学ぶ・教える・16・論理学あるいは表現法

21.10.18

私は日々大量に文章を書いている。毎週このウェブサイトに最低で4,000字、多ければ1万数千字(今回のものを数えたら13,000字)の文を、日曜日と水曜日の2回アップしている。(日付は月曜日と木曜日だけどアップしているのは前日夜)

そのほかマンションの案内とか仲間内に出す文など、まあすごい量を書いている。私はキーボードを叩くのが苦にならないというか叩かないと苦になるので、文章の入力を頼まれると喜んで受けている。とはいえ自分が考えて打つより、他人が書いた文章を入力するのは疲れる。
もちろんキーボードを叩くだけではない。月40キロ近く泳いでいる。とはいえここひと月半は、ギックリ腰と肉離れが連続して起きて実はほとんど泳いでいない。
文章は量じゃない、内容だとおっしゃるか そのとおりだ
じゃあできはどうかというと、自分が書いた文章を読み直すと笑ってしまう。あまりにもダジャレとかわき道にそれたり、タイトルと中身が乖離していたり、支離滅裂とまではいわなけど、ひとつのパラグラフでふたつのことを論じていたり、裏付け証拠不十分、証拠が見合っていないなど、我ながら呆れる。
主張は書く前にしっかりしていのだが、そこまでもっていく、引用する事例、表現方法や流れをはっきり決めていない。それで書き始めるのだから、途中で道に迷うのは当然だ。途中で乗っていて余計なことを書いたり逸れたりするから、もういけません。

「球の行方はボールに聞いてくれ」と言ったのはたぶん金田正一が最初だと思うが、私の文章の流れはキーボードに聞いてくれとしか言いようがない。おっと文責在筆なんてふざけたことは言いません。
それに推敲もしないし、誤字脱字はWordの文書校正が教えてくれものだけ直している程度だ。Wordも正しい言葉使いから少し外れているとか、スペルの一文字が間違っている程度なら異常を検出するが、大きく違うと検知しない。

何はともあれ一旦認識したからには、論理的な文章を書くよう研鑽しようという気もする。
よって本日はタイトルに掲げたような、大それたことに挑戦する。
さあ、始まり、始まり!


私は非論理的な人間ではないと思いたい。
もう40年も前のこと、職場で簡単な自動化を進めようといろいろ工夫した。当然そのためにはシーケンスを使う。シーケンスという名前の部品とか機械があるのでなく、どこにでもあるスイッチやセンサーを組み合わせて、何か決まった動作を行わせるための回路のことである。シーケンス(sequence)とは順序であり、イベントや動きが定められた順序で動くように組み立てたものと思えばよい。

リミットスイッチタイマーリレー

LSIの中でトランジスター、抵抗、コンデンサーなどで構成する論理回路を、手の平に乗るくらいの部品を使って組み立てると考えてもよい。

個々の部品を集めてシーケンスを組むと物理的にサイズが大きくなるし、お金もかかる。一番の問題は回路を変更するのが大変なこと、そして物理的な素子は可動部があるため故障もするし寿命も短い。当然それを固体回路にしようという発想が出てくる。
マイコンを使って一つの機器の中に論理回路を組み立てるシーケンサーが現れたのが1973年だそうだ。シーケンサーは商品名で一般名はPLC(プログラマブルロジックコントローラーという)という。液晶画面を見ながら部品を図上で組み合わせていくと回路が作れる。

新設備ではそういうものを導入したが、現場から頼まれてちょっとした改善をするにはそういうものを使わず、廃棄する機械からリミットスイッチやタイマーなどを外して備蓄しておいたものを引っ張り出し、それらを組み合わせてシーケンスを作った。なにしろお金がない、ぜいたくは敵だ。

同じ動作をさせるのに最小の素子でくみ上げるにはどうしたらよいか? というのが当時の私の課題だった。リレー1個○円、リミットスイッチ1個○円という積み重ねだから安くするには素子数を減らすしかない。そのためブール代数を一生懸命勉強して実際に回路を組む前に、素子数を減らして安く作ることに努めた。
貧乏は悲しい。いや貧乏は工夫の母である。

何を語っているんだって? 私は論理学(ブール代数)の勉強をしたというお話ですよ。
だがブール代数を必死に勉強しても、議論が上手になるとか論理的な文章が書けるようになることとは関係なかったようだ


ところで日本語は論理的な文章を書くには不適である、なんて語る人もいる。
日本が戦争に負けたとき、漢字を止めよう、ローマ字にしようと読売新聞が主張したそうだ。お前には日本人の心がないのか!、誇りがないのか!

