ISOの形骸化 2007.03.21

いつも同じようなことばかり書いているが、実を言ってこの文章を書くために考えているわけではない。日常仕事や相談を受けて、考えたこと気がついたことを書いている。もっとも、いずれにしても下手な考えであり、そんなことを考えているより休んでいた方が良いかもしれないことは認める。
負のスパイラルとかISO認証の形骸化と言われて久しい。ISOを認証している組織で、ISO認証の効果があると考えているところは少ないだろう。
これは想像ではない。だってISO関係の雑誌ではしょっちゅう「ISOは有効か」「紙・ゴミ・電気を超えたか」「ISOを生かす」「ISOで苦しめられている企業の問題点」とか「ISOの導入効果」なんて特集を組んでいるのだから。
ISO認証が経営に寄与し会社の改善が進んでいるなら、そのようなことを特集するはずがない。
もちろん誰もISOを知らない時代ならそういった啓蒙活動もありえるだろうが、規格が制定されてから品質で20年、環境で10年も経った現在では成り立つ企画ではないだろう。
私の想像だが、「ISO認証して良かった!」とか「効果があった」という会社は、ISOに関わらなくてももともと改善を進めていたと思う。あるいはそれ以前は会社の体をなしていないほどよっぽど悪かったのかもしれない。
他方、ISO認証によって余計な仕事が増えた、無駄が増えたという会社があるのも事実である。
ISO規格とは、かようにも活用することが難しく、認証によって得る効果は少ないのだろうか? と愚考すると、単に本質をつかまずに規格に振り回され、コンサルや審査員の言に左右され、その組織に見合ったことをしていないだけではないかという気がしてきた。

ISO規格の真髄・本質とは何ぞや? なんて考えるまでもない。それは序文である。
たいていの書籍のはじめには「まえがき」とか「はじめに」なんてページがあり、その本を書いた目的や何を伝えたいかということの概要が書いてある。もっとも普通は前書きなんて読まない方も多いでしょう。実を言って私もまえがきなんて飛ばして本文から読むことがほとんどで、本文さえまともに読まないで要点だけとか知りたい部分だけ読んでおしまいということも多いのです。
本を読む目的が、単に文字を読むことや登場人物に感情移入することでなく、必要な情報を得ることであるなら、そういった方法は否定されるべきではありません。
しかしISO規格の場合はまず序文を熟読することが必須です。ISO規格は14001も9001も、「序文」「適用範囲」「引用規格」「定義」「要求事項」の順となっています。
ほとんどの方は要求事項のみをひたすら読み、暗記までしていると思いますが、序文から定義まではあまり読んではいないでしょう。
エッツ!お読みになっている?
そうですか、それでは形骸化した仕組みなんて作るはずがありませんね。形骸化したEMS、QMSの関係者は序文を読んではいないはずです。
あるいは読んでも理解していないのかもしれません。
私は自宅と会社の双方にISO9001、14001、19011の対訳本を備えているのですが、実を言って手垢で汚れているのはどの本も要求事項のページだけです。これはISO9001やISO14001の旧版の対訳本も同じです。ひとのことを言えた義理ではありませんね。 
序文のどこを読むべきか?
まあ、序文そのものが9001で9ページ、14001で7ページと短いですから頭からおしまいまで読みましょう。
とりあえず14001に限定して話を進める。
序文から要点を抜き出すと、
組織が自らのパフォーマンスを評価するためのレビューや監査をしても法律上や方針上の要求事項を満たし、かつ将来的に満たし続けることは十分でないかもしれない。
「十分でない」ではなく、「十分でないかもしれない」であることに注意。十分である組織もあるかもしれないのだ。
これらを効果的なものにするためには、組織に組み込まれて体系化されたマネジメントシステムの中で実施する必要がある。
このISO規格はすばらしいものだと自己宣言(自己宣伝)しているわけだ。
天井天下唯我独尊 

