ゴミが出ないは可能か?

22.03.14

前回、ごみを出さないようにしようとはおかしい、ごみがでないようにしてほしいと語った。今回はそれができるかを考えよう。

まず「廃棄物」とは、法律の定義から「値段のつかないもの」だ(注1)リサイクルしているなら廃棄物でないと考える人がいるかもしれない。だがリサイクルしていても、お金をもらって売れなければ廃棄物であることは変わらない。
だから料理に使った大根の切れはしが売れるとは思えないから、それはみそ汁の具にするとかとかしなければ、ごみは減らない。家庭菜園に埋めても、それは自宅で処分しているだけで発生しているごみの量は変わらない。

企業に対しては家庭よりも法規制が厳しいし、厳格に適用される。
例えば食物残渣をコンポスト化して終わりではない。できた堆肥を誰かに引き取ってもらわないと溜まる一方で、それは外から見れば不法投棄とみなされる(注2)できた堆肥を引き取ってくれる人がいても、只なら引き取るけどお金は払わないといわれると廃棄物であることは変わらず、廃棄物削減にならない。いや正確に言えば、廃棄物を引き取るには廃棄物処理業でないといけない。どちらにしても……

堆肥を買ってくれる人が見つかっても終わりではない。堆肥を売ろうとすると売り手は肥料取締法で肥料の生産者に該当し、知事の登録を受けなければならない(注3)現役時代 取引のあった会社では、社内食堂からの残差をコンポスト化していたが、それを売るために肥料製造の登録までしていた。なにをするのも大変である。いや行政は仕事をしにくくしているわけではない。怪しげなことをされないように、しっかりした仕事をしてもらうための措置である。

一般家庭でコンポスト化をしたとき、どれくらい厳密に運用されるのかわからないが、売れなくては廃棄物ということは変わらない。要するに家から出る廃棄物は減らないのだ。

なお分別することは、リサイクルしやすくしたり燃えるものと埋め立てするのを分けたりするから処分しやすくなる。だが当然ながら家庭から出るごみを減らす効果はない。
使用済段ボールなどは値段がつくだろうが、古雑誌などは値段が付かないのが普通だ。もちろん世の中の動き次第で古紙の値段は上下するが、僥倖に期待することはできない。古雑誌はよほど希少で値段が付くもの以外は、廃棄物であることは変わらない。

何を言いたいのかといえば、ごみを減らすということはリサイクルすることではなく、真に売れるものにするか、あるいは家庭から出るいらないものを減らすかしかない


では家庭から出るごみをいかに減らすかである。いやゴミは減らせるのだろうか?
冒頭に述べたように『ごみを減らすのでなくごみを出さない』ようにするのは、一言で言って現状の流通や社会システムではむずかしい。

例えば大根を取り上げて考えてみよう。
大根を買ってきて、ふろふき大根を作るとする。葉を切り落として何に使うか。むいた皮はどうするのか。使い道がなければ捨てるしかない。面取りした削りカスは捨てるだけ。
大根 このとき真にふろふき大根として食べられる割合、つまり歩留まりはいかほどうだろうか?

仮に大根の太さが7センチ、長さが40センチ、葉っぱは切り落とされているとする。この大根からふろふき大根を作るとしよう。
葉のついている側を、葉を含めて1センチ切り落とす。3センチとして4個輪切りにする。それから大根の皮を厚さ1.5mmむいて2mmの面取りをする。
加工後の容積は元の何%になるか?

面取りは小さいから無視して、大根を円筒と考えると、元の容積は直径7センチ長さ13センチ、得られた可食部分は直径6.7センチ長さ12センチである。
するとその割合は

((3.14×(6.7^2)/4×12)÷(3.14×(7^2)/4×13)=0.84

ふろふき大根になるのは元の大根の容積の84%しかない。
皮の部分はみそ汁の具に使えるかもしれない。もっともそれなら厚さ1.5ミリでなくもう少し集めに向いたほうが良かったかもしれない。面取り部の糸のような大根は捨てるしかないだろう。そういうことをしないと差の16%はこの時点でゴミになった。
おっと、先端部の半分が残っているが、これは明日の朝大根おろしに使うとしよう。もちろんそのときも、先っぽとかは使えないからやはり歩留まり8割とか9割になるだろう。

