鼎の軽重を問う 08.08.09

本日はタイトルからして不遜なことを書く。なんていうと「わざわざそんなことを言うまでもないだろう、いつも不遜ではないか」とまぜっかえされるのは間違いない。
まあ、それはおいといて・・と 

私は高校を出てすぐに社会に出て、それ以降ずっと知的でない仕事をしてきた。フーテンの寅さんのように学問というか学校教育に縁のない人間である。
私の育った環境も高等教育とは無縁だった。私が子供の頃、隣近所で大学に行ったとか大学を出たなんておひとは一人もいなかった。我が一族で大学に行ったのは私より年上のいとこにはいなかったと思う。私より年下のいとこには大学に行ったのがひとりふたりいた。もちろん私のまわりの人間が勉強が嫌いだとか、頭が悪いとかでなく、お金がなかったからだ。
同様に私の兄弟で大学に行ったものはいない。それどころか姉が高校に行ったとき、貧乏な我が家でも高校に行かせてもらえるのかとうれしい驚きであった。私が中学を卒業する時、親父はお金をかけまいと国鉄の学校に入れようとした。当時国鉄には中卒を採用して国鉄内の高等学校で教育する制度があった。だが国鉄の学校に入るのは無理なことであった。
苦学してでも行けばいいのに、という論理は成り立たない。私の子供の頃は、中学を出たらお金を稼いで家に入れないと家族が食べていけなかった。
その頃、私が見かける大学を出たという人は、医者とか学校の先生くらいであった。いかに学問と縁遠いコミュニティにいたかということだろう。
会社に入ると事務員、技術者は大学卒というのが普通だったが、みな大学4年の学士であった。会社に入って何年かして修士がひとり入社してきた。いやあ世の中にはものすごく勉強した人がいるもんだと感心した。これは皮肉とか、いやみとか、ねたみとか、そんな感情ではない。素直にそう感じたのである。

70年代、80年代はまだインターネットもなく都会に行くにもままならない時代である。新幹線のないとき、私の住んでいるところから東京の講習会に行くなんて、三日がかりの大事業であった。田舎には夜学もなければ専門学校もない。何事かを学ぼうとすると本とか雑誌しかない。
何事といっても大したことじゃない。シーケンスを勉強しようとか、NCプログラミングが上手になりたいとか、計測器の校正方法を学ぶとか、そういったことだ。
本を書いている人や、雑誌に寄稿している人は雲の上の人、私とは身分が違うと感じていた。なにしろ当時の私の持っている情報量とは彼らの持っている情報量は桁違いだったから。私が学校に行っていないというだけでなく、田舎に住んでいるということは情報入手という点で、ものすごいハンディキャップがあった。

1990年頃、ISO9001なんてのが現れて、私は会社でISO9001認証の任務を仰せつかった。当時はまわりの誰もISOなんて知らないし、当然私も知らない。まったくのゼロからの出発である。今なら笑ってしまうような状態だった。
もし、今の私があの頃に戻れたらどんなことになるだろうか?
まわりから神とあがめられるかもしれない 
今はISO規格の雑誌も何種類もあるし(廃刊になったものもある)単行本も数え切れないほどある。 そして、インターネットにはISOに関する認定機関、認証機関、コンサル、個人のウェブサイトが星の数ほどある。規格解説、具体的事例などの情報が、よりどりみどり、審査員が語ったお言葉を後生大事にありがたく信仰することもない。
しかし、1990年頃はISO規格の雑誌など存在してない。単行本もない。あるのは日本規格協会の対訳本(1988年発行)だけ。しかも当時の私はその翻訳本の存在を知らず、英語のISO9001:1987を入手して私の怪しげな英語力で翻訳し、それを基にどうするべきかを考えていた。笑い話のような本当のはなしである。
ISO9001:1987が正式にJISZ9901として制定されたのは1991年である。
1991年だったと思う。審査が具体化して審査機関の営業担当者が田舎まで来てくれて当社で規格の説明をしてくれた。その話を聞いて、ISO規格の意味はそうだったのか!といたく感動したことを覚えている。あれから17年、時の経つのは早いものだ。

