Capitalism

1997.6.9
Nao


 レスター・C・サローの「資本主義の未来」という本を読んでいるうちに、とかく、わかったように語られていながら、そして、私自身、わかったつもりで聞いたり考えたりしていながら、実は曖昧に使われがちな「資本主義」について自分なりに考えてみようと思った。

 そんなわけで、さっきから辞典類でその定義を整理しようとしていたが、その取り上げ方が様々なのに驚いた。それぞれの問題意識によってある程度の違いがあるとは思っていたが、ある程度中立的と思えるはずの文献でも、それぞれの著者の独特の視点かなり色濃く出ている。

 多くの人々の思考に登場する重要な概念ほど、その文脈によって定義のされ方が多様になり、それぞれの文脈を整理しなければ、お互いに同じ言葉を使っていても議論が通じなくなるものだ。

 しかしながら、この文脈の整理をしているだけで、おそらく膨大な論文を書くような騒動になってしまうだろう。ということで、ここでは、このあたりの整理は、乱暴ではあるがとりあえず留保しておいて、「資本主義の未来」の文脈から、まずは出発してみたい。

 


資本主義は勝ったのか?

 今日我々が日常的な議論で頻繁に耳にするのが、「資本主義の勝利」という文脈だ。共産主義や社会主義についての批判を、ソビエト連邦という国家における官僚主義やファシズムの横行、人権の侵害、人々のモチベーションの喪失、そして国家そのものの崩壊という歴史的事実に重ね合わせて、資本主義の優位性を語る、といったものだ。

 確かに気がつくと、今日、従来型の共産主義や社会主義を標榜している国家は少なくなってきている。優れたシステムが残る、という「適者生存」の結果、優れていたのは資本主義の方、というわけだ。

  しかし、この今日の事態は「資本主義が優れている」ということを本当に意味しているだろうか?

 レスター・C・サローの「資本主義の未来」が描いているのは、社会主義や共産主義を敗り、完全に勝負がついたかのように語られている資本主義というシステムが、実は、敵がいないのに、あるいは、敵がいないがゆえ「敗れはじめている」という、1990年代の現実である。

「誰にも否定できない資本主義の優位性、つまり成長、完全雇用、金融の安定、実質賃金の増加といったものは、資本主義の敵が消えると同時に、消えてしまったように思える。そうなったのは、資本主義のなかの何かが変わったからだ。資本主義が生き延びるとすれば、こうした受け入れがたい結果を修正するために、何かを変えなければならない。しかし、その『何か』とは何か。『何を』『どのように』かえればよいのか。(中略)

 『どうすればいいのか』は、よくわからない。資本主義では、競争があるからこそ、企業は効率的になると言われている。しかし、資本主義のシステム自体に、競争相手がいないとすれば、資本主義はどうやって変化する環境に適応し、効率性を維持していくのか。経済の競争から脱落した競争相手と同じように、資本主義もまた、新しい環境に適応する能力を失ったのだろうか。」

(レスター.C.サロー「資本主義の未来」p. 13-14)

 

「外」を前提とする資本主義

 資本主義は、実は、完結し、自立したシステムではなく、それが機能するための前提を、自らの外にあるシステムに負っている。

 たとえば、それと敵対するイデオロギーの存在、あるいは社会主義や福祉国家−。

「繁栄するためには、人間社会は将来はよくなるというビジョンが必要である。文字どおりのユートピアはそもそもありえないが、現在のわたしたちの経済システム、いろいろと欠陥がある経済システムが、新しい環境に適応しようとする際には、ユートピアがめざした試みからヒントを得ることはできる。過去150年間、社会主義と福祉国家がこうしたヒントを与えてきた。そして、資本主義はそれぞれのいいところを取り入れてきた。

 しかし、社会主義は死に、福祉国家もほころびが目立ち、多くの国で限界に達している。これから先、よりよい人間社会のビジョンはどこから出てくるのだろうか。それがないのであれば、わたしたちの社会はいったいどうなるのか。わたしたちの社会は、あらゆる人間社会が最も必要とする能力、すなわち、ほかからよいところを取り入れ、新しい環境に適応していく能力を失ってしまったのだろうか。」

