学ぶ・教える05・フィードバック

21.08.02

家内は時代物が大好きだ。時代劇のテレビドラマ、映画はまず見逃さない。時代劇の文庫本はほぼ一日一冊のペースで読んでいる。そのスピードで読んでいけば種切れになってしまうと思うのだが、半年も過ぎると忘れるからまた読めば面白いと笑う。もっとも以前はブックオフで中古の文庫本を買っていたが最近はお財布が厳しいとかで、私と同じく図書館から毎週のように借りてきている。

私は宮本武蔵である そんな家内が特に好きなのが「剣客商売」である。テレビドラマでは主役も息子も配役が何代か変わったが、家内はいずれも大好きで、再放送があると必ず見る。私も居間にいるとついつい見てしまう。
主人公の秋山小兵衛は、武者修行の旅から帰った息子 大治郎に小さな道場を建ててやる。その道場を取り巻く人たち、小兵衛の付き合い、大治郎が旅で出会った人たち、そういった関係から毎回物語が始まり、謎解きと最後には剣を使って一刀両断という流れである。

ということで物語にはたびたび道場が出てくるのだが、そこに映し出される教え方はさまざまだ。
大治郎の指導は厳しい。「4貫目(15キロ)の樫の棒を2000回素振りしておけ」なんて言って出かけてしまう。そのためせっかく弟子をとっても厳しさに耐え兼ねてすぐに道場をやめてしまう。

重さ15キロの棒を振り回すことができるのか大きな疑問だ。
フィットネスクラブで15キロのダンベルを持ってみたが、非力な私は上げ下げがやっと、自在に動かすなどできなかった。ゲートの亜神ロゥリィ・マーキュリーでもないと振り回せないように思う。

ふと頭に浮かんだのだが、秋山大治郎が弟子に重い樫の棒を振らせたのは、こいつは剣客に向かないから早々に諦めさせようとしたのかもしれない。弱い者は相手にせず、強い者を一層強く鍛えたいならそういう選別は適切かもしれない。

井関道場の後藤九兵衛はときどき弟子にメーンと打たれて、○○さんも強くなりましたねとお愛想を言う。 神棚 そういうのを幇間ほうかん稽古というらしい。幇間とは太鼓持ちとも言い、宴席で客の機嫌を取り雰囲気を盛り上げる男の芸者である。
初心者が入門して最初は皆にやられてばかりでも、やがてときどき先生に1本入れられるようになれば、俺も上達したと弟子は気分を良くするだろう。弟子たちは仲良く練習でき、ギブアップする者もでないだろう。あまり露骨にすれば逆効果だろうが、道場を経営するには悪い手ではない。

ドラマには関係ないが、千葉周作は誰にでもわかる言葉で説明し、段階を踏んだ練習をさせて、初心者から中級、上級とレベルアップさせていったといわれる。
実際には千葉周作が現れるはるか前、江戸中期頃から防具や練習法など色々と工夫されてきている(注1)

実際にこのように典型的な道場があるかどうかわからない。
私が子供の頃、田舎町でも三味線を教える人がいて習う人がいた。でも習う人がみな芸者になるわけではなく、普通の娘さんが趣味として習っていた人もいた。
だから剣術道場だっていろいろ人がいると思う。

だから教える前に、道場に通う目的を明らかにして、指導者はそれに応えなければならない。剣術の師範とか仇討のために上達するというなら、大治郎のような指導をして、もし素質がなければ諦めさせることになるだろう。
今の大学のように地方から江戸に出て剣術も習うけど、江戸の文化にも触れ、○○道場で修業したという箔をつけて帰りたいというなら、師匠も気楽に井関道場方式でも良いのだ。
千葉周作のような教え方が一番良いということもない。要するに目的に合致していなければダメなのだ。


前回も書いたが、教育には目標を明らかにして計画を立て、それを実行する際にはフィードバックをかけないとならない。

クローズドループの自動制御
入力 比較 実行 成果
計画 矢印 計画と成果を
評価する
矢印 決定に基づき
実行
矢印 上達/記録
矢印矢印
矢印
矢印 成果の把握
上達/記録
矢印矢印
検出

自動制御には上図のようなクローズドループではなく、フィードバックのないオープンループの方式もある。

オープンループの自動制御
入力 実行 成果
計画 矢印 計画に基づき
実行
矢印 上達/記録


機械の場合は故障とか外乱が加わったとかでなければ、アウトプットのバラツキは一定限度に収まるだろう。だから精度を要求するものでなければオープンループでも間に合うものは多い。実際にクローズドループの自動制御の機械や電子回路でも最終段から帰還をかけるのは少なく、途中から信号を戻しているものが多い(注2)

