachとかbaseball managerとある。日本では監督とコーチとマネージャーは異なるのだが、英語とどう対応するのか、辞書ではわからなかった。

しかしながら外国語を翻訳するとき、漢語でなく大和言葉にすることもできたんじゃないのかと個人的に思う。
「生活」の代わりに「暮らし」、「現代」の代わりに「今どき」などもあったのではないか? と言いながら漢語のほうが立派でありがたく見えることに同意する。明治の人たちもそう思ったに違いない。

四半世紀前、タイでISO認証の指導というか自分が中心になって行った。もちろん私はタイ語は「コップンカップ(ありがとう)」くらいしかわからない。通訳が翻訳までしてくれた。
通訳の話では、タイには日本のように漢語を取り入れなかったから、外国の事物の名称を取り込むには漢語で短くすることができず、「……するもの」とか「……すること」のように表現しなければならない。だから日本語や英語で1ページのものをタイ語に訳すと倍くらいになってしまうといった。
そこが漢語を使う大きなメリットなんだろう。そして我々が中国の影響を抜け出せない原因でもある。


さて、これからは私独自の想像、思い込み、妄想が展開する。
選手とは「選ばれた」+「人」と書く。確かに試合に出るような人は「選ばれた人」だろう。
広辞苑でもその他の辞書でも「選手」の意味は、「選ばれて試合に出る人」「スポーツを職業とする人」となっている。スポーツを職業にするには、プロのライセンスを持つプロゴルファーとかカーレーサーとか、プロとしての価値があると客観的に認められ契約された野球選手やサッカー選手であるから、「選ばれた」ことに間違いない。そして彼らが職業としてスポーツをしている期間中は、プロ野球選手とか○○選手と呼ばれるのもおかしくない。

ラケット 家内は卓球が得意で、市の大会には毎回出ている。しかし卓球の大会があるのは市の大会、県の大会など合わせて年に数日しかない。
ならば家内が試合に出場する日は国語辞典の意味で「選手」と呼んで間違いないが、試合のない日は「選手」ではない。
同じ人が日によって「選手」だったっり、「選手」でなかったりするのは少し変だ。
そう思いませんか?

しかしそもそも「選手」は「選ばれた人」の訳ではなく、「player」の翻訳語である。
英英辞典でplayerは
1.someone who takes part in a game or sport
ゲームやスポーツに参加する人
2.one of the important people, companies, countries etc that is involved in and influences a situation, especially one involving competition
会社や国家に関わり影響を与える重要な人
3.someone who plays a musical instrument
楽器を演奏する人

「player」は「選手」ではない。「player」は「(何かを)する人」なのだ。別に選ばれる必要はなく、職業でなくてもよい。
卓球をする人は、試合に出る日も出ない日も「player」を名乗ってもよいことになる。家内はいつも I am a table tennis player.と自称してよい。
私はもちろん「swimmer」です。100mしか泳げなくても、競泳大会に出なくても、たまに溺れても、泳ぐ人は「swimmer」を名乗っておかしくない。
なお英語ではアマとプロの差が呼び名では変わらないものが多い。あの人はペインターというと、「painter」は「画家」、きっと個展などを開いて1枚何百万で売れるとか……いえいえ、休みの日に丸の内界隈で水彩画を描いているだけです。「あの人はボウラーなのよ」と言っても、プロボウラーではなく、友人たちとワイワイとスコア150くらいで争っているだけ。

「選手」ばかりではない。「常識」はどうだろう?
国語辞典で「常識」は「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」となっている。
英英辞典(注4)「common sense」「the ability to behave in a sensible way and make practical decisions」
つまり「現実的な行動や判断ができる能力」であり、知識ではなく知恵のイメージだ。そしてまた(現実的でない)空理空論を語る人は常識がないのだ。
そして超重要なことだが、原語には「社会人が共通に持つ」なんて意味合いはまったくない!
日本語の「常識」にも「判断力」はあるが、まず知識があり判断力は最後だ。現実には一般的に使われる常識の意味は、知識がメインというか知識だけの意味でつかわれている。「君は常識がない」というとき「君は判断力がない」とか「現実をわかっていない」という意味を持たないだろう。99%は「君はもの知らずだ」という意味である。

原語の「common sense」の「common」は一般とか共通の意味だし「sense」は感覚とか認識という意味もあるので、漢語にするとき「常人が持つ認識」という意味で「常識」にしたのかもしれない。しかし「常識」の「識」から知識とか情報という意味にとらえて、「common sense」が持つ「判断力」「認識力」が消えてしまったのではなかろうか?