(レスター.C.サロー「資本主義の未来」p. 14-15)

 

資本主義と民主主義

 そして、その「自らの外にあるシステム」の代表選手は、サローによると、われわれがおなじみのもう一つの概念、民主主義である。

 民主主義と資本主義という、お互いに矛盾する二つのシステムの融合体が、その矛盾を抱えたまま、自らと敵対するシステムから良さそうな要素を「接ぎ木」してだましだまし運営してきて、かろうじてうまくいっているだけだとしたら・・・。

「民主主義の根幹は『一人一票』にあり(つまり、政治力の平等にあり)、資本主義の根幹は市場原理に任せることにある(したがって、経済力には大きな不平等が生まれる)。民主主義の平等の基礎と資本主義の不平等の現実との間には、イデオロギー上の対立が生じるが、20世紀には、社会投資と福祉国家を民主主義と資本主義に接ぎ木して、この対立を巧みに回避してきた。国が整備する社会の安全ネットによって、弱者(高齢者、病人、失業者、低所得者)の生活を守り、教育への投資によって、市場にまかせておけば拡大する所得格差を縮小してきた。 しかし、高齢者向けの年金支給や医療費がふくらみ、政府にはもう教育に投資する余裕がなくなってきた。助け合いのイデオロギーは衰退し、適者生存の資本主義が息を吹き返してきた。

 見捨てられ、社会にうまく適応できない敗者は、不確実な世界が確実な世界に変わる原理主義の宗教に逃避している。しかし、原理主義の宗教の価値観は、21世紀の資本主義が求めるものとは真っ向から対立する。原理主義は規範からはずれる活動を抑圧するよう求めており、資本主義は規範にとらわれない活動による競争で、新たな適者が選択されるよう求めている。」

(レスター.C.サロー「資本主義の未来」p. 31-32)

そして、この民主主義と資本主義との融合体の内包する矛盾が露呈し、様々な問題を引き起こしている様子が、「資本主義の未来」という本の中で、あるいは、最近の日本のビジネスマンのトレンドとなっている、日本経済新聞の「2020年からの警鐘」シリーズなどで、我々も目にすることが多くなった。

 たとえば高齢化の圧力の問題(ex.多くの票を持つ比較的裕福な高齢者層が圧力団体となって、教育予算を自分たちの福祉予算に廻させて、頭脳産業の時代にシフトする中で、経済的にはますます教育が重要になっているにも関わらず、地元の小学校をどんどん潰している)といった話は、間違いなく日本でも起こるであろう問題である。

(そして、あと30年後には、私もその問題を引き起こすかもしれない当事者になってしまう。やれやれ)

 

原理主義と資本主義

 ただし、私は、原理主義については、少し異なった見方をしている。 資本主義がうまくいかなくなったから、原理主義のようなもの、あるいはローカルな共同体の同一性(宗教や民族主義といったもの)が登場しているのは、必ずしも、「社会にうまく適応できない敗者」が「不確実な世界が確実な世界に変わる」ための逃避だ、とは思わない。

 むしろ、そもそも資本主義というものが、それまで原理主義的なものによってそれぞれの共同体の中に閉じていた我々の在り方を「解放しようとしてきた」のであり、それが力を失ってきたから、とりあえずその前のものに「逆戻り」してみようとする、そういう創造性のない、安易な反動の一つとして、この原理主義のようなものが現れてきているように、私には思われてならない。

 そして、そういった反動は、せっかく我々が成し遂げてきたことを忘却の彼方に置き忘れたまま、また同じ失敗を繰り返すだけである。

「『疑う』ことは、デカルトの場合、尋常のことではない。彼は、諸共同体で考えられている真理を疑うが、そのとき、彼はまだわれわれが今日暗黙に想定するような『客観的世界』を握っていない。たとえば、今日われわれは、さまざまな文化あるいは言語は、それぞれ差異的な体系であるというようなことを、こともなげにいう。そのようにいうとき、われわれは暗黙に、共同体の差異を超えて誰にとっても存する『客観的世界』を前提にしている。デカルトにはこの前提がない。この前提そのものを作り出さねばならないのだ。デカルトの懐疑と、デカルト以後の世界での"懐疑"とは根本的に異質なのである。