それどころか日本語を止めて英語に切り替えようとか、フランス語がいいとか言ったアホ小説家 志賀直哉は「フランス語は美しい言葉だからそれに変えよう」と語った。
じゃあ日本語は汚い言葉なのか? お前は万葉集を知らないのか!
お前は日本語書いて飯食っているんだろう! 志賀直哉はフランス語で小説を書くどころか、フランス語を話せなかったそうだ。

当時は自信喪失、打ちひしがれていたのだろうか? それとも外国の犬なのか、デラシネなのか? ともかくいささか、いや大いに情けない。


私の通った高校は工業高校ということもあり、先生には技術士官だったとか飛行機会社でプロペラを設計をしていたなんて人が何人もいた。私が高校時代、第二次世界大戦はそんな昔ではなかった。

戦艦大和

海軍技術大尉だった先生がいて、戦艦大和に乗ったことがあると語った。大尉といっても特別偉いわけではない。技術士官は22歳で大学を出て任官するとすぐに中尉、そして終戦になり除隊するとき、全ての軍人が一階級昇進した。だから少尉・中尉の技術士官は存在しない。つまり技術大尉とは任官したばかりの人だ。

その方は終戦になってから先生になる前に、進駐軍の通訳とかいろいろしたという。そんな経験から、日本語を使っている限り日本は戦争に勝てないなんて授業中に語っていた。彼は日本語では助詞の意味が明確でないから単語の関係がはっきりしないのだと言ったように記憶している。まあ50年以上前のことだからはっきりは覚えていない。
日本語は論理的な文章には向かないのだろうか?

私が子供の頃、テレビはもちろんラジオも一般家庭にはない。だからアナウンサーの喋るのを聞いたこともないし、落語も漫才も聞いたことがない。
私だけでなく一般庶民はそうだったから、方言というのが存在した。だって身近な人としかコミュニケーションをしないのだから東京の人、大阪の人がどんな話し方をしているか聞いたことがない。地域の人たちが使う言葉がすべてだ。
方言とは単語の違いもあるが、アクセントもイントネーションも、意味も言い回しも違う。要するに言葉の要素すべてが違うから違う方言との意思疎通は難しい。名詞の意味が違うくらいならともかく、助詞の意味が違うと問題は大きい。
現代のようにテレビがあり、人の移動が激しく、旅行もたやすく行ける時代には、地域によって方言が発生することはない。関西弁が今も確固たる存在なのは、関西人は郷土愛が強いのだろう。

私たちは日本語を使っているが、その日本語は家族から習ったものだ。耳に入るのは両親と近所の人の語る言葉だけ。親も近所の人も方言を使っているから赤ちゃんが覚えるのは方言である。


ともかく私の子供時代、小学校は同じ町の子供たちだから言葉が通じないということはなかった。しかし高校になると10キロ20キロ離れた人たちが集まる。だからちょっと離れた人の言葉は理解できないことが多々あった。
私が正統(?)日本語を習ったのは小学校からの国語だ。小学校1年から高校3年まで国語を習ったから、標準語は理解できるようになったと思うが、イントネーションは身につかない。なにせ先生も地元の人だ。
しかし私が大人になってからテレビの普及などがあり、地方であっても方言から徐々に標準語に代わってきた。なかなかイントネーションは身につかないが、言葉の意味は標準語を使うようになったと思う。


文章の書き方はどうかというと、まず方言をそのまま文字にしては方言を使っている人にも理解できないのが事実だ。「さすけねー」と語っている人は実は「差支えない」と発音している気でいるのだ。だから方言の音を文字起ししても論理的にはならない。

