とぜんそう1999年12月分

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99/12/03

ブツ届きました。ありがとうございます>夏原さん

保存版にしたいと思います。まあ金に困ったら以下略。

しかし、さっそくの増刷とはめでたいことではありますが、それだけ今の世に需要があるということなのでしょうか>『踏み倒しの手口』


『書を読んで羊を失う』(鶴ヶ谷真一、白水社)に書いてあった「ページのめくり方、東西」ですが、自分のやり方をつらつら考えるに、どうやら右手でページをめくる場合には、右のページを左にめくるときには右上隅のほうを持ち、左のページを右にめくるときには左下隅のほうを持つようです。

これはどうも縦書きや横書きにも、次のページへ進むときや前のページに戻るときにも無関係のようで、たんに右肘をからだにつけた状態で右肘を中心にしてページをめくると自然とそうなるというだけのことみたいですね。右腕が今読んでいるページにおおいかぶさらないし。

ただまあ自分の習い性を意識的に観察するというのはなかなかに難しいもので、いちおう傍証として、先日出席したお通夜でお経の本が参加者に配られ、読経の際にちらちらと見るとだいたいの人が同じようにめくっていた、というのも書いておきます。


ところで、さっき書いた「習い性」はなんと読むでしょう。

実は今朝聴いたラジオ番組で、不倫が噂されたタレントの話題のとき女性アナウンサーのひとりが「ああいうウワキセイはなかなか治らない」とかいっておりまして。

例外だらけでしょうけどごくおおざっぱにいってしまうと「セイ」と読むときは性質・傾向を、「ショウ」と読むときは人間の性分・習性・性格をいうことが少なくないようで、たとえば「疲労性骨折」を「ヒロウショウコッセツ」とは読まないし、「あの人は苦労性だ」を「あの人はクロウセイだ」とはあまりいいません。

まあ昔はけっこうごっちゃだったんでしょうが、いまはおおむね棲み分けができているようで、冒頭掲げた「習い性」ももとは「習い、せいとなる」が起こりだと広辞苑第五版には書いてあるものの、読みは「ならいしょう」です。

面倒なので調べてませんけど、あるいは和語のうしろに「性」が来ると「ショウ」と読むことが多いのかもしれません。

ええと何の話だったっけ。あ、そうそう、つまり「浮気性」は「ウワキショウ」と読むんとちゃうやろか、というだけのことでして、この調子でくだんの女性アナウンサーが「あの人とは性が合わない」なんてのを「セイが合わない」と読んぢゃうとなにか誤解されるのではなかろうか、と。

99/12/04

朝、出勤のため車に近づいてみると、前後のガラスにおきまどはせる白菊の花。

もう初霜の降りる季節なんですね。


自分の娘が同じ幼稚園に入れなかったねたみがもとで起こった殺人かと伝えられた事件が、今日の新聞によるとまったく逆に、同じ幼稚園に入るとまた三年間つきあいが続くと思っての犯行らしい、と報道されてます。

で、どうも原因は、被害者の母親に自分の娘がひどいあしらいを受けたからだとかで、さて、これが本当だとするとさんざん実名で報道された被害者の母親の立場はいったいどうなるのでしょう。

また、犯人の女性は自分の娘が別の幼稚園に通うことになりそうだとは知らずに犯行に及んだわけで、もし先にそれを聞いていれば幼い命が奪われてしまうこともなかったかもしれず。

まあこの先どう展開していくかわからないのであれですが、現段階ではみっつともひどい話です。

99/12/06

『踏み倒しの手口』(夏原武、データハウス)読了。

同じ著者の『サギの手口』や『シノギの手口』がいろいろなケースを紹介したひとくち話的な読み物だったせいか、この本もそうだろうと読み始めてみたら、案に相違して全体でひとつのことを書いた本でした。

実際、第一章の関川氏の講義を読み始めたときには、思わず表紙を見返して『サギの手口』とまちがってないか確かめたくなったほどです。

そして、第二章の松本氏、第三章の今村氏の講義の途中まではどちらかというとアウトローめいた感じで話が進み、今回もこの路線なのかな、と油断していると、三章の後半あたりからいささか様子が違ってきます。なにか第一章から続く方向性のようなものが見えてくるんですね(ここまで来てやっと気づく鈍いやつ)。