ISOの書籍が少しずつでも出版されるようになったのは、94年か95年頃からだったろう。ISOについての本の広告を見ると、なけなしのこづかいで買い、むさぼるように読んだ。誰もがISOの知識、情報に飢えていた。
ウィンドウズ95が出現して、インターネットが一般庶民のものになったのは1996年である。私は毎晩、家でパソコンにかじりついてネットサーフィンをした。当時はまだISO関係のウェブサイトがたくさんはなかった。希少なISOのホームページを見つけると、それをプリントアウトしてホチキスで本のように綴じ、暗記するほど読んだものだ。
ISOに限らず本を書く人と読む人は別世界であり、ホームページを作る人と見る人は知識量において隔絶していた。そして本に書いてあることや、ウェブに書いてあることを絶対的に正しいと信じていた。

しかし審査が毎年の行事になると、審査員が変われば語ることに矛盾があり、また語っていること自体に私は疑問を感じるようになった。彼らが正しいとか絶対だと信じることができなくなったのである。
ISO審査で審査員が語ったことに理解できないことがあると、真実を知りたかった。しかしその方法がない。まったくおかしい審査結果であっても企業側はどうすることもできず、審査員の判定に従うしかなかった。当時、私は異議申し立てという仕組みがあることを知らなかった。IAFガイドもJABコードの存在も知らなかった。
そんな私であるが、あるとき一大決心をして、ご高名は存じ上げてもお会いしたこともないISO-TC委員(ISO規格を作る人)にお問い合わせメールを出した。すると、信じられないことであったが、なんとご返事をいただいた。日本の代表として国際会議に出ている偉い人から私のような無名な田舎者のメールに返事をされたことにいたく感謝し恐縮した。と同時に、なあんだみんな同じ人間じゃないかという感じもした。
そして、その回答には私が疑問を持った審査員が語ったことと異なることが書いてあり、私は審査員全てがISO規格の真髄を理解しているとは思えなくなった。
権威への不信、いや絶対がほころびたのである 
私のISO審査員との確執はその時から始まった。とても手も足も出ないと思っていた剣術使いと、立ち合ってみれば大したことはなかったのである。ISO規格にないことを審査員がUKASのルールで要求していますなどと言ったら、すぐにUKASにメールを出すことに躊躇しなくなった。翌日UKASの回答を得た私に論駁されて逃げ帰った審査員もいた。
私はお山の大将となった。
UKAS(ユーカス)とはイギリスの認定機関でISOの認証機関はここから認定(免許のようなもの)を受けて審査ビジネスをしている。

その後、訳あって都会に出てきて、ISO本の著者やISOのウェブの管理人、はたまた雑誌の写真でしか見たことのない認証機関のエライさんなどをお見かけする機会ができた。さすがにそんな人たちに直接お話しかけするほど図々しくはなかったが、彼らの語ることを聞いていると、私と知的レベルにおいてあまり変わらないような気がした。
いや知的レベルだけでなく、知識レベルにおいても違いがないと言っては言いすぎだろうか? 彼らと私のISOについての力量の差は、囲碁でいうとプロとアマの違いどころではなく、段位者と級位者の違いもない。せいぜいが三段と四段の差くらいしかないように感じたのである。
そして、ひょっとするとだが、私が四段で彼らが三段かもしれないのである 

あるとき環境の講演会に行ってお話を聞いていた。その講演者は環境問題についてたくさん本を書いている大学の先生で、結構著名な方であった。廃棄物の不法投棄がいかに問題であるか、そして講演者がいかにその不法投棄防止に活躍しているかというありがたいお話であった。最後の方になって排出者はマニフェスト票というのを記載しなくてはならない、廃棄物業者のところでお願いして写真を撮ってきたとマニフェスト票をパワーポイントで映し出した。これを見て、私はこの講演者の力量を見きりましたね。
マニフェストって市役所でもどこでも100枚セット2500円で売っています。工場では日常、廃棄物を出すたびにマニフェストを書いてます。珍しくも何ともありません。そういうしろものを業者のところで見せてもらってありがたがっている人が、廃棄物管理の現場を知っているはずがない。不法投棄撲滅に活躍しているはずがないと思いました。その方の書いた本、語ること、すべてを信用できなくなりました。