東京に出てきたときのこと: 世紀が変わった頃、NTTのコマーシャル
民家のそばの電柱で工事をしている下でおばさんが
「アヤマッタ、アヤマッタ、ウヂノ娘ガインタネットヤッテ電話代ガテーヘンダ」とこぼすと
それを聞いた電柱の上の工事士が「サスケネー、ADSLハヤスイダドー」と返す。
都会に来てから、東京人の同僚にその話を言われて笑った。田舎の人だって標準語を話しているつもりなんだよね、

それだけでなく私自身の経験だが家族や近しい人と話すとき「てにをは」を厳密に考えて使っていない。あるいは余分な音を追加したり差し引いたりする。どうせ農作業や家事とかしかしないわけで、厳密に言葉を組み立てなくても通じてしまうのだろう。
ま、そんな暮らしであれば文章を習っても論理的な文章を書く必要性を理解しないだろう。助詞を全くつけず、「あーちゃん 町 買い物」程度で「母は街へ買い物に行ってます」と意味は取れる。

小さなコミュニティでは発音にも気を使わないだろう。例えば、市橋(ichihashi)さんと石橋(ishibashi)さんがいれば、二者を区別するよう明瞭に発音するだろうが、一方しかいないならその中間の音でも通用するだろう。
実は田舎にいたとき石橋さんという方がいて、都会に来たら市橋さんという同僚ができた。皆が市橋さんと呼ぶのが、私は石橋さんとしか聞こえなかった。


本来ならそういう言語能力が低いというか、訓練されてない子供にでも、標準的な話し方を教えなければならないはずだ。しかし私が標準的な助詞の使いかた・話し方を習った記憶はない。
社会人になって学校の勉強が役に立ったとか、役に立たないとかいろいろ言われるが、私は英語でも美術でも音楽でもほとんど習っていてよかったと思う。しかし国語については非常に懐疑的だ。国語という学科が役に立たないという意味ではない。学校で基本をならった覚えがないのだ。

それは私のように言語生活水準が低い人を引き上げることができなかったということもあるが、そればかりではない。そもそも日常使う日本語を教えなかったと思うのだ。
たとえば「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」なんて聞けば誰もが「ああ、習った習った」と思いだすだろう。斎藤茂吉は万葉集の最高傑作と呼んだそうだ。最高か最低か私には分からないが、現代においてビジネスや日常生活ではまず見かけることのない、そして役にたたない文章だと思う。

それだけでなく古文とか漢文なんてどうでしょう?
漢文なんてやらないで、現代中国語を習ったほうが良いという意見を聞いたことがある。言葉は使うためにあるなら、漢文 特に擬漢文体で書かれたものは何の意味もなさそうだ。
もちろん古文とか漢文を習うのは、教養をつけて人間性に奥行きがでるとか、いつの日か古い石碑を読む時に備えているのかもしれない。たぶんないだろうけど。

注:擬漢文体とは日本人が漢文に似せて書いた、日本人にしか通用しない漢文をいうらしい。


江戸時代の寺子屋では<読み・書き・そろばん>を教えたといわれる。武士階級じゃないから教科書には「庭訓往来」「商売往来」「百姓往来」などを使ったという。「往来物」とは教科書の代名詞だったそうだ。

庭訓往来」とは衣食住や一般常識や教養を擬漢文体で書いたもの。
商売往来」とは商業に関する語を収録してその意味を解説したもの。
百姓往来」とは、当時人口の85%を占めた農民になる児童のために、人としての倫理、農業を遂行していくために必要な知識を教えると共に、読み書きを教える教科書だ。
いずれも実生活に即した教科書である。そうでなければ庶民は寺子屋を利用しなかっただろう。

「石走る垂水…」と「商売往来」を見比べると、内容も実用性も格差が大きいと思いませんか。「石走る垂水…」を理解すれば周りから尊敬されるかもしれないが、借用書や商取引の文を書けるかどうか定かでない。商売往来を学べば江戸時代は丁稚に必要な知識が得られたわけです。
万葉集を教えちゃいけないとは言わないが、最低限 実用現代文を教えるべきだ。寺子屋では大福帳と三行半が書けないとならなかったと聞く。
現代の中学生なら、市の広報を読めること、市役所の住民票や印鑑証明など各種申請用紙を記入できることが国語教育の最低の到達点だろうと思う。

