ISO第3世代 65.事故発生1

23.04.13

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。

ISO 3Gとは

梅雨に入った。しとしと降る窓の外を眺めていた磯原の頭に浮かんだのは、工場にいたときのことだ。いつもこの季節になると「エアに水分が多い」なんて文句が現場から来たものだ。磯原が転勤した年にドライヤーを更新したから良くなっただろうか?
工場勤務に比べると本社の室内環境は快適だし、肉体労働もなく服は汚れない。磯原は今を天国と思うより、工場で働く元同僚たちに申し訳ない気分になる。その分 本社は胃が痛くなる……いや、工場でも胃が痛くなることは同じか。

近くで電話のベルが鳴っている。上西課長のスマホらしく、磯原は上西がスマホを取った気配を感じる。
上西は声が大きく、またTPOで声の大きさを変えない人だ、上司に対しても部下に対しても電話の相手でも。しかも耳が悪いのではないだろうが、先方の音も大きくしているから、話し声は周りにまる聞こえである。

上西 「上西です……やあ、奥田君か、部長になったんだって? すごいね」

スマホ

だれか 「上西君だって本社の課長じゃないか、本社の課長は工場の部長と同等だよ」

上西 「いやいや、課長に変わりはないよ。ところでどうしたの? ボクが転勤して二月以上経つから転勤のご機嫌伺いなら遅すぎるぜ」

だれか 「実はウチの工場で今朝 重油が漏れて、構外まで出ちゃったんだよ」

上西 「えっ、重油が構外に流出したって、そういうことは早く言えよ。回収はしているだろうが行政に報告したか?」

だれか 「昼までには回収できそうだ。それで本社報告しないで良いかどうか、相談しようとして……」

上西 「どうして本社と行政に報告してないの?」

だれか 「本社報告すれば大ごとだし、そうなれば関係者の処分もあるだろう、黙認してほしいんだよね」

上西 「それはともかく行政に届けないと違法だぞ」

参考:「水質汚濁事故対応ハンディマニュアル 富山県」

だれか 「今日は午前中、工場長も不在でいろいろあってさ、分かってくれよ」

上西 「しょうがないなあ〜」

磯原はそこまで聞いていて、おい待てよと顔を上げた、そのとき柳田が立ち上がり一瞬で上西のスマホを取り上げて磯原に放った。

右手 曲線 スマホ 曲線 右手

上西は慌ててスマホを取り返そうと柳田の腕をつかんだが、既にスマホは磯原の手にあり、磯原はそれをキャッチして電話に出る。

磯原 「あっ、申し訳ありません。ただ今、上西課長が役員に呼ばれまして、私にスマホを渡して急いで役員室のほうに行きました。
失礼をお詫びいたします……すぐに戻ると思います。
ハイ、戻りましたらすぐに」

上西はあっけにとられて言葉も出さず、磯原が話すのを見ていた
磯原はスマホの向こうにいる相手に頭を下げる。そして柳田にスマホを放り投げ、柳田が上西に返した。

柳田 「課長!電話の話は駄々洩れで聞こえましたよ。工場の部長が本社報告しなくてよいかと聞いてきて、しょうがないとは何ですか!
聞いてて、ハラハラしましたよ」

上西 「いや、隠して良いと言うつもりはなかったよ」

柳田 「それならよろしいですが、『しょうがない』とおっしゃったので、普通ならその後に『それで良い』と続くかと思いました。会社規則をご存じでしょう」

上西 「会社規則では、こんなときどうすることになっているんだ?」

柳田 「環境に限らず、安全も品質などまとめて緊急事態対応規則というのがあります。その環境に関する項では、『法に反すること、近隣に影響を及ぼすおそれのあること、マスコミ報道されるおそれのあるもの、市民団体などの抗議対象になるおそれのあるもの』と定義されていて、『それらが発生した時は、工場長は直ちに事業本部に対して報告すること』と決められています。
例外規定はありません。違反すれば懲戒です」

