今日も春休みらしく過す。世の中も春分で休日らしい。
ずいぶん温かくて、寒さに慣れた身には少し気味が悪い。
東京ではもう桜が満開とか、
京都はそれほどでもないが、かなり早いらしい。
温かいせいなのだろうか、
それとも休日で一日中人間が家の中にいるからだろうか、
クロ夫人がやたらに甘えて困る。
しかし、四月になると早速、前期セメスタが始まってしまうのだな… 今年は初めて受け持つ「積分論I, II」があるので、準備が大変そうだ。
午後から大学へ。 今日は理工学部の卒業式である。 下っぱなのでセレモニーは出席する必要はないため、 その間、個研で自分のコンピュータのシステム調整をする。 その後、数理科学科の卒業生の卒業証書授与式に出席。 各先生が(言いたいことがあれば)何か一言ずつ、 というようなことだったので、 数学科の立場はUNIXに似ていると言う珍説を披露する。
単純過ぎ、または難し過ぎ、頑固で、 ユーザーフレンドリーさに欠け、インターフェースが酷く、 時代遅れで役に立たない、 などなどは、 これは数学科(およびその卒業生)とUNIXに共通の悪口である。 M. Gancarz の「UNIXという考え方 ― その設計思想と哲学」 の受け売りだが、 UNIXはその数十年前の誕生以来、 常に「UNIXはこれこれの面で○○○OSにとうていおよばない」 (○の中にはMultics, VMS, MS-DOS, Windows, MacOSとか何でも) と言われ続けてきたが、 一方でしぶとく生き残りますます広く、深く用いられてきた。 それは何故か。その理由はまさにそれが「劣っているから」である。 劣るものは、正しいものや、優れたものや、 そしてもちろん間違っているものより、生き残り易い。
私が思うに「優れている」のは、たいていの場合、 非常にファインにチューニングされていることの言い換えに他ならない。 しかし、それはシステムがより巨大化し、より複雑になり、 より硬直化して、自由を失なっていることでもある。 それは非常に困ったことではないか。 逆に「劣って」いるが故に、柔軟で、単純で、基本的で、根本的で、 ラディカルであり続けられるという価値がある。 数学科とかその卒業生はそのようなものではないか、 そうあってほしい、と言うのが私の意見である。
さらに言えば、この両者は、 最近、同じように変質しつつあることでも似ている。 UNIXは、優しく、使い易く、すぐに役に立ち、 学者とテッキーのおもちゃではない、「まともな」目的に使える、 そんなオトナのOSにしようという流れである。 ブライアン・カーニハンはそのような精神を失なったもどきたちを、 crappy UNIXes と呼んでいるようだ。 数理科学科(の卒業生)が crappy数学科(の卒業生)にならないことを祈りたい。
出版社から著者校正刷りが届いたので、校正作業を始める。 奥付の予定からして、早急に校正しなければなるまい。 四月からの講義の準備もあるし結構大変。
今年度は前期、後期と続けて「積分論I, II」 を講義させてもらえることになった。 内容はだいたい、ルベーグ積分論の入門編と応用編。 去年などはこの講義をA堀先生がやっていて、 無茶苦茶に難しいことをやっていたらしい。 立ち話で聞いたところでは、測度の存在とか、測度空間の完備化とか、 拡張定理、直積測度とか、相当つっこんでやったとか。 つまり積分論と言うより、かなり測度論よりの講義をしたのだろう。 正直に言って、私にとっても、 昔、伊藤清三で読んだような…くらいの記憶しかなく、 かなり自信がないあたりの話である。
こういう時の正しい態度はこの講義を機会に勉強し直そう、 というものだが、私はそんなに真面目でもないので、 「私が知っているルベーグ積分」を講義する予定である。 つまり去年より格段に易しい内容になるだろう。 例えば、リーマン積分とか一様収束の復習とか(笑)。 でも、そういう初歩的かつ具体的な積分論は案外、 学生の方は知らないのではないだろうか。 例えば、一様収束していれば極限とリーマン積分の交換などが オッケーだと言うのは数学科の学生なら誰でも知っているだろうが、 一様収束は相当あらい十分条件だし、 それより必要十分に近いものはすごーくややこしい、とか、 ある閉区間で定義された実関数が有界で、 しかも原始関数が存在していたとしても、 リーマン積分できるとは限らない、とか。 つまり、リーマン積分が長さ・面積・体積と言った概念と、 どうもうまくフィットしていないらしい、 なんとかしなければ、と言う直観がないのではないかなあ、と。 そういう意味で、 易しい積分の話を「積分論I」でやってもよかろう、と思うわけです。