その正体は第四章の高山氏、第五章・終章の著者本人の講義ではっきり形をなし、そして読む人にある道を指し示します。そう、第一章や第二章のような目先の小さな借金の踏み倒しなんかではなく、自分の人生そのものを救うための大いなる目的を持った「踏み倒しの手口」を。

この本には金融業会の裏表を通じた事情、債権者の執る措置、強制執行の実際、自己破産に関する情報、金融ブラックリストの中身、借金に対する心構えなどなどが、親しみやすくわかりやすい文章で懇切丁寧に記されています。

とはいっても、そこいらの解説書みたいな退屈な内容ではありません。社会の裏表に通じた著者のさまざまな情報が惜しげもなく盛り込まれて、読み物としても十分楽しめます。

多重債務者はいうに及ばず、クレジットカードも含めてわずかでも借金のある人はもちろん、いま現在借金やローンのない人もどうか一度は目を通してください。この本が役に立たないのが一番幸せなのですが、万一の時の気の持ちようが違ってくるはずです。

この本によってひとりでも多くの人が救われることを願ってやみません。

99/12/07

12月5日付朝日新聞朝刊の「閑話休題」を読んでいて、なにやら違和感(ざわっ)。以下、該当部分の引用です(太字は引用社)。

(略)こちらが見えない人もいるらしい。まっすぐ突進してくる。ヒラリ、とかわし損ねる。ついてない。


つらつら考えるに、ちょっと見「ヒラリ、と」が「かわし損ねる」にかかるように読めるのが問題点のようです。「飛び来る手裏剣ヒラリとかわし」ぐらいなら調子もいいのですが、「かわし損ねる」様子が「ヒラリ、と」ではなにか調子が狂います。

「かわし損ねる」は「かわす」と「損ねる」の複合語ではあるもののひとかたまりの言葉なのに、この書き方だと「ヒラリ、とかわし」+「損ねる」という不自然な切り方をしないと意味が通らないあたりに違和感の原因がありそう。

「ヒラリ、とかわすつもりが失敗」や「あまりの勢いにかわし損ねる」ならそう違和感はないものの文章にスピード感が出ない。「咄嗟のことでかわし損ねる」とか、どうしても「ヒラリ」を入れたいならいっそ「ヒラリ、とかわしたらドブに落ちる。ついてない」なんてのはどうでしょう。

結局、その前後も含めてあまりに文章が気色悪いので途中で放棄。

以前、高島俊男先生が漢字にルビを振ることについて、まるでその部分の文章が目をむいているようであまり気持ちのいいものではないということもルビ振りに気が進まない原因のひとつ、というようなことを書いておられましたけど、私の場合はこういう些細なことが「文章が目をむいている」みたいにに見えてしまうようです。


てなことを考えていたら、別の記事で詩人の佐藤春夫が三重県熊野市の学校の校歌を作詞したおりについた注文に対して丁寧な返事を書いていた、という話が紹介されていました。

作詞したあと「ご意見があれば遠慮なく」とおそらくは社交辞令で書いておいたところ、ある人が、歌詞の中に「真帆片帆」とあるけど熊野の近辺では帆掛け船を見たことがない、と訂正を申し入れたそうです。すると佐藤春夫から、熊野のあたりに帆掛け船はいないかもしれないが、「真帆片帆」は船の行き交う様子を表した定型句であって、熊野の海の情景描写とするのに不都合はない(したがって訂正はお断り)、という趣旨の返事が来たそうです。

で、それに続いて、一部を取り上げて批判して全体を見ようとしないのは「いつも凡人の常です」と書かれていたそうな(「恒」だったかも)。

なるほど、「ヒラリ、とかわし損ねる」ぐらいに目くじらをたてて全文を読もうとしない私はたしかに凡人ではありましょう。

しかし佐藤先生、先生の御作を享受する大部分の人間はほかでもない凡人なんですけど。んでその凡人代表たる私は「真帆片帆」と同様「いつも〜常です」も気になってしまったりするんですが。「たまに凡人の常です」や「週に三日は凡人の常です」とかもあるのかなあ、なんて。

冗談はさておき、かくあれかしと思う文章は、たとえば夏の暑い日の涼風のような感じでしょうか。吹き抜けるときにはさしたる障りもなく、あとには確かに通ったというさわやかな記憶を残す、みたいな。