高校全入と言われる今、皆が高校卒業の学力が付いたのかといえば、全くそうでなく、中学卒の学力を高校卒業までに身に付けるように薄まっただけのように思える。


私の文だけでなく、世の中には助詞とか接続詞の使い方がおかしいとか変だと思うことも多々ある。
ISO14001初版で「4.3.1 (前略)活動、製品又はサービスの(後略)」であったものを2004年改定で「4.3.1 (前略)活動、製品及びサービスの(後略)」に変更した。
日本語だけでなく英語原文でも「activities, products or services」から「activities, products and services」に変わっている。
その理由は、環境改善のテーマを選ぶとき「活動(工場や事務所の活動の意)と製品」あるいは「サービス(役務のことで一般に使われる無料のことではない)」の片方を考慮すると他方を除外する企業が多いということであった。
本来の意図はみっつを含めて考えていくつか改善項目を選んでほしいということであったが、実際には製品を選べば製品のカテゴリーからのみ改善項目を取り上げたということらしい。

「or」の日本語訳が「又は」となっているから、「A又はB」とあると、「AかBを選ぶ」という感覚になるかもしれない。
英語でも「or」は「used between two words or phrases to show that either of two things is possible, or used before the last in a list of possibilities or choices」であり排他的とは読めない。

ビールワインウィスキー

飛行機でTea, or coffee?とか、パーティーでDo you drink beer, wine or whisky? と聞かれて一つだけしか選べないわけではない。
私はいまだに納得いかないのだが?
論理学では「OR」はいずれか一方なのだろうが、一般的な使い方では全体から選ぶというだけで両方から選んでもよいのではないだろうか?
とはいえ、ISO規格の場合は、すべてから選べという意図であるなら「and」が正解なのか? だがそれなら誤解を防ぐためでなく、誤解されやすい文章を改めたに過ぎない。


さて冒頭に書いたが、論理的な文章を書こうと決心()したので、図書館から「論理学+初歩」で蔵書検索してヒットしたものを何冊か借りてきた。
「論理的思考の技法I」を読むと、前記の「及び」「又」よりもっと細かいことで疑問百出であった。
副題が「ならばをめぐって」とあるが、実際には「ならば」だけでなく、「だけ」「のみ」という副助詞、「さもないと」という接続詞、その他たくさんの接続詞や助詞が出てくる。そこにある例文をみると、私が子供のころから使ってきた語義とはかなり違うとしか思えない。
もちろん論理学の本を書いているのだから著者が間違いないのだろうが、私が子供の時から使っている……すなわち私が母や近所の人たちから習った意味や使い方とはいろいろと異なっている。それは私の子供時代に私に教えた人たちの知識レベルが低かったのもあるだろうし、また小学校の国語で助詞や接続詞の意味をしっかりと教えなかったとしか思えない。
60年前を思い出すのは困難だが、「または」とはこういう意味だよ、「それ」と「あれ」の違いなど習った覚えはない。


ということは日本語が論理的でないといわれるのは、日本語が論理的でないのではなく、語義を正しく理解してない、特に助詞や接続詞の意味をしっかり身に着けていない、教えていないということではないのだろうか?
責任転嫁かもしれないが、そうとしか思えない。


「変体かな」というのをご存じだろうか? 蕎麦屋の看板に良く言えば風流、悪く言えばワケワカラン文字を見かけるでしょうが、あれが変体かなです。
少し前、書道マンガ「とめはね」が流行って、変体かなも多くの人に知られたようだ。
短歌などで変体かなを使うのは同じ言葉が並んだりするのを避けるため。「とめはね」では、文字の並びからどの変体かなを使うべきか考える場面があった。蕎麦屋の看板は、目立つように変体かなを使ったのが始まりという説がある。

確かにお手紙でも論文でも、二行にわたって同じ単語が並んだりすると、ちょっと気になる。でもそれがどうしたとしか言いようもない。今の時代はウェブサイトならパソコンとスマホで見るときは一行の文字数が違うので見え方が変わる。気にすることもなさそう。