 すでにいったように、"客観性"は、知覚に依存しているのではなくむしろ知覚に反している。たとえば、知覚によれば、月は火星よりも大きい。月や火星の"客観的な"大きさは、"関係"においてのみ把握されねばならない。それが数学的に扱われるのは、数学が関係のみを扱う学問だからである。そして、それが可能となるのは、月や火星、あるいは太陽や地球といったものの"質的"な区別をなくすような均質空間(延長)を想定することによってである。

 ことわっておくが、自然科学の優位性はその数学性にあるのではない。デカルトの方法は、必ずしも数学に依存することではなかったし、また、彼は数学的なものが真理であると考えたわけでもない。彼は数学自体についても同じことを試みたのだ。

 つまり、彼は数学を"知覚"から解放しようとした。彼は、図形を点の結合(座標)とすることによって、幾何学を代数化したのである。解析幾何学とは、図形を点に解析(分析)した上で、それを綜合しなおすことである。のちの集合論も、基本的には、デカルト的方法にもとづいている。そして、数学を知覚や表象から解放しようとするデカルトの考え方からいえば、数学は数量的である必要さえない。すべて関係の規則性があるところには数学がありうるからだ。」

(柄谷行人「探求II」p. 114-115)

という意味での数学というものと同じ機能を、資本主義は果たしてきたのではないか?

 そもそも、我々を原理主義といった、ローカルな共同体の中での真理から外に出ようとする運動をもたらすものなのではないか?

 

資本主義は本当に悪いのか?

 あらゆる価値判断を「数字に置き換える」ことで「人間を疎外している」という類の批判が資本主義に対してしばしば向けられるが、そのような批判で本当に問題が片づくのだろうか?

 もちろん、この批判にもある部分では妥当性はあるし、重要な部分もある。

「ライプニッツは、デカルトのこの方法を拡張して『普遍数学』を築こうとした。また、彼はそこにさまざまな文化や体系を統合する論理をもとめた。それは普遍性をまさに私的なコギトにおいて確立しようとしたデカルトよりも、"普遍的"であるようにみえる。しかし、のちにのべるように、デカルトの概念(スピノザによって純化される)にとって、ライプニッツの"普遍性"はいわば"一般性"でしかない。

 ところで、近代科学が普及した時代においては、デカルトが基礎づけようとした"客観的世界"は自明とみなされる。たとえば、われわれは客観的には火星は月より大きいが、知覚において間違った表象をもつと考える。そういう考えをフッサールは自然主義と呼んだ。彼はそこに『西欧学問の危機』をみとめ、再びデカルト的に、『客観的世界』を、あるいは科学(知)の客観性を、一切の外在性をカッコに入れたところの生活世界から基礎づけねばならないと考えた。すなわち、自然的態度を還元し、超越的コギトの明証性から、共同主観性を"構成"し、それによって『客観的世界』を基礎づけようとした。だが、すでにいったように、それはデカルトと似ているようで似ていない。

 なぜなら、デカルトは客観性を神の概念に見いだしたからである。例えば、彼は延長を神の属性の一つとしてとりだす。神が「観念」であるように、延長も「観念」である。重要なことは、今日デカルトにはじまるとされる主客二元論の「客観」が、なんら客観的な対象性に基づいていないことである。観念としての神において、はじめて「客観」が可能になったのだ。」

(柄谷行人「探求II」p. 115-116)

という意味において、我々が自明なものと思っている"客観的世界"というものは、実はちっとも自明だったり客観だったりしないし、目に見える堅固な基盤や根拠があるわけでもない。

 このことを明確にしておかないと、「客観的」でない、「仮説」としての、あるいは相互に参加する「ゲーム」としての資本主義の原理が、暴走してしまう。

 

資本主義批判が忘れていること

 しかしながら、この「客観性」のフィクションというものを早とちりして、それを暴くことだけで批判という行為を止めてしまうならば、そもそも、それぞれの共同体の中に閉じていた我々の在り方を解放しようとする運動をもたらすはずのシステムを、それが果たしている役割を忘れたまま、資本主義を本当の犯人の身代わりにし、不当に葬り去ろうとしているだけではないだろうか?

