目標をもって頑張っていても、目標の難易によってはすぐに達成できるわけではない。目標を達成までの期間、モチベーションを維持し継続的な努力が必要だ。
モチベーションを維持するには、達成したことによる利益・メリットもあるだろうし周りからの評価もある。しかしそれだけでは今の努力と苦しみがなくなるわけではない。
過程の苦しみを苦しみに終わるのは悲しい。いや学ぶ過程を楽しみにしなくてはおかしいだろう。努力や苦労を楽しみ喜びに変えられないか。
本日はそんなことを書く。実を言って半分自分への激励であり戒めである。
山登りで頂上に立つことが楽しみであっても、一歩一歩が苦しみでなく楽しみであったほうが山登りはより楽しい。それには途中での景色を楽しむのもあるだろうし、草花を愛でるのもある。
英会話を習うのが仕事や旅行で話せるようになることが目的であろうと、習う過程が楽しくなければつまらない。
目標を目指してモチベーションを上げるには、いろいろな方法がある。学ぶことが学校や企業で強制的であろうと、趣味など自発的なものであろうと、楽しくする努力も必要だ。
ISO規格でも「7.3認識」で仕事の重要性とリスクを知らしめよとあるが、実を言って2004年版より2015年版は記述があいまいになっているのが残念だ。
とにかく教えていることの重要性を認識するのとしないのでは熱心さが違い、成果も違う。「石を積む人」のテーマそのものである。
英会話でLとRの発音に苦労しているなら、それができないと通じないと認識させることから重要性を認識させ、できるようにするモチベーションを上げる。
また教師あるいは自分自身が機会あるたびに再確認する方法を考える。人は忘れやすい。これを習得することは重要だとわかっても、練習してもできない、成長しないことが続くと、ついついネガティブな気持ちになってしまう。だからそんなとき目的達成の意義を思い出させることが必要だ。
藤吉郎は次のようにしたという。
お話ですから真偽はわかりませんが、大きな仕事は小分けすればわかりやすいというのは確か。目標を小分けするということは具体化すること。なにごとでも目標はビジブルで分かりやすいことが第一だ。
最終目標が大きいなら、目標を小分けしてもちろん期日も小分けする。ISO14001で聞いたことがあるぞ。
この応用範囲は広く使い方は簡単である。
夕方16時までに15キロ歩くというのを、〇時までに5キロ、〇時までに10キロというふうに目標を小分けすると、心理的に目標達成の困難さは小さくなり達成の喜びは4回得られる。
TOEICで現状600点を750点に向上したいなら、初めは650点目標、次は700点目標と受験すればよい。
前項で信長が報奨を出すにしても最初に完了した組に報奨をだすのでなく、毎日一番進んだ組に報奨を出せばもっと早く仕上がった可能性もある。
スポーツでその年活躍した人だけでなく、月間MVPとか前期・後期とかを表彰するのは、ファンのためばかりでなく、選手を活性化する意味もある。
もちろん勉学でもスポーツでも習い事でも、自分がしたいからチャレンジすることもある。そのときは自分で自分にご褒美を出す、自分で自分をほめるということは十分に効果がある。
同じことをするにも、知的好奇心をもってあたるのと、言われたからやるというのでは成果は違う。
前述した報奨と似ているが、これは結果が出てからもらうのではなく、チャレンジの過程で自分が認識できる。
人間性を考えれば、これが最高のモチベーションアップさせる方法かなと思う。
人間興味を持てば二晩くらい徹夜してゲームをクリアするとか、仕事が面白ければ家に帰りたくないこともある。
とはいえあまりにもくだらないことを新発見というのも悲しいぞ。
徒競走で速く走る方法は、速い人と走ることだ。自分以外の人のアプローチ、努力方法、費やす時間などを知ることは大いに勉強になる。
モチベーションが下がっているとき、ライバルがいることは大きな意味がある。一人しかいないなら……自分の記録と競うとか、工夫できる。
TOEIC試験などなら点数で表現できる。TOEICは単なる正解数ではなく受験者の中での相対位置を示すものだから、そのときの試験の難度や受験者のレベルによって20点くらいは常に変化する。だが指標にはなる。
英会話ならスピードを変えられるレコーダーなら速度の調整で進歩を感じるだろう。
水泳なら100m泳げた、200m泳げた、25mを30秒切った、25秒でと絶対的な数値で表せる。
習い事であろうと、指標を考えて進歩を把握できる方法を考えることでやる気が出る。
できなかったことができる、あるいは記録が良くなったと実感できるのは楽しみである。最終ゴールは近くに見えるはずだ。
フィットネスクラブで知り合った方は、そのフィットネスクラブにはやりたいスポーツの施設がないといって別のフィットネスクラブに移ってしまったが、その後も週に一度ランチをして今していることや新しいチャレンジなど話していた。コロナになってからはそれもままならず、ときどきLINE交換をしている。実を言って、お互いに暇を持て余している。
見知らぬ方から電話が来た。「父が亡くなった。手帳にあなたの名と電話番号があり、お知らせしました」という。亡くなった方のお名前を何度も聞いても思い出せなかった。
数日経ってハタと思い出した。「邪馬台国の会」の講演に行ったとき隣に座った方が千葉県から来たということから講演会が終わってからお茶をした。電話を受けた時より何年も前のことですっかり忘れていた。そんなこともあった。
なぜ友を作るのかと言われると返答に困るが、知らないことを教えてもらう、困ったとき相談できる、そういう人がいるのは喜びではないか?
本日のきっかけ
老人大学を卒業してもう7年になる。1週間ほど前、たまたま図書館に行く途中で一緒に学んだ方と出会った。
彼が同級だった方が亡くなったという。1年間同じクラスで机を並べて学んだから赤の他人ではない。帰宅して老人大学の終了時に各自の研究成果をまとめたものを引っ張り出してその方のものを読み直した。学問的には意味がないが、10ページほど自分の街の歴史を調べたことが書いてあった。
天国に行ったなら、天国の街の歴史を研究して私が行ったとき教えてください。
お悔やみ申し上げます。 合掌
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