ISO14001について本を書かれている有名な教授がいますが彼の経歴を見れば、私よりはるかに短い期間しか関わっていない。もちろん長年していれば詳しくなるのかといえば、そんなこともないのは確かだ。 しかしISO規格についてISO-TC委員と違うことを書いているのを見ると、それ以外のところも信じられないのは本当のところだ。
私はISO-TC委員の語ることは信じる。ISO規格解説として彼らが語ること以上の権威はない。
ただ私は規格の解説として彼らの語ることを信じるが、それが会社にとって適切か否かかはまた別である。

地球温暖化にしても、大変だあ!大変だあ!と人心を惑わす本は多いが、そういった本を書いている人々、大学の先生やジャーナリストご自身が研究し書いているのは・・ほとんどない。著者(複数)の九割はIPCCの報告書を読んで、それを解釈し、あるいは自分に都合よく解釈して、本を書いているに過ぎない。
お断りしておく、温暖化が正しいとか正しくないということではない。そういった方が書いた本で示しているデータの多くが、原典であるIPCC報告書のデータと齟齬があり、信頼性を疑うということだ。
またもちろん、いろいろな報告書を読んでそれを咀嚼して人に語ってはいけないということではない。だいたいIPCCだって自らが研究しているわけではなく、他人の論文を評価しているに過ぎない。
言いたいことは、我々素人も同じ立場だということだ。
ごたいそうなことを言う人は環境問題でも、ISOでも、政治でも大勢いる。そういう皆さんは本当の専門家なのか? 知っているのか? と、
我々下々だっては鼎の軽重を問う権利を持っている。
うそ800をありがたがって聞くことはない。


晴耕雨読ジジイ様からお便りを頂きました(08.08.09)
オバQさん、私はあなたの隠れファンです。もっとも隠れる必要などはなにもないが、何せ晴耕雨読ジジイなのであまり表には出たくないので悪しからず。さて今回の「鼎の軽重を問う」も楽しく拝見させていただいた。オバQさんの育った環境と私の育った環境はほとんど同じ環境なので少々驚かされた。それはそうと、オバQさんは鼎の軽重を誰に問うたのかが興味津々ですな。
「定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉。對曰、在コ不在鼎。今周コ雖衰、天命未改。鼎之輕重、未可問也。 」
さて、「鼎の軽重」と問うたら「易姓革命」になるが、やはり日本人は「萬世一系」ではないのか。
ところで、もうひとつの鼎、「環境側面の決定」の軽重をオバQさんに問いたい。
BS7750時点での有意な環境側面の決定は○×方式が主力だったと認識している。しかし単なる○×方式ではなくマトリックスFEMAに近いものだった。推察するに恐らく日本人の持つ繊細さがISO14001での著しい環境側面の特定を一歩高度化させ、工程FEMAを模したものに変えたのだと考える。とすると労働安全衛生法にも表現をされているALARP原則(As Low As Reasonably Practicable)を環境に置換えたとき、点数評価や段階評価はリスクマネジメントとして至極当たり前のことだと感じている。
大体、このままの経済活動を続けたら経済成長の限界が来ると感じた経済人の危機感が環境マネジメントシステムを生んだのだから、環境側面を手法抜きで決定できる「ベテラン社員」のノウハウを手順にするのは至極当然のこと。成果主義の結果、現場力が落ちている大企業、コストダウンを要求され法規担当など置けない下請け、環境リスクは赤信号ではないのか。手抜きの「環境影響評価」から脱却せよ。と言いたい。

