絶対権力は絶対腐敗する 08.09.18

いつも第三者認証制度について駄文を書いているが、本日もまた駄文を加える。
第三者認証制度が機能しないのは被審査組織からお金を頂くからだという意見があるが、私はそれを否定する。
本日は別の観点から考察する。

現在日本はいろいろな面で制度疲労しているのではないかと思われる。さまざまな製品における偽装事件、つい最近は輸入したお米を偽証した詐欺的行為も発覚した。
いかなる制度も作られた時代は最善を目指すだろうが、その過程でさまざまな交渉を経てその結果の妥協の産物は得体のしれないものとなる。しかしまあ、作られたときは少しは役に立つことが期待できるが時間が経つとまったく意味のないもの、あるいは逆効果しかなくなることもある。
それどころか、当初はものすごく良いものであっても、いつまでも良いままであることなど不可能なようだ。
さて、ISO第三者認証制度はどうなのであろうか?

絶対権力は絶対腐敗すると言われる。
本日は、第三者認証は絶対権力であるが故に腐敗したのではないのか?というテーゼである。
審査員のみなさんは「俺たちは絶対権力どころか、権力じゃないよ」というかもしれない。
そうだろうか?
審査にいって指導をしたいとか、自分の指導したことが実施されるとうれしいということは、己が相手より上位であり、相手が指導に従うのが当然である、という意識であり、それは絶対とまではいわないが、己を権威であり、権力であると認識していること、あるいは権力たらんと思っていることに相違ない。
そして現実に審査を受ける側は、審査員の言葉を絶対とまではいかなくても上位者・優位者の見解である信じていることは100%とはいわないが間違いない事実だろう。
同志ぶらっくたいがぁさんとか私のような者は審査員に対して「そりゃ変ですね?」としゃあしゃあと言うことができる。しかし、審査員には逆らえないと考えている人が大多数を占めていることは私の知る限り間違いない。

簡単な例をあげよう。
オープニングで異議申し立てを説明する審査員は何パーセントいるのだろうか?
正確に言えばオープニングで異議申し立てを説明しなくても良い。しかし「適宜及び適切な場で周知しなければならない」(JAB RE300-2006 G.4.1.30.)とある。審査機関の大好きな「shall」だ。審査のいずれかの時点で表明しなくてはならない。さあ、shallの欠落は不適合ですが・・・どうしましょうか?
審査員の皆様は、なぜ異議申し立てを説明しないのでしょうか?
異議など言われると困るからか?
異議などあり得ないと思っているからか?
自分は権威なのだから異議などないと信じているに違いない。

もうひとつの例をあげる。
不適合には「証拠」と「根拠」を書かなければならないことになっている。(ISO19011)
はっきりいうが、日本で書かれているISO審査報告書の不適合で「証拠」、「根拠」が書いてあるものは半数もない。私が過去に見た報告書の3割ないし4割程度である。残りの6割ないし 7割は証拠がない、根拠がない、ひどいものは両方ともない。
裁判を考えてみよう。
有罪とするには何が必要か? 「法律の根拠」と「犯罪が行われたという証拠」が必要なのはいうまでもない。例えば殺人は刑法199条で定められており、起訴するには証拠、つまり被害者、凶器、アリバイ、証言、自白などが必要であり、裁判官はそれが妥当かどうかで有罪か否かを判断することになる。
あなたが殺人罪で起訴されて「この人は殺人をしたと思われる」というだけで有罪判決を受けることがありえたら、とんでもないことだと思うでしょう?
その根拠は憲法31条にある。ものごとはすべて根拠があり、それらが積み重なって社会の仕組みができている。数学の公理や定理と同じだ。
ということはISO審査は論理ではないのだろうか?
ISOの審査の世界ではそんな非常識なことが大手を振ってまかり通っていると言う事実を知らなければならない。あなたが審査員なら日常そのような有罪判決を書いているかもしれない。
推定無罪は裁判の原則だが、ISO審査では推定有罪が原則とはおかしいじゃないか!
具体例をあげよう
「4.4.2一部の要員に対しては力量判定を実施していますが、一部の部門では力量を経験だけで判定しています。」(2008年に某社で某審査機関が書いた実例である)
経験だけで力量を判定して良いか悪いかという問題はさておき、この不適合(?)の証拠と根拠はなんだろうか?
根拠は4.4.2だなどと語ってはいけない。4.4.2のどの文言を満たさないのかをはっきりさせなくてはならない。意外かもしれないが、私はこの組織は不適合だと思う。問題は報告書の書き方が稚拙・お粗末ということだ。こんな文章を書いてお金をもらおうという根性が間違っている。
腐っているのかもしれない。
例えば「4.4.2では『力量を持つことを確実にすることに伴う記録を保持すること』とあるが、○○職場の○○担当者の力量を確実にした記録の提示を受けなかった」くらい書けば、お金をもらうことができるだろう。

現実には被監査側が納得できる文章を書いている審査員は非常に少ない。多くの審査員はISO19011を満たした文章を書かなくてもいいんだという傲慢、思い上がりをしているのだと思う。あるいは傲慢ではなくそのような文章を書く力量がないのだろうか?
そうでないというならその証拠に報告書にちゃんと証拠・根拠を明記したまえ。

より即物的、具体的な事例として、雑誌や本に「審査とは規格を教える場」とか「審査員の語ることをメモしないとは何だ」と語っている審査員が実在するという事実が私の説を立証する。
彼らの語ることを私流に解釈すると「審査とは規格を教える場」とは「審査員である私は審査を受ける者より規格を知っている。私は上位者である」ということであり、「審査員の語ることをメモしないとは何だ」とは「私は教師であり、君たちは生徒である。私の語ることをメモし拳拳服膺しなければならない」ということである。
違いますか?