話がそれた。
言いたいことは、変体かななど習う必要がないということだ。もちろん学科で変体かなを習ったことはないが、教科書の中にでてくる作品で変体かなを使ったものはあったし、当然変体かなが読めなければならなかった。

それと学校で教えてほしいものに、いや教えなければならないものに、助詞の使い方、意味あいがある。
私が日常読み書き話をする中で、助詞「てにをは」の使い方がいい加減であることは間違いない。
思い返すと私が子供のとき、一番長い時間一緒にいた母や祖母は助詞の使い方など気にしていなかったと思う。農家でコミュニケーションをとる相手が家族と近隣住民しかいないとき、「私は」と「私が」の違いなんて気にもしなかっただろう。
責任転嫁するわけではないが、私はそういう使い方を教えられずに育った。

最近はそれとは逆に、テレビ・ラジオで芸能人が、助詞の使い方を間違えていたり、SVOCがつながらないような表現をしたり、さらにはそれをウリにしたりすることがある。
渥美清の「フーテンの寅さん」のセリフには、主語述語が整合していないものも多い。もちろん渥美さんは正統日本語を話したと思う。だが映画のセリフを聞いた一般人、特に子供や若者はかっこいい言い回しだと自分たちも使い始める。そしてどんどんと訳の分からない言葉が拡散していくわけだ。

最近はコマーシャルのコピー(文句)もワケワカランものが多い。目を引く・耳を引くためには新鮮な表現が効果的なのはわかるが、文法無視のコマーシャルは文法無視の表現を一般化することになる。

また英語をそのまま使うこともあるが、そのとき誤解を招くこともある。エンカウントという言葉はないそうだが「彼女とエンカウントしちゃった」というの多く見られる。
PDCA 我が愛しきISO規格ではPDCAのアプローチを金科玉条としているが、多くの人はPlan、Do、Check、Actionと呼ぶ。
オイオイ、それじゃ動詞と名詞が混在しているぞ。ISOの原本ではPlan、Do、Check、Actというのもあるし、Planning、Implementation、Checking、Actionという表記もある。要求事項ではないから規格序文での記述には揺らぎがある。だが名詞で統一するか動詞で統一するかはしっかりしている。英語を話す人には当たり前のことなのだろう。

一度講演会でアクションと語る講師に突っ込んだら、「英語ではPlan、Do、Check、Actだが、日本語ではPlan、Do、Check、Actionという」なんてごまかしていた。私は単に英文記載の揺らぎをまぜこぜで覚えただけじゃないかと思う。
おっと英語を使うならしっかりと使ってほしい。「援助する」ことを「エンジョイして」と語っていたおっさんもいた。


なぜ助詞とか文法とか日常会話に言及したかというと、それが言葉のあいまいさを引き起こし、どんどんとあいまいさを広めていくから問題と思えるからだ。
日本語が論理的な表現に向かないといわれるのは、学校国語が実用国語を教えないことが問題だと前述したが、それと同等以上にマスコミや芸能人の言語が面白さ優先で論理性を等閑視していること、それが広まることが問題と考える。


そしてまた別の問題がある。
論理が通っていて真実を語れば説得できるわけではない。いや現実には非論理でも感情を揺さぶるほうが説得力はある。
更に感情より感覚のほうが圧倒的だ。地球温暖化論をアメリカの委員会で説明するとき、エアコンを止めてだか故障していたのを直さずに行ったと本で読んだ。
ともかく汗をかきながら地球が温暖化していると聞けば納得してしまうだろう。快適な空調の下では、同じ話を聞いてもあまり真剣に受け止めないのは間違いない。

最近は「最強の人とは失うものがない人」という言い回しがよく聞かれる。池袋暴走事故で「上級国民」という言葉が流行したが、実は最強の人は上級国民ではない。
以前は人権云々と言ったものだが、現在は性差別もあるし種々障害もある。ハンディキャップのある人が一番強いのだ。経済弱者が本当は経済強者だったりする。

中国人が警官を殺そうとしてきたので警官が正当防衛で射殺したら、警官が殺人で訴えられた。こんなことがあれば警官は法を守るより自分の身を守るようになり、行きつくところは治安の悪化、無政府状態だ。訴えた人たちはそれが狙いなのか?