晴耕雨読ジジイ様 お便りありがとうございます。
私は晴行車読ジジイということになりますか? なにせ耕す畑もなく、本を読む机もなく、晴れればデモに参加、本を読むのは電車の中と決まっております。
鼎の軽重を誰に問うたか?とは晴耕雨読ジジイ様のことですから、私自身が誰かに問われるぞというご注意、あるいはけん責と受け止めておきましょう。
もっとも私は問われるほどの権威ではないのですが
いちじるしい環境側面の決定方法ということに私はものすごい違和感を感じております。なんで決定せにゃいかんのか? いや、改めて決定する必要性はなにか?ということです。
晴耕雨読ジジイ様はそのへんをいかがお考えでしょうか?
○×をつける、点数評価するなどなどの前に、そのような発想が根本的に間違っているのではないか?と思うのです。
考えると表現しないとこが私の譲歩したところです。
工程FEMAもALARP原則も浅学にして存じ上げませんが、現実社会の問題を点数付けて順位をつけるという発想が妥当なのか?私にはわかりませんね。
ちなみに日本で計算方式が流行したのは当時先行していた大手の認証機構が○○流といってはやらせ、それしか知らない審査員がそれ以外の方法だといちゃもんをつけたからにすぎません。B▼社では当時から点数方式に批判的でしたが、多勢に無勢主流になりませんでした。そういう96年から97年のドロドロしたことはそりゃあ知りつくしております。残念ながら、決して日本人の持つ繊細さがどうこうではありません。
ところで本題ですが、住宅ローンを組むのに、どういった組み合わせが支払総額を最小にできるのかという問題は計算できますし、その結果が直観と異なる場合もあるでしょう。
しかし、排水処理施設、廃棄物、エネルギーなどなどの環境側面に点数付けて・・という発想は大きくずれています。
同時に、○×をつけて決めようというのも大外しでしょう。
著しい環境側面なんて、キリスト教で言うありてあるものなのです。過去からその危険性を知り、管理手順を決めていなければ、そりゃ・・・言葉も出ません。
危機感が環境マネジメントシステムを生んだ
そうでしょうか?
危機感が環境マネジメントシステム規格を生んだ
ならわかります。
環境マネジメントシステムというものも過去から存在しています。ISO14001はそれが具備すべき最低条件をグローバルで決めたにすぎません。
晴耕雨読ジジイ様と私は結論的には似ているかもしれませんが、発想とプロセスは大きく異なるような気がします。


ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(08.08.11)
そもそも「環境側面の決定」に軽重ってものがあるのでしょうか。日本語的に意味不明です。複雑かシンプルかとかならわかりますがねえ。
ちなみに当社では、環境側面の評価はFMEAの考え方を一部取り入れています。
ただし、それはTS16949のように対策の優先順位をつけるためではなく、更なる対策の要否を判断するためです。
つまり、もし発生した場合に被るダメージ、それが発生する頻度(可能性)、潜在性の3つから、「現状の対策で十分か否か」を総合的に考えるために用います。
また、シンプルな構造なので、「放置できないのに、点数をどう操作しても○点以上にならない」とか、「無管理でも問題ないのに、計算すると"対策要"になってしまう」などといったおかしな結果に悩むようなことはありません。

ぶらっくたいがぁ様 いつもご指導ありがとうございます。
そもそも「環境側面の決定」に軽重ってものがあるのでしょうか。
いや、これは私もうっかりいたしました。晴耕雨読ジジイ様もうっかりしていたのでしょう。あるいは、晴耕雨読ジジイ様もダジャレ好きで鼎の軽重にかけただけでしょう。
どう考えても『「環境側面の決定」の軽重』はなさそうです。
そして環境側面の決定には軽重も順位も不要かと思います。
前世紀に、某審査機関が「上位何位までを著しいと決めなさない」とか、「何点以上が著しいのよ」なんていったものですから、その宗教教義がいまだに残っているのでしょう。
世に恐ろしきは・・刺客を送られるといけないので止めときます。
ISO規格を理解するにはまず序文を読みます。そして全体を読んで規格の流れを理解すべきです。そうしますとISO14001は環境側面の管理が背骨であることがわかります。
言い換えると・・言い換えなくても同じなのですが・・ぶらっくたいがぁ様がおっしゃるように、管理しなければならないことが著しい環境側面ということです。
昔、環境側面なんて言葉がない時代から、管理しなければならない事項はしっかりと管理、つまり、手順を決め、基準を決め、教育し、場合によっては指名業務にし、記録を残し、予防保全をしてきたはずです。私はそういう意味で「ありてあるもの」あらため探すとか決定しなくてもよいはずと表現したのですが・・
誰が見ても重要な項目なのだが計算結果著しくならないというお悩みをする事務局もいますね 
だいぶ前ですが、ネットで議論した環境側面点数派の相手が「計算結果、著しい側面がわかったこともある」なんておっしゃったことがありました。私はその瞬間、議論していたのが無駄であった、相手にした私がばかだったと気付きました。 