私は権威を否定するものではない。しかし権力は否定する。
そもそもISO審査は権力も権威も必要とするものではなく、審査する側と審査を受ける側は対等であり、共有する客観的な審査基準に照らして、適合か不適合かを判定する行為に過ぎない。
そのような行為に権威を持ち出し権力に拡大し、指導を言い出し、学ぶことを強制することは、己が絶対者になろうとしたのだろう。
そして権力者から絶対者になれば、腐敗するのは間違いない。
私の論は言葉の遊びではない
現実には前述のように、上位者を任じている審査員、教師を任じている審査員がたくさんいるのだ。
とすると、審査員が絶対者になったから第三者認証制度は腐敗し崩壊したのだろうか? 審査員が上位者であるとか教師であると考えることが制度崩壊の原因なのだろうか?


本日の仮説

絶対権力を持つ審査員は
第三者認証制度を絶対腐敗させる




ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(08.09.18)
そもそもISO審査は権力も権威も必要とするものではなく、審査する側と審査を受ける側は対等であり、
え? 対等だったんですか。知りませんでした。てっきり、こちらの方が立場は上だと思い込んでいました。
だって、自社の仕事の仕組みが効果的に回っているかどうかをその専門家である審査機関に調べさせて、そのために報酬を払っているんでしょう?
それができる審査機関を選んで、審査をさせて報告をさせているわけで、その力量のないことがわかれば審査機関を代えることもしなければなりません。どう考えたって、使用者側である受審組織の方がエライというものです。
と、冗談はここまでにして、これは受審組織側に大きな考え方の間違いがあることも影響していると思います。
認証をいただくのだから審査機関の方が立場が上だと思い込んで、審査員のことを「○○審査官」とか、ヒドイ場合は「○○先生」とか呼んで、立場を自ら下に置いてしまうことがまず問題です。
ウチでも以前は審査員のことを先生と呼んでいました。これではいけないと思い、審査の出席者には審査員のことを先生と呼ぶのを止めさせました。
じゃあ何て呼べばいいのかと聞かれ、「○○さん」でいいと言うと、最初はみな当惑しておりました。でも、さん呼称に慣れてくると、だんだんと以前のような上下関係的な空気が変わってきました。それに連れて審査員の言いなりになって無条件に指摘を受け入れるということもなくなりました。
意外に呼び方一つで変わってくるものです。
また、審査員の言うことは絶対で、従わないとイケナイというカン違いもあるようです。
これは受審組織側の不勉強に大きな要因があるわけですが、規格を徹底的に読み込んで、規格が意図することは何かを捉え、それを自社の仕事の仕組みに当てはめて考えるという作業をキチンとしておく必要があります。
これができていないと、審査員の言うことに反論しようにもできません。
そもそも規格の解釈を審査員に教えてもらうというのが誤りの元です。
法律だって裁判官の考え方の違いで有罪になったり無罪になったりするのですから、これが規格ともなれば100人いれば100通りの解釈がありえます。
言い換えればこれが正解というのは存在しないわけで、それならば自社の解釈にもっと自信を持つべきです。そのためには、徹底した論理構築とその検証の積み重ねがバックボーンになければならず、単なる認証維持が目的のISOではダメということになります。
審査員の言いなりになって形骸化したISOを維持するのを選ぶか、実効が伴う仕事の仕組みとしてのISOを選ぶか、全てのスタートはそこにあるのではないでしょうか。

ぶらっくたいがぁ様 まいどありがとうございます。
審査員がのさばるのではなく、我々がのさばらせていたというのはある意味真実です。
私も17年も前はISO9001認証しないと輸出できないという状況でしたから、そうならざるを得なかったということもあります。
でも、今は顧客に対する品質保証ではなく、会社を良くするための品質マネジメントシステムであるならば(私がその前提が正しいと思っているわけではありませんよ)組織は自分を真ん中において考えるべきでしょう。
たいがぁさんの言い回しをお借りすれば、審査員を中心にして世の中が動いている天動説は大間違いで、世の中は動かず私たちがそれに合わせる地動説がまっとうなのです。

槐(えんじゅ♪)姐さんからお便りを頂きました(08.09.19)
こういうテーマの際に「絶対権力」という言葉が適切であるとは正直思えません。
どちらが「より有利な立場にあるのか」ではなくて、どちらかに一方的な権限があり、それを何人たりとも逆らうことなど許されないという場合は、実はかなり条件や制約のようなものが限られてしまうのではないかと考えますので。

