後世畏るべし 2005.07.16
私はISOマネジメントシステムに関わって既に13年になる。
本当を言えばその前から品質監査などに関わっていたので、監査をしたりされたりということを既に30年以上もしていることになる。
ULの工場認定とか、官公庁の立ち入り検査、あるいは顧客による品質監査などというものは、監査側・被監査側とも真剣勝負であり、そこで出される結論は非常に重い。その結果が万一のときは会社は事業ができなくなるし、担当者は飯の食いあげである。
他方、ISOの審査というのはそういった確固たる監査基準がない
そんなふうにいうと異議を呈される方がいらっしゃるかもしれないが、事実であるとしか言いようがない。そして審査自体も前述したような審査や調査に比べればあいまいもこ、審査の判定も明確ではない。
その証拠に、所見報告書の記述を見ればよく分かる。一方は「よし・あし」が明確であるに対し、ISO審査の所見報告というものは「確認できなかった」とか「明確ではない」などという言い回しが現実に存在しているのである。そのような表現に価値があるのか不思議である。
今まで、私はISO審査機関による審査のいいかげんさ、あほらしさを数多く書いている。それは、ウソ偽りのない私自身の体験を元にしている。
世の審査機関と審査員にうらみつらみを持っているといってもあながちウソではない。
私は執念深い男なのだ。 

わたしのようにISO事務局を担当している者は全国に多数いると思う。単純にISO9000とISO14001の審査登録件数の合計が55,000件(2005年現在)くらいである。その中には環境と品質の兼務者もいるだろうし、複数の事務局員がいるところもあるだろうから、まあ簡単に言えば日本にはISO事務局担当者が述べ5,5000人以上いることになる。
私の体験から、ISO事務局担当者は二つのタイプになる。
ひとつはISO小僧となり、規格に詳しく、根拠不十分な審査員の判断には断固たる対応をし、話にならないときは異議申し立てをするというタイプだ。実は私はこのタイプなのだが・・・
もうひとつのタイプは、審査機関様、様というタイプで審査員のおっしゃることはなんでもご無理ごもっともと言うことを聞き、会社の仕組みや仕事の仕方を審査員のご希望に応えて変えてしまう人である。
いずれにしてもISO規格のほんとうの趣旨を実現するというよりも、審査機関との応対にその能力の大半と手間ひまをとられ、真に会社を良くするとか環境を良くするという趣旨からは離れていることは言うまでもない。

Shallがあればする。
Shallなければしない。
なことで会社が良くなる・・・
訳がない

それは審査機関のためにまっすぐに育つことができず、捻じ曲がってしまったといえるのではないだろうか?
私は過去ずっとこんな仕事についていたので、文言の理解とか要求事項のこまかいところに注意がひきつけられていた。
ちまたでも規格にshallがいくつあるとか、規格の文言の形容詞句はどの単語にかかっているのかとか、○○は規格に書いてないからしなくてよいという議論を良く見かけるが、そういった人々も規格の本意から離れていることと私は考えている。
論語読みの論語知らずならぬ、ISO読みのISO知らずであろう。

ISOよりも会社が良くなることが第一です 話はパット変る。
最近、知り合いの会社で若い環境事務局担当者と話をした。
若いといっても40歳くらいなのだが・・・
その話の中で、私はある驚きというか感動をしたのでここに書く。
彼は、私のような構えた姿勢が全然ないのだ。ISO規格を素直に読み、実際に過去より会社で行っていることをそれに当てはめて、それ以上のことをしようなどとは考えず、審査になったら自然体で受けようというだけである。
もっとも彼はまだ一度も審査というものを経験していないのだが・・・
もちろん、彼はいい加減な人ではない。自分の勤めている会社は法を守り、そこそこの業績をあげており、従業員には賃金を株主には配当を払い、社会的にもそれなりの評価を受けている。それならばこの会社はISO規格要求を満たしているはずに違いないと考えているのだ。だから会社のミニマムラインであるISO14001などは十分にクリアしていると確信している。
そこには付け入る隙もない、ただ自然体の社会人がいるだけである。