上西 「例外規定がない……分かりました」

しばらく考えて、上西はスマホの通話履歴をタップして電話をかける。

上西 「奥田部長をお願いします。ああ、ごめん、ごめん。ちょっと呼ばれちゃってね。
先ほどの件だけど、申し訳ないけどすぐに事業本部に報告してほしい。それでさ、規則では工場長が本社報告することになっているのよ。だから最低限、工場長に報告してそれから事業本部に報告してほしい。

まだ市役所に連絡していない? それじゃ大至急話をしてくれ。それと消防署だな。それ以外があるかもしれない。行政が事故発生時の報告先をまとめたものを配布しているはずだ。分からなければ市に相談してくれ。
そのとき簡単ないきさつ、流出したものの正常などを説明してくれ。
漏洩したものの回収はしているの?

ああ、そう、工場から何人も外に出てなにかしていると、近隣住民が新聞とかテレビ局に電話するかもしれない。そちらが市役所への通報より早いと市職員の心証を害するから大至急だ、頼むよ、」

上西は電話を切ると、大きく息を吐きだした。

上西 「柳田さん、これで良いかな?」

柳田 「申し上げれば、申し訳ないなんておっしゃることはありません。事実あるいは規則を示せばよろしいかと、
あるいは余計なことをおっしゃらず、会社規則通りしろと言うべきでしょうね。よく言うでしょう、規則を守ることは身を守ることって」

上西 「『規則を守ることは身を守る』って、聞いたことがないけど、どういうこと?」

柳田 「私も出典は知らないですが、銀行に勤めている友人が良く語っています。銀行は信用だけで飯食ってますからね、そこで働く人が規則を厳守することが絶対です。入行するとそれを徹底的に教えられたといいます。
例えば規則で理由ない当日休暇は認めないそうです。普通事情を言えなくて当日休暇とるときは仮病と言うのが普通でしょう。銀行員は仮病でも病院に行って診察を受けた証拠を作ると言ってました」

注:法律で休暇取得は労働者の権利であるが、雇用者は時季指定権を持つ。だから当日休暇の場合 理由によっては休暇を認めないことは合法である。その場合は欠勤扱いとなる。
法律的には休暇理由を偽るのは詐欺にならないらしいが、査定はもちろん懲戒理由に該当する。
 参考:当日欠勤は有給扱いになる?

上西 「そうか、私も柳田さんに聞くのではなく、会社規則を暗記するくらいにならなければならないな」

柳田 「磯原さんは本社に転勤してから、毎日昼休みに会社規則をめくってましたよ。ほとんど暗記したんじゃないですか〜」

上西 「そいじゃ、私に会社規則をA4サイズで1ページに2枚印刷にして製本してくれないかな」

柳田 「それこそ規則違反です。会社規則は社外持ち出し禁止です。コピーしたのもね」

上西

信号機
「そうか……それさえ知らなかったよ。規則を知らないのは、右側通行も信号機も知らずに歩くようなものか。規則を守ることは身を守ると、」

磯原 「上西課長、先ほどの件ですが、こちらとしては大至急 事業本部の環境担当と話しておかなければなりませんよ」

上西 「スマン、磯原君、こういう場合の処置を会社規則に照らして教えてくれ」

磯原 「それよりもまず事業本部に行きましょう。それが今、最重要と思います。
ところでその奥田部長はどこの工場ですか、どの事業本部なのでしょう?」





10分後、上西と磯原は半導体事業本部の打ち合わせ場にいた。事業本部とはある製品分野についての工場をいくつか統括する社長直下のビジネスユニットであり、工場の上位組織となる。
武藤
武藤さんである
トップは事業本部長で役員である。
事業本部には、経理、人事、品質、環境など全体のとりまとめ機能で構成され、多いところで数十人、少なくても30名弱がいる。所在は本社の建物の中だが、組織上は本社ではない。
環境担当は昨年まで工場で部長をしていた方で50前半の武藤さんである。