今の世の中には常識の欠落している人がはばっていて困る。ティピカルなのは池上彰で、彼は「知識」はあっても「常識」がないと思っている。異議は認めない。「池上彰のニュースを疑え」という本があるが、あれは「池上彰の『ニュースを疑え』」ではなく「『池上彰のニュース』を疑え」が真実だからね!


ではいよいよ本題である。我が愛しきISO規格ではどうであろうか?
ISO規格は英語・フランス語が「(「せい」と読み基本となるもの)」である。もし審査において審査員と受査企業の見解に相違があれば、英語 or フランス語のISO規格を基に議論される。
当然翻訳と原文が異なれば原文が優先する。過去に翻訳が不適切としてJIS規格が改定されたこともある。(1998年ISO9001改定)
では日本語訳のISOMS規格は、誤訳はないのか、誤解されないものであるのか? あるいは日本語訳を読んで誤解している人はいないのか?

「目標」はどうだろうか?
ISO14001では1996年版と2004年版には、objectiveとtargetがあり、初期は二つの言葉の違いとかそれぞれの言葉の意味において多々トラブルが起きた。
まず目標(target)であるが国語辞典で「目標」は「射撃・視線・行動などの対象となる、めあて。ねらい。まと」となっている。
英英辞典で「target」は「something that you are trying to achieve, such as a total, an amount, or a time」つまり合計(金額)、数値、時間など達成しようとしていることである。
似ているようではあるがニュアンスが違う。「ターゲット」は達成すべきことであり、「目標」は目指すものである。
「ターゲット」は必殺しなくちゃならないが、「目標」はしっかり狙えば当たらなくても良さそうだ。
ゴルゴ13の照準にはターゲットしかなく、目標は眼中にないだろう。

targetとobjectiveの違いも問題になった。
ISO14001の1996年版や2004年版では「objective」を「目的」、「target」を「目標」に訳した。ISO9001のJIS訳では「objective」は「目標」だ。ISO9001の目標とISO14001の目標は違うのか?
JISにおいては原語が同じ言葉には、同じ日本語訳を当てることになっているはずなんだが。

まあその結果わけわからん狂想曲ばかさわぎもおきたけど、2015年版では英語原文においてobjectiveのみで、targetがなくなったからトラブルが起きる恐れは減った。
でもさ、2015年改定まで、「目的は3年以上、目標は年度だ!」と叫んでいた審査員や認証機関は今何を考えているのか?
いじめた人はすぐにいじめを忘れ、いじめられた人は一生忘れないという。審査員はいじめた人、私はいじめられた人である。

ISO9001の元々のタイトルは「品質保証の国際規格」であったが、この品質保証の「保証」とは何ぞや? これは「assurance」の翻訳語だ。
国語辞典で「保証」は「1.大丈夫とうけあうこと 2.賠償の責任を負うこと」とある。
英英辞典で「assurance」は「a promise that something will definitely happen or is definitely true, made especially to make someone less worried」、つまり「なにかが確実に起きる、あるいは真実であると明言すること」だ。
英語の「assurance」には賠償するなんて意味ありません!

