学ぶ・教える04・言語能力

21.07.26

皆さんご存じの山本五十六の言葉といわれるものがある。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
山本五十六 実際にはそのあとに「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」と続くそうだが、それじゃ長ったらしくスマートではない。
長歌より短歌、短歌より俳句、ウェブサイトよりブログ、ブログよりツイッター、何事も効率、現代はスピードである。
なお、上記は山本提督ではない別人の言葉という説もあるが、ここでは本質的なことではない。

この言葉は名言なんだろうが、言っている順序が違うように思う。
人を動かすにはまず<仕事の目的や意義を話して>から<やってみせ>そして<させてみせ><ほめ>なければならない。だから次のように順序を直さなければならない。
「言って聞かせてやってみせ、やらせてほめねば、人は動かじ」とするのが正しい。
言って聞かせるのもその仕事だけではない。その仕事の全体像を知らしめる必要がある。仕事でも遊びでも教えるとき、真っ先にすべきことは全体像を教えることだ。
平泳ぎ 平泳ぎを教えるなら、まず「この泳ぎはうつ伏せ(平泳ぎのルール1)で左右対称に手足を動かす(平泳ぎのルール2)泳ぎです」と言わねばならない。とはいえほとんどのコーチはそんなことを言わない。当たり前と思っているのか、説明する必要性を思い至らないのか?

こういうことを話すのはとても大事だと思う。バタフライという泳ぎは平泳ぎで速く泳ごうと考えられた泳法であり、あまりにも速いから平泳ぎから独立したという流れを知れば、平泳ぎのルール(規制)に納得できるだろう。
なお、バタフライを考えた人は日本人の長沢二郎である。

全体像を示すことは省略できない大事なことだ。スポーツでも仕事でも教えるときは、まずは全体像を示し、それから今教えることが全体のどこに当たるのか示さなければならない。そうしなければその仕事がいかに重要なことであるかを聞き手が理解せず、やりがいを感じない。その結果、仕事の重要性を認識せずおろそかになる。

「この調査データをパソコンに入力してね」というより、「これは先月当社の新製品の反響を調べた市場調査でとても重要なの。集計のために、あなたにパソコンに入力するのをお願いしたい」と言えば、指示された人はやる気が出る。

1990年頃「石を積む人」なんてお話が流行った(注1)大学の公開講座とか講演会で何度も聞かされた。これもまた出典というか初出がイソップ物語とか言われるが、それは本質ではない。
まあ何事も目的を知りそれに同感すれば一生懸命になる。シーザーやナポレオンが数万の兵士の前で演説したのはそのためだ。とはいえ演説だけで装備も作戦もない根性論では何もなしえないのも真理。

人に教えるとき、人に何かをさせるとき、言葉で説明をする。そのとき分かりやすく伝達するためには言語能力が必要だ。言語能力とは日本語を話せることではない。それは自分の考えを相手に伝えることで、コミュニケーションそのもの。

注:communication とは「to express your thoughts and feelings clearly, so that other people understand them」あなたの考えや思いを他の人に伝え理解させること、


有能な人は言語能力があるかといえば、有能さと言語能力はリンクしないようだ。
長嶋茂雄は現役引退後、監督になり紆余曲折はあったが今は名監督と言われている。
しかし私は大いに異議がある。彼は言語能力がない。長嶋が名選手というのは間違いない。しかし長嶋が名監督といわれるのは、己の力ではなく周りから祭り上げられただけだ。「名選手名監督にあらず」というが、長嶋はその代表ではないかと思う。

野村克也は名選手であることは間違いないし、名監督であることも間違いない。なにしろ負けがこんでる弱小チームをレベルアップさせ、戦力外と言われた選手を活躍させて野村再生工場と呼ばれたように、プレイヤーを育てチームを育てたのだから。
そしてそれを何度もやっているから偶然とか運ではない。そして野村がそれを行えたのは、言語能力があったからだ。

長嶋茂雄が書いた本が経営者に読まれているという話は聞いたことがないが、野村克也の書いたものは経営指南書として読まれている。
国民栄誉賞が長嶋に与えられ野村がもらえなかったというのは、日本政府の汚点である。
なお、野村克也は既に天皇陛下から紺綬褒章を賜っていたので、首相が国民栄誉賞の授与を憚ったという説もあるが、どうだろう?(注2)

名スポーツ選手や名経営者といっても言語能力があるとは限らない。彼らの言語能力の有無は、彼らの書いた本を読むとわかる。読むと理念や方法論が良くわかるのもあるし、まったくわからんというものに分かれる。もちろんそういったもののかなりは、幽霊ゴーストライターが書いているのだろうけど、それでも元ネタは本人の言葉だろう。