上西 「というわけです。武藤さんのところに熊本工場から報告がありましたか?」

武藤 「いや、ない。私から連絡を取ると、君が私に話したことになるがまずいか?」

磯原 「横から失礼します。工場から私ども環境管理課に連絡があれば、直ちに事業本部と対策を協議することは必須です。そちらに連絡を取らなければ職務怠慢です」

武藤 「そうか、では」

武藤はスマホを取り出し電話をかける。

武藤 「ああ、事業本部の武藤です。岡田君いるかね? 現場? 現場で回収の指揮をとっているのか?
悪いが彼にすぐに私に連絡するよう伝えてほしい。待っている」

武藤はスマホを切る。

武藤 「まずはご連絡ありがとう。みなさんはこういう事態に慣れていると言っちゃおかしいが、経験はあるだろう。どういうアクションを取ればよいのだろうか?」

上西 「磯原君、どうなんだ?」

磯原 「まずは現状把握ですね。そして被害を最小にする、今回収しているならなるべく早く完了したいです。
同時に行政、一番目は市役所の環境課でしょう。そこに経緯や実施していることを説明し、意見をうかがう。それから実施すべきことを相談というか指示を受ける必要があります。

行政は第一に近隣住民や河川の生物への影響を重要視していますから、それに応えられるようにしませんと……
それと法律で消防署に報告しなければなりません。警察は消防と連携しているはずです。
あと近隣の町内会とかに報告するのは行政との話し合い次第です。行政のほうでするというなら、資料の提供などとお供するとか。行政が問題視しないなら自主的に近隣住民に説明会とかチラシを配布するか考えなければなりません。

規模によりますがテレビ局とか新聞社から問合せがあるかもしれません。それへの公式な説明を考えておかなければなりません。これも行政と相談して決めなければなりません。一旦変なうわさが広まると収拾つかなくなりますから、広報は確固たる証拠をもとに話すことが必要です。
ただこれは事業本部だけでなく広報部に相談したほうが良いです。規模によっては事業本部の方だけでなく、広報部にも同行願い、対応レベルとか説明内容を決めたほうが良いです。いずれ大事になれば本社の広報部が対外発表することになりますから、早いところ事故の状況を報告しておく必要があります」

武藤 「いやはや、大変だな。もちろん環境管理課も同行してくれるのだろう?」

上西 「いや……ウチは……」

磯原 「課長が行かなくてどうするんですか」

上西 「そうか……それじゃ磯原君も同行してくれ」

磯原 「同一出張に二人行かないのは鉄則です」

上西 「まあ私は修行中だから」

武藤氏の電話が鳴った。

武藤 「はい、武藤です。おお、岡田部長、本社の環境管理課から連絡受けましてね、重油が流出したって?
なるほど、量は約数百リットル、回収状況は?

そのうち8割方は回収済みと……市役所と消防署のほうには報告したの?
してない!、それはまずいぞ。すぐに報告してくれ、工場長がいないからできないって、ふざけんじゃない!
君は部長だろう。誰が代行するんだ? これは職務怠慢だ、本部長に報告するぞ。

そうしてくれ、
ええと、今何時だ? もうすぐ11時か。羽田発熊本の飛行機はと……12時は無理だな、14時、15時の次は17時か
それじゃ私と環境管理課の者がそちらに行く。遅くても終業時刻前に工場に入れるだろう。
それまでに行政に報告して指示を仰ぐこと。マスコミへの広報をすべきかどうかも市と相談してくれ。漏洩したものの回収には全力を挙げること。ああ、もちろん残業をかけて実施だ。
頼んだぞ」

武藤は電話を切る。

武藤 「そいじゃ飛行機は14時を取ろう。同行願う。とりあえずチケット手配してくれ。私は事業本部長に報告する。それと広報にも声をかけておく。
あとは……まず現場を見てからだな。
とりあえず出張の手配を頼む。今11時20分、12時までに改めて連絡する」

上西 「了解しました」





上西と磯原は事務所に戻ってきた。
磯原はパソコンで飛行機の予約を取る。

磯原 「上西課長、飛行機は私が手配しますね」

上西 「ああ、お願いする。ついでにホテルも頼む。
柳田さん、私と磯原君が今から出張する。どんな手続きをすればよいのかな?」

柳田 「磯原さんは課長決裁ですが、上西課長の決裁はご自分ですから手続きはありません。ただ部長(いまだかって登場していない)に、出張する旨と行先・要件・日程をメールで入れてください。
飛行機とホテルは磯原さんが手配したようですから良いとして、清算は各自でお願いします。あと今は前借の制度はありません。旅費も宿泊もネット経由でしていただき会社払いです」

