Keisuke Hara - [Diary]
2004/02版 その2

[前日へ続く]

2004/02/11 (Wed.) シャンパンで含嗽

モダニズムと言へば、 都筑道夫よりも先に挙げるべきなのは、 次の人かも知れない。

「久生十蘭全集 I」(久生十蘭著/三一書房/1983年初版第五刷)
十蘭は私の最愛の作家の一人であり、 出会ひは十代の半ば頃であつた。 実際、私が初めて買つた「全集」でもある。 第 I 巻には長編「魔都」や、名品と名高い短編 「黒い手帳」「母子像」などが含まれてゐる。 異端の文学者、究極のマニエリスト、と持ちあげるむきもあるが、 私個人としてはそれは言ひ過ぎなのではないかと思つてゐる。 十蘭の良い所は、 ひたすらに洒脱で、大変に良く出来たホラ話で、 それ以上に何の意味もない所だと私は思ふ。 逆に言へば、そこに踏み留まるのが、 正しい意味でのダンディズムと言ふものだ。 世の中、無駄に偉い人が多過ぎる。 完成度の高さと彫刻のやうな推敲、遅筆、 寡作で知られた職人的作家と言ふよりも、 シャンパンでうがひをしながら口述筆記で初稿を作つた、 と言ふ伝説が本当の十蘭であると思ひたい。 それが十蘭自身がさう思つて欲しかつた自画像だと思ふ。 あまり難しい顔をして読むのはやめやう。 おそらくあの世で十蘭も舌を出してゐる。


2004/02/12 (Thurs.) 哲学とラジオ

80 年代には現代思想がブームで、 ニューアカデミズムなんて言はれたものだ。 大学生は浅田彰の「構造と力」や「逃走論」 なんかを持つて歩いてゐて、 大人たちは最近の学生は軽薄になつた、 あんなチャート式みたいなものを哲学や思想だと思つて、 日本の知的状況も落ちるところまで落ちた、と嘆いてゐた。

「哲学入門」 (ヤスパース著/草薙正夫訳/新潮文庫/昭和59年第47刷)
子供の知的背伸びの仕方には、 数学少年と言ふ手もあるが、哲学少年と言ふ行き方もある。 多分、当時は現代思想にかぶれた少年少女達が全国に 相当数ゐたのではなからうか。 私も「アンチ・オイディプス」とか読んだものだつたが、 乗り越へるべきものを知らないのに、 何かを乗り越へやうとしてもしやうがないね。 やたらに難しい本が田舎の本屋にまで溢れてくる中、 私は「哲学とはそもそもなんだらう」と思つた。 そして最初に手にとつたのが上のヤスパースの本で、 これはラジオ講演のシリーズの全訳ださうだ。 (ラジオ番組で哲学の連続講演…さすがドイツ。) 内容についての当時の私の感想で記憶してゐるのは、 「神様がゐる人たちつて大変なんだな」と言ふことくらいだが、 文章が綺麗で、読んでゐて気分が良かつたことを思ひ出す。 今、開いてみると、

「こうしてあらゆる自然神化、あらゆる単なる悪霊的なもの、あらゆる
感能的なもの、迷信的なもの、理性の媒介によるあらゆる特殊な実体的
なもの、これらいっさいを解き明かしたあとにおいてもなお、もっとも
深い秘密は失なわれていないのであります。
    『哲学すること』の究極において残るところのあのかすかな意識は、
おそらく私たちがその周囲を回るだけで、直接それをとらえることので
きぬものでありましょう。
    それは存在の前における沈黙であります。対象となるかぎり、私た
ちから失なわれゆくところのものの前で、言葉が停止するのであります」

と言ふあたりの文章に少年の私は傍線を引いてゐる。 我ながら、なかなかのセンスだ。 今なら誰も見てゐなくてもそこまで正直になれない。 薄い本なので、今少し読み返してみたのだが、 これはとても易しく、美しく、 哲学することの本質を説いた名著だと思ふ。 しかし、ところで、最初の疑問に戻ると、 正直に言つて私は未だに、 哲学とは何を問題として、何を研究する学問なのか、 良く分からない。


2004/02/13 (Fri.) 法水は遂に逸せり!?