ISO9000:2015では「assurance」だけの単独使用はなく、「quality assurance」のみ定義されている。その定義は原文でも真っ向勝負ではなく「品質要求事項を満たすことに焦点を合わせた品質マネジメントの一部」となっており、ワケワカラン。
まあ誰も真剣に賠償義務について考えてなんていないんだろう。

「ほしょう」の言葉の意味
補 償損害補償、遺族補償、災害補償、補償金など、損失・損害を補う・償うこと。
保 証身元保証、品質保証など、間違いないと請け負うこと。
保証したことが事実と異なっても、それによって生じた損害を補償しない。
保 障安全保障、警備保障など、外敵から守り被害を受けないようにすること。

だが問題がないわけではない。私は「assurance」を「保証」と訳したのが良かったのかどうか、いささか疑問だ。新たに「品質保証」の概念が持ち込まれたとき、明治の翻訳語が不適切と考えて「assurance」に対応する言葉を考えるべきだったのではないか。あるいはマネジメントシステム、プロセス、サービス、アウトプット等々、カタカナ語が氾濫しているのだから、いっそのこと「アシュランス」の方が誤解を防げたんじゃないかと思う。
元々「品質保証」という言葉は第二次世界大戦後にアメリカ軍とか自衛隊関係で「品質保証」という概念が入ってきてからのことで、長い歴史があるわけではない。
軍事や原子力にかかわっていた人相手ならともかく、1987年に品質保証に関わっていない人を考えて訳すなら、「品質保証の国際規格」とするのではなく、もっと分かりやすい言い回しとか熟語を考えたほうが良かったと思う。とはいえあれから33年、もう既に手遅れだ。

1987年版のときから「training」を「教育訓練」に訳したのはおかしいと言われた。
これは英語から日本語に翻訳するときの誤差というよりも、まったくの間違いだ。
英語のtrainingには教育という意味はない。元々の意味は、動物を躾けることだった。そして今は物事を実行する能力を付けること、平たく言えば「弟子を仕込む」ことだ。
そもそも教育はeducationではないのか? education and training なら「教育訓練」で良いが、JIS訳するとき、いったいどこから「教育」という語をもってきたのだろう?

外来語を日本語(正確には漢語)に翻訳あるいは新しい熟語を作ったとき、その訳語を読んだ人は漢字の意味から解釈するだろう。「教育訓練」の教育とは「教え育む」意味で、座学で新しい考え方とか新しい技術を学ぶことと思うかもしれない、というか日本語はそういう意味だ。
日本語でも機械の操作とかパソコンの使い方は教育ではなく訓練であるはずだ。元々英語原文が「training」なのだから、「訓練」とするのが当然であり、「教育」は含んでいない。これは言語の問題というよりも、完全に誤訳である。いや誤訳というよりもなんらかの意図・恣意があったとしか思えない。
前記の「目標」や「保証」ならば規格の定義をよく読めという逃げはあるが、定義のない「教育」は国語辞典以外に何を読めばいいの?

そんなこと問題にならないって? いやいや、重大問題ですよ。
審査で「御社の教育訓練はどのようなものがありますか?」と聞かれたとき、社員の教育研修プランを持ち出すのは間違いだ。「training」とは新人採用時、新設備導入時、システム変更時、事故が起きた後の新しい作業方法や点検方法を教えることである。もし新規採用もなく、不具合もなく、新規導入もないならトレーニングする必要がない。

ISO審査
だが審査員に「御社の教育訓練はどのようなものがありますか?」と聞かれたとき階層別教育とか昇進時教育のルールや記録を取り出す企業は多い。
逆に会社が文字通りの訓練計画を見せると、「規格では教育訓練とあります。教育計画はないのですか?」と問う審査員は大勢いる。
マイナスとマイナスをかけるとプラスになるが、翻訳と解釈がともにマイナスの場合は、かけあわせると虚数(むなしい数)になるのだろうか?
幸いというか2015年版では構成が変わり、7.2力量の項でtrainingだけでなくedcationが追加されたので、お互い勘違いの逃げ道ができた。

ともかく今までのISO規格の翻訳は誤解を招いたし、それどころか誤訳もあり、意図的な偏向翻訳もある。
更にその日本語訳を読んで、自分に都合よく解釈して会社を指導(?)する審査員も多いのである。