ああ、眠いとなにを書いてるのかわかりませんね、まったく。

99/12/09

会社の8太郎で100ページある文書のうち96ページだけを印刷するために印刷開始ページと印刷終了ページを96にしたところ、ページ数初期値が95になっていました。はてな、と思いつつも初期値を96にして印刷してみると、ページ数は96なれど文書の中身は95ページ。

わけがわからないまま印刷開始と終了を97ページにするとページ数初期値は96になり、そのまま印刷するとページ数も中身も96ページ。謎。


昨夜の「クローズアップ現代」はダニエル・キイスへのインタビュー。『アルジャーノンに花束を』の主人公・チャーリーは実は自分(ダニエル・キイス)自身だった、なんてことを話してました。

そういえば、半年ほど前の新聞にこんな記事が。

遺伝子操作で賢いマウス誕生 米大研究チームが成功
 遺伝子操作で脳の働きを強め、学習能力や記憶力の高いマウスをつくり出すことに、米プリンストン大のJ・Z・チェン氏らの研究チームが成功した。2日発行の英科学誌ネイチャーに論文が発表される。
(略)
 これらのマウスと、比較用のマウスを、それぞれ濁ったプールに入れ、見えない足場を探させる試験をしたところ、遺伝子操作をしたマウスはより早く足場の場所を覚えた。記憶を保つ能力も高かった。


このマウスがいまもげん気でいるのかどうかはわかりませんが、もし急そくにあたまのはたらきがわるくなってしんでしまっているのなら、ときどきはそのマウスのおはかにはなたばをあげてください。


いやあ、天下の朝日新聞が、ほかの記事は全部無駄話でこのコラムだけは本題だ、と題名で宣言しているだけあってときどきいいことも書いている、てなことを高島先生がおっしゃってるぐらいで、たまにはつっかえずに最後まで進めることもあるんですよ(おい)>「閑話休題」>夏原さん

ただ、短い文章でもあるし、たいていはむりやりでも最後まで読むのですが、今回はちょっとひどすぎました。書いた本人は斜に構えた文章のつもりなんでしょうけど、外連味けれんみが鼻についてどうにもいけません。

まあ今後はできるだけ近づかないようにしましょう。


『日本語と私』(大野晋、朝日新聞社)再開。おもしろい。

特に「国字問題」のあたりは、戦後の国語改革がいかにいい加減に行われたものであるかを紹介しており、漢字や仮名遣いに興味のある人は必読。

99/12/12

『日本語と私』(大野晋、朝日新聞社)読了。学者としては波乱に富んだ、と表現してもいいような著者のこれまでの人生を振り返った自伝的エッセイ。

東京の下町に生まれ育った著者が、最下位の成績で入った一高時代に「日本とは何であるのか」を追求しようと思い立った。戦後、岩波書店の『広辞苑』を手伝ったことが縁で古語辞典の編纂を行うことに。

20年の歳月をかけて岩波古語辞典は完成したものの、「日本とは何であるか」の答えを出すには残された時間は少ない。惑いながらも研究を進めていくうち、偶然南インドのドラヴィダ語の辞書を買うことになり、中を読み進んで日本語の古語に似た単語が目に付くことに驚いた。

中でタミル語という言語に意味からも語形の上からも日本語と類似する単語が多いことからこれこそは日本語の起源に迫る発見ではなかろうかと、新聞や雑誌に「タミル語語源説」を発表。そして反論や非難との戦いの日々が始まった。

と、大筋をまとめるとこんな具合ですが、ほかにもいろいろな逸話や著者の考えなどが詰め込まれています。その中で貫かれているのは著者の学問に対する考えと態度みたいなものでしょうか。

中で特におもしろかった部分をいくつかあげると、たとえば、友人を訪ねてパリに行ったときの話。

ホテルに着くなりアムステルダムから著者に電話がかかってくる。変な電話には出ない方がいいと友人がいうので放置しておくと、三日ぐらいあとに今度はテルアビブから電話。だが、このホテルに泊まることを他人に話した覚えはない。パリに来る前の立ち寄り先でストがあって飛行機の発着が乱れたが、遅れてもキャンセルはしないと大使館参事官を通じてホテルに電話しただけ。

実はこの一件の前に「狭山事件」の被告の筆跡鑑定を著者がやっており、唯一の物的証拠である脅迫状は被告人が書けるものではないという判定を出した、とチューリッヒでスピーチし、そこでチューリッヒアピールという反政府的声明が出されたのだという。