ISOは会社を良くするためのもの
会社が良くなるならISOでなくても
いいじゃないか

彼も無知ではない。こう言った。
「日本には過去よりいろいろな会社の改善手法がもてはやされてきた。その中には、定着したものもあるし、廃れていった手法もある。方針管理というのはディミング賞を受賞した某会社がはじめたものである。小集団活動、TQC、TQMなんてのもあった。
(かようなことは長く書くことはない。『日本的経営の興亡』ダイヤモンド社刊を一読あれ)
ISO14001やISO9000というものがそれ以上のものとは思えない。いずれにしてもマネジメントシステムというのは会社を良くするためのツールであってそれ自身は目的ではない。もし、自分の勤める会社にISO規格が合わないならばそれを採用することはない。」
もちろん、彼は以前の私のように、ISO9000の認証をいついつまでに取らないと会社の製品が輸出ができなくなるといった切羽詰った状況にはないし、不適合の件数によって昇給を左右するようなアフォな上司をもってはいない。
しかし、その伸び伸びとした発想には脱帽した。

bonsai.gif
盆栽は木の纏足(てんそく)である。
纏足がいいという人はいるのか?
以前、ある本でこんなことを読んだ。
「苦労は人間を鍛えるが、苦労のしすぎは人を屈折させる。」
私のようなISOに関わってバトルを続けてきた者は素直な生き方も、規格の読み方もできなくなってしまったのかもしれない。あたかも捻じ曲がっり節くれだった盆栽のようなものかもしれない。
盆栽を見てすばらしいと思う人は、異常であると私は思う。
私には伸び伸びと自然に育った木より、痛めつけられ切り刻まれねじれた木に価値があるとは思えない。
明るいところで伸び伸びと育った人はISO規格をそのままに素直に読んで、すなおなマネジメントシステムを作ることができるのだろう。
それが私にとって驚きであり、感動であった。

真剣勝負の修羅場を幾度も経験してきた者ではなく、良き師についてすなおに修行した者が剣の極意を極めることができるのであろうか?

本日の文章を読んだお方が「佐為ぢぢいめ、ついにボケたか」とか「もう年貢の納め時か、ISO論も終わりだな」とお思いになったなら・・・
それはまだ早計というもの 
かような若者がまっすぐに伸びることができるように、意地汚い審査員を叩きのめす役目を今後ともあい務める所存である。

覚悟せよ!規格を知らない審査員よ

2009/samurai.gif 審査員のみなさん、待っておるぞ

法律を知らない審査員は成敗ぢゃ!




05.07.18 追加
なんで「後世畏るべしなのか?」というお問い合わせをいただいた。
うーん、まいった。
ご理解いただきたいというしかないのだが・・・




デミング賞 2005.07.18
えー、本日はあらま様から長文をいただきました。
佐為 さま
あらま です。
まじめが嫌いだ、とおっしゃっていた佐為 さま。マジレスが続いているところに、人間味を感じております。
さて亡父は、元祖QC小僧だったでしょうか。身の回りはいつもキチンと整頓していていました。
おかげて遺品の整理が簡単で、膨大な資料もゴッソリ処分できました。
その中に、「デミング賞」なるものが大切に保存してあったようです。
が、猫に小判の遺族は、その価値も知らず一斉に処理しました。

そんな私ですので、ISOに関してまったくの素人です。あいかわらずの言いたい放題をお許しください。

佐為 さまの一連のISO審査の記事を読ませていただき、ISO審査自体にISO認証の取得が必要だと思いました。
誰でも、乗ったタクシー、かかった医師からのサービスは、一律であってほしいと思います。
しかし、地理不案内の運転手、ヤブ医者に遭遇してしまうと、不運ですね。
逆にいえば、人には埋められないほどの個人差がある証拠だとおもいます。
むしろ、標準より上の、ベテランで良心的な運転手、医師に出会えることを、誰しもが願っていると思います。