上西 「分かりました。じゃあ、あとは何を準備すればよいのかな?」

磯原 「山内さんに簡単にお話ししておいていただけますか。彼は環境担当役員の直下ですから、大川専務に状況報告していただかなければなりません」

上西 「了解、今いるかな、直接話をしてくるよ」

上西はすぐに戻ってきたが、山内がついて来た。

山内 「磯原君よ、おもしろそうじゃないか。わしも一緒に行きたいのだが」

磯原 「分かりました、それじゃ上西課長と山内さんということでお願いできますか」

山内 「いやいや、磯原先生の動きを拝見したいと思ってな」

磯原 「冗談はやめてくださいよ。私は元々電気屋です。公害も流体漏洩もお門違いです。公害の専門家である上西課長にお願いします」

上西 「いや〜、私は事故対策の指揮など執ったことがない。ここは磯原君に出馬をお願いしたい」

磯原は斜め45度を見上げ考える。自分も漏洩事故など対応したことはないがが、上西課長が実戦的でないことは判明した。ならば環境管理課から人を出すなら自分が行くのも必要か、
しかし何だろう……こんなに消極的ではどうするんだ。

磯原 「それじゃ生産技術本部からの派遣者は、山内さんと私ということでよろしいですか」

上西 「いやいや、私も行くから3名だ」

磯原 「それは何でも多すぎますよ。部門費節約の意味もありますし、周りの目があります。一人では仕事ができないと他部門から笑われてしまいます」

山内 「わしがねじ込んだのだから今回は3名で行くこととしよう」

磯原 「分かりました。でも今回限りにしましょう。大名行列では本社は遊びかと言われてしまいます」





羽田で14時の飛行機を待ち合わせた。武藤氏が表れて、こちらが3名いるのを見てギョッとしたのが分かる。

山内 「武藤さん、私も見学に行くからよろしく」

武藤 「これほど大勢とは……」

山内 「まあ頼むよ、アハハハ」

まさに物見遊山の弥次喜多道中である。磯原は武藤氏がどう思うかと気にしたが、上西と山内はその様子はない。ヤレヤレ





1時間半後、熊本空港に着く。工場までタクシーしかない。リムジンバスで行っても大きな町でしか停まらないから、そこからまたタクシーなら空港からタクシーということになってしまう。

タクシーで50分、スラッシュ電機の半導体工場に着いた。
さて工場側がどこまで手を打っているのだろう?

山内たちは工場に着いて、工場長室を訪ねると、工場長以下生産管理部長の岡田、環境課長以下数人が待っていた。

工場側  本社側
工場長 小鳥居小鳥居武藤半導体事業本部 環境担当 武藤
生産管理部長 岡田岡田山内生産技術本部 環境担当 山内
環境課長 井上井上上西生産技術本部 生産技術部 環境管理課長 上西
環境課 担当 下村下村磯原生産技術本部 生産技術部 環境管理課 担当 磯原
社内外注業者 大熊大熊

毎度どうでもいいことであるが、本社の課長は工場の部長相当になる。磯原は肩書なしの担当であるが、工場なら課長あるいは係長級である。
事業本部の担当とは肩書がないということで、平ではない。多くは工場長を卒業した人である。だから武藤、山内の処遇は小鳥居工場長と同等かそれ以上となる。

工場長と挨拶をするとすぐ現場に案内してもらう。
漏れが発生した屋外重油タンク、破損した配管、ヒビ割れがあった防油堤、側溝、裏門から工場を出て、流出先の工場に隣接して流れる小川を、下流200mほど視察する。
そこでは川の両岸にオイルフェンスを張って下流に流れないようにしている。従業員が10名ほど膝くらいの深さの川にゴムのズボンをはいて入って、吸着マットを敷き詰めていた。油がたまっているようなところでは、柄杓ですくって一斗缶に入れている。
その先の水面には油膜は見えない。
周囲は田んぼと畑で一番近い民家でも200mほど離れている。作業を見ている住民はいない。
10分ほどあたりを見て歩いて、その後、工場に戻る。既に終業時刻を過ぎ、外は真っ暗だ。