しかし人間の場合は、言われても実行しない、さぼる、余計なことをする、疲れると判断が鈍る手抜きをする、そんなことがあるからどんどんと目標値からずれていく。私は40年の経験から性悪説だ(笑)。

フィードバックと聞くと、なにか機械仕掛けとか大掛かりなやり方と思うかもしれないが、端的に言えば生徒の進捗を<よく見て><ほめる・叱る>、<教え方を変える>ということを繰り返して<目標を達する>ことだ。
そんなの当り前じゃないか、どんな先生だってしているぞとおっしゃるかもしれない。だが現実に的確なフィードバックを行っている人は極まれだ。


教育においては適切なフィードバックをかけることは必要であるが、教育といっても多様であるし、生徒の目的も多様だ。だから前述した千葉周作のように、すべての弟子が上達するよう指導することが良いことというわけでもないし、そもそも教育開始時に設定した目的・目標が適切なのか、見直すべきかも含めて考えなければならない。

学校、新入社員教育、スポーツ、習い事などで教育するといっても多様な形態がある。それに応じて同じ指導といっても目的によって制約条件とか達成目標が異なる。


■ 学校の勉強
義務教育に限らず学校教育や新入社員教育においては、対象者全員が一定レベルに到達することが目的である。その代わり要求レベルは選ばれた人だけでなく、並みの人なら到達できるレベルである。

こう言うと学校教育はそれほど容易くないと反論が来ることを予想する。私が高卒で入社したとき、1年先輩だった人が「学校に戻ればすべて満点取れる」と語った。それを聞いて自信過剰だなと思った。しかし1年働くとそれが真実と知る。
学校では習ったことを習得すれば満点取れるようになっている。会社の仕事では正解がない。売ってこいと言われても売れるとは限らない。不良対策をしろと言われても不良をなくす方法があるとは限らない。
社会人を数年した人が再び学校に戻れば、ほとんどの試験で満点取れるだろう。取れない人は仕事をまじめにしてなかった人だ。

学校教育においては、目的と達成目標は決まっている。だから評価はそれを達成したか否かで決まり、目標を達成したものにをさらに伸ばす必要はない。
一方目標未達者に対しては目標を達成させることが必要条件となる。つまずいたところ理解してないものをわかるように説明すること、練習を必要とすることについては何をすべきかを明示し、受講者に練習計画を立てさせその実行を命じなければならない。


■ 新入社員教育
新入社員教育も同様であるが、学校教育と違い入社時に選別されているわけで、学校に比べて教えるのは楽なはずだ。新人教育において目標をクリアできない人が多いなら、採用試験が不適格なのか、教育カリキュラムが不適切なのかのいずれかである。

また学校教育の場合は、生徒の質だけでなくモチベーションもばらつきが大きい。それで新入社員教育に比べ達成できない生徒が多いのが普通である。全員を最低レベルにするには、最低レベル対象の教育になりがちで、目標を達成した生徒のやる気をそいでしまうことになる。

これは教育の性質がそうなのだからやむを得ない。日本は個性を伸ばさないとか優秀な人が出ないというのは、制度としてそれらを許容していることを忘れてはならない。
学校教育は定められたことを対象者全員に習得させることであり、優秀な人を伸ばすことではない。


■ 学校のクラブ活動
学校のクラブ活動は二つに分かれる。ひとつは大会で勝利を目指すものであり、ひとつは勝敗よりもスポーツを楽しむものである。初めからその目的をはっきりさせておけばよいが、多くの場合明確になっておらず、混乱が起きる。

勝利を目指すクラブの指導なら判断基準は勝利につながることであり、スポ根スタイルでもそれが勝利につながると認識されていれば生徒はついてくるだろう。
前述の剣術道場でいえば秋山大治郎方式になるだろう。

ただこの場合でも、厳しい練習はなんのためなのか、どのような段階を経ていくのか、それぞれの段階では何ができるようになるのか、最終的にどのレベルになるのか、ということを説明しなければならない。それを理解させれば弟子はやる気を出し頑張って厳しい練習に立ち向かうだろう。何も説明なくただひたすら練習をしろと言われたら、ついていけませんと言うしかない。

スポーツを楽しむクラブの指導なら安全確保とクラブ内のトラブルをなくすことが、強くなる・上手になるよりも優先するだろう。剣術道場なら井関道場方式になる。


■ スイミングスクール
我々がしているスポーツはプロを目指しているわけではない。皆アマチュアで趣味で楽しんでいるだけだ。しかし皆趣味でもやっていても、人により目的が違う。
高齢者のスイミングでも、マスターズ(注3)の大会出場を目指す人もいるし、死ぬまでにバタフライをマスターしようという人もいるし、健康増進・体力維持を目的にただひたすら泳ぐ人もいる。
さまざまなケースがあるが教師・指導者・コーチであるならどんな指導をするべきか?