ゴミを出さないようにするには余分なところがゼロ、皮がむいて面取りされているカットされたものを買うしかない。そういったものを店頭に置けば、すぐに乾燥してパサパサしそうだ。店としてはあらゆる料理に合わせてカットした弾痕を並べておくわけにはいかないだろう。そもそも、そんなことをすればゴミが家庭から出ない代わりにスーパーで出るだけで、ごみの発生場所が移動しただけだ。


大根を例にして考えたが、買ってきたものと食卓にのるものを比較すると、食べるところは大きく減る。皮の厚いソラマメなんて重さで言えば半分以下だろう。
ニワトリの卵は60グラムくらいだが、その内カラの重さが10グラムくらいある。すると(重量の)歩留まりは83%、差額はゴミになる。

ニワトリ

注:卵の殻を粉砕してカルシウムパウダーとして、料理の際 小麦粉などに数パーセント混入してカルシウム摂取するのが薦めている書籍やウェブサイトがある。
私が子供の頃、親父は同じことを言って卵の殻をすり鉢で細かくして食べさせた。しかし細かくしないと摂取しないのと、加熱殺菌しないと殻には細菌がいるので危ないらしい。幸い私は今まで生きてきた。

買ってきたものがそのまま食卓に上がるとか捨てるところがないものといえば、白滝・油揚げとか豆腐くらいではないだろうか。
食卓に上がっても全部食べるわけでもない。はじかみなんて食べるところは3割だろう。食べない人の方が多いかもしれない。


食べるものだけでない。
ワイシャツを買えば、ボタンのところに材質表示のカードがついている。それもふつうは1個ではなく2個くらいぶら下がっている。背中には形を整えるための紙が入っているし、襟にも同じく形を整えるための紙とそれを抑えるプラスチックのクリップみたいなのがいくつかついている。

私が若い頃は、ワイシャツを買うとたくさんの虫ピンでシャツが止められていて、ピンが残っていないかよく見てから着ないと「イテテ」となったものだ。まあそんな時代に比べれば良くなったというべきか。

これをごみゼロにするには、買った際にそれらをレジでいりませんと取り外すくらいしか方法が思い浮かばない。ただそうすれば返品・交換ができなくなることも間違いない。

2021年に「洋服のはるやま」がワイシャツの包装を改善した(注4)シャツの形状を維持するためのピンや襟の中の芯をなくしたとか、付属していたカードを省いたことで25g削減したとある。
すばらしい! 各社もっと改善してほしい。気分だけ環境とか気分だけCSだけの会社が多いから、本当のCSを真似してほしい。

注:CSとはcustomer satisfactionで顧客満足の意味だが、ごみ処理する自治体のことを考えたcity satisfaction かもしれない。


私が昨年買ったノートパソコンはHp X360 model-12bというものだ。一度クロームブックを使ってみたいと思い買った。
使ってみればまずキーボードのピッチが狭く、不器用な私にはブラインドタッチは無理。もうそれだけで文章作成に使う気になれなかったが、ウェブブラウズとメールやLINEをするには十二分だ。とはいえ炬燵専用だ。デスクトップが使えるときに使う気はしない。

それはさておきこの本体とACアダプターやケーブル合わせて重さ1.4kgだが、届いたものは梱包箱が更に一回り大きな新しい段ボール箱に入っていて、荷姿状態では2.4kgあった。ゴミが1kg出ることになる。歩留まりというか正味の重さ58%、ごみが42%である。大根やワイシャツより歩留まりが悪い。


ノートパソコンは量販店の通販で買ったが、私が一番多く使うのはアマゾンだ。
アマゾンは非常に便利だが、梱包については疑問なところが多い。
最近凝っているジオラマ作りだが、いろいろと部品や材料や工具が欲しくなる。津田沼当たりの模型店とかホビーショップにいってもなく取り寄せになるが、アマゾンなら数日で配達される。
さて接着剤を買ったが届いたものは、15×23×8センチの段ボール箱に3×15センチのチューブが1本入ってきた。
LEDランプ付きUSB端子 また最近USB端子に差し込むLEDランプを買ったが、やはり両手で持つような段ボールに入っていた。本体は単にUSB端子にランプがついたもので、10センチ×8センチ厚さ5ミリくらいのブリスターパックに入っていた。