会議室で打合せである。

武藤 「まずは漏洩した油はどれくらい回収できたのですか?」

岡田 「漏洩したのは当初1トンと推定していましたが、破損したタンクから回収した油の量からみて600リットルと修整します。
内防油堤内や工場内側溝からの回収が約300リットルで、構外に流出したのは300リットルと考えています」

武藤 「構外に出たものは、みな公共河川に流れたわけですか?」

岡田 「そのようです。流れた先は先ほどの小川です。周辺は田園でその用水に使われておりまして、市に報告して農家が取水を止めてもらうよう地域に連絡してもらいました。
川の水面を見て目視で漏洩した先を追いました。それとは別に、先ほどの地点で吸着マットなどを置いて回収に努めました。
現時点、工場境界での流出はなく、また河川での回収地点より流出地点までの油は回収終了と判断しています」

武藤 「漏洩した先端のほうはどうなのですか?」

岡田 「市の担当者と共に先へ先へと追っていきましたが、オイルフェンスより先では汚染は見つからず、オイルマットで汚染を取り除けたと考えています。
あっ、私どもが考えたのではなく、市の担当者がそう考えたということです。農家や河川近辺の方からの被害とか汚染の情報は入っていません」

武藤 「となると回収作業はほぼ終了と考えてよいのかな?」

小鳥居 「さように思います。この度は皆さんにご迷惑ご心配をおかけして誠に申し訳ございません」

山内 「それでは事故発生からの経緯を説明していただけますか?」


岡田部長の説明は概ね次のようであった。
熊本大地震は2016年4月である。スラッシュ電機の半導体工場は建屋や機械設備の大きな被害はなかったものの、配管や半導体工場の設備のずれなど多々あった。
オイルタンク 屋外重油タンクは点検結果、異常はないと判断したが、アングルを組んだ脚部にたわみやずれなどが起きたものとみられる。

地震から2年経過して(この物語は2018年である)、歪んで塗料が剥げたかボルト止め部分に錆が発生していたと思われる。
今日の始業前に給油作業をしていたが、突然アングルで組んだタンクの脚が変形してタンクが傾いた。急遽 給油を停止したが、タンクの脚部が屈曲して加速度的に傾いたという。その結果、タンクにヒビが生じて重油が漏れた。

防油堤はタンクの法で定める110%はあったが、これも2年前の地震でヒビができたのを見逃していたようだという。
その結果、漏洩した重油が側溝経由して公共河川に流れ込んだ。


小鳥居 「原因がはっきりしているなら対策は単純だな。もちろん時間も費用も掛かるだろうが」

岡田 「そうですね。地震後の点検が不十分だったなら点検方法の見直しなどを……」

山内 「もう終わったような話ですが、まだ問題は全然収まっていませんよね。
まず対策の前に、今回の問題で市はどのような見解なのか? 損害賠償とかいろいろあるのでしょう?
また広報をどうするのか。マスコミは来ていないのかな?」

武藤 「まあまあ、山内さんが頑張るお気持ちはわかりますが、主体は工場です。そして岡田部長としては市との話し合いで問題の解決、そして対策について工場で対応できるとお考えということでよろしいですか?」

小鳥居 「もちろんそう考えている、そうだな岡田部長」

岡田 「はい、そのように考えています」

先ほどまで一緒に現場を回っていた岡田の部下が部屋に入ってきた。

下村 「部長、新聞社から河川に油が流出したようだという噂がある。どうなのかという問い合わせが来ております」

小鳥居工場長と岡田部長が顔を見合わせる。それを見て山内がニヤリとしたのを磯原は見逃さなかった。

岡田 「これは総務部長マターですね。総務部長はまだ在社していますか?」

下村 「実は総務で問い合わせの電話を受け付けたのです。残業者が数人いたのですが、渉外担当がおらず、また部長は退社されたそうです。そんなわけで電話がこちらに回ってきました」