久生十蘭を挙げたら、 次の作品もほぼ自動的に挙がつてくるのだらう。 なにぶん、子供の読書なので、ひねりがなくて申し訳ない。

「黒死館殺人事件」 (小栗虫太郎著/現代教養文庫/1985年初版第8刷)
私は十蘭派なので、 小栗虫太郎にそれほど入れ込みはしなかつたのだが、 まあ、稀代の奇書であることは、間違ひないだらう。 私はこの他に色々な版で「黒死館殺人事件」を持つてゐて、 今まで何度か読み返したのだが、 未だきちんと読めてゐない気がする。


2004/02/14 (Sat.) ゴシック

今日で採点期間終了。おとなしく帰宅して、 夕食は自宅でアーリオオーリオとワイン。 モンペザのファラオンヌ、2000年。 採点期間中は、例年の如しではあつたが、 受験者数が減少してゐるのか、随分今年は楽だつたやうに思ふ。 これが、学内文書に飛び交ふ「大学全入時代」とやら言ふものの、 前触れであらうか。とは言へ、 採点作業はぐつたりとした変な疲れ方をするもので、 期間中は他のことはほとんど出来ない。 それで休憩中や暇な時間には、 雑誌を持つて行つておいて、チェスのプロブレムを解いた。 現代の最先端のプロブレム群に怖気付いて、 一題も解けないのではないかとさへ思つてゐたが、 採点からの逃避の気分がうまく働くのか意外に解けて、 二手問題はほとんど出来た。 特にヘルプメイトが性にあつてゐるやうで楽しい。 フェアリーとセルフメイトのハードルが高いやうだ。

それでは、今年、最後の一冊。
皆さんも、いつか読もうと思つて、 読まないままに書架に眠つてゐる「積ん読」本をお持ちであらう。 私は仕事以外の本に関しては、 原則として買つた本は必ず全部読む。 (一方、数学の本などは、持つてゐるだけでほとんど読んでゐない。 学問を仕事にしてゐる方以外には意外かも知れないが、 これは自然かつ当然のことである。) しかし、例外がたまにはある。 そして、今日の一冊は何と二十年以上、 いつか読もう、と思つたまま読んでゐない小説である。 もちろん、最長記録である。 その一冊とは…

「ワイルダーの手 (上・下)」 (J.S.レ・ファニュ著/日夏響訳/国書刊行会/昭和56年初版第一刷)
レ・ファニュと言へば、「緑茶」、 そして「吸血鬼カーミラ」などの恐怖小説が有名だが、 これはこの幻想文学作家によるゴシック・ロマンである。 少年時代の私が何を血迷つてこの箱入りの 分厚い二冊本を買つたのか分からない。 チェスタトンの「詩人と狂人たち」が、 やはり国書刊行会のシリーズに入つてゐたので、 本屋の書棚のその近くにあつて手にとつたのかも知れない。 兎に角、二十年以上経過した今も、1 ぺージも読んでゐない。 しかし、名著らしい。確か瀬戸川猛資氏も絶賛してゐたと思ふ。 それどころか、今、この本に挟み込まれた月報を読むに、 ジョイスもディケンズもヘンリー・ジェイムズも、 レ・ファニュのゴシック・ロマンを絶賛してゐたさうだ。 うーむ、凄い。 いつか時間があるときに、 ゆつくりと楽しんで読みたい…いつか、時間があるときに。


2004/02/15 (Sun.) 独り言トリック

採点疲れで、昼前まで寝てしまつた。 昼食は近所のベンガルカレー。 食事しながら、「乱視読者の帰還」(若島正著/みすず書房)を読む。 この中の、 クリスティの「そして誰もいなくなった」についての評論 「明るい館の秘密」を読んでゐて、 私の読み方は一般的でなかつたのか、と逆に驚く。 私は最初にクリスティを読んだ時から彼女は、名付けて 独り言トリックの人だとさへ思つてゐて、 神の視点からの登場人物の心理描写や内言が出てくるたびに、 どの小説でも、 「いかにも犯人でないやうに書かれてゐるが、 これは叙述トリックで、実はこの人が犯人に違ひない」 と積極的に行間を読み(?)、一々疑つてすらゐた。 これは凄いテクニックだと感心して読んでゐたら、 文字通りの内言だつたりすると、 「これは叙述トリックと見せかけて、実はただの文章、 と言ふ消える魔球トリックなのでは…」 とまで誤読したり。 これはやり過ぎと言ふもので、 「罪と罰」を読んだミステリマニアが、 これはラスコリニコフの独白と見せかけた著者の叙述トリックで、 実はポルフィーリーが善女の仮面をかぶつた全ての黒幕、 実行犯としてはスヴィドリガイロフが怪しい、 などと、言ひ出すのと同じやうなものだ。 兎に角、「明るい館の秘密」を読んで、 「そして誰もいなくなった」は原文で読み直さねば、 と思つたことであつた。