えんじゅ姐さん ご意見ありがとうございます。
あなたはISO業界が現実にどのような事態にあるのかを知っているのか?
そして私がそれを挽回しようとしてリアル社会においていかなることをしているのか知っているのか?
そういう背景を知らずに文字を読んだだけでコメントしてほしくない


のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.09.21)
おばQ様
「権力は腐敗する」という仮説は正しいと思います。これは、「階層化社会、格差社会は固定化し腐敗する」、との仮説に言い換えることもできるのではないでしょうか。
「俺は何もないところからスタートし、自らの能力と努力で今の地位を獲得したのだ」、と豪語する人は多いと思いますが、そのような人も自分の息子や娘に派遣労働者からスタートしろ、とは言わないでしょう。大分県の教員不正採用事件のように、自分の得た地位を利用して、できるだけ息子や娘の社会人としてのスタートポジションに便宜を図ろうとするのが人情ではないでしょうか。
生産力を高めるのにはその仕事を組織化するのが効果的です。組織の効率をより高めるためには、組織を階層化し、上層の階層により権限を与えるでしょう。より権限を得たものがその権限を利用してより富をかき集め格差を広げようとするのは必然です。効率的な生産組織を築こうとすれば、共産主義社会であろうと、資本主義社会であろうとこれを避けることはできないのではないでしょうか。
しかし、効率をめざす社会もやがてその階層が固定化し停滞し腐敗する恐れがあります。組織化した詐欺や偽装の横行が発覚しても、頭を下げるのは社長ばかり。社長が謝る謝らないに関わらず、従業員は保身のため、ロボットのように口をつぐんでしまう社会になってしまう恐れがあります。
以上、前置きが長くなりましたが、本題である”権威”について意見します。ただし、私は、会社の経営にもISOの審査にも実経験がありませんので、これは私の妄想です。実態とかけ離れていると思われたら笑い飛ばしてください。
”権限”が組織の効率化に重要な役割を果たすように、”権威”や”信頼”も組織の効率にとって重要です。”権限”は明文化され、権力”につながるものですが、”権威とか信頼”とは、一体何なんでしょう。とらえ難いですね。
おばQ様の仰るように、審査に”権威”は必要ない、とするのが今どきの意見だと思います。本当は企業内部に”権威と信頼”が確立しているなら外部の”権威と信頼”に頼る必要はありません。たたき上げの社長が一身で”権威と信頼”を背負っている会社もあるのではないでしょうか。また、ほとんどの企業内部で、業務の領域ごとに”権威と信頼”を背負っている方々がいらっしゃると思います。
ただ、審査は、企業にとっての付加価値であり、権威と信頼にもとづいた専門的な検査点検がなされるのであれば、それはそれで意義あるものであり、利用できるものではないでしょうか。審査の権威を押し付けるものではなく、企業自らが備えている業務の権威に側面から付加する権威であればよいと思います。そもそも権威が感じられないような審査を企業が望むわけがない、と私は思うのですが。
以上、妄想ですが、実際の審査で、「専門性のかけらも感ぜられない審査に権威など必要ない」と感ぜられるのはもっともだと思います。
ただし、もし私が経営者であれば、審査を依頼するのには大変な決断が必要です。なにしろ、私は日々の食費も1円単位で管理している輩ですから(笑)。私の知っている審査員も、一流大学を卒業し、一流企業に勤めた経歴ですが、そのような権威(?)に何十万もの審査費用を支払うつもりはないですね。
松下幸之助もかって言ったそうです。「なぜ、コンサルタントが必要なんだ?・・・自分でできないのか?」と。

のんきなとうさん様 毎度ありがとうございます。
私は権威を否定する意図は全くありません。絶対権力が絶対腐敗するかどうかも知ったこっちゃありません。その意味で、絶対権力が絶対腐敗するとは単なるキャッチフレーズです。
私は目の前の審査員が、権力をもって規格不適合な審査を行っていることを批判し糾弾しているにすぎません。
そうですね、
私が期待する審査は、権威とか権力を示して行うのではなく、審査の過程とその結論において権威をにじみだす様なことを期待しますね
そのような審査を見たことがないとは言いません。私の91年からのISO人生の中で3人だけありました。それ以外の数十人、数か国に及ぶ審査員はお金を払う価値がないと感じたのです。
ところで企業の中で権威とか権力が通用するのでしょうか?定年まで指折り数える現在まで、私が勤めた数社において上司であった方は十数人になりますが、尊敬できる人、どうしようもない人もいました。でも確率的に審査員よりはアベレージが良かったですね。しかも審査員と違い、会社の中では問題が起きたらいくら権力を持っていても責任を取るか取らされましたので浄化作用は審査よりもまっとうであったようです 
「なぜ、コンサルタントが必要なんだ?・・・自分でできないのか?」
その言葉知りませんでした。まったく同感です!
じゃあ、「なぜISO認証するんだ?・・・自己宣言できないのか?」というのを次回のテーマとしましょうか?


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