Yosh様からツッコミがありました。
とうた様、”天井天下唯我独尊”
この頃の文ではあまりパンチが飛びませぬね。
このシステムの成功は、組織のすべての階層及び部門のコミットメント、特にトップマネジメントのコミットメントのいかんにかかっている。
要するに組織にやる気がないとだめよということだ。仏作っても魂を入れなければ、ありがたい仏像にはならずたんなる木偶(でく)である。
この規格の採用そのものが最適な環境上の成果を保証するわけではない。
組織のEMSを、将来的に有効で効果的にすることを目的としながら、それを保証しないとはつれない話であるが、組織の当事者でない規格制定者が保証できないのは間違いない。

序文が規格の意図を表しているならば、要求事項のすべての文章を読むときに、序文の精神で理解しなければならないはずだ。
規格の文言をどう理解すべきか迷うことがあれば、この序文に立ち返えらなければならない。
そしてどこまでやるか、やらないかは組織が己のリソースとレベルで決めることだ。だってできないことをしろなんて規格は言ってませんもの。無理して身の丈にあわないシステムを作っても、立派過ぎる戒名をもらった子孫と同じく後々自分が困るだけです。
規格はEMSの形態やレベルに一律的なものを要求してはいない。だって序文にあらゆる種類・規模の組織に適用するよう意図されている。とあるのだ。
ついでに言えば、定義の中で「(継続的改善の)プロセスはすべての活動分野で同時に進める必要はないと書いてある。なぜこれが定義にあって序文にないのかは分からない。
審査員で「御社ならこの程度ではいけません。もっとシステムのレベルも目標も高くしないとだめですよ。」なんておっしゃる方がいるが、よけいなお世話である。
あなたは「当社はレベルが低いです。」と堂々と言う勇気がないのですか?

コンサルがなんと言おうと、審査員がちゃちゃを入れようと、組織の体力に合った、業種業態に合った仕組みを作ってそれでいいのだと主張すればいいのではないでしょうか。
組織にあった仕組みなら有効であることは間違いない、そして継続的に改善して効果的であるものにしていけばよい。
しかし、できることしかしなかったとしたら、認証による効果はあるのか?
本当に現状維持であるなら認証したことによる効果はないだろう。
それでも認証するに至ったのは入札のために必要などの理由はあったはずで、その目的は果たしたはずだ。要するに、従来からのシステムですべてを説明し、なにも付け加えないで認証した場合、改善効果はないけれどISOによる負担は審査機関に払う費用だけにとどまる。少なくてもISOに苦しめられることなんてあるはずがない。
実を言って私の過去はすべてこのタイプなのだ・・・
冒頭に上げた雑誌の特集テーマを振り替えれば、
「ISOは有効か」
有効でない仕組みを作った組織が未熟であり、有効なものに継続的改善できないのが愚かというべきなのだろう。
「紙・ゴミ・電気を超えたか」
もうこれは序文の意図を知らず、認証したのが間違いだったということだろう。だって己の環境側面も知らないならEMS以前のレベルなのだから。
それとも認証した審査機関が間違いなのかもしれない。
「ISOを生かす」
このシステムの成功は、組織のすべての階層及び部門のコミットメント次第と序文に書いてあった。生かせないのはコミットメントをしていないか、約束を守っていないのだろう。
「ISOで苦しめられている企業の問題点」
序文にISO規格の意図は組織を苦しめることだとは書いてはいない。
苦しんでいるのは企業の一人芝居なのか? 一人相撲なのか? 一人がてんなのか?
あるいは審査員がいじめているのだろうか?
「ISOの導入効果」
導入効果を出すのも出さないのも組織次第である。
そして積極的に効果を期待しない組織があってもおかしくない。

とすると、ISOの雑誌は規格の意図である序文を説明する特集を企画するべきではないのだろうか?
適合性よりも有効性、認証よりも実質を重んじないと、それこそISOが形骸化しますよ。

規格の意図から考えると、どうも負のスパイラルも形骸化も起きそうがないと思うのは私だけだろうか? 




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