イチローの書いた本や名言集を読んで、もし彼が製造現場で作業指導をしたら、すばらしい現場監督になるだろうと私は確信した。
野球選手 だいぶ前にサッカーの川島永嗣が書いた英会話勉強法の本を読んだ。間違いなく彼はサッカーの天才というだけでなく語学の天才だ。しかし彼の書いた本は凡才である私には全く理解できなかった。階段一段ずつを上るように書いてない。彼の書いたものは、具体性が全くない。天才は凡才に分かるように書けないのだろう。
ちょっと待てイチローも天才だけど、凡人に分かるように書いているぞ。
イチローに書けて川島が書けないのは、川島に言語能力がないのだろう。外国語の習得が早いのと言語能力はリンクしないのだ。
細野真宏は教える人は相手が登れるように階段の高さを調整して教えなければならないと語っている(注3)言語能力とは読み書き話すではなく、考えを伝える能力なのである。

言語能力ゼロという話し方をよく見かける。ティピカルなのは「わかるだろう」という言葉だ。「俺の気持ちわかるだろう」と言われてもわかりませんよ、私は占い師ではないからね。

言語能力といっても大きなことばかりでなく細かいこともある。
卑近な例を挙げる。私の経験で水泳コーチが「肘が伸びてない、肘を伸ばせ」という。こちらは肘を伸ばしているつもりだが、お気に召さないようだ。そして私がいくらひじを伸ばしてもダメだという。
結局分かったのは、コーチが伸ばせといっていたのは、肘でなくて手首のことだった。なら手首を曲げるなとか指先までまっすぐにしろと言えばいいじゃないか。私のように文字通り解釈する人間にとっては不満、憤懣、苛立ちでしかない。


言語能力といってもしゃべるだけではない。文書化することにより伝承や改善が可能になる。知識や技能を文書にして固定化することが標準化の基本だ。そして標準化は技術や産業発展の最も基本的な必要条件だ。

私が高校を出て現場で働いていると才を認められ(?)、設計部門にいき図面引きになった。しかしすぐに無能が判明し現場に戻った。20歳そこそこのときである。
新しい仕事は、作業要領書のない機械の要領書を作れと言われた。
旋盤とかボール盤のような一般的なものはともかく、特注した専用機などのメーカーが作成した取説は実際の業務にマッチしていないので、社内の作業に合わせた手順書が必要だ。

私はまったく何も知らないから、まずはそれらの機械を使っている作業者のところにいき仕事を見学し聞き取りした。
そしたら作業者たちは、それらの機械の取扱要領は自分たちがまとめたものがあるという。そして彼らの書いた要領書を見せてくれた。

いや〜、とんでもないものでした。
A4の紙に細かい字で改行もなくびっしりと10ページ20ページと書いてあります。説明用の図など一切なし。そして操作部とか部品の名称などは、自分が好き勝手に命名というか、いつも呼んでいる言葉で書いてある。文章を何回読んでもそこに登場する名詞も分からず操作も見えず理解できない……というか細かい文字で真っ黒な要領書を読む気になりません。

その後上司へ、言われた機械の要領書は既にあるのだがとても使い物にならないこと、他人が読んで仕事に使えるようなものでなければならないこと、そんな報告をした。
上長はもちろんそれを知っていたわけで、その打破を私に託したという。
上長が言うには、現場で働く何人かは大学卒業者だという。当時昭和40年代初めである。戦争が終わって社会に戻っても仕事がない。まして大卒なんていうと門前払い。それで高卒とか尋常小学校卒と学歴の逆詐称(注4)をして就職し、現場の仕事を得た人が結構いるという。そういう人が文章を書くとあんなふうになっちゃうんだよねという。
逆に尋常小学校卒の人は、取扱要領を書こうという発想も能力もないという。
なるほど、いろいろな人がいていろいろな人生があるものだ。

ともかく私は最善を尽くそうと考えた。彼らの作った作業要領は構造化されておらず、また必要条件を満たさず、更には読みにくく分かりにくい。その結果、役に立たないのだ。
彼らの作業をじっと眺め、機械の仕組みを理解し操作の意味を理解しようとした。それから指導を受けて、その機械を使わせてもらい操作できるようになった。
ほぼ1年かけて公式な作業要領がないいくつもの機械の要領書をまとめた。自分が理解したことをわかりやすく書くだけだから難しい仕事ではなかった。

サル 私は漢字を少なく、難しい漢字を使わない。文字数を最小にする。サルにもわかるように書いたのだ。もちろん作業者をサルだと思ったわけではない。自分をサルだと思ったのだ。
そして文書化にあたり次のよう形に構造化した。