あらま様からお便りを頂きました(08.08.11)
鼎(かなえ)の軽重を読んで
佐為さま あらまです
「鼎の軽重」の名文を拝読させていただきました。
小生は、「ISO が本当に必要なのか」と問うておられているような印象を受けました。
さて、小生の亡父は、ウインドウズが日の目を見ない前に他界していて、それまで、品質管理に奔走する毎日でした。
徹底的に作業の標準化に努めてきましたので、当時の熟練工の先輩から、そうとうに虐められてきたようです。
そうして、今に至り、工場の中は整然として無駄がなく、全てがコンピューターで管理されています。
パソコンの普及で、亡父の描いていたものが現実となったわけです。
しかし、機械とかシステム中心の組織で働くことは、大量の‘うつ患者’が生まれ、また、作業が標準化されたことで、コア技術が外に流れ、それが日本の「産業の空洞化」を加速させているように思います。
つまり、ISO とは「諸刃の刃」であるということを、最近、強く感じます。

あらま様 いつもご指導ありがとうございます。
標準化、ISOは諸刃の剣と言われると返す言葉がありません。
しかし、私はISOが現れる前から標準化を生きがいとしてきました。確かにものすごい腕を持つ技能者はいます。昔堅気の人は、コツや経験を後輩に伝えません。自分の価値が失われると思うんでしょう。私も現場上がりでしたが、監督者になると先輩の技能を後輩に効率的に伝えないとなりません。先輩は無理偏にげんこつと書くなんてのはやはり時代に合いません。
そういう意味で技能を手順や基準に表せるものは標準化すべきです。
しかし自動機やNC機械が技能を不要としてしまったというのは確かにあるレベルまではそうでしょう。しかしより高度な技能は今でも価値はありますし、そういう技能者はかえって減ってしまったのではないでしょうか?
私が監督者になる前、私がNCプログラムが得意になったのを先輩が見て「俺はNCが使えないが、絶対お前に出来ないことができる」と言っていました。その人は県から卓越技能者として表彰されました。
まあ、30年も昔のはなしです。


あらま様からお便りを頂きました(08.08.12)
後世に遺すもの
佐為さま あらまです
技術とはカンとかコツを体得するものなので、自分からすすんで先輩のモノを盗むことだと思っています。
ですから、熟練工がマニュアルに沿って若い人に懇切丁寧に教育している今の姿をみていると、「果たしてこんなんでよいものなのか ?」と、思う事があります。
ところで、作業内容にも、人でなければ出来ない分野、機械でないと出来ない分野などに区分けができると思います。
つまり、マニュアル化できるものと出来ないものがあり、それを一律、標準化、規格化することは、そもそもムリなことだと思います。
従って、評価の仕方についても、○×式が良いとか悪いの問題ではなく、それ相応の評価の仕方があってよいと思います。
夜や休日に、QCコンサルタントとして全国に飛び回っていた亡父は、膨大な「京大式カード」を残していました。(父が亡くなった直後に、フロッピーが普及した時代の話です)
そのなかに、昔の言葉で「有機的な評価」と記したファイルがあります。
亡父もそのことに、非常に悩んでいたことが偲ばれます。
「後世に遺すものとは、‘シート’なのか‘魂’なのか」と、記された箇所が印象的でした。
その時代の時計は、まだ、ゆっくりと動いていたようです。