競技にでるためなら最低限泳ぎのルールは厳守しなければならない。反則は失格だ。その他、記録がある程度さまになっていないとレースで最下位確定で出るだけ無駄だという前提で指導しなければならない。

健康増進のためなら、楽で無理のない泳ぎを教えることになるが、教えたことを実行できなくても是正する意味もなさそうだ。
ならば指導を受ける必要がないかといえば、そうでもない。安全はもちろん泳ぎのコツを教えてもらうことは重要だ。本人の肉体的なことなどで一般的なコツが適用できないケースは多々ある。人間70年も生きてくると、手足の可動範囲が狭くなるのは当然だ。足を引いて外側に回せと言われてもできない人はいる。それではダメといってもせんのないこと。少し形がおかしくても本人がそれで良いと思うならそれでいいのだ。


■ 習い事
習い事といってもこれまた性格がいろいろある。スポーツなら勝負がつきものだが、芸事でも勝ち負けのあるもの、資格や級などレベルのあるもの、純粋に行為を楽しむものもある。
習い事といってもTOEIC○○点取るという目的なら、同じく英語を習っていてもクリスティを原文で読みたいという人とは上達への執着は違うだろう。前者は勝利を目指すスポーツと同じことになり、後者は井関道場方式でよいのかもしれない。


■ 注意すべきこと
前回も述べたがコーチ(イクイバレント)は生徒の目的・目標を把握していないことが多い。そして目的目標に合わせたフィードバックを行えるかというと、それも難しそうだ。それは一人のコーチが多くの生徒を持っているからというわけでもなさそうだ。生徒の目的目標を達しなければならないという意識が乏しいのではないだろうか?
また生徒のほうも、過去の人生でそういうコーチ・講師は見飽きるほど見ているから、自分が期待している方向に向いていれば良いと考えているのではないだろうか。

過去私はいろいろな趣味とか勉強、ISO審査員研修、法規制の説明会、環境事故の講習会、囲碁講座、英会話、TOEIC教室、水泳教室、その他多くの講習や習い事をしてきたが、自分の期待した通りのものを提供してくれたものはTOEIC教室だ。ここはTOEICの点数を上げますと看板を掲げていて、文法とか英会話とか歯牙にもかけない。教えることはいかにTOEIC試験の点数をあげるかである。つまり目的目標をそこまで細分化しないと受講者(顧客)の満足を満たすことはできないのだろうか?
できると思う。多様な受講者を集め、それぞれの目的・目標を達成する、それこそがサービスの顧客満足そのものだろう。
剣術道場の時代から、生徒のいくらかの割合を満足させればごまかしがきいた時代もあっただろう。しかし今顧客満足が重要となっているにも拘らず、改革する努力を怠り旧弊に居座ったサービス提供者がまだいるということだ。
そんな状態を打破しなければならない。サービス業はしのぎを削り命を削り価格に見合ったサービスを提供する時代にしなければならない。


■ まとめ
要するにフィードバックの目的は、強制的に行う教育においては制度上定まっていることを全員に達成させることであり、自主的な習い事においては生徒が望むことを達成させることである。
ならばそれを達するようにフィードバックをかけなければならない。


うそ800 本日のご質問の予想

お前はサービス業にうらみでもあるのか?
大正解
まずはISO審査員でしょう、ISOコンサルでしょう、英会話スクールでしょう、スイミングスクールでしょう、現役時代ウェブサイトを業者に頼んだけど自分が作ったほうが良かったりして……


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注1
注2
「監視についての雑談」でモーショナルフィードバックについて説明した。

注3
マスターズとは(社)日本マスターズ水泳協会が主催する25歳以上のスポーツスイミング団体実際は50歳以上のシニアがほとんどで、学生時代は水泳選手だった人が多い。
私のように定年後に水泳を習った者から見ると雲の上の人たちである。



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