 そもそも「数字に置き換える」ということが、それまでの、より強固な「人間疎外のシステム」、すなわち、かつての原理主義的なもの(たとえば封建制度の時代の国家共同体)を克服するために、きわめて有効な方法だったのではないか?

 あるいは、特定の共同体の中のローカルな同一性に固執したことがもたらす闘争から、我々を、ある意味では「合理的」に解放するために、大きな役割を果たしてきたのではないか?

 そして、この役割を忘れたまま、安易に「個人の復権」といったロマンティックなトーンで資本主義を否定していくのは、我々がこれまで歴史を通じて学んだことを忘れたまま、同じ過ちのループに入り込んでしまいかねないのではないか?

「脱コード化した種々の欲望、あるいは脱コード化を求める種々の欲望、こうしたものは常に存在した。歴史はこうしたものに満ちている。まさにここでは、欲望とは、夢想したり欠如を感じたりすることではなくて生産することであり、((つまり、同時に欲望する機械、社会機械、技術機械の三者であることであり))、脱コード化した種々の流れがこうした欲望を形成するのは、これらの流れが一カ所に遭遇し、時間をかけてひとつの場所で連接することによってのみなのである。したがって、資本主義とその切断とが明確になるのは、たんに種々の流れが脱コード化することによってのみではなく、これらの流れがあまねく普遍的に脱コード化し、うわべだけではなく新しい脱土地化が十全に行われ、これらの脱土地化した流れが連接することによってである。資本主義の普遍性というものを確立したものは、こうした独自な連接なのである。」

(G.ドゥルーズ/F.ガタリ「アンチ・オイディプス」p. 270)

 もちろん、ここで描かれている資本主義は「ユートピア」であり、どこにも存在しない、という批判は、ある部分で当たっている。

 このような、本来自由であるはずの「流れ」を阻害する要因が、おそらく資本主義の外にあるわけだ。

 

 たとえば、サローが現代の資本主義と、互いに矛盾し合いながら融合するものとして上げた「民主主義」というものは何か? そこで「一人一票」を持つ有権者とは誰なのか?

 もし有権者である我々自身の中に、既に、こういった流れを阻害する要因が巧妙に埋め込まれてしまっているとしたら?

 そのような我々の意志に基づく国家という共同体は、この資本主義の本来自由な「流れ」を、操作しているのではないか?ならば、いかにして操作しているのだろうか?

 究極的にはそのような操作は不要だとしても、我々はそこにいくまでの途中にあるのでは?ならば、その間、どのような価値基準に基づいて、いかにしてこの「流れ」を、必要最小限に操作をしていくべきなのだろうか?

 以上のような問題は、どうやら、資本主義のシステムそのものと格闘しても、どうやら解決策は出てきそうにない。

 ここまで私なりに考えてみると、資本主義というシステムは、そこに内在する問題が全くないとは言わないが、そこに外在する要因によって、比較的柔軟に順応し、変革できる、とても「フレキシブル」で「スケーラブル」なシステムのようだ。

 今日、我々が資本主義社会の問題、として前景化していることは、実はそのほとんどが、むしろ、人間そのものの閉じた認識や思考の問題なのではないか?

 と言うことで、資本主義から始まった本論だが、資本主義にまつわる諸問題は、資本主義に外在する、むしろ我々人間自身のサイドにその問題の本質があり、したがってそちらの方で解決するしかなさそうだ、というのが、今日現在の私の結論である。


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