それでススムオーノは反政府活動に加わっている人物のひとりとしてマークされ、大使館参事官私邸の電話の盗聴でパリ来訪を知った公安当局が罠を仕掛けたらしい。

なんというか、へたに裁判なんてものに関わるもんじゃありませんね。

それから、著者は学生時代に奨学金の給与を受けていたのですが、その出資元が伊藤忠会長の伊藤忠兵衛氏。この人が実はカナモジカイの会長もしており、「日本は漢字を全廃しなければヨーロッパに追いつけない」と主張している人物で、結果的に伊藤氏は奨学金を与えてカナモジカイの論敵・大野晋を養成してしまったのでした。

『広辞苑』発行にまつわる話では、各種の専門語集を求めては単語を増やすことに努めていた人がいて、たとえば『陰名語彙』という人体のとある一部分の呼称650余りを集めた本の内容がすっぽり収められていたものの、岩波書店側の点検の目に留まって全部削除されてしまったそうです。

もし残っていれば『広辞苑』はさぞかしくだけた辞書になっていて、「たほいや」もさらに楽しい番組になっていたことでしょう。残念。

戦後の国字改革には「国字問題」として21ページを割き、それがいかにずさんな改革であったかを訴えています。

まあ改革反対派の意見をそのまま鵜呑みにするのもあれですが、にしても、たとえば「当用漢字字体表」の素案を一人で作った文部省の国語課員の話として、試みとして入れておいた字なども混じっていた「字体表」を当時の主査が「審議はしないでいい」として素案のまま国語審議会総会にかけ、それがそのまま通った、なんてくだりを読むと、私たちは今いったいどういう国語表記を使わされているんだろう、と思わないではいられません。

なにしろ、そんなしろものを根拠にして独自の字体を作ってしまう新聞社もあるのですから(って、この本の版元じゃありませんか)。

一部『日本語練習帳』(岩波新書)とネタがかぶってたりしますが、それらについてはさらに詳しいいきさつなども書かれていて、全体としてはおもしろく、そして興味深く読めました。


近づかないでおこうと書いたばかりなのに、またも朝日新聞の本題「閑話休題」に目を通してしまいました。

(都が)衰退する産業を活性化するため、都民から振興策を募り、そのままインターネット上に公開する。(略)
(筆者が担当者に尋ねてみる)「都がやろうとしているのはリナックスですね」
 木谷さんは、いたずらっぽく笑ってうなずいた。


うーん、都がやろうとしているのはたんなる「オープンソース」で、目標としているのが「リナックスの成功」なのではなかろーか。


おかげさまでぐっすり眠ることができ、名古屋で乗り過ごさずにすみました。ありがとうございます、助かりました>某氏

楽しいひとときを過ごせたことに感謝します>参加されたみなさま

99/12/13

昨夜のNHKのスポーツニュースでバスケットの選手の引退を「シューズを脱ぐ」と伝えておりました。

そういえば、プロ野球では「ユニフォームを脱ぐ」などといいますね。打者として有名な人は「バットを置く」ですが。で、投手の場合は「マウンドを譲る」(違う)。

ことほどさように、スポーツ選手の引退はそれまで使っていた道具を手放したりそのスポーツで決まった装束を脱ぎ去るという表現になるわけですが、じゃあ相撲取りや裸足でファイトするプロレスラーの場合は「まわしを外す」とか「タイツを脱ぐ」になるのでしょうか。ううう、想像したくないぞ。

はい、おっしゃるとおり「髷を切る」「土俵を去る」「リングを去る」などですね。


昨日ラジオである本の話をしておりました。なんでも、音楽を聴かせながら水を凍らせると変わった形の氷ができるとかで、曲によって氷の形が違うそうな。

まあそのあたりは、音波によって水が振動してどうたら、ということで納得できなくもないのですが、問題はそのあと。

きれいな言葉を書いた紙を水に浸けておき、それを細かく切って水に混ぜて凍らせるときれいな形の氷ができ、「バカヤロ」とか「ムカツク」などと書いた紙で同じことをやると氷の形が崩れるというのです。

じゃあたとえば、ギリシャ語だったかで鱈のことを「バカヤロ」というのだそうですけど(NHK総合テレビ「食卓の王様」より)、鱈を使ったギリシャ料理のメニューを水に混ぜたら氷の形が変になるんでしょうか。