岡田 「うーん、対応しなければまずいが、今はどういう広報をするか決めてないな」

山内 「市とは対外発表について話しているのか?」

岡田 「そこまでは詰めていませんでした」

皆顔を見合わせるばかりだ。

磯原 「事実だけを話せばよろしいのではないですか。
事実1 工場内のタンク貯蔵所から重油が漏れて公共河川に流出した。量は300リットルと推定される。
事実2 公共河川に流出した油はほぼ回収した。
事実3 農家や近隣住民の被害報告は受けていない。
このような内容で市に確認を取ってから回答したらいかがでしょう。
とりあえず……新聞社には1時間後にこちらから連絡するということで了解を取られたらいかがですか。そのときまでに市の担当者の確認を取り、可能なら本社の広報に確認を取ってほしいです」

小鳥居 「岡田君、すぐに市に問合せしてくれ。ええと、下村君だったね。今の話にあったようにしばし時間がかかることを新聞社に連絡してくれないか」

下村 「承知しました」

下村が部屋を出るのを追って、岡田も部屋から出ていく。会議室で電話するのは支障があるのだろうか?

小鳥居 「環境課長、タンクはまだ空じゃないんだよな。防油堤も完璧でないとなると、中の重油を抜く必要があるな。全部抜けないなら今晩は監視してないとまずいだろう。
どうする?」

井上 「はい、タンクが傾いてしまっているので、安全に重油を抜き取りできるかどうか検討してもらっています。いずれにしても防油堤にシートをかけるなりして堤内の油が漏れないようにして監視をします。タンクが20トンでして、まだタンク内に数トン、防油堤内にも数トン溜まっています。実は一度防油堤の中に漏れた重油を回収したのですが、それからもタンクから漏れ続けてまた溜まってしまったのです」

小鳥居 「計算が合わないぞ、漏れた量は600リットルと聞いたが」

井上 「タンクが満タンでなかったということです」

小鳥居 「ああ、なるほど」

岡田部長が戻ってきた。

岡田 「市の担当者に確認を取りました。先ほどの内容でOKだそうです。
市は明日正式に広報するそうなので、広報詳細はこれから決めるということで、先ほどのこと以上は発言しないでくれとのことです」

小鳥居 「それじゃ総務の担当者から話してもらうか……いや、私が総務部長を呼び戻そう。岡田部長、さっきの話を紙に書いてくれ。総務部長が来たら三人で話をしよう」

磯原 「すみません、その間に本社広報に確認を取ってもらえませんか」

岡田 「了解しました。本社の広報はまだ会社にいますか?」

磯原 「いると思いますし、いなくても連絡が取れるようになっています。あそこは24時間体制ですから」

岡田 「分かりました」

武藤 「それでは本日はこれで解散でよろしいですか?」

小鳥居 「よし、解散、岡田部長は広報部に連絡、井上課長は現場への指示、ええと業者は大熊さんだったな、彼のところに丸投げするのではなく、社員を今晩監視に立ち会わせるように」

井上 「承知しました」

小鳥居 「ええと武藤さんと山内さんはホテルを取られたのでしょうか?」

武藤 「はい、手配しました。私たちは解散したらもう一度現場を拝見してから退社します。お付き合いいただきありがとうございました」

小鳥居 「明日は朝から進捗を確認したい、ではまた明日」





解散したのち、武藤、山内、上西、磯原はタンクのところに来た。
防油堤の隅にヒビが入っている。夕方も見たが、2年前のヒビには見えない。というのはヒビの面がきれいだからだ。コンクリートが割れて2年も経てば風雨で黒くなるし、苔も生える。破断面がコンクリートの色ならヒビができてせいぜい数か月だろう。ということは最近なにか物理的な事故でもあったのだろう。
そうなるとタンクが傾いた原因も岡田の説明は信用できない。

山内が小さな声で磯原に話しかけてきた。

山内 「オイオイ、2年前の地震でできたヒビとは思えないな」

磯原 「私もそう思っていました。2年前にしてはヒビが新しいですね。となるとタンクの脚が錆びたからというのも、信用できませんね」

山内 「明日再確認させよう。磯原君、スマホで状況を写真で取っておいてくれ。暗いけどなんとかなるだろう。」

磯原が防油堤の中に入ってタンクを見ると、円筒の側面にかなり大きな凹みがある。倒れた時にぶつかるようなものもない。どうして凹みができたのだろうか?