私の子供をみても、性格が違います。
頭のほうは下のほうで「標準化」してしまったようですが、親の顔を見たいです ???。

とにかく亡父のように、なんでもかんでも「標準化」という姿勢は、オタッ臭がただよっていました。

男にも女にも、趣味と仕事の世界があると思います。
わざわざ、高いカンサツを買って(今年からまた値上りました)、高い竿をかついで早朝に出かけ、釣った鮎は三匹。
交通費を考えれば、一匹あたり数万円ですね。
デパ地下では、それよりもカタのよい綺麗な鮎が、一匹140円で売ってました。
経済的にも、環境保護の面から考えても、馬鹿ですね。
しかし、それでも懲りずに我は行く。。。です。

以前、亡父が、家庭でQCサークル活動をしようとして、母と戦闘状態に入ったことを書きました。
その道の権威だった ? 亡父も若き頃は、アプローチを間違えた一例だと思います。

今もなお、私のようにISOを理解できていない人が沢山いると思います。
ISOを採り入れたのに、逆に、不和になったり、労災事故が増えたり。
標準化はよいことだと思えるのに、それをヒトにあてはめるとき、なんかヘンだ・・・・・・と思うのは私ひとりでしょうか。
それはISOを伝える人に問題があるのか、ISO自体に問題があるのか、わかりません。
しかし、品質管理から派生したこうした考え方は、ますます発展、集約、改革がされていくと思います。
佐為 さまの、ますますのご活躍を願うばかりです。
P.S.
わたしの住んでいる近くの私鉄では、今もSLが動いています。
れからの夏休み、予約でイッパイだそうです。
しかし、確かに半端な煙ではありません。
それなのに、車内禁煙となりました。
車内の灰皿は、レトロ調なので、そのまま残しておくとか。
人間のすることは理屈ではない部分があるのですね。。。 

おお!あらま様
私などよりスケールが大きい本格的標準屋が親父様だったのですか!
これはそちらには足を向けて眠れません。
といいつつ、あらま様はどちらにお住まいでしょうか?

私は自宅で標準化とかアイエスオーなんてことはいっさいしません。
なにせ、私はものぐさなのです。
それより家内が怖いのですが・・・
ISOの審査機関こそISO認証が必要だというお説はあちこちで聞きます。まあ、審査機関は認定機関(JABやUKAS)によって審査されているから同等だということになってはおりますが・・・そうとは思えませんよね?
でも彼らを審査するなら、いつもいじめられている我々ISO事務局のメンバーがしなくちゃ割に合いませんよね。
なにしろISO小僧、ISOオヤジ、ISOジジイ、ISOババアまでそろっていますから審査はバッチシです。 



あらま様からお便りを頂きました(05.07.20)
佐為さま あらま です。
なんと畏れ多いコメント。
亡父は、血と汗と涙の標準バカでした。
何しろ勤めながら夜学に通い、そのなかで「品質管理」なるものに出会い、コレダ !!! と思ったようです。
しかし、当時の工場は、動力をベルトで分け合った時代。
職工の世界は縦社会。
いち若造が、品質管理を唱えると・・・・・・、帰り道に待ち伏せされボコボコにされたのは、二度や三度ではありませんでした。
また、テキストなんてなかった時代。亡父の書いた教科書が、そっくりそのまま某大学教授の名前で出てました。
それでも、製品がJISに認定されると、うれしそうに私たち子供のJISマークを書かせていました。
しかし、標準バカは、家庭を顧みず、席の暖まる間もなく、全国を回ったようです。
東京に、デミング博士がくるのを恋人を待つごとく楽しみにしてましたが、結核で倒れました。
その後、QC活動を広めるために、イラストを習ったり、音楽を取り入れたり、なんと「手相」?まで、採り入れたそうです。
音楽の成果は、プロ並のタイコ叩きと自称し、盆踊りのやぐらの上で、後進にタイコの標準?、マニュアルを教えていました。
パチンコのプロとも自称し、確率と統計の成果を強調していましたが、私から見れば単なる逃げ勝ちですね。
会社の合理化にも貢献し、下請けや、解雇された社員の恨みも買っていました。
そんな父も、脳梗塞には勝てませんでしたが、葬儀には予想に反して全国から沢山の飲み友達の標準屋さんが訪れてくださり、父の一面を知りました。
QCをこよなく愛したクソジジイの話でした。