午前中に起床。昼食は、鮭の切り身、胡瓜の漬物、豆腐と葱の味噌汁。 午後は河原町近辺に散歩に出る。 書店を巡り、Cafe Rxxxxx で一服。 随分と背の高い綺麗な女性が連れの男性と一緒にやってきて近くに座り、 久方の目の保養、と思っていたら、 話す声を聞いてみると生物学的には男性な方のようだった。 私は特になんとも思わないが、 広島のjさんなどに見せれば垂涎だったろうなあ、と。 今日、購入した本は、 「酒の肴・抱樽酒話」(青木正児)、「精進百撰」(水上勉)。 夕食は、豆腐の卵とじ、梅干し、胡瓜の漬物。 勝沼町甲州白ワインを一杯。
昼食。鮭切り身、胡瓜の漬物、梅干し。 大学へ。所用をいくつか片づける。 キャンパスは結構にぎやかであった、 何かの学会が開催されているらしい。 夕方には帰路につき、 京都駅近辺で少し買物をして帰宅。 旭屋で村井弦齋の「食道楽」を持ってうろうろしている所を、 数理の学生に見つかる。しかもW大先生のゼミ生だった。 山科を越えれば安心かと思っていたが、油断は大敵。 弦齋の他に片岡護「パスタ・スペシャリテ」を購入して帰宅。 夕食。パセリのオムレツ、豆腐と若布の味噌汁の一汁一菜。
「食道楽の献立」(ランティエ叢書、弦齋「食道楽」他からの選集) の後書によれば、「食道楽」 は明治時代に報知新聞に連載された後、本の形で出版された小説、 と言っても中身は食についての蘊蓄ばかりだが、 当時としては桁違いの十万部(*1)を売り大ベストセラーとなり、 明治三十八年に歌舞伎座で上演された、と。 それはいいのだが、驚くべきことに、 その舞台では、干瓢の煮かた、薩摩芋の茶巾しぼり、 バターケーキなどのあれこれを劇中で実際に調理してみせて、 しかも客に配って試食させたと言う、前代未聞の芝居だったらしい。 昨年末に、 舞台上で出演者がずっと(本物の)食事をしている芝居を観て、 一緒に行った人には、 歌舞伎では実際に蕎麦を食べるシーンがある、 などとつまらぬ蘊蓄を垂れたのだが、 歌舞伎座はもっと懐が深かったと言うお話である。
*1: 明治には本の初版は多くて千部がせいぜいだったらしいので、 二桁違いの空前の大ヒットである。 ちなみに読み方は「くいどうらく」。 当時、「しょくどうらく」という言葉はまだなかった。
昨日の深夜、 ヴィデオに録っておいた「私家版」を変な姿勢で観たせいか、寝起きが悪い。 「私家版」自体は主演のテレンス・スタンプが渋い演技で、 原作を短かい映像の中にうまく表現していたように思う。 また他の脇役陣がうまく効いている。 主人公ともう一人のエリート二人の会話がいかにも英国流な感じで楽しかったり、 主人公の秘書のおばさんがキュートだったり。 昼食は、鮭の切り身が残っていたので、 鮭入りのカルボナーラを作る。 午後はチェロをさらって、 夕方から膳所にレッスンに行く。 マルチェロのソナタが難しい。 いい曲なのでやりがいがあるのが救いである。
明日からは東京は明治大学で日本数学会年会に参加等のため、 三月末まで出張中。 次回更新は3月31日深夜、または4月1日。
トップページに 講義情報とゼミ情報 へのリンクを追加。 内容は随時更新しますので、関係の学生諸君は最新情報が得られます。
明治大學での学会を終へて、壬生に帰宅。 車中の読書は「ヒューマンファクター」(グレアム・グリーン)。 久しぶりに愚妻クロの歓待を受けて、少し仮眠を取る。
今年の一般講演では確率論の講演が少なく寂しい感じだつたが、 それはあまりにシンポジウムが多過ぎて、 もうそのネタはこの前、 話してしまつたのでと云ふことが多いせゐだらうと言われてゐる。 しかし、數學会の年会は普段のシンポよりも広い客層 (時には他の分野の専門家も)に対する特別な意味があるとも云ふので、 やはり困つたことかも知れない。 私も出来るだけ數學会で話さうと思つてはゐるのだが、 やはり本当に新しい部分が何かないと話し難いことは確かである。 一方で、特別講演や企画講演では、 ディリクレ形式はやつぱり偉いなあと思つたり、 非可換確率論とか量子確率論もあまり毛嫌ひしてはいけないなあと思つたり、 色々と私の偏見が取り除かれた良い機会であつた。
明日の一日は入學式であるやうだが、 おそらく私のやうな下端は出席する必要はないはず。 でも、二日三日のオリエンテーション日のどこかでは、 数理の新入生に対する教員側の挨拶とかで顔を出す必要があるのだらうか。 昨年の日記を読んでも良く分らない。 しかし、丁度一年前の私は、 プルーストの「失なわれた時を求めて」 を読んでゐる途中であつたことなどが分つて、 時の流れるのは早いものであるなあ、と思つたり。
とりあへず新學期のスタートは四日。 また通常の日々が始まるなあ…
この日記は、GNSを使用して作成されています。