説明にはポンチ絵を多用し、また箇条書きを主として文字数を減らした。ページ数も多くて5ページくらいにした。図を利用することで文字数を大幅に減らせる。

結果、私の作品は上司にも現場の人にも喜んで受け入れられた………誰も見向きもしなかった要領書を一生懸命作った人たちを除いて
その後、だれも使わなかった要領書を書いた人たちは順次他の部門に異動された。
上司は明言しなかったが、そういう人たちは自分がいなければ職場が動かないという意識があり、使いにくく入れ替えを考えていたそうだ。私に作業手順書を作成させたのはそのための下地作りだったのだ。
それを聞いて企業は個人の気持ちより全体の効率を優先する冷たいものだと思った。まあゲゼルシャフトだから当然か。

それに「この作業/機械のことなら○○さん」と言われるような人にもいろいろあり、自分の知識を惜しまず教えることを厭わない人は周りに好かれ昇進していくのに対し、自分の知識を他人に教えない人は集団からはじかれるのだなと実感した。
現実には自分の技能技術を教えず、囲い込むことによって自分の価値を維持しようとする人も多かった。外国なら普通のことらしいけど……


その後、まったく縁のない部門から不良対策とか能率改善とか、塗料調合を標準化してほしいなんてことを頼まれた。いずれも全く私の経験や知識のないものだった。だが門外漢であったが、自分がその仕事をやってみて、自分が考えた最も良い方法を文書化すると、なぜか成果が出た。

同じ製品を複数のラインで流しているが、ラインによって品質や能率が違うので改善してくれと頼まれたことがあった。
現場を見ると、各ラインでの作業方法が違う。もちろん要領書はあるのだが、細かいことまで規定していない。だから作業者の負荷を均一にするための作業の割り振りがラインごとに違うし、工具の持ち方とか、細かい作業手順は作業者任せになっている。
作業手順を定めた文書に記載していないから、そういったことは監督や作業者の裁量範囲なのだろうが、品質や能率に関わらないのだろうか?

私は各ラインの作業を見比べ一番良いと思われるものを細かく文書化した。大きなことは切り離してはいけない作業を決めたり、細かいことは右手で何を取り左手で何を持つと決めたり、工具をどこに置くかまで規定した。「規定する」とはやり方を決め、それ以外の方法を禁じることだ。
作成したものは文字を最小限にポンチ絵を多用した。そしてすべてのラインでその通り実行することを求めた。実行には抵抗があったが、とにかく頼み込んで全ラインで実行させた。

結果は、うまくいったこともあったしうまくいかなかったものもある。
良かったことは継続させ、うまくいかなかったことは原因が分かれば対応し、分からなければカットアンドトライを繰り返した。数回繰り返すと全ラインとも、当初最善だったラインよりも能率も品質も良くなっていた。
当たり前といえば当たり前だが、無理押しできたのは私が門外漢だったからだ。もし私がその職場と縁があり、今の状況に至るいきさつを知っていたり、関係者と親しかったりすると、しがらみがあって改善は進まない。周りの意見を聞かない独断が改革を起こすこともある。


パット話は変わる。
千葉周作という名前をご存じでしょうか? 私が子供だった1957年、ラジオ番組に「赤胴鈴之助」というのがあった。主人公鈴之助が修行に励んだのがお玉が池の千葉道場という設定だったので、私は千葉周作の名前を知った。その後NHK大河ドラマ「竜馬が行く」でも千葉道場が舞台になり、千葉周作さんひっぱりだこ、

注:坂本龍馬が通った道場は神田お玉が池ではなく、八重洲にあった周作の弟の道場だったそうです。

チャンバラ 平和な江戸時代でも武士の本分は剣術らしく道場はたくさんあった。幕末に江戸三大道場と呼ばれたのが、桃井直由の士学館、千葉周作の玄武館、斉藤弥九郎の練兵館であった。
しかし、剣術の達人が剣の達人を再生産したかといいますとそうではありません。名選手名監督ならずというのは剣術でも同じようです。剣の達人の多くは達人を育てることなく一代限りで消滅していったのです。

そんな中で千葉周作は剣術指導に標準化手法を取り入れた。
千葉道場の特徴は三つあります。

  1. 面、防具、袋竹刀などを改良した、
  2. 指導は段階を追って行った、
  3. 猛稽古をさせた。
その結果、千葉道場に行けば誰でも達人になれるという定評となり、日本中から続々とお玉ガ池に詰めかけたのです。

