私はISOの世界について言いたい放題語っているので、さぞかしお山の大将とか天上天下唯我独尊などとうぬぼれているのではないかと思われていることだろう。
本当の私はそこまでうぬぼれていないし、それどころか今だ修行中の身であることを自認している。では本日は私のISOの遍歴を語る。
まあ先日の
鼎の軽重を問うの続編、あるいは別の面から見た番外編である。
私がここに書いていることに嘘偽りはない。1991年にISO9001:1987というものに出会った。というより「認証しないとだめなんだあ〜」という事態に追い込まれた会社で担当に任じられたのである。
正確に言えば当時ISO規格にあった簡易型のISO9002でも良かったのだが、エライさんにプライドがあったのか9001と決められた。
あれから既に17年、いろいろとあったが年代記風に書けばおおよそ次のようになる。
- 1991-1992 黎明期
私はISOもUSOの違いも、右も左もわかりません。
自分が訳したISO規格を眺めては「なんだあ!こりゃ」とぼやいておりました。
「記録」という言葉ひとつとっても、その意味はなんなのか? どこまですればよいのか?これで良いのか悪いのか? ということが全然わからず、自信もなにもありません。
風に吹かれる木の葉のように吹かれるまま、水面の木の葉のように流されるまま
審査での審査員のお言葉を神のお告げと信じていた時代であります。
- 1993-1995 自我確立期
既に事務局としてISO9001を2回、ISO9002を2回の認証経験を持ちました。コンサルじゃありません。自分が規則を作り、指導して、審査員と応対したのが4回です。一般の方は短期間にこれだけ体験した人はちょっといないんじゃないでしょうか?
87年版についてはもう完璧という自信を持っちゃいましたね。
1994年にISO規格が改定になりましたが、1994年版は品質方針などの文言の一部修正という程度でほとんど影響はありませんでした。
しかし94年で変わったことはISO規格が二者間の取引よりも第三者認証のための規格とみなされたということでしょう。それはISOビジネスを正当化し、ISO9001が品質保証の規格ではなく、品質マネジメントシステムの規格という発想が出てくる元となり、そして良くも悪くも現在の事態を招いたのです。
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仮に今でもISO9001が二者間の取引に用いるものであると定義され認識されていたならば、品質マネジメントシステム規格になることはなかったのではないだろうか?
だって二者間の取引であれば良い品質のものはほしいが、相手の会社を良くしようという発想が出てくるものだろうか?(反語である)
そもそも品質保証の規格で品質を良くしようとか、それどころか会社を良くしようなんて妄想を持ったのが大間違いだったのですが・・
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- 1995-1996 倦怠期
嗚呼!私の人生は終わったのか、ISO9000sは自家薬籠、もうチャレンジするものはない、生きがいを失った
なんてことじゃありません。もっと深刻、ISO屋としてなんとか5年間飯を食ってきたのですが、維持の時代になれば私の仕事はありません。私はどうしたらいいの?
会社は不要な人を養っておく捨て扶持なんて余裕はありません。私はISOと縁を切り(切られ)いろいろな仕事をしました。計測器管理、環境管理、設備保全・・廃棄物管理なんてのもしましたし、公害防止管理者なんて資格も取りました。
ところが、これがその後の起死回生のこやしとなったのですねえ〜
- 1997-1998 捲土重来
今度ISO14001というのが現れたのです。企業はこれから環境の証明書としてこれを認証しないといけないそうなのです。
また私に打順が回ってきました。そうです!見ている人は見ているのです
ISO14001の規格を一生懸命読みました。しかし、不思議なことに実際の審査はISO規格ではなく審査機関の独特の(偏見に満ちた)解釈で行われているということを知りました。
ISO9000が外資系の審査機関によって始まったということは、規格に沿った欧州流の審査が日本でも行われるという結果になりましたが、ISO14001は日本の某大手審査機関の考え、さらに突き詰めれば一部の人たちの解釈で行われたという重大な不具合が生じたのです。
簡単に言えばISO9000はグルーバルスタンダードとして始まったのだが、ISO14001ははじめからグローバルじゃなかったのです。この事実を決して忘れてはいけません。
目的は3年後の目標だ、環境側面は計算だというまことにもっておかしな、へんてこりんな解釈が日本のISO14001をだめにしたという責任を誰に追求したらいいのでしょうか?
