PDCAの神話 08.08.23

エー毎度ばかばかしいお笑いを一席、
rakugoka.gif アイエスオーとか品質管理などに関わりますとPDCAなんて言葉がよく聞かれます。私が社会人になった1960年代中頃は品質改善ひらったくいえば不良対策、あるいは仕事をするにはPDS、プランドゥーシー、Plan Do Seeといったのですが、いつの間にかPDCA、Plan Do Check Act、プランドゥーチェックアクトと4段階になりました。不思議なこともあるものです。
あつ、不思議でもなんでもなかったですか・・
ご注意願いたいのですが、PDCAとはプランドゥーチェックアクトの略、決してプランドゥーチェックアクションなんて言っちゃいけません。
動詞は動詞、名詞と動詞がこんがらがっちゃいけません。動詞が同志を組んでいるのですよ。動詞と名詞は同志ではありません。
っと、そこのおじいさん、アクションなんてわざとらしいくしゃみをして・・憎いねえ〜

さて、PDCAはシューハートサイクルなんて言われまして、その名の通り大昔シューハートってえ、お人が唱えたそうであります。あるいはデミングサイクルなんても呼ばれます。デミングさんも日本工業発展の指導者として有名です。
といってももはやデミング賞も今は昔か・・
ともかく現代はPDCAという言い方が一般的でありまして、業務改善も品質改善も、環境マネジメントシステムも品質マネジメントシステムもPDCA、ピーデーシーエー、ワイエムシーエー、と念仏を唱えればだんだんと良くなっていくらしいのです。まさに法華の太鼓であります。
我が家は真言宗、墓前でも仏壇でも南無大師遍照金剛と三度唱えることになっておりますが、とりあえず今は関係ありません。

ここで不思議に思いませんか?
../pdca.gif 多くの人は仕事をするときは、まずプランを立てて、実行して、結果を評価して、見直しをかけていくと思っています。
それが不思議です。
だあって考えてごらんなさい。あなたが不良対策しろと言われたらどうしますか?
まず、現状がどんなふうになっているかを知らないと手が打てるはずがありません。現場に出かけて、現物の現実を見て、そこから問題点を特定し、その原因を究明し対策案を考えるのでしょう?
PDCAの順序じゃなくて、CAPDになるような気がします。
そこのお母さんもそんな気がしてきたでしょう? 

環境マネジメントシステムの規格ISO14001でもPDCAといっています。方針を立て、環境側面を把握し、環境法規制を把握し、改善テーマを決めて、実行して、その結果を評価して、目的目標やシステムを見直して新たな計画につながっていくそうです。
本当にそういうサイクルが回ると思いますか?
ISO14001の元となったと言われるイギリスのBS7750では計画の前に予備調査というのがあった。理屈からいってこれがまっとうだと思う。
ISO14001は真髄・エッセンスのみとして、不要と思われるものはすべてスキニングしたらしく予備調査がない。しかし何事でも計画するにはまず実態を知らなければならず、ちょっとヘン

えっつ、不良対策とかでなくてマネジメントシステムの場合はPDCAで良いのですか?
するとシステム改善は頭の中でプランを考えて計画を立てるのでしょうか?
どうも現実離れしているようですよ
システムあるいは会社の仕組みとか運用においては、計画を立てる前に「とにかくやってみよう」ということだってあります。算数と違い社会的な問題の解など絶対に正しい方法とか間違っている方法というのはないと考えます。例えば組織論などは、時代とともに、規模、業務の内容、メンバーの知識レベル、情報伝達の手段が変わったりすると最適な組織形態が変わります。会社の仕事にベストの方法がない方に1000円賭けましょう。会社の風土によってリスキーな方法を好む場合も、損失を最小にする会社も、お客様第一という会社も、売り逃げしようという会社もあるわけで・・・
そういうわけで、DCAPという場合もあるでしょう。