鱈のつもりで書いた「バカヤロ」と罵り言葉の「バカヤロ」で氷の形が違ったり「鱈」と「バカヤロ」で氷の形が違うとしたら、それこそ出目というものでしょう。

それとも、日本の水には日本語しか通じないとか。いっぺんギリシャの水や公海上の水で試してほしいものです。(続き)

99/12/14

今日は赤穂浪士の吉良邸討ち入りのあった日付です。旧暦と新暦の違いがあるのでこんな言い方しかできませんけど。

NHK大河ドラマ「元禄繚乱」のおかげもあって、吉良義央が地元で名君とされてると聞きかじっていたのは、実は浄瑠璃や歌舞伎などで赤穂浪士ばかりがもてはやされ、吉良が悪人と扱われることへの反撥が生んだ「虚飾」も混じっていることを関連記事などから知りました。

以前、全国的に悪人扱いされているからってんで、新潟三区で立候補して田中角栄を攻撃した野坂昭如はあっさり落選しましたっけ。まあ誰だってよその人から自分ちをくさされたらいい気はしませんわね。

あまり関係ないけど、うちの会社の人が連名でとある人をお見舞いしたら怪訝な顔をされたそうです。お見舞いには二人の名前が続けて書かれていただけなんですけどね。「吉良 上野」と。

あ、そうそう、今日は「あぶさん」の息子・景浦影虎の誕生日だったような。あの子がもうドラフトでプロ入りだもんなあ。って、いつまで現役だ>景浦安武

99/12/16

「ピーナツ・ブックス」でおなじみのチャールス・M・シュルツ(77)が大腸ガン治療のため引退。

スヌーピーといえば思い出すのが岡崎友紀だったりするんですが(おい)、それはともかく、あの皮肉たっぷりの漫画をキャラクターのかわいさでしか見てない人がけっこういるようですね。

そういえばねこぢる死亡記事で「かわいい猫のキャラクターで評判の漫画」などとおちゃめな紹介をしている新聞もありましたっけ。

あるテレビ番組で、チャーリーブラウンがあこがれる「あの赤毛の子」が作者の人生に多大な影響を与えた実在の人物だったと紹介してるのを見て、いささかショックを受けたのを思い出します。

長い間お疲れさまでした。お大事に。


今日の朝日新聞「かたえくぼ」はプロ野球ねたで、「荷とを負うものは一途を燃えず」(ATOK13)……じゃなくて「二兎を追う者は一兎をも得ず」(WXG4)をもじって「二藤を追う者は一藤をも得ず――中日ドラゴンズ殿(「星野監督殿」だったかも)」。

うーん、江藤と工藤を一人ずつしかねらっていなかった球団がそれぞれの選手を獲得していたならおもしろいんだけど、現にもうひとつの「二藤を追う者」が「二藤」とも得てしまったんだから、しゃれにもなんにもなってないような。

と思って最後まで読まなかったんだけど、もしジャイアンツサイドの発言ということにしてあったならそれなりにおもしろいかも。(続き)

99/12/20

いきなり冬本番。今が肩こりの一番つらい時期です。

寒さはこれからますます厳しくなるのですが、ここまでこってしまうとあとは慣れるのを待つだけだから(とほほ)。


18日のasahi.comより。

上海の有力紙が発音からの外来語普及に憂い

 中国・上海の有力日刊紙「文匯報」は17日、1面トップで「言語はどのように発展していくべきか」との記事を載せ、最近、中国の若い世代で使われている外来語の急速な普及を憂いている。漢字の国、中国は「千年虫」(2000年問題)などの意訳や、「黒客」(ハッカー)など原語の発音を取り入れた意訳で巧みに外来語を取り入れてきた。しかし、最近は発音だけからの訳が広がり、年配者の間で混乱を呼んでいるという。
 「電子信件」との既製訳があるEメールは発音から「妹児(メイアール)」と呼ばれ、クールは「酷(クー)」と使われる。中国語で「九十五」と同じ発音の「酒屋(ジュウウ)」は本来の意味を離れ、ウィンドウズ95を表し、同98はもともとバーの意味だった「酒(ジュウバー)」。インターネットの検索サービス、ヤフーの発音を漢字で表した「雅虎(ヤーフー)」は、検索の意味からさらに転じて、かわいい女性を探す意味にも使われるなど定型がない。 (略)