午後は河原町で所用。研究費の締切が近いので、 序でに丸善に数学の洋書を見に行くが、特に欲しいものはなく、 小説のペーパーバックなど買つてしまふ。 amazon で買ふ方が便利でしかも安いことは分かつてゐるのだが、 そこが本好きの哀しい性である。 特にペーパーバックは装丁が良いと意味なく買つてしまふ。 しかも和書と違つて読むのが大変遅くなるので負担だ。 今日は、 Dibdin の "And then you die" と、 Calvino の "If on a winter's night a traveller" を購入。 Dibdin はいいとしても、 カルヴィーノの「冬の夜ひとりの旅人が」 なんて翻訳を持つてるのになあ… 夕方より自宅であれこれ仕事。


2004/02/16 (Mon.) 給与明細

午後は修士論文の様子を見て、 3 時から物理の Y 君の Dym-McKean 自主ゼミ最終回。 研究室の整理などをして帰宅。 研究室の近所の情報学部の先生に聞いてみたところ、 私の引越し先の先生は 25 日に引越し予定になつてゐる、 とのことだつた。 スケジュール表を見せてもらつたら、 いつ誰がどんな準備をするかが一覧表に整理されてゐる。 情報学部は全員が新しい建物に引越しするから、 業者に頼んで整然と移動するやうだ。 しかし、 巻き込まれ型玉突き事故引越しの私のところには 事務から何の連絡もなく、 依然として全てが謎に包まれてゐる。どうなることやら。 今日は事務デスクの中身を全部捨てた。 今まで、給与明細をずつと引き出しの中に入れてゐたのだが、 まとめてシュレッダにかけたら、なんだかすつきりとした。 ああ、明日から誰からも突つき回されることもなく、 のんびりと客の来ない古本屋を…それは夢だつた。

夜は計算。A 堀先生と考へてゐる、 と言ふより、考へさせられてゐる、金利モデルの話。 学生の修士論文の提出と同じタイミングで提出します、 と A 堀先生に言つてゐたのだが、 特に数学的に新しい話でもないので全然やる気が出ず、 未だにだらだらとほぼ自明なレヴェルの計算に留まつてゐる。 架空の債権の利子でなくて、 僕の銀行口座の金利が僕の公式で決まつてたら、 もつと熱意を持つて計算するんだけどなあ。


2004/02/17 (Tues.) エチュード

入試関連の教室会議のため出勤。 午後から一時間ほど会議。 部屋の整理をまた少しだけ進めて帰宅。 帰りの電車で Dibdin の "And then you die" を読んでゐたら、丁度面白いところにさしかかつて、 ふと気付いたら降りるべき駅を過してしまつてゐた。 やむを得ず寒風吹きすさぶ見慣れぬ駅で逆向きの電車待ち。

Y 田先生と A 堀先生と私で、 D. Williams の "Probability with Martingales" を共訳した「マルチンゲールによる確率論」 (D.ウィリアムズ著/培風館) の見本が印刷されて届いてゐた。 おそらく次の週末くらいに市場に出るのではなからうか。 これは本当に名著である。しかも楽しい本である。 現代的な確率論への入門、兼、 ルベーグ積分論入門として最適の教科書なので、 確率論を学ぶ学生に限らず、広く読まれると良いなあと思ふ。 無味乾燥でつまらないと思はれがちな積分論も、 確率論をからめてこの本でやればすんなりと学べ、 しかも、確率論の楽しさも分かると言ふボーナスがつく。 「ルベーグ積分つて分かつてみるとシンプルで すつきりした理論だよね」などと言ふ 同級生の秀才にムッとしてゐる貴方も、 「やつぱりマルチンゲールが分かつてないと金融工学なんて言つてもね」 などと言ふ同僚に引け目を感じてゐる貴女も、 この本で全て解決(*1)。

ところで、私が不安に思つてゐることがある。 これまでほとんど業績のない私にとつて、 この本の訳者の一人であると言ふことが、 最終的に私の一番の業績になつてしまふのではないか、と言ふことだ。 この本は名著であるだけに現実味がある。 翻訳は数学者にとつて業績の内に普通は入らないので、これは辛い。 もちろん、私の仕事はこれからである、 これまでのところはエチュードに過ぎない、と思ひたいのだが、 それほど若くないことも確かである。 私は人生を常に七年刻みで考へてゐて、 自分では職を得てからここまでを「駆け出し時代」 と捉へてゐるため、 この翻訳をあくまで時代の境目の、 一つの間奏曲くらゐに考へたいところである。 しかし、正直なところ、本当に不安だ…

*1: ディスクレイマ: 但し、理解には個人差があります。


2004/02/18 (Wed.) dibdin/calvino

まだ採点疲れから復帰できず、今日も遅い起床。 午前中は先週たまつた洗濯と掃除。 昼食は近所の定食屋、夕食はシリアル。 外食とシリアル程度の食事で済ませれば、 さらに時間が作れることは確かだ… 食事を一日一回にする方法と同じく検討に値する。 午後以降、午睡以外にしたことは、チェロの練習と数学。 両方、採点中に全く停止してゐたので、勘が戻らない。