うーん、ちょっと待てよ、
現実の仕事においてPDCAというサイクルは存在するのだろうか?という気がしてきました。
例えば新製品を売り出そうとした時、立派な計画を立てて、さあ売るぞ!、それから監視データを評価して、では次にどのような手を打つか・・・なんてことは絶対にありません。
毎日、あるいは常時、現場の状況を聞いて計画とのずれを把握し、対策を検討し、緊急度合を判断し必要なことは即手を打つでしょう。そして情報の入手はさみだれ的であり、判断処置もさみだれ的に行われることは間違いない。
なぜなら、そうしないと販売競争に敗れ去ってしまうから

このときPDCAというシークエンスは存在するのだが、それはサイクルを回すというより、時定数が小さな複数のPDCAが次々と処置対策されていくということになる。

あるいはひとつのプロジェクトがあるとして、そのプロジェクトのPDCAが存在するのだが、Pの中にもPDCAがあり、Dの中にもPDCAがあり、そのPDCAはまた更により小さなPDCAに分解されるだろう。
../pdca.gif ../pdca.gif ../pdca.gif ../pdca.gif
../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif ../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif ../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif ../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif../pdca.gif

簡単に言えば、取締役のPDCAがあり、部長のPDCAがあり、課長のPDCAがあり・・・と世の中はそういうことになっているのだ。
取締役の戦術は部長の戦略であり、部長の戦術は課長の戦略・・と経営学で習ったのと同じである。

PDCAというシューハートサイクルは確かに実在する。しかしそれは概念であり、手法の考え方である。
プロジェクトに対してひとつのPDCAを考えるのではなく、プロジェクトを進めるにあたっては、どの段階でもどの階層でも、個人の業務においても、常にPDCAを踏まえて判断、処置を行うべきだということではないのだろうか?
要するに仕事を進めるにあたって、思いつきや、行き当たりばったり、成り行き任せでは近代企業ではないし、かつ企業人としては失格であるということに過ぎない。
仕事を進めるにあたっては、目標を定め、それを達成する手段を具体化し、それを粛々と実行し、進捗を把握し、是正をかけなければならないということは間違いない。しかしそれはワンサイクルではなく、始まりも終わりもないフィードバックの連鎖である。
そう言えば、誰だって「なこと当たり前だ」というでしょう。でもPDCAという言葉を口にした瞬間、Planから始まるという魔法にかかってしまうのです。

本日のお告げ
デミングサークルはPから始まるとは限らない 

そんなことを考えると、環境実施計画なるものをながめて「PDCAが良く回っていますね」とか是正処置の書類をみて「PDCAが良く回っていますね」なんて語る審査員は前世紀の遺物のような気がしてきた。
会社の現実のPDCAとはそんなもんじゃない。
毎日の業務日報、売上報告、出張報告、客先で気がついたことの携帯メールなどなどから、すべての職位の人が、職務に応じて対応していることである。
ほうれんそうが徹底して、情報はすべて咀嚼され、必要な対応がとられていること、それがまっとうなPDCAである。
しかし、ISOの審査でそのような仕事の息遣いから業務が滞りなく動いていることを読み取り認識できる審査員がいかほどいるか?期待はできない。
しかし、内部監査においてそれを確認し、一層仕組みを良くし、パフォーマンスを向上するために気づきを見つけることはできるだろうと期待する。
それがなくちゃ、悲しいじゃないか


のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.08.25)
PDCAの神話
オバQ様 おっしゃる通りですね。9001自体、「システムの画一化を要求するものではない」、と宣言しているにもかかわらず、標準化の規格であることからどうしても画一化の方向に流されてしまうようです。審査員のレベルも、均一化、すなわち画一化されるのが望まれているのでは?
「品質マネジメントシステムの8原則」についても、「顧客重視」がトップに据えられていますが、私はそれが画一的を促しているようで気になります。
マネジメントシステムの観点からすると、ビルゲイツの成功の要因は何だったのでしょうか?彼はISOを導入していたとは思えませんが、持ち前の迅速な「7.情報の収集と分析」と「8.資材調達」への行動力をあげることができると思います。それが彼の強力な「2.リーダーシップ」に繋がり、「3.人々の参画」を促した。
一方、ビルゲイツの”WINDOWS”を追っかけたIBMは、得意先の大手企業に”OS/2”を売り込んで、顧客アンケートにより、”WINDOWS”より”OS/2”の方が優れている、とさかんに宣伝したのですが、時すでに遅し。今では、OS/2は、影も形もありません。
「品質マネジメントシステム8原則」のトップバッター「顧客重視」と「PDCA」の”P”を取り上げると、「顧客満足度のアンケートをとることを計画する」というのがISO導入で定番として取り組むべきことになる気がします。実態はどうなのでしょうか?つまらないアンケートに時間と労力を費やし、結果は一瞥してお終い。しかし、適合性評価には合格した、良かったね、ということになっていないでしょうか?

のんきなとうさん様 毎度ありがとうございます。
私は8ビットの頃からパソコン大好きでしたが、ビルゲイツがどのように立ちまわったのかは存じ上げません。
ただ、本で読むと、IBMがビルゲイツにPC-DOSの開発を依頼したとき、著作権についての契約が甘く、その後その遺産を活用してMS-DOSを作ったのが種の起源だとかありました。
真偽は存じませんが、もしそうなら当時IBMはパソコンの未来を思ってもみなかったのでしょう。そんなことを思えばビルゲイツがやはり上手、やり手ということなのでしょう。
願わくは、早くOSなど無意味になる時代になって欲しいもの・・・アッツもう既になってますか?


のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.08.27)
PDCAの神話
オバQ様
そうですね。企業の成長要因には小さな日々の立ち回りから運命的なものまで様々なものがあってISOの枠組みだけでないのはわかっているのですが、ついその枠組みにあてはめて考える癖がついています。優良企業とされるIBMもマイクロソフトも、当然、最低限の基準とされるISOの要求事項はどれも満たしているのでしょう。要求事項の個々の重要度は組織の成長フェーズとともに移り変わるものでしょうから、細部に分け入って、後付で、成長要因や要求事項の序列を考えるのは無意味と思えます。
話は変わりますが、私はISO9001の要求事項それぞれについて、どのようにしてその合否を判定できるのかわかりません。著名なコンサルタント方々それぞれのホームページに膨大な解説がありますが、結局のところ具体的な判定についての手法はわかりません。個々の審査員の方々の経験によるものなのでしょうか? 私は、「本当は審査員だって(同質の)判定ができるはずがない、ISO9001はガイドラインであり、組織が利用するものであって、第三者の審査員がそれを評価基準とし、高々2〜3日の訪問での判定に利用できるものではない」、のように考えます。
ただ、認証登録制度そのものについては、別な意味があると思います。審査が単なる儀式に近いものであるにせよ、それが企業の組織をよくする動機付けのきっかけとなり、国全体としてマネジメントシステムの改善を推進する役割を果たすのではないか、また、企業もそれを望むのではないか、と考えるからです。しかし、オバQ様のおっしゃるようにトンデモ審査員が蔓延し、多くの組織から受け入れられていないという現状ですと、やはり制度の問題として再考すべきなのでしょう。その場合、最大の原因は認証機関や審査員ではなく評価基準そのものだと私は思うのですが・・・