缶コーヒー 山内と磯原そんな話をしていると、下村と呼ばれた担当者がやってきた。缶コーヒーが何本も入った小さなポリ袋を持っている。
外注業者と思われる人たちに声をかけると、ぞろぞろと集まる。10人近くいるようだ。
下村は集まった人たちに缶コーヒーを1本ずつ渡す。

下村 「どうもお世話になっております。お疲れのところ申し訳ないですが、今晩よろしくお願いします」

大熊 「下村さんも大変だねえ〜、部長が昼行燈ひるあんどんでは、アハハ」

下村 「いえいえ、私が至らないものですから」

大熊 「防油堤のヒビは地震じゃないと思う。俺が半年前に点検したときは全く異常はなかった。
大きな声では言えないけど、防油堤の外側がコンクリートが剥げているところがある。トラックでもぶつかったようだね」

そんな声を聞いて磯原と山内が漏れた個所をのぞきに行く。確かにコンクリートも固いもの、バンバーなのかそんなものがぶつかったような傷があり一部コンクリートが剥離している。ただそれが防油堤にヒビを作るほどの衝撃だったかどうかは分からない。
山内が振り向くと磯原と武藤はいるが、上西はいない。立上がって明るいほうを見ると、業者と下村の脇で上西が缶コーヒーを飲んでいる。

山内 「それじゃホテルに行きましょうか」

武藤 「ちょっと岡田部長と話をしていきます。正門でタクシーを呼んでおいてくれませんか。すぐに行きます」


山内、上西、磯原が正門までの300mほど歩く。空は満天の星空だ。こんな星空は東京では見られない。毎晩こんな星空を見られるのはうらやましいと思う。
しかし……それにしても工場長も岡田部長も上西も、甘い、甘すぎだと山内はむしゃくしゃする。
たぶん、武藤は岡田部長に苦言をしに行ったのだろう。岡田部長もそうだが、上西も管理職にするには未熟だなとため息をつく。
彼らは入社時から幹部候補だったのだろう。旧帝で成績上位か……当社うちは古い体質だよな。ここの下村も磯原も、たぶん地方の国立か県立卒なんだろう。課長になれるかどうかも怪しいものだ。



うそ800  本日の雑談

環境担当なんぞしていると、事故はあるのが正常です。正常というとおかしいけど、正常とはあるべき姿とか正しい状況という意味ではありません。普通のこと、多数のことを正常といいます。普通でないことめったにないことは、慶事でも異常といいます。
事故は起きてはならない、違反してはならない、と思う気持ちは分かりますが、環境担当としては事故は起きる、違反するのは正常と考えないといけません。戦争は起きてはならないと考えるのは結構ですが、戦争は起きないと考えるのは大きな間違いです。
ならばどうするの?
事故が起きたときのこと、違反したときのことを前提に考えることです。戦争は起きることを前提に考えなければならない。それが当然です。

🏲
「フラグを立てる」なんて言い回しがあります。フラグにも死亡フラグもあれば勝ちフラグもありますが、ネットやライトノベルで使われる場合は99%が死亡フラグです。「戦争から帰ったら結婚する」なんて言うと、言った男は必ず戦死します。
早い話が考えたり言ったりすると、実現してしまうという言霊信仰ですね。
環境担当は、「フラグを立て続け、フラグを折り続ける」人でなければなりません。それが環境屋の仕事です。
おっと人生でもそうじゃありませんか。何も起きないように祈るだけでは、起きたとき困りますよね。
『最悪を想定し、最善を尽くす』とは、1800年代のイギリス首相ベンジャミン・ディズレーリの言葉だそうです。


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