このまま外来語の発音を特定漢字で表す手法が定着し、その特定漢字の書き方がくずされたり省略されたりしていくと、中国にもひらがなやカタカナが出現するかも。

はたして第二の万葉仮名になるのか、はたまた第二のコギャル言葉になってしまうのか。


フォローその一。

13日の分で書いた水の結晶化の話、今月号の『月刊ムー』の巻頭カラーグラビアで取り上げられておりました。「マザー・テレサ」や「天照大神」「アドルフ・ヒトラー」といった人名でやるとどうなるかとか、肝心の本のタイトルなども紹介されておりました。

興味をお持ちのかたはチェックしてみてください。


フォローその二。

16日の分で書いた「二藤を追う者」の話、図書館で確認したところ「江藤・工藤」から「ドラゴンズ殿」にあてた言葉、という設定でした。

「二藤を追」って「二藤を得」た者のところへ行った二人から「二藤を追う者は一藤をも得ず」では、まったくしゃれになってませんね。

99/12/21

ゐんばさんのところの日本の標準で「ニラレバ炒め」と「レバニラ炒め」、どっちで呼ぶかが議論されておりますが、「レバーがメインになるからレバニラ」説に対してゐんばさんから反論が出されております。

これに応えて再反論を書いたのですが、おもいのほか長文になってしまいましたのでこちらに書くことにします。

「レバー味のニラ」になるのは「レバニラ」単体の話でありまして、うしろに「炒め」がつけば「レバーとニラの炒め物」になって、堂々レバーが主役とあいなります。

「レバニラ」ふうの呼び方にしても、たとえば「じゃこおろし」を「おろしじゃこ」と呼んでは具合が悪い。あくまで「おろし」の前に動物性蛋白がくるから高級感をかもし出すのです。

さらに「鯖みそ」が「みそ鯖」だとしっくりこないし、「あなきゅう」が「きゅうあな」では何のことだかわかりません。そしてとどめは「ぶり大根」。これが「大根ぶり」じゃへたくそな役者の演技みたいになってしまいます。

ことほどさように「動物性蛋白+野菜」こそが料理の呼び方の本道なのであります。

え、「ネギトロ」?

……前言を撤回します。

99/12/23

12月22日付のYomiuri-Onlineの記事より。

◆新千年紀入り前に、米国はテロ厳戒態勢

 新たなミレニアム(千年紀)入りを期して、終末観に根ざすとみられる破壊計画や、イスラム原理主義過激派による米国人を狙ったテロ疑惑が今月に入り、米国で相次いで発覚している。当局は厳戒態勢を敷いているが、米国民は不安な気分で、新千年紀を迎えようとしている。(略)
 過激派を監視している民間団体ADLによると、一部のキリスト教極右集団は「二〇〇〇年はイエスが再臨し千年王国を樹立する年で、それに先だって社会的な混乱が起きる。コンピューター誤作動はその一環」ととらえる。武装グループが呼応して、破壊活動を準備しているという。(略)


2001年の迎え方大研究2000年か2001年かあたりでも詳しく解説されてますが、新千年紀の始まりは公式には西暦2001年。

まあ犯人たちは宗教的確信犯ですから理屈なんて関係ないんでしょうけど、見出しと冒頭の記述については読者の勘違いを誘うおそれもあるのだからもう少し気を遣ってほしかった。

そういえば先日ラジオを聴いていたら、とある人気歌手の新しい曲をさして「ミレニアム最後の新曲」。どうやらこの歌手は再来年まで次の曲を出さないらしい。


18日のasahi.comより。

71年がかり、「諸橋漢和」来春完結

 「諸橋漢和」の愛称で知られる諸橋轍次氏著「大漢和辞典」全14巻の「補巻」が来年4月、大修館書店から刊行され、1929年に同氏が編集作業を始めて以来71年かけて完結することになった。
 補巻の編者は諸橋氏の弟子にあたる鎌田正、米山寅太郎の両氏。本文12巻の5万字、熟語50万に、補巻では約800字、約3万3000の熟語を加えた。88歳になる鎌田さんは「諸橋先生は辞書に終わりはないと言われたが、私が生きているうちに、ようやくその意向に沿う補巻ができた」と話している。


「終わりはない」のに「完結」というのもなんだか変な話ですけど、それはさておいてひとつの目標に向かって71年というのはやはり頭が下がる思いです。

ところで、以前にも紹介しましたが諸橋先生自身は辞書の編集には携わっていないということで、この記事もしくは情報元にも「諸橋轍次氏が編集した辞典」という思いこみがあるのでしょうか。