段ボールの種類を多くしたくないとか、商品にダメージがあってはならないとか、小さいと輸送中に紛れてしまうとか、思うことはいろいろあるだろうがもう少し改善できないものだろうか。
もちろん改善がされていることはわかる。1年位前まで本はコミック1冊でも大きな段ボール箱に入ってきて、届くと家内になにを買ったのかと問われたものだが、最近はクッションのある封筒に入ってきて郵便受けに入るようになって良くなった。
本だけでなく小さな電気部品などもそういう簡易包装にしてほしい。


企業の担当者の方はもっと考えてほしい。それは難しいことではないと思う。梱包とか流通の改善といっても革命的なこととは思えない。
そもそも梱包改善とか物流改善など昔々大昔から行われていた。過去からしてきた改善策を真似るだけで相当な改善が進むはずだ。
過去の事例をたずねるにも、大学の研究者とか遠い国に行くことはない。己が勤める企業にも改善の歴史はある。自分の企業がいかに努力してきたかを学べばよい

1970年頃、板金部品などは新聞紙にくるまれて納入されていた。小物部品は段ボールにで入ってきたが、その段ボールはお菓子の印刷などがあったりした。要するに下請けがそのへんの古紙回収業者のところに行って、程度の良い段ボールを買って使っていたのだ。新聞紙も同様だろう。
だからひと箱に入っている部品の個数はまちまちで、運搬中に破損することもあり、箱の隙間から零れ落ちるものもあり、今なら考えられない話だ。

そのうちに「生産ラインに段ボールを持ち込むな」なんて上のほうが言い出した。見た目が悪いし、他社に比べて遅れているのが許しがたいということらしい。
そんな指示が階層を下って我々のところに来た。改善はそう簡単にはいかない。少しずつ段階を経て改善していった。なにしろ段ボール箱の設計とか梱包の検証方法なんて習ったこともない。カットアンドトライでいろいろやった。

注:以前 私の小説で古紙回収業者から購入した段ボール箱で納入して問題が起きたなんて書いたことがあるが、すべて私の実体験をもとにしている。

段ボール箱であってもありあわせのものを止めて、部品に合わせてみたり、段ボールの材質を変えたり、だんだんと通い箱にして仕切りなどを入れて破損や抜け落ちを防ぐようになった。
当然、通い箱となれば下請けで用意しろとも言えない。通い箱の製作費用も内容次第で分担したり貸与したりといろいろだ。

そういうことが進むと、ラインに供給される部品の梱包箱がお菓子や洗剤など印刷にバラエティに富んだ楽しい時代から、同じ色調で同じサイズの整然としたものになってきた。見た目も多少は良くなった。
その後も改善は進み、類似部品には共通に使えるとか、返送するときは折り畳めるとか、やってみると面白い。

そしていつしか製造ラインからゴミとして出ていた段ボール箱とか新聞紙などが皆無になった。また部品の取り出しも楽になったし、空になった通い箱は畳んで戻すと手間は省け作業は早くなった。


段ボールの通い箱が安定すると、次はもっと金をかけても長寿命化とか内容物の保護を考慮したものを求めて、プラダンとかクッション貼りの合板とか考えるようになる。
確かに新機種の生産準備に投資が必要だが、使用期間とか製品品質を考えると十分元は取れた。というかとれるようなものを作らねばならない。
今の世の中は、そういう変化の後なのだ。

そしてこの話題では一番重要なことは、怪しげなその場限りの包装から、通い箱あるいは内容保護を考えて作られたものを使うようになって、ごみの発生は減り、輸送時の問題は減り、下請けからの搬入の費用はどんどん減ってきたということだ。

余談だが昔は暖房用のボイラーを一年中燃やしていた。なぜかと聞くと、不要となった紙や木材を処理するために燃やさなくちゃならないという。じゃあ冬場は燃料代が浮くねというと、段ボールなどいくら燃やしても火力がないという。それなら段ボールを売ったら良いのではと聞けば、一回本来の目的に使われ二度目は部品梱包に使われると、もう汚れもあるし弱くなり破損もあり、駄目ということだった。


今現在の製品を見ていると、1970年頃の部品納入状態のような気がする。確かに廃段ボールを製品梱包に使ってはいないけど、使い捨てという意味では50年前の部品納入と同じだ。