いや審査員ばかりではない。
「手順とは手と順、すなわち、手は手段手法の手、順は順序順番の順で、順序とおりに手段が記述されているものをいいます」なんて本に書いていた大学のセンセイもいた。
でも黒○先生、原語では、手順はprocedure、手段はway/method、順序はsequence/orderで、どれを足しても引いてもprocedureにならないんです。

また過去からのMS規格で、procedureすべてを文書化しろという要求はない。
黒○先生は「ISO14001:1996の4.4.6 a)文書化した手順の確立と b)運用基準の明記」を思い浮かべているのかもしれないが、その文章の頭にはしっかりと「その手順がないと(中略)逸脱するかもしれない状況」であれば「文書化した手順」を作れとある。
ISO14001:2004では3.19参考1.に「手順は文書化することもあり、しないこともある」ってあったような 🙂 そして2015年版には……手順という語が要求にない!


うそ800 本日の叫び
「漢字と日本人」という本に倣って、翻訳とそれを読んだトラブルをまとめ解説した「翻訳とISO規格」という書物を書いてくれる人はいないだろうか?
書き出す前に4,000字にまとめようと思いました。終わってから見たら(数えるまでもなく、Wordなら常にステータスバーに文字数が表示される)なんと8,000字オーバー、少し冗長すぎます。叩き始めると止まらないキーボード中毒は今年も治らず。



注1
注2
もちろん最初は「かな文字」は存在していないが、漢字の一部(つくりやへん)を書き添えてどのように読むかの注記にした。

注3
本書p.104

注4
以下を使用した。
ロングマン英英辞典
ブラウザ英英辞典



外資社員様からお便りを頂きました(2021.01.07)
おばQさま、この本はおばQさまならば、しっかりと読み取っていただけると期待しておりましたが、期待以上でいきなりISO問題まで書かれました、さすがです。
高島先生は、私も尊敬する学者で、人文系でこのように論理的に明快に説明してくれる貴重な人です。
以前は色々なエッセイをおかきになっていたのが、出版社の若い編集者がマニュアル編集で、勝手に漢字や送り仮名、仮名を書き換えるので、怒って書くのをやめられました。
漢字と日本語の学者が書いた文章を、大学出たての編集者がマニュアル片手に勝手に書き換えて得意になっているのは、会社を何十年も切り回してきた管理者や専門家に対して、マニュアル片手にダメ出しをするISO審査員に似ていると思っていました。当然におばQさまは、それ以上にISO審査の問題に引き寄せられてお書きになられました。 高島先生と同様、専門家だからこそ、的外れな指摘は我慢できないのは共通なのだと思います。

新年なので、いつものように、本旨と関係ないツッコミです。
ハングルは、独自文字というよりは、元朝に支配されていた時に用いられていたパスパ文字が源流だと思います。もちろん、それを朝鮮王朝時代に、半島語の発音に合わせて改善してハングルになったのは事実ですが、孤立した文字ではなく、源流のある文字と考える方が適切のように思っています。
もちろん、あの国はオリジナルを大事にするので、世宗大王の「偉大な発明」という意見も多いのですが(笑) 本年も年初から、興味深いお話を有難うございました

外資社員様
おばQです。明けましておめでとうございます。
ハングルの件、ご教示ありがとうございます。修正いたしました
高島俊雄(文士・役者・力士・プロ選手には呼び捨てすると高島俊雄が書いてました)面白いですね! 今は図書館から彼の「漢字と日本語」と「お言葉ですが」はたくさんあるので二冊ほど借りてきて読んでいます。
「お言葉ですが」は面白いのは面白いのですが、意地悪じいさんの言いたい放題のような感じです。
例えば「不倫」とは本来は「むちゃくちゃ」とか「訳が分からない」という意味で「道ならぬ」とか「不道徳」じゃないとおっしゃるのはわかります。でも時代とともに言葉の意味も読みも変わるのは世の常です。「新しい」を「あらたしい」と読めといっても多勢に無勢、通用しないでしょう。
私が「目標」や「保証」にごねるのも同じと言われるかもしれませんが、ISO規格の場合は英語が基本であって、日本語訳はあくまでも仮で日本人が使いやすいためのものという違いがあります。


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