あらま様、お便りを拝読し感動です。
正直申しまして、ご尊父様だけがそのような目に会ったとは思いません。いつの時代にも学閥もあるだろうし、えらいさんは上前をはねるように社会はできているのです。
でも、お父上の向上心、チャレンジ、根性というものが私たちの年代まではあったのだと思います。
私も日本の復興、高度成長期に生きたことが幸運であり誇りであると思っております。
自虐史観を持つ人は、誇りある時代に生きることができなかった不幸な方かもしれません。
もっとも不幸な人って、どのような境遇にあっても幸福を感じないんですよね
また、いろいろなお話を聞かせていただきたく




タイガージョー様からお便りを頂きました(05.08.13)
長さの問題
拝啓 佐為様
いつも楽しいお話をありがとうございます。後世畏るべしを読み、感ずることがあったので拙文をお送りしました。
佐為様のおっしゃる「後世の若者のことまで考慮してお仕事をされる」とはすばらしい事です。ある歴史家が残した言葉に「全ての歴史は、今生きている人のためにある」と言うのがあります。大きいことでも小さいことでも、良いことでも悪いことでも歴史上の出来事はすべて後世の人に影響を与えており、現代に生きる我々にとって大切なものであると言う意味であります。願わくば佐為様のお仕事が、後世に良い影響を与えますように願ってやみません。

さてこの間朝日新聞の記事で某大学の教授が、戦争当時の指導者達の中でA級戦犯の者達は、戦時の指導のまずさのために国民に迷惑をかけた。結果責任はあるので靖国神社にA級戦犯が合祀されるのはよろしくない、と述べられていました。
確かにプロの軍人ならば、自衛のためでも、勝てない戦争をすべきではないし、どうしてもしなくてはいけないときは同盟国を作り、政治的に有利に持っていくべきです。間違っても中国との戦争の決着がつかないうちに新たにアメリカにケンカを売るべきではないし、降伏の決断が遅れたことは決定的な決断のまずさとなりました。しかし靖国神社とは国家のために殉職した者を奉るという神社であります。従って東京裁判の結果如何を問わず殉職者はそこに入る権利があると思います。無論神社側が拒否した場合はいかんともしがたいのですが・・・。
前述の教授の場合後世の代で「この教授の学説は誤っていることが判明した。このような物を教授として奉るのは正しくない。よって過去にさかのぼってこの教授を歴代教授から除名する。○代教授は空席とする。」となるかもしれません。
「佐為殿が×年前に行ったISOは今から見ると誤っていた。よって過去の業績は否定される。」となると歴史の積み重ねも何もあったモノではありません。やれやれやはり朝日新聞とそのとりまきが大きくなることはなんとしてでも防がなくては後世のためにはならないようです。私もまだまだゆっくりできないようです。佐為様もお身体に気を付けていつまでもお元気で。
 敬具

タイガージョー様、ご無沙汰しております。
まず、私について言えば毎日が間違いの連続ですからご心配はいりません。
また、粛清されると単に殺されるだけでなく自分の過去の業績をすべて抹消されてしまう国もありました。そうです、ソビエト連邦というかってはサヨクの憧れの国です。有名な政治家が写った写真の多くには灰色に塗り唾されたところがあります。そこは失脚した政治家や軍人が写っていたわけです。まさにヒロシマの石段の陰のような感じです。
話が大幅にそれてしまいました。
人間は歴史を評論するのではなく、歴史から学ばねばならないと思います。
靖国を否定する人がいてもよい、戦犯が連合国に対する戦犯(といってもこの概念もおかしいのですが)であるだけでなく、日本国民に対する責任があると考えている人がいてもよい。
しかし、誰がどうを考えても靖国がなくなるわけではありません。
日本人ならみんな一度は靖国に行って、そこに何があるのか?どんな思いや願いが込められているのかを見る必要があると思います。
もっとも靖国に近づくとジンマシンがでるなら、それはしかたありません。その場合でも、靖国とは何かを知る義務はあるでしょう。



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