犯罪でも事件でも精神に障害があれば無罪放免である。本当かどうかわからないが、ほとんどの殺人事件で弁護士は必ず心の病気だと主張する。心が病んでいるなら何でも許されるのかと問うことさえははばかられ、ネットで不満をこぼす人は多い。
現実を見れば日本の上級国民は弱い人であり、下級国民は最強である。サラリーマンの浮気は解雇理由にならないが、政治家の浮気は失業につながる。強さ・弱さは、経済的、心身、肉体的ではなく、社会的に定まるのである。
そんな状況において論理を尊ぶなんてことは、かなり困難である。ともかく我々の手には負えない。


翻訳だって正しい日本語を使っているとは限らない。
有名な「われ思う故に我あり」という言葉がある。これは誤訳だろう。Wikipediaでもそのような記述がある。
フランス語はわからないが、英語ではthinkである。英和辞書には「think」は「思う・考える」とある。
だが日本語で「考える」と「思う」は全然違う。日本語の「思う」は「情緒的・根拠なく頭に浮かぶこと」だろうし、「考える」は「根拠をもとに論理的に思考したこと」ではなかろうか?

実際に英英辞典を見るとthinkは「to have a particular opinion or to believe that something is true」私は「深く考えた意見を持つか、何ごとかが真実である確信すること」と理解する。
なんとなく「彼はいい人だ」というなら「I feel he is a good person.」だろうし、数年一緒に働いた同僚を「彼はいい人だ」というなら「I think he is a good person.」になるんじゃないだろうか?
要するに「think」≠「思う」なのだ。


ここまで論理的表現がされない理由を考えてきた。

ではどうしたら日本語は論理的な表現ができるのか

まず個人レベルですぐできること
作文や会話において文法を意識し、あいまいでない表現をすることだろう。

現役時代職場で上司に言われたのは「主語を省くな」だった。主語を漏らさない文章は煩わしいが、誤解を招かないのは確かだ。そもそも自分が主語を省くのは、潜在的に責任の所在をあいまいにしたいからだと自覚する。
ただ全文に主語を書くと煩雑というか読みにくくなる。英語ではそれを避けようとして短い代名詞を使うのだろうか?

それから論理的におかしい文章が日本語では通用している。
「彼は青い服だ」と聞いて、「彼」は人間ではなく「服」であると思う人はいないだろう。でも論理的にはおかしい。
英語ではHe is blue clothes.とは言わない。He is in blue clothes.という。日本語だって「彼は青い服を着ている」でないと語義が合わない。


公教育に期待したいこと
学校教育の国語は実用日本語としてほしい。そして実用日本語は単純明快で誤解を招かないよう助詞や副詞を定義付け、それ以外の用法をさせない必要がある。もちろん芸術的な小説、俳句、和歌、恋文で使うのは自由だが、ビジネス文書や契約書では禁ずるべきだ。
願わくは、現代国語とか古文という教科を、実用国語、文学と分けてほしい。もちろん実用国語は必須である。

思うのだが、皆が実用文しか使わなくなったとしても、その言葉の体系で十分、詩歌や小説など文学は成り立つと思う。そのときの心象は万葉集とは違うだろうが、主体、客体ははっきりしても文学としての価値は変わらないと信じる。
現実に現代の詩歌では、変体かなを使わないが、それによって明治以前のものよりレベルが落ちたと思っている人はいないだろう。


さらに進めたアイデアだが、法律文の書き方を標準日本語にしたらどうだろう?
法律では「及び」、「又」など接続詞の意味合いは明確だ。そして使い方がはっきりと決められている。決められているといっても何に決まっているかわからないが、決まっていることは確かだ。
「及び」「並びに」は日常語では互換性があるが、法律では互換性はない。それがいい。