Dibdin 面白いなあ… 前、イギリスに半年滞在してゐたときに、偶然発見した作家で、 滞在中はミステリは Dibdin, 文学は Calvino ばかり読んでゐた。 大学の近くのケネルワース(だつたつけ)と言ふ小さな街に行つて、 書店で新しいのを買つては、 隣りにあるスターバックスで読書したものだつた。 勿論、私の語学力はプアを越えてミゼラブルと言つても良いクラスなので、 細かい所は良く分からないのだが。 ペーパーバックだしわざわざ日本に持ち帰るのも面倒で、 全て捨てるか人に譲つて来たのだが、 今思へば勿体ないことをした。 ほとんど全て買ひ直しさうな気がする。 amazon.co.jp で調べると Dibdin は結構翻訳されてゐるやうだが、 既に手に入らないものが多い。 いまひとつ日本では好まれなかつたらしい。 生き残るのはホームズもののパスティーシュ "The Last Sherlock Holmes Story" の翻訳だけかも知れない。 (今調べたらこの原書一冊だけ持ち帰つてゐた。 帰国直前に買つて帰路に読もうと思つたらしい。)


2004/02/19 (Thurs.) エフェクト

どうもまだ早く起きられない。 朝はチェロを弾いて目を覚ます。 昼食は自宅でアーリオオーリオ。 午後は膳所でチェロのレッスン。 珈琲豆と日用品を買つて夕方帰宅。 夜は数学。おかしいな…二次の線型微分方程式が解けない。 いや、もちろん解けるのだが、 変な境界条件を持つてゐて面倒なことになつてしまふ。

K 川先生の関西弁の調査に出てゐた 「ものっそ」は聞いたことがなかつたな… 「物凄い」の意味ですか? 私は関西と関東を行つたり来たりしたので、 ローカルな語彙が少ないのかも知れない。 それに大人になると、余程親しい間ででもない限り、 俗語を使ふ機会もないので、いよいよ知らない言葉が増える。 私はかなり大らかな方だが、 それでも、そうね…たとへば「爆笑」と言ふ単語は、 人前で使へるか使へないかの境界に近いが、使へない方。

さう言へば、 この前、ファイナンスシンポジウムのミーティングの席上で、 A 堀先生が「その日程はヤバイね」と発言したところ、 つい勢みでであらう、 W 辺先生が「そうですね、ヤバイです」 とお答へになり、私は吹き出しさうになつた。 A 堀エフェクトである。


2004/02/20 (Fri.) 下からの不等式

また少し寝坊。朝、メイルをチェックしたら、 投稿してゐた論文の仮採択の通知とレフェリーリポートが届いてゐた。 改訂要求も、説明のため簡単な例を一つ付けるべきだ、 と言ふのと、幾つか英語の文章を直されたくらゐで一安心。 これから改訂版を作成しなければならないが、 それは辛くとも楽しい仕事である。

この論文の内容は、 私が昔、学生時代に読んだある有名な本の中で、 「これは何か変だ」と思つた箇所があり、 そのまま放つておいたのが十年もたつてから、 ふとある閃きでその「奇妙な手触り」の意味を理解した、 と言ふストーリーがあつて、 小さな結果ではあるが私にとつては思ひ入れのあるものである。 それだけに、実際のところ価値のあるリマークなのか否か、 気になつてゐた。 この手の、既にある結果を別の視点から見て別の表現を与へる、 と言ふタイプの仕事は、凄く良い結果の場合もあれば、 (数学的に正しくても)全くナンセンスな場合もある。 この前の秋のシンポジウムで講演した時には、 K 大の S 君が「あそこは何か変だと僕も思つてゐた」 と後で言つてくれたのが嬉しかつたが、 他に特に反応もなく、ますます自信を失なつてゐた。 しかし、今回のリポートからすると、 世界に少なくとも2人以上は ``very interesting" だと思つてくれる人間が存在することが判明した。 「1人以上(つまり自分だけ)」と言ふ不等式しか出ないことが多いので、 これは重要なエスティメイトである。 今のところ、上からの不等式は知りたくない。

午後からの入試関係の会議のため出勤。 修論発表の準備のチェックをしやうと思つたが、 本人がゐなかつたので、あれこれ雑用をして夕方帰宅。 夕食はシリアル。 夜は仮採択の仮祝ひに、 安物ではあるが私の好きなワインである Montpezat の Prestige 2000 を開けて飲む。


[後日へ続く]

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Keisuke HARA, Ph.D.(Math.Sci.)
E-mail: hara@theory.cs.ritsumei.ac.jp
kshara@mars.dti.ne.jp (for private)

この日記は、GNSを使用して作成されています。