現代の名工のあらま様からのお言葉には反論できません。
私は人に誇れる技能はありませんが自分が置かれた時代と環境において標準化とか文書への定着化などを通して品質とか生産性などを良くしようと努力してきました。
でも、ISOばかりじゃありませんが、30年前に戻って自分を見れば「おまえ、そんなことも分からないのか!」と怒鳴りたくなるでしょうね。
おっと、そう思うと後輩を未熟だとか鍛えがいがないなんて言えた義理ではありません。
ちょっと待てよ、
そうすると、10年後の私は今の私をみて「おまえ、そんなことも分からないのか!」怒鳴るのでしょうか?
うーん、一層の努力をせねば


のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.08.14)
鼎の軽重を問う
オバQ様 私も団塊の世代、懐かしく昔を思い出しました。昭和40年代にはまだ日本海沿線に長距離夜行列車が走っていましたね。3月、卒業式が終わると、列車が海沿いの寒村に停車するたびに、中学校を卒業したばかりと思えるような少年が乗り込んでくるのです。駅では小さな子供たちから老人たちまで村人が集まって手を振って見送っているのです。小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を思い出します。入り江に集まった島人が岬を廻る船に手を振って花嫁に別れを告げる・・・。かって、日本中で見られた情景ではなかったと思います。私も思い出しては涙が出ます。私は大学入学で大阪に出たのですが、夜行列車が福知山線の山間から宝塚を抜け、大阪の平野部に入ったとき、こんなに平らで広い土地があるんだ、と感動したことを思い出します。

のんきなとうさん様 お便りありがとうございます。
半世紀前は日本は貧しかったのです。私たちはそれを忘れてはいけません。貧しいことは恥ではなく、そういった逆境から現在の豊かさを築いてきたことを忘れてしまったことを恥ずべきです。
三丁目の夕日のような暮らしが現実の私たち暮らしでした。もっと良い暮らしをしたいと思ってモーレツサラリーマンしていたのです。そして今の豊かさが私たち世代の功績です。
何も知らない若けーもんがネチクチ文句いーんじゃねと言いましょう。


晴耕雨読ジジイ様からお便りを頂きました(08.08.16)
オバQさん、いや佐為さん、ご回答有難う。親愛なる佐為さんから目指すところは同じと言われ嬉しく思っていますよ。書きました内容はあくまでも私見ですので悪しからず。また、ぶらっくたいがぁさんからのご指摘は弁解の余地はありません。まじめなWebサイトの書き込みには不適切だとお詫びします。
しかし、あらまさんの「ISO とは諸刃の刃」には心を打たれます。この点では私も佐為さんと結論を同じにするものですが、一面の真理だと思わざるを得ない状況にあると思います。
経済産業省から「マネジメントシステム規格認証制度の信頼性確保のためのガイドライン」なんてものが出たのは、企業の品質管理能力が問われているからに他ならない?(見つけない認証機関が悪いのか、違反する企業が悪いのか。)サテサテ、幡ガ動クノカ、風ガ動クノカ、ハタマタ仁者ノ心動クノカ。(無門關弐拾九からいいとこ取り) クワバラ、クワバラ・。
今ヤ △ノコ衰へ、天命既ニ改レリ。鼎之輕重、モハヤ問フ価値モナシ。か?(^_-)-☆(軽口をお許しください。)

晴耕雨読ジジイ様 毎度ありがとうございます。
品質管理いえ品質保証となりますと、数学とか物理とは違いますので、これが正解だとか、これ以外は間違いだということはないと思います。また、ある場合は正解あるいは最適解であっても別の場合は不適当なこともあるでしょう。
それに私も一家言はありますが、アマチュアです。ですから私の論が正しいとはいえません。それどころかメジャーでもありません。
しかしアマチュアだからこそアマチュアの立場で日本のISOを良くしたいと念じております。
またのご訪問をお待ちしております。


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