そして法律の文末というか述部は、だいたい8種類に収まる。
とする。
しない。
をいう。
できる。
による。
しなければならない。
してはならない。
すること

学校でも「これ以外の文末にしてはいけない」と教えてもよいのではないか。
じゃあ習った文章しかつくれないのかと疑問を持つかもしれないが、それで良いのだ。自由な文章を書けないとは何だとお怒りになってはいけない。学校で英語を習ったとき、先生は「英作文」などネイティブでない日本人にはできっこない。習った英文を基に、動詞、名詞、形容詞を入れ替えて自分の言いたいことを表現できるようになることだ。つまり英作文でなく「英借文」ができれば良いと言われた。同じことを語る人は多数いる。

日本語を習うときも全く同じだ。手本を利用して、自分の言いたいことに合わせて動詞、名詞、形容詞を入れ替えて書くということは、まさに真似をすること、学ぶことなのだ。
現実にはそれができず、日本語の動詞変化、助詞の間違い、敬語を間違えているのではないのか?
もちろん間違えている人には私も入る。


それと修飾語句が長く、複数重なるとき、その関連性を明確にすることがかなり難しい。
法律の文章では、修飾語句をその重要性順に()でくくっている。だから簡単に読みたいときは()部分を無視して、()に囲まれていない語句だけ読めばよい。その条件を知りたい場合は()の中の語句を読むことで理解できる。

環境基本法 第2条第3項
この法律において「公害」とは、環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(水質以外の水の状態又は水底の底質が悪化することを含む。第二十一条第一項第一号において同じ。)、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下(鉱物の掘採のための土地の掘削によるものを除く。以下同じ。)及び悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む。以下同じ。)に係る被害が生ずることをいう。

一般の文章でも、修飾語句の関係を明確にするために()でくくることを標準日本語にすることも考えるべきだ。
そうすれば誤解、勘違いの9割はなくなる。もっとも法律のように()が何個も重なるとアンダーラインを引いて読まないと理解できない。


もう一つの提案であるが、例えば主語一つで実施することが多々あるとき、無理矢理に一つの文章にするのではなく、下記のように複数に記述するほうがわかりやすい。
これはISO規格でも採用している方法である。

    ○○は次を行わなければならない
  1. ○○を決定する
  2. ○○を文書に定める
  3. ○○を実施する
  4. ○○を記録し保管する
こういった書き方を小学校から教えてもよいと思う。記述するとき1行に書けないのが困難と言われるかもしれないが、検討の余地がある。


述部の表現をいくつかに限定すべしと前述した。
同じく文章に使う語句を限定して、その文の中ではその単語以外使わない方法もある。
小説や和歌ならひとつのものを異なる呼び方をするのも風流かもしれないが、実用的ではない。前述したが変体かなも同様の目的だ。
文中女性Aを表現するのに、彼女、ハニー、かわいい人など使うことをせず、常にAさんとしたほうが誤解を防止できる。

同じく助詞も一つの使い方しかしない方法もよい。例えば「私は」に限定し「私が」は使わないとか規制したほうが良い。もちろん作文とか詩など情緒を表すものを規制するものではないが、ビジネスの実用文や学校教育においては助詞を限定することを考えてもよいだろう。

英語にBASICというのがある。速やかに英語習得するために、使う単語を厳選した850語のみとして、それで日常会話を行うものだ。
同様に日本語を使いこなすには使える語を限定して、それを使いこなせるようになる必要もある。敬語でも、複雑なことでも、特段難しい漢語を使うまでなく表現できるはずだ。

かってBASICの日本語版を作ろうとした人がいて、日本語では少ない単語では表現できないという結論だった。しかし別に850語に限定することはない。日本語BASICは2500語でも3000語でもよい。その語義を明確にして、それ以外の単語や漢字の使用と言い回しを禁じればよい。
語彙が豊富でなければ表現できないなら、それは語彙不足でなく日本語を使いこなせないからではないか。

注:ここでいうBASIC (British American Scientific International and Commercial English)とは、8ビットマイコンのプログラム言語ではない。20世紀初めにイギリスの言語学者チャールズ・ケイ・ディオンが提案した、850の基礎語だけでコミュニケーションをとるものである。
目的は言語を標準化しようとするものではなく、初心者が短期間でコミュニケーションとれるための最初のステップと考えた。語彙を850語に制限するのではなく、BASICを習得してコミュニケーションが取れるようになれば、それからは主体的に語彙を増やしていけるのである。
1980年頃はこれに関する本は結構あったが、最近は見かけない。

