学ぶ・教える19・分かったか?

21.11.01

1990年頃、新星のように登場した相撲取り兄弟がいた。ご推察とおり兄は若花田、のちの横綱 若乃花、弟は貴花田、のちの横綱 貴乃花である。
そして子供たちの間に「(初代)貴乃花が息子たちを何と言って叱ったか?」なんてなぞなぞ・・・・が流行った。



・  マウスを乗せる

・    
その答えは「分かったか(若貴)」だ。
くだらないって?、だってなぞなぞだもん。 相撲取り

初代貴乃花が本当に息子たちにそう言ったかどうかは定かでないが、指導する立場として、生徒・弟子が教えたこと・叱ったことを理解したか、納得したかどうかを把握することは必要だ。
そしてその結果を速やかに指導に反映しなければ、有効で効果的な指導・教育はなしえない。

とはいえ生徒が分かったかどうかを確認するために「分かったか」と聞いて、「分かりました」という返事をもらっていても、それは笑い話でしかない。嘘とは言わないが生徒が事実を語らないことは多いし、そもそも生徒自身が理解したかどうかを判断できないこともある。
ではどうしたら生徒が理解したのかを把握できるのだろうか?

学ぶ方としても、自分が習ったことを理解したか・身に着けたかを認識することは重要だ。だが自分が習得したかの判断をすることもなかなか難しい。
まず修了テストで合格しても、コーチ(イクイバレント)が「よくやった」とか「上達した」と言っても、そのまま信じることはできない。前述のように自分が理解したかどうかを判断できないこともあるし、分かったつもりでいても、それが正しいか否か定かではない。

そこで今回は、教えた人は弟子が教えたことを理解したことをどうすれば把握できるのか、弟子は教えられたことをどうすれば自分が理解したのか確認できるのか、そんなことを考えたい。


スポーツ、例えば水泳でコーチが教えた通りの動きをしているかどうかは見ればわかる……とはいかない。生徒の手足の動きが教えたとおりであっても、たまたまそうだったのか、理解してそう動いているのかを見極めなければならない。
ペーパー試験で問題を解いても、回答に至る思考過程が見えるわけではないから、論理のつながりがまっとうなのか、偶然なのかは客観的に分からない。逆のケースであるが、頭の良い奴は、こまごました過程をすっ飛ばして解に至るから、わずかな算式と答えだけでは先生が評価できないこともある。
もちろん合否判定はできるだろうが、真に理解しているかは分からない。

まず進捗を評価するには基準が要る。このシリーズの第2回(リンク)で述べたが、出来不出来を評価するには基準、進捗が適正かをみるには計画が必要だ。当たり前と言えば当たり前だが、この当たり前を決めてないことが多い。

我に支点を与えよ
私に支点を与えよ。そうすれば
地球を動かしてみせよう。
もちろん日頃の行儀作法などであれば計画はないだろうが、基準はあるはずだ。アルキメデスでなくても支点がなければどうしようもない。
冒頭にあげたなぞなぞで「分かったか?」と問うたのは、進捗ではなくたぶん稽古の態度とかではなかろうか? そういうものなら計画はないが、規範と適否の判定基準はあるはずだ。


では計画や基準がなければ判定はできないのか?
当たり前だ。
まず良し悪しをつけるには、良し悪しの区切りを明確にしておかねばならない。
おっと昔のISO規格では「明確にする(define)」とは文書に定めることだった。今はISO規格も、文書ハンターイ、記録ヤメロー、というサヨクのシュプレヒコールのようになってきたが、必要なものは必要だ。

絵の具 白黒つけるという言葉があるが、実際には白黒つけるのも難しい
絵の具の白と黒は見分けがつく。だが世の中には漆黒と純白しかないわけではない。いや漆黒と純白なんてめったにない。では黒に近いグレーはどうなのか? それより少し明るいグレーは? もっと明るいグレーは?
エッシャーの版画に、田園の上を飛ぶ多数の鳥を描いた「昼と夜」がある。この版画を右から左に見ていると、いつのまにか鳥の飛ぶ方向と図と地が入れ替わっている。
かように白黒をつけるだけでも困難の極みである。

#000000#555555#999999#cccccc#dddddd#eeeeee#ffffff
黒?
黒??
????
白??
白?
お手上げ
どこまで黒で、どこから白なの?

上の図で白黒つけようとするなら、16進カラー表示で「#ffffff〜#ddddddまでを白、#000000〜#999999までを黒と判定し、その間であれば差し戻す」などと決めておかねばならない。

ともかく進捗を把握するには、進捗計画があり、評価基準があり、先生も生徒もそれを知っている必要がある。もちろん評価基準は平易に判断できることが必要だ。恣意的な判断とか迷うような事態を起こしてはならない。

何度も言うが、私の主張は当たり前のことである。だから白黒つかないような状況は、当たり前でないことになる。


水泳でコーチが教えた通りの動きをしているかどうか判断するには、コーチの教えと生徒の動きが見合っているか否かを判断できれば良い。 スイミング だが基準がコーチの頭の中にあるだけなら、生徒はできたかどうか分からない。
ならば方法を考えなければならない。
コーチの教えをビデオで示し、生徒の動きをビデオで撮影して比較すればわかりやすい。もちろん比較してみるだけでは意味がない。手が伸びたとき足はまだ引いてきていないこととか、手はまっすぐに伸びているかどうか、手の平の向きは外側下向きかとか、そういうチェックポイントを明示しておかねば比較検証できるわけがない。
合致しているといっても人は個人差があるから、コーチと全く同じにはできない。高齢者なら手が伸び切っていなくても合格と判断しなければならないだろう。