のんきなとうさん様 毎度ご指導ありがとうございます。
論点はただ一点だと思います。
マネジメントシステムの審査というのはあり得るのか?ということです。前提条件なしに「会社の仕組みが良いか、悪いかを判断してあげましょう」と言ったとき、世の経営者は何と応えるでしょうか?
 「ぜひ診てください」というでしょうか?
 「あなたはよそ様の会社を評価できる資質がありますか?」
 「バカ言っちゃいけませんよ」あるいは「顔を洗って出直せ」
 「経営者である私以上に会社のことを知っているのですか?」
いろいろあるでしょうけど、一番目にあげたリアクションは少ないと思います。
まっとうな経営者なら経営に力量があるかどうか分からない審査員より、ちゃんとした経営コンサル、それもマッキンゼーとか信用のあるところに頼むでしょう。かような、常識で考えるとありえないような設定の仕事を作り出したのだから、元々無理があったのではないでしょうか?
ましてや審査員の要件が、公認会計士や税理士あるいは中小企業診断士のような資質ではなく、品質管理の知識とか環境管理についての知識なのですから会社を審査するにしても良くするにしても見る力が限られているのは明白です。
それに笑ってしまうのですが、審査報告書ってISOコンサルが出してくる提案書よりも稚拙ですよ
いつも書いていますが、私は現場の不良対策とか環境管理については何とか勤まると思いますが、会社を運営するなどということなど思ったこともございません。
結局のところ、のんきなとうさん様が先日おっしゃった
「認証機関も、審査員も、実務者レベルでなく経営者レベルに受け入れられようという上昇志向があったのですね」
というのが失策の始まりというか原因だったとも思えます。
ISO9001発祥の外部品質保証ということに特化して、それを高度化し信頼性を上げることを継続していれば、その土俵のビジネスは存命の余地はあったのではないでしょうか?
それを背伸びして、マネジメントシステムと言ったものだからころんでしまったのではないでしょうか?
のんきなとうさんのおっしゃる儀式を会社が望んでいるのか?というのは広くアンケートでもしないとわかりません。しかし私の知る限りの多くは「いらない」という意見のようです。じゃあなぜ認証しているの?といえばもちろん体面も含めてパスポートということでしょう。
国家に貢献するとはもう大きなお話で、私はなんともいえません。
広報発表などを見ると1組織100万/年と見るのが通例のようです。品質、環境、情報と合わせて7万組織として100万かけると700億円、審査費用とコンサル費用を同額として1400億、書籍、業界誌、教育研修などを合わせると2000億といいうところでしょうか
経済産業省の第三者認証精度の規模についての報告では推定値であったが、審査費用の総売上500億、コンサルや教育を合わせて1000億というものがあった(2007年版)
まあ、大きな違いはあるまい(2008.10.30追記)
しかし、そんなふうに見るとISOビジネスなんてスモールビジネスであることがわかります。大手と呼ばれる審査機関でも年間売上は30億とかそんなものです。そして利益率はいずれも2%とかせいぜいが4%です。100億の2%ならたいしたものですが、10億の2%ですと2000万、鉛筆をなめた程度でしょう。
私が嘘をついている可能性もありますから裏を取ってください
以前テレビでタレントの田中義剛が経営する花畑牧場の従業員が80人で売上が40億とか報道してました。業種は違いますが、比較すればISOビジネスとは非常にニッチな市場のあだ花と言うべきかも知れません。
企業はもしISOに費用をかけなければそれを別な生産的なことにつかうでしょうから、現状より国家に貢献するかもしれません。
もっともヨーロッパではホワイトカラーの失業対策ともいわれましたので、日本でもISOがなくなると審査員、コンサルに専任している方が7000人としてほんのわずか失業率を上げる要因となるかもしれません。(08年6月完全失業者265万人就業者6451万人)大手企業では年配者を審査機関に出向させていますから、そういった人々の行き先も心配しなければならなくなるかもしれません。
まあ、このけちなウェブサイトはハローワークでも人生相談でもありませんので、自然界の弱肉強食、自然淘汰でどうなるかを見守るしかありません。


のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.08.28)
PDCAの神話
オバQ様のおっしゃることはよく理解できます。
「マネジメントシステムの審査というのはあり得るのか?」という論点ですが、私はこの審査を次の二つに分けて考えます。
(1)は、これまで運用されてきた審査登録制度で認証機関に要求されている審査です。組織がISO9001の要求事項を満たしていることを審査員が客観的な証拠を得て確認することです。これは一見容易であるかのように思えますが、簡単ではありません。これについては後述します。
(2)は、「17021」で認証機関に要求されているものです。これはマネジメントシステムの枠組への要求を超えるものです。ISO9001の要求事項ではありません。組織には要求されていません。認証機関のみに要求されています。これはとんでもない要求であると思われませんか?どうしてこのような内容を審査員が組織に対して保証しなければならないのでしょう。この内容は明らかに組織自らが扱うべきものです。「目標の達成」とか「有効な実施」は、マネジメントシステムの枠組みへの要求を超え、「固有技術」、「外部環境」、「企業戦略」、「モチベーション」等の要因に影響されるものです。経営に関与していない審査員が組織の「固有技術」、「戦略」にまで立ち入って評価できるはずがありません。私は、(2)についての審査は全く不可能であると思います。
再び(1)に戻ります。(1)の審査もやはり非常に困難です。例えば9001には、「6.3インフラストラクチャー: 組織は、必要なインフラストラクチャー(経営基盤)を確定し、充当し、維持しなければならない」という要求があります。この要求事項に組織が適合しているかどうか、審査員は判定できるのでしょうか?それはサンプルによるのでしょうか?では、そのサンプルの正当性を経営に関与していない審査員がどのように立証するのでしょうか?
私が前回要求事項の合否を判定できないと言ったのはこのように極めて基本的なことからです。ある著名な審査員はブログで次のように仰っています。「審査には経験が必要です。経験によりコツがつかめるのです。上手に審査できるようになるのです」と。また、他の著名な審査員は、優秀な審査員、普通の審査員、不適な審査員の比を、20:60:20としています。(2)が実施される暁には、この比は、0:0:100になる恐れがあります。
認証の不祥事が続発したとき、オバQ様が仰るように、「(1)」から品質マネジメントシステム発祥の”品質管理”に後退させるべきであったのだと思います。
しかし、現実には逆に、もっとマーケットを広げたい、より経営層が魅力を感じる制度にしたい、という意向があったのでしょう。
後退はありえなかった。結果として、9001の要求事項を逸脱した「(2)」が認証機関への指針となったのでしょう。”品質管理”からは、さらに遠ざかり、あたかも審査員が経営層と同レベルに近づいた、あるいはそれさえも超えたかのようになったのです。
今、どの認証機関も、顧客のISO離れに危機感を抱いていると思いますが、本当はこの指針(17021)にもっと危機感を抱かねばならないのだ、と私は思います。

のんきなとうさん様 まことに同意であります。
のんきなと名乗っておられますが、語ることは真剣深刻ですね。
私はマネジメントシステムの審査は不可能に近いと思います。可能なのは品質保証の仕組みとか、狭義の品質管理の仕組みの妥当性を見るのが限界ではないかと思います。
経営者でもなく、財務も会社法の知識もない審査員風情がマネジメントシステム(会社の仕組み)を見てあげましょうとは!なんと不遜な発言でしょう。
統合マネジメントなんて大そうなことを語る審査機関、審査員がいますが、正しく言えば品質保証の仕組みと環境管理の仕組みを合わせてみるということにすぎません。それ以上のことが可能な審査員、審査機関が存在するとは思えません。
「いや、できる」というならアーサーアンダーセンや中央青山の二の舞を演じないことを祈ります。
ところで、のんきなとうさん様は認証機関の取締役なのでしょうか? そうでなければ私同様この制度に危機感を持っても、それと心中する義理もなく、傍観者でいることができます。
渦中の認定機関、認証機関の幹部はいかに認識し、どのように挽回策を練っているのでしょうか?
私はその点に非常に興味があります。危機の真っただ中にいる社長は何を考えるのか? まさか腕組みをしてなるがままに放置プレイをするはずはありませんよね?
ただISO17021は突然発生したわけではありません。元々IAFガイド62やガイド66があり、それを統合化しまた信頼性を高めようとした意味があると思います。信頼性とは審査そのものの信頼性でなく、IAFガイドをISO規格に格上げすれば世の中の人から見た信頼性アップもあります。
そう思うと、のんきなとうさん様がISO17021は厳しいし、その実現は困難だろうということはわかりますが、それを作ったのはまたIAFであり、認定機関であり、認証機関であったはずです。
話は変わりますが、ISO19011の審査員の資質について「あれを満たしているなら神様だよ」と語った某審査機関の取締役もいました。
ISO業界は組織に対して理想を追い求めるだけでなく、己に対しても理想を要求するのでしょうか?


のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.08.29)
オバQ様
ホームページを拝見しオバQ様のISOに関わるご経験とご活躍、深い洞察に感銘し参加させていただきました。しかし、この二日間、私のメッセージを改めて見直し、個人的で狭小な判断であったことを反省し、以下、訂正させていただきたいと思います。

オバQ様のご意見は、ISOの規格はすばらしいものであるとした上で、認証機関、審査員に対して、かなりの辛口であるとお見受けしました。ご意見には、うなずける点も多く本当に感心した次第です。オバQ様のご意見に対し、私は、制度あるいは規格に問題があるのだ、というスタンスで切り込ませていただきました。この私のスタンスを、今、反省しております。改めて以下のように述べたいと思います。

審査の判定は、最終的には、合格/不合格にいたるディジタルなものですが、そこに至る審査の経過は、審査員の経験、専門性、技量、被審査組織との対話、コミュニケーション、調査する資料、等、多くのアナログ的要素に影響を受けて、評価した上での結果です。
私は、17021が審査に要求している”目標の達成能力”、”実施の有効性”について、これは「企業側が取り扱うべきもので、審査員が審査できるものではない」、と断定的に申しましたが、これは誤りであったと訂正いたします。
審査員は、その経験、専門性、技量に基づき、これらの要求事項を審査期間内で判定することができます。「できない」、と断定したのは私の誤りです。
もちろん、日々会社を運営し、より多くのインプットに基づいて、経営者がなす判断と審査員の判断は異なることもあると思います。しかし、17021は、限られた時間内ではあっても、審査員の経験、専門性、認証機関が定める審査手法に基づいてなされる判定を、経営者の独自の判断に付加される価値あるものとして提供することを要求しているのだと思います。審査員ができるあるいはできない、正しいあるいは誤っている、と断定することはできません。審査員の判定を、審査を通した対話、コミュニケーションとあわせて、経営者が将来に向かっての新たな改善に気付くことなどが期待され、”目標の達成能力”および”実施の有効性”を審査のアウトプットとして提供することが求められているのでしょう。(これは、私の個人的解釈です。)
認証制度についても改善していくしていく必要性は常にあるでしょうが、私は”消滅する”との断定に同意するものではありません。
定められた手順やルールと実際の運用は乖離させたくないものです。
規定が定めた審査員資格は「神様」みたいなもので、実際にはそのような審査員はいないというご意見について、納得できる点もありますが、運用においてはやはりアナログ的な判断も必要だと思います。それぞれの認証機関の判断において(規定及び運用の)改善は常に必要だと思います。しかし、私の知人の審査員は優秀です。そして、Webなどで見受ける審査員の方々の経歴、実績にも驚かされます。
確かに、審査員のレベルにバラツキはあるのでしょうが、審査員の方々は、それぞれ経験を積まれ審査の専門性を得ていらっしゃるのであり、ある一面で見出された欠点を取り上げて資格なしと断定はできないでしょう。しかし、オバQ様が指摘されたような問題点は、常に改善していく必要性があると思います。私自身は審査員の知人がいることもあり、審査員は尊敬するに足る職業人であると思います。多くの審査員が、日夜、研鑽し、精力的にお客様を訪問していると思います。
私が、なぜこのようなメッセージを送るかといいますと、このオバQ様のホームページにあまりにもたくさんのアクセスがなされていることに気付き驚いたからです。JABの方々もいらっしゃるかと思いますし、審査員の方々もいらっしゃると思います。プライベートでなく公的なメディアになっています。私は、認証制度は意義あるものと考えておりますので、私が個人的に考えたその一部の問題点をあげることが、それを否定するものであるかのように誤解されたくはないからです。今後ともオバQ様とはご意見を交わさせていただきたいと思いますが、もう少し注意深くいたします。もちろん心にもないことを言うようなことはしませんが、多くの方々がアクセスされていますのでいろんな方面で誤解されないよう、ご迷惑をおかけしないように注意して意見をお送りさせていただきます。
オバQ様のご意見には、全面的に賛同するものではありませんが、敬服しています。

