やまいもの雑記

マグマ大使(続き)


それまでにも豊田有恒の『あなたもSF作家になれるわけではない』などを読んで手塚治虫は人格者だという思い込みがあっただけに、いったん不信感が芽生えてしまうともう止まらない。

たとえば、私の記憶にある「ブラックガロン編」と講談社の全集とで明確に違っているのは、主人公の村上マモルがブラックガロンの破片を手に入れるいきさつと、ブラックガロンの「心」・ピックを取り戻す場面だ。

全集ではマモルが自分でブラックガロンの破片を拾ったことになっているが、『少年画報』に掲載されたときには、マモルの友人が拾った破片(二人とも隕石のかけらだと思っていた)をおもちゃだのメンコだのと交換してもらい受けていた。確か巨人軍カードあたりの魅力に負けて破片をマモルに渡したと記憶している。

もう一つの方はかなり大幅に変更されている。全集ではマグマの息子・ガムがゴアの円盤に侵入してピックを奪還したことになっているが、記憶ではピックはゴアの本拠地の星に閉じこめられていて、マグマの妻・モルがそれを取り返しに行く。そのモルの前に現れたのは絶世の美女。なんと彼女がゴアの妻だという。ところが、一緒に行ったガムがその美しさを讃えると、彼女の怒りを買って機能停止に追い込まれる。それを見たモルは口を極めて彼女の容姿をけなしまくった。実はゴアの妻も人間に化けているだけで、本体は(地球人の基準からすれば)醜い怪物だったのだ。モルの口汚い罵り文句に大いに喜んだゴアの妻の隙を衝いてモルはピックの奪還に成功する(喜んで褒美に差し出したのだったかもしれない。手に入れる場面の記憶曖昧)。

最初からゴーストライターの代筆だから削除したという理由だけを目にしていれば、そんなものかなと納得していたかもしれない。特にこの「ブラックガロン編」には、幼い私にとってもっとも衝撃的な場面の一つ、マグマ大使の敗北が描かれている。それも生半可なものではなく、ロケットの姿とはいえブラックガロンのパンチでからだを突き破られ、内臓を飛び散らせながら原形をとどめないほどに押しつぶされてしまうのだ。読んでいて心臓を鷲掴みにされるような思いを味わったのはあれが初めてだ。どうしてももう一度読みたいと思っていたそのシーンにサンデーコミックスで再会できなかった失望を今度こそ満たせた訳で、そういう意味でも全集への「ブラックガロン編」収録は私にとっては画期的なできごとだった。

それなのに、そこに書かれていたのは以前と違う収録理由。どういうことだ?

やがて私の頭をある考えがよぎった。ひょっとして、原稿散逸でもゴーストライター作画でもない理由があるのではなかろうか。それを糊塗するための言い訳だから、書くたびに違ってくるのではなかろうか。その理由とは、すなわち「言葉狩り」(完全なる邪推)。

サンデーコミックス版が出版された当時、徐々に広がりつつあったマスコミによる差別用語自主規制が「マグマ大使」にも及んでいたのではないだろうか。ゴアの星でモルがゴアの妻に浴びせた大量の「美しくない女性に対する侮辱的な言葉」が出版を断念させたのだとしたら、実にわかりやすい。

同時期の、講談社の少年倶楽部文庫『のらくろ』に端を発する漫画文庫ブームの中で出版された秋田文庫版『どろろ』(手塚治虫)にも、サンデーコミックス版の『どろろ』と比べると大量の改変があるのがわかる。「サイボーグ009」の項でも触れた差別的内容の改変もこの流れだろう。つまりそういう時代だったのだ。

それならそれでそのように書けばいいものを、原稿散逸だの代筆だのもっともらしい理由を並べて、社会的圧力に負けたのをごまかしているのではないか。お話ではきれい事を描いておきながら、裏ではこの有様か。てな調子で、この時点で完全な手塚治虫不信に陥っていた。

そういう不信感の色眼鏡を通して見ると、マモルがガロンの破片を入手したいきさつの変更もそう単純な話ではなくなってしまう。すなわち、主人公が貢ぎ物よろしく友人におもちゃを差し出して隕石をねだる姿はあまりかっこうのいいものではない。それにその友人が珍しいカードに目がくらんで隕石を差し出すのも何やらあさましい。そういう場面を自分の名前で出したくないから変更したんじゃないのだろうか。

さらにはそのあとに読んだ朝日ソノラマサンコミックス版『鉄腕アトム』も同じ憂き目に遭った。故人の悪口になってしまうから前項ではあえて触れなかったが、ここまで来たらついでに書いてしまおう。『カムイ伝』やロボット・電子頭脳の仕組みの理解も嘘ではないが、もう一つ上記の理由から『アトム』をまともに読めなかったのだ。

サンコミックス版の『アトム』では、各話の始まる前に作者本人が漫画で解説を加えている。描いた当時の状況や心境などが紹介されていて、なかなか面白い。しかしその中の「青騎士編」の冒頭で、編集者にそそのかされて不本意ながらアトムを悪役にしたら「アトム」の人気が落ちた、アトムも「僕やっぱり人間の友達でいたい」と言ってるし、もう二度とアトムを悪役にはしない、みたいなことが描かれていた。むかっと来た。じゃ、そそのかした編集者が全部悪いのか。描いた本人にはまったく責任はないのか。自分だけが善人面してれば気が済むのか(遮眼帯状態)。

だいたい、なんでロボットに感情があるんだ、どうせプログラムで動いてるだけじゃないか、気色の悪い。それになんでアトムより後に作られたロボットがアトムの「両親」なのだ。ついでに、同じようにアースに作られていながら、なんでマグマとガムが「親子」なのだ(典型的八つ当たり理論)。

しかし、それでも話にのめり込みそうになるぐらい『鉄腕アトム』は面白かった。もしあのような心理状態でないときに読んでいれば、私の胸に名作として刻み込まれていただろう。不運としか言いようがない。

そして、手塚治虫が亡くなったときに私の胸に訪れた空虚さときたら……。

覆水盆に還らず。一つの齟齬から生まれた悪感情が私から奪ってしまったものは悲しくなるほど大きかった。

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