もう一つ大きな課題がある。包装材が破損した場合、製品を販売できるのかできないのかの判断もあいまいなまま運用されているように思う。
客先に届いたとき包装材が破損したらまずいのであれば、それなりに包装設計をすべきではないだろうか。段ボールの上に段ボールを重ねるような、その場しのぎではまずいだろう。
客先に届いたとき段ボールや包装材が破損していても、本体が異状なければ良いならば、それを販売側にも顧客側にも周知を図るとかあるのではないか。

包装材を繰り返し使うなら発泡スチロールなどでなく発泡ウレタンのような耐久性のある材料が使え、保護が一層安心にならないか?
飲料品などならすべてデポジット制にできないか。そうすることにより回収率を上げ、再利用(リユース)も可能になると思う。
スーパーでは魚や肉など保冷が必要なものは通い箱をお金を取って貸し出し、返却時にお金を返すなどの方法もあるだろう。

家電リサイクル法から始まって、ペットボトルそして小型家電などに広まってきたリサイクルシステムだが、まだまだ家庭用品を網羅していない。
まだリサイクルから漏れている小型家電とか、さまざまなパソコンやスマホのアクセサリー(補助機器)などをリサイクルルートに乗せるべきだ。


まとめである。
ごみ・廃棄物の定義が変わらなければ、ごみを出さない、ごみが出ないは不可能である。
ひとつは出るのが必然というか、出さないようにできないものがあるのも事実。ならばそれは当然だと認める必要がある。
食材の皮とか食べられないけど食べ物を構成するものなどがあるだろう。
もうひとつは輸送過程における保護を目的とした包装は通い箱やデポジットなどの手法で総合的に省資源、費用節減を図るべきだということだ。
前者については目標値を定め、それを達しているならうるさいことを言わない。後者については技術の進歩などを考慮して経時的に改善を図るということにしてほしい。
いずれにしても家庭ごみゼロは理屈から言ってありえないだろう。

ゼロエミッションとは元々はエミッション(排出)をゼロにするというアイデアだった。しかしもちろん自然エネルギーですべてを回せなければしょせん夢物語である。
話を聞いてください そして2005年頃、ゼロエミッションとは廃棄物をゼロにしなくても、リサイクルより廃棄物のほうが環境負荷が少ないならゼロエミッションだとか、廃棄物が○%以下ならゼロエミッションだという、ユニークなアイデアを唱える人が現れてその基準で日本の多くの企業がゼロエミを達成したようだ(皮肉だ)。

その姑息な理屈には納得できないが、そもそもゼロエミッションが不可能なのだから、例えばマージナル・エミッションとでも呼称はどうでもいいが、現時点で実行可能な廃棄物削減を定義して、それをいかに実現するかというアプローチを考えるべきだったのではないだろうか。
それは今からでも遅くないというか、今こそ必要なことではないのか。各都市の一般家庭からの廃棄物排出量ランキングを出して、論評しても都市ごとの条件が異なり比較もできず意味もない。


うそ800 本日のひとこと

不要物が出るのは当然ならば、ゴミゼロが無理なのは当然。
ならば実現可能な目標を考えるべきだろう。

不可能に挑めというのは、捕虜になるな、死守せよと非論理的なことを怒鳴るだけの指揮官と同じだ。
実現可能な目標を示し、必達させる、それが指揮官である。




注1
廃棄物の定義は「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃掃法 or 廃棄物処理法と略す)」では「「廃棄物」とは、ごみ、粗大ごみ、燃え殻、汚泥、ふん尿、廃油、廃酸、廃アルカリ、動物の死体その他の汚物又は不要物であつて、固形状又は液状のもの」と定義されていて、そこから値段のつかないものは廃棄物とされている。

注2
不法投棄とは文字通り読めば「法に反して(なにものかを)捨てること」と思える。しかし廃棄物を捨てるだけでなく、法で定めた処分場でなく、あるいは法で定めた方法で処理せずに置くことも含まれる。
だから自宅庭に不用品を置けば不法投棄になることもあり、使える見込みがないものを貯めこむと不法投棄になることもある。

注3
肥料の品質の確保等に関する法律(通称:肥料取締法)第4条

注4


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