以上、全文、掲載していただけますでしょうか。

のんきでなかったのんきなとうさんでした。

のんきなとうさん様 毎度ありがとうございます。
いくつか誤解があるようです。
まず、ご安心されるかどうかわかりませんが、アクセスは少なく毎日300くらいしかありません。JABが見ているかどうかは知る由もありません。しかし日中昼休みでない時にアクセスがあるようで、みなお仕事中に見ているのでしょうか?それもわかりません。
それから、私がさまざまなことを書いているのは、面白おかしく書くのが楽しいからではありません。
私は91年頃から審査員様にいろいろとひどい目にあってきました。15年経てば殺人も時効でしょう。それは認めます。しかし過去におかしな審査をして私が議論して納得したはずの審査員が今も他社ではおかしな審査をしているという情報もあり、またそういった会社から助っ人に頼まれることもあります。
実は本日もアップしないでという条件で、とんでもない審査の実態のメールをいただきました。のんきなとうさん様が審査員なのか、審査機関の取締役なのか、JAB関係者なのか、存じ上げません。しかし、そういったおかしな審査の実態をご存じなのでしょうか? まずそれをお聞きしたいですね。
もちろん、審査員の中には力量もあり、人間性も優れた方もいらっしゃるでしょう。しかし審査員の中には力量どころか規格を知らず、人間性もどうかという人も多数いらっしゃるということも事実なのです。
一般企業であれば営業マンであれだれであれ会社を代表しています。製品の不具合は製品単体の問題ですまず、業務のミスは担当者の責任では収まりません。すべて会社の責任であり、会社が評価されます。
審査の質は審査員の責任なのでしょうか? 審査の質が悪いのは審査員個人の責任ではなく審査機関の取締役の責任であり、経営者は認証機関のシステムを改善して、審査の質を担保しなければならないのです。しかし審査員の質をあげると語る審査機関の幹部の多いこと・・・何もわかっちゃいません。経営者の力量がないのが明白です。
そういう現実に私はプロテストしているのです。
私の口を封じるのは簡単です。
法律とか暴力を使うまでありません。
まっとうな審査をして、審査を受ける組織に不満がなくなれば私は書くことがなくなります。そして、それは私にとって残念なことではなくうれしいことです。
誰が何と言おうと、第三者認証制度は世の中から厳しい目で見られ、認証件数も伸びていません。経済産業省からガイドラインなど出されるようではIAF、JAB、JACBのみなさん恥でありましょう。そういう事態を打破するには、私のような意見を封じるのではなく、苦情を言われるような審査をしなければよいのです。
何度も書いていますが、ISO認証の問題は組織が生み出したものではありません。審査機関が生み出したものなのです。しかし負のスパイラルと言われたとき、それは組織の責任であると語った審査機関もありました。そんな認識を社会が認めるはずがない。少なくとも私は許さない。
世の多くの事務局が、会社を良くするためにシステムをどうすべきか規格をどう活用すべきかではなく、審査で問題ないように不適合を出されないようにどうすべきかを考えているのが現実なのです。
それから、私はうそを書いていません。書いていることはすべて裏付けがあります。(審査では証拠・根拠がなくては不適合にできないのですが、所見報告書を見るとこの二つか欠けているものが多いようです)
お互いに考えが異なっても、第三者認証制度を良くして、存続するように働きかけていきましょう。


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