剣術指導の標準化は言語能力と関係ないと思われるかもしれない。私は密接だと思う。
コツとか加減を伝えるには言葉での説明は難しい。実現には期待する動きしかできないようにする、あるいは制約を除くなどの方法もあるだろう。
木刀で力いっぱい打ち合えば骨折とか死亡事故も起きる。しかしスピードも力も伴わない形だけの練習では、実戦に役立たないだろう。ならば防具や竹刀を工夫して力いっぱい動いても怪我をしないようにすれば、実戦に近い行動がとれるだろう。
スイミングの指導でも初心者なら手足の動きを事細かく指導するかもしれないが、選手レベルになれば手足の動きは向き不向きの個人差があっても良いだろう。指導を受ける人のレベルによって変えないところ・変えてよいところがあるだろう。
千葉道場の指導は言語能力だけでは伝え難いところを道具や方法で補ったと考える。


とりとめのない話になってしまいましたが……お前の話はいつもそうだという声あり……教えるにはコミュニケーションが重要で、それには言語能力が必要です。
そしてそのときだけなら言葉だけで間に合いますが、直接会えない人へ伝えるには文書にしなければなりません。距離が遠い、相手が多数、時代の違う人に伝える、そんなとき文書化は必然です。

注:文書と文章は違います。文章とは文字を書き連ねたものであり、文書とは紙に文字を書くだけでなく、絵を使って説明するとか、サンプル(見本など)を作る、あるいは教本のビデオを作ることです。


教える人は言語能力が重要です。俺についてこい、俺の目を見ろ何にも言うな〜、頑張れ根性だぁ、私を信じて、そんなことを言う人は言語能力がありません。
そういえば三船敏郎、石原裕次郎、高倉健の映画って、みな男は黙ってって感じなんですよね。一緒に酒飲んで風呂に入って説得するって時代錯誤だと思いませんか? 「彼らは」とは言いません、「彼らが演じる男たち」は言語能力皆無ですよ。

515事件で暗殺された犬養毅は、テロリストに襲われたとき「話せばわかる」と語ったそうだ。その真偽はともかく、
犬養毅





話しても分かり合えないかもしれない、しかし話さなければ絶対に分かり合えないことは間違いない。
「私たちに言葉は不要💗」と語る人は、真に分かり合えているのか疑問だ。愛しているなら愛しているといわないと理解できない、それが真実でしょう。

雄弁は銀、沈黙は金といわれる。芸術鑑賞とか交渉ごとではそうかもしれない。しかしコミュニケーション特に教育においては、沈黙は無価値、適切な言葉こそが金に値するだろう。
教師、管理者は己の言いたいことを言葉で伝えることができなけれならない。言葉で伝える努力を放棄した時点で終了だ。


うそ800 本日の雑念

私は宮本武蔵である 孔子は「三人行けば必ず我が師有り」と語ったが、吉川英治は小説「宮本武蔵」の中で、武蔵に「我以外皆我師われいがいみなし」と語らせた。
人はみな良いところを持っている。あるいは欠点を見せて反省を促すこともある。ですから他人は皆先生です。
それは自分はいつも先生であるということです。


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注1
「真実の瞬間」ヤン・カールソン、ダイヤモンド社、1990

注2
日本の栄典の種類
勲章は生涯を通じての功績を総合的に判断して70歳以上の者に授与される。褒章は表彰されるべき事績があれば、年齢に関係なくその都度授与される。授与者はいずれも天皇陛下である。
国民栄誉賞は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったもの」に内閣総理大臣が授与する。
国民栄誉賞を辞退した人は、福本豊一(立派なものをいただくと立ションもできないと辞退)、古関裕而(遺族が辞退)、イチロー(2度、現役を引退してからいただきたいと辞退)であり、野村が辞退した記録はない。
勲章・褒章制度

注3
「数学嫌いでも数学的思考力が飛躍的に身につく本」、細野真宏、小学館、2008

注4
学歴詐称とは大学中退なのに大卒と偽ったり、高卒を大卒と偽ることを言い、逆詐称とは大学を出ているのに高卒と称することなどをいう。学歴詐称が詐欺であるのは明白だが、逆詐称でも高卒採用試験を大卒者が受ければ高卒者が不利になる。そのためにそのような詐称は禁止されている。
学歴詐称も逆詐称も懲戒や解雇理由になる。最近でも地方公務員で大卒を高卒と偽って就職したのがバレて定年間際に懲戒解雇された人がいた。
終戦後、仕事がなく仕事を得るために逆詐称する人は結構いたし、私の周りではそれが後に発覚しても解雇された人はいなかった。会社も世の中も、復員してきた方々を受け入れるために配慮したのだと思う。



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