しかしこの71年間には、文部省国語課員の一人がつくった素案がそのまま国語審議会をとおってしまった「当用漢字字体表」やら中国の簡体字などの新しい漢字もふえていて、それらも収録されているのかなんてのも気になったりして。

99/12/29

ようやく年内の懸案だった出張工事と年賀状が片づいたと思ったら、あさってはもう大晦おおつごもりではありませんか。

「つごもり」で「晦日みそか=三十日」のことですから、たぶん「月ごもり(=新月前の月の見えない状態)」の略なんでしょうね(広辞苑でもこの解釈をとっている模様)。で、年内最後の「つごもり」だから「大晦」ってところでしょうか。故郷くにのほうではさらに略して「おつごも」なんて呼んでますけど。

なんにしてもいろいろあった一年とちょっとでした。やり残したことも多いし。

来年こそは(ここで鬼の笑い声)。


『面白すぎる日記たち』(鴨下信一、文春新書)読了。

日記の天気の記述や文体からその日の気分が読めるとか、自分の書きたいように書くからこそ日本語としておもしろい文章ができあがるとか、他人が読むことを前提としていないにも関わらず、なんとか自分の胸の内を記録に残したいという執念も見え隠れする、などなど、さまざまな日記を例に挙げて日記の読み方・楽しみ方を指南する本。

なかなかにおもしろいけど、あれもこれもと詰め込みすぎてちょっとまとまりにかけるきらいがなきにしもあらず。インターネットでウェブ日記がはやる一因は日本人の日記好きにあるのでしょうけど、その日記好きの国民性がどこからきているかはこの本からはわかりませんでした。

まあ紹介されている日記には宇垣まとめ海軍中将の「戦藻録」などずいぶんおもしろそうなものもあったので、機会があれば読んでみたいと思ってます。

99/12/31

ああー、とうとういしかわじゅんHOMEPAGEにパンクドラゴンが。

いよいよ危ないぞJustNet


最近のゲームソフトのCMで「開発費70億円」とかいうのがありました。

これをみた友人曰く、「たとえばゲームソフト一本7000円として、100万本で売り上げ70億円。ダービー・スタリオンでもそんなには売れてないだろ。儲けはでるのか?」

うーん、海外版もあわせた開発費なのでしょうか?


この暮れも押し詰まった状況でDVDプレーヤーを買いました。さっそく買ったソフトが「2001年宇宙の旅」と「風と共に去りぬ」ってんだから、ミーハー権威主義もいいところ(とほほ)。

ところで、なぜかDVDプレーヤーにおまけでノートパソコンが付いていて……あ、ふつうはDVDプレーヤーの方がおまけなのか。


12月31日付のYomiuri On-lineの編集手帳より。

(略)
◆元日を迎えるにあたって、昔、日本で大騒ぎになったことがあった。世界の大勢に従い、旧暦を廃して太陽暦に改めたときのことだ。明治五年十二月三日を同六年(一八七三)一月一日とする
◆新政府がそう布告したのが、一か月足らず前と急だったから、一般が驚いたのも無理はない。正月の支度を急げ。質草の期限が切れてしまうぞ。女性たちは早く年を取ると、いやがった
◆実は、明治六年は旧暦だと閏(うるう)月が入っていて、十三か月だった。官吏の月給制を取り入れたばかりの政府は、一か月分の支出を免れることができると考え、急いで改暦したと、大隈重信の回顧談にあるそうだ
(略)


当時の生活が忍ばれる中にも明治新政府のせこさも窺われたりして、なかなか興味深い一文です。こっちは前倒しの話題ですが、朝日新聞の今日の「天声人語」は「先送り」の話。これもなにやら因縁めいていておもしろい。

以前「お言葉ですね」で取り上げたネタの答えも入ってますね。やはり「西暦(和暦)」一辺倒では具合の悪いこともでてくる。

さて、あれこれあった一年でしたけど、このあと話題の西暦2000年問題最大の関門が訪れるといわれています。いかなることにあいなりますやら。

ということで、わくわくしてる人もおびえている人も含めて最後に一句。

    「2000年」「2000年」とて暮れにけり(大部分盗作)

では、きたる年にもよろしくお願いします。


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