実はそういった皆様のご芳名を存じております
日本のISO14001の破滅への道はこれが原因でしょう。
まあ、正論を語っても仕方ありません。私の仕事は正義を通すことでも神の国を実現することでもありません。単にISO14001の免状をゲットすることだったのです。
私はひたすらJ▲○○流とかJ▲○○方式と呼ばれる規格解釈(本当は間違った規格解釈)を学びました。ISO14001認証を目指すのではなくJ▲○○の認証を目指すと考えれば良心も傷まず、給料がいただけるならそれでもいいじゃないですか。
というわけで私はJ▲○○解釈には詳しくなりJ▲○○認証なら任せとけとなりました。
しかし「このような解釈とか、このような解釈での認証に意味があるのか?」と初心に返って考えると全く意味がなかったように思います。でも当時私の価値観はオマンマを食べるための仕事という認識でした。
- 1999-2001 大恐慌
ISO14001認証請負業も一巡すればもう需要がありません。私はどうしたらいいのでしょう。とうとう仕事を失い道端で寝起きするようになるのでしょうか?
笑いごとではなく重大深刻なことでした。
そして、ああ!とうとうリストラです。
他人の場合は「おかわいそうに」で済みますが、自分の場合は目の前真っ暗
- 2002-2004 お山の大将の時期
ところが世の中うまくできているようで、捨てる神あれば拾う神あり、
別な職場と変わりましたがここではISO規格なんて知っている人がいない。鳥なき里のこうもりという言葉がありますが・・・私はこうもりだったのか!?
正直言ってISO規格なんてのは本を読み、考えてもなかなか身につかない。
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昔8ビットのパソコンが出現したとき大勢がBASICを学ぼうと本を買って読んだ。しかしほとんどの人(全部かもしれない)は身につかなかった。あんなもの本を読んでもだめです。パソコンを買って動かすしかありません。
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内部監査員講習とか審査員研修とか受けても実戦で役に立つのか?となりますと、無駄とは言いませんが、そりゃ実際に事務局をしてきたとか審査員とチャンチャンバラバラしてきた人の方が慣れているのは当然です。
道場剣法はやくざ剣法に勝てません
「さあ、ご質問、お悩みがあればいらっしゃい、なんでも占じてあげましょう」
私は頭でっかちの人たちから一目置かれました。そして大きな顔をしてのさばっていたのです。
- 2004-2005 挫折そして修行
私はISO14001でもISO9000でも審査機関対応の認証テクニックを身につけて簡単に認証を得るということに得意になった。
しかしあるとき、あるところで某ISO-TC委員に「ISOとはそういうものではない」とカツを入れられた。本当に雷に打たれたように感じた。
- 私は間違っていたのだろうか?
- 私のISO9000の理解もISO14000の理解も間違いなのか?
- 私が今までしてきたことは悪いことだったのか?
- じゃあ、世の中は間違っているのだろうか?
- J▲○○流もB▼流も間違っているのだろうか?
- 審査機関も審査員も間違っているのだろうか?
私は山にこもり、滝に打たれ、熊と戦った・・・わけがない!
ISOの意義、認証の意義、会社とISOの関係とはなんなのだろうか?
ISO不可解なり
- 2006-今 悟りと闘い
すべての会社はユニークであり、固有の文化を持ち、そしてそれを構成する人もみな違う。そして現実の生きた会社を動かしていくマネジメントシステムは一様であるわけがなく、ISO規格に基づいた仕組みなんてはうそ800、会社はそれぞれが最適解を求めるべきであり、そうでなければならない。
そもそもISOの要求する仕組みというのはあり得ない。ISO規格はシステムが備えるべき条件を示しているのだ。その条件を満たす方法は会社の数だけある。そして会社のシステムは渾然一体、内部監査は監査部監査の一部であるはずだし、社長方針はあっても品質方針も環境方針もなくて当然である。
ISO認証とはステロタイプを押し付けることではなく、会社の仕組みが最低限の基準を満たしていることを確認することではないか。審査員は神ではなく、指導者でもなく、比較検証するだけなのだ。
画一的な規格解釈を押し付ける認証機関は害悪であり人間社会への脅威である!
アイアンサイドではないが、私はこの世の悪を許すことはできない。悪でなくても間違った認証機関、トンデモ審査員は退治しなければならないのだ。
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アイアンサイドとは1970年頃に放送された下半身不随の警部のテレビドラマ。
「私は、世に存在する悪を許すことはできない。」というせりふで物語は始まった。
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実際の審査で、そしてこのウェブサイトで、そして与えられるすべての機会を使って、私はISO教の預言者として悪を糾弾しなければならない。
それは私のウィルではなく、神に召されたのである。
懺悔録とはうそじゃないか!
おまえは讒言録を書いているではないか? などと言われそうだな
それじゃあ次回は黙示録でいこうか
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【懺悔】(さんげ)
自分の過去の罪悪を仏や神に告白し、悔い改めること。
【讒言】(ざんげん)
他人を陥れようとして、事実をまげ、偽って告げ口をすること。
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