じゃあビデオがなければ評価できないのかとなれば、そうではない。水泳で手足の動きを、泳いでいる本人は見ることはできない。しかし泳いだ後に、手はこうであるが、実際はこうであったという評価をすることができる。
教えた通りじゃないとか、手の動きが悪かったでは、基準との対応ではないから評価にならず、生徒がわかるはずがない。

そして進捗であるが、当初の計画において、〇月〇日までに13の動作の内7つできるように、〇月〇日までに11の動作ができるようにというふうに予め計画を生徒に示しておく必要がある。
さもないと、計画遅延なのか、順調なのか判断つかない。

大事なことだが、生徒のモチベーションは進歩が実感できることによって得られる。進歩したのかどうかわからずにひたすら同じことをするのは滅入るばかりだ。
「平泳ぎのポイントは13か所ある。あなたは初めてから半年で6つできるようになった。あと7つだよ」と言われたらやる気が出る。
「コーチ、毎週同じことをしてますけど、進歩してるんですか?」
「前より良くなったよ、頑張ってね」
そんなんじゃスイミングスクール止めていきますよ。

あなた、笑いましたか
でもこんな当たり前のことを、あなたは新人や生徒に教育する際に実行していますか?
賭けてもよいが、100人中95人はそんなことをしていないはずだ。あるいは「できないよ」と言うかもしれない。

私個人の経験では、社内研修で技能向上の計画、判断基準など研修前に提示されたことはない。
英会話教室で入会時に英語でインタビューされて、

えーと 「あなたは今日 会話した結果、当教室の基準でレベル3です。あなたの希望は当教室のレベル7に当たります。週1回のレッスンでは5か月後にレベル4に、1年後にレベル5、レベル7には2年かかると思います。
もちろんそのためには、教室のレッスンのほかに、自宅でこれこれの学習をしてください」

そんなことを言われたことは一度もない
あなたはありますか? またあなたが教師の立場でそういう計画と進捗を提示したことはありますか?


あなたが教師なら……教師とは教える人であり、社会人はみな教える立場である……教える前に、計画とその基準を示すべきだ。可能なら具体的な判定方法も示してほしい。
あなたが生徒なら……新人、仕事を変わったとき、新しいことにチャレンジする人はみな生徒である……習う前に、計画と達成水準、その判定方法を確認すべきだ。

そういう条件を整備することなく「分かったか」なんて語るのは、精神論でしかない。
「為せば成る」なんて私は全然好きでない。教える立場なら「達成できるように教えるべき」であり、習う立場なら「その教師が示した計画が妥当かどうか判断してから開始すべき」である。計画さえも立てられないなら教師たる資格はないし、自分の予定を確認せずに開始するようでは生徒たる資格に欠けている。


教えるとか学ぶというものは、研究とか未知への挑戦ではない。単なる開発、つまり決まりきったことを実行に展開することだ。

注:「開発」とdevelopmentの訳であり、その意味はthe process of gradually becoming bigger, better, stronger, or more advanced(だんだんと大きく成長する過程)、the process of working on a new product, plan, idea etc to make it successful(新製品、計画、アイデアなどを実現する過程)であり、研究とは違う。
developとは花が開くとか、移動した軍隊が配備に着くことをいう。日本でも土建屋が宅地造成することを開発と呼ぶが、まさにそれである。
真の研究開発は計画の立てようがないわけで、学ぶとか教えるという範疇外である。言い方を変えると、学ぶとか教えるということは、ルーチンであり標準化できるものなのだ。

もし方法論が確立していないとか、基準とか評価が定まっていないなら通常の学ぶこととか教えることの範疇ではない。
ISO9001は研究開発には適用できない。標準化された製法や作業を管理するためのものである。学ぶ・教えるとISO9001の対象範囲はピタリと一致している。

どうでもいいけど
財界総理とかミスター合理化と称された土光敏夫氏の語録に下記の言葉がある。

「計画とは『将来への意思』である。実現可能な計画は、むしろ『予定』と呼ぶべきだろう。計画は、自己研鑽の場を作る高い目標を掲げ、何がなんでもやりぬく強烈な意志の力によって群がる障害に耐え、隘路を乗り越える過程で、真の人間形成が行われる」
土光さんの言葉は研究者や経営者へのエールであって、既に確立された学問を学ぶとか、水泳などの技能を学ぶこと対象にしていない。我々凡人が求めるのは艱難辛苦を超えたところにある成功ではなく、既に確立されたことを理解し実行できるようになることだ。




またつまらぬものを切ってしまった
今回は2回顔を出せた
うそ800 本日のセリフ

「またつまらぬことを語ってしまった」 by おばQヱ門
「とっつあん、五ヱ門の偽物か 〜」 by ルパン三世

「何度も同じことを言うな💢」なんておっしゃいますか?
頭では分かっていても、実行できる人は1割もいない。それが現実です。


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