法律は難しいといわれる。しかし全くの素人である私が、環境管理に関わってから法律をひたすら読んできたが、使われている用語と意味、言い回しさえ覚えてしまえば単純明快で誤解することは少ない。
むしろ小説の言い回しは作家によって異なり、真意はとらえがたい。ましてや俳句や詩歌になると読む人により解釈は同じではない。それが良いといわれたらもはや論理ではない。


いろいろ考えると、論理的な文章を書くのは、やはり一人の力では難しそうだ。
少なくても個人で完璧を期すなら、冒頭に助詞の意味はこれだけしか持たないとか、単語はすべて定義のみしか意味しないなどと定めて行う必要がある。


私が愚考したのをご覧になって、それは日本語の大幅改造だ、フランス語を採用するレベルではないかといわれるかもしれない。 しかしふたつは大いに違う。私が提案するのは、あくまでも日本語のリファイン(洗練)だ。

どの国でも言語の表記や使い方を改良していくことは珍しくない。
ドイツは名詞の大文字表記を見直したこともあるし、ブラジルではアクセント表記やスペルを変えたりしている。
中国はドラスティックに画数を大幅に減らした簡体字に変えた。
日本だって明治には変体かなを公文には使わないと決めたし、戦後に漢字の簡略化、送り仮名の大幅見直しをしてきた。「ゑ」とか「ゐ」なんて仮名を使わないように告示で決めてきた。
「ヱバンゲリオン」を「エバンゲリオン」と書いても面白さは変わらないし、「ウヰスキー」を「ウイスキー」と書いても酔い変わらない。
将来は文末の「を」を「お」にするとか、「私は」を「私わ」に、「あなたへ」が「あなたえ」になるかもしれない。そのほうが規則的で間違いを減らせるなら実行すべき。
驚くことはない、戦国時代の日本語の音は今と違ったし、平安時代にはもっと違った。だから変えることはアリだ。
変えることを恐れてはいけない。言葉の存在意義はコミュニケーションツールであり考えるためのツールに過ぎないのだから。メリット・デメリットを天秤にかける決めれば良いだけだ。

私は日本語の表記で英語の音をすべて網羅できないかなと期待している。「F」とか「R」などを五十音に含めたほうが良いと考えている。そうすれば英語にかなを振って読めばよいことになる。
昔「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」なんて川柳があったそうだ。実はオードリー・ヘップバーンと外人が言うのが、私にはアーダリー・ヘッボーンに聞こえる。現実離れした音で読み書きする意味はなさそうだ。ならありのままの音を表記する方法にしたほうが、外国行ったときそのまま使えると思わないか?

そういうと、じゃあ中国語も韓国語の音も五十音に…となるかもしれない。日本語表記に取り入れるか否かは、日本でその国の音が使われているか否か次第である。中国語の単語、韓国語の単語が食べ物以外に、日常使われているとは思えない。
習近平をシー・チンピンでなくシュウ・キンペイと読み、文在寅をムン・ジエインでなくブン大統領と報道している限り、五十音に入れることはないように思う。


うそ800 本日のまとめ

日本語でも十分論理的な話はできる。そのためには学校教育の国語を実用日本語と文学に分けるべきだ。そして実用国語を、助詞や接続詞の使い方などを徹底して教えることが必要だ。
そしてやはり私は論理的な文章は書けないことを再確認した。

最後に感謝を
ここまで読んでくれた人は10人に一人くらいでしょう。お疲れ様でした。


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参考図書
「法律用語の常識」林 修三、日本評論社、1958
「論理的思考の技法I ならばをめぐって」鈴木美佐子、法学書院、2004
「法律を読む技術・学ぶ技術」吉田俊宏、ダイヤモンド社、2004
「論理トレーニング」野矢茂樹、産業図書、2006
「法令読解の基礎知識」長野秀幸、学陽書房、2008
「13歳からの論理トレーニング」小野田博一、PHP、2011
「論理学超入門」グレアム・プリースト、岩波書店、2019
「はじめての論理学」篠沢 和久 他、有斐閣、2020





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