ISO道 08.11.15

本日は道に関する駄文です。道といっても日光街道とか国道一号線とかルート66とかそういったものではありません。修業とか研鑽に関わって「道」がつくものについてのお話でございます。
日本では道がつくものってたくさんあります。良く知られているのに剣道、柔道、弓道、空手道、合気道、香道、華道、茶道、ちょっと知られていない(?)居合道、詩吟道、棋道、将棋道、巨人の星の野球道、愛ちゃんの卓球道、さらにはラーメン道、松本道弘が唱える英語道やディベート道、昔はサラリーマンの必須科目であった酒道とマージャン道、現代のサラリーマンの必修科目はゴルフ道とカラオケ道、奥さんたちは買い物道とエステ道、北朝鮮援助も兼ねているパチンコ道、驚くなかれ競馬道、競輪道、競艇道、ネオン街のホスト道、ホステス道・・
日本人は職業・学問どころか、スポーツであろうと芸事であろうと博打でさえも「道」、つまりブッダの悟りに至る人間修業の方法と考えるようです。
上に挙げたものでうそだと思うものがあればネットでググってください。
みんな本当にあるんですよね〜

最近聞きましたがなんとISO道というものもあるそうです。「あいうえお」でもなく「愛とエステの王道」でもありません。「あいえすおうどう」といいます。はたしていかなるものなのでしょうか?
期待に胸が膨らみます。 
ISO道とはISO規格を学ぶこと、あるいは実践することにより、人間を磨き、より高みに至るという・・そんなことってあるのでしょうか?
おおっと、ISOといっても多種多様です。一口にISO規格といっても1万件以上あるそうですが、ISO規格ならどれでも人間を磨き鍛えることができるのでしょうか?
実を言いまして私が見聞きするISO道とは、ISO2586エンドミルの規格を学んで人生を究めようとか、ISO263ユニファイ細目ねじを通じて悟りを開くとか、ISO14644クリーンルームの空気清浄度で会社を良くしようとか、ISO14040ライフサイクルアセスメントで解脱しようという方は、あまりというか全然見かけたことがありません。
ISO道となりえるISO規格はマネジメントシステム規格であるISO9001とISO14001のふた筋の道しかないようなのです。マネジメントシステム規格にはこのほかにもあるのですが、それらでISO道と語っている人を見たことがありません。
それならISO9000道とかISO14000道というべきでしょうか?

ではそのふたつのISOマネジメントシステム規格のいずれかを究めることが、人生修業になり、ブッダへ至る道になるのでしょうか?
いったいISO規格をどのようにすると人間修業になるのでしょうか? ISO規格の写経ってのが規格を理解するのに良いと言われます。実は私も写経ではないですが、写タイプをしています。
アッツ、写経って写タイプのことですか?
20年以上も前のこと、年配の先輩が毎晩、奥さんと二人で毛筆で般若心経を写経しているというのを聞いて、そんなことにどんな意味があるのだろうかと不思議だった。今の歳になると、そんな気持ちがわかるような気がする。
もっともISO規格を写タイプをすれば人生が深まることは絶対にないと確信する。
しかしISO規格に人生論とか昔の聖者の行いなどが書いてある・・・はずがありません。 
ISO規格を書き写そうと、タイプしようと規格の文言を記憶するのに役立っても、人生とか人間のあるべき道を理解できるはずは・・絶対にない。

ではマネジメントシステム規格を声に出して読んだり、みんなで唱えたりすると人生について悟りが開けるものなのでしょうか?
般若心経はもちろん一語一句に意味があり、それを理解すれば奥深い。しかし中身を理解しなくても、声に出して唱えるとだんだん心が高揚してきます。それは般若心経に限らず賛美歌などもおなじ。だんだん良くなる法華の太鼓というのはまったくもってそのとおり。そういえばアイザック・アジモフの小説にリバイバルソングを歌ってうつを直す療法ってのがありました。
デモや組合のシュプレヒコールなんかはたから見ればアホらしいの一言ですが、その中にいて大声で繰り返し叫ぶとその気になっちゃうのですよ。SF商法ってのもそのたぐいでしょうね
バイ菌将軍 北朝鮮の菌将軍を称える大勢の集会も意気高揚と祖国愛の効果は多大だと思います。
ただこれも何でもいいのではなく、やはり言葉は言いやすく五七調とか七五調とか調子が良くないと盛り上がりません。
その点ISO規格は文語体だし、韻も踏んでおらず読んでも調子が悪く、皆で唱和するには不向きな文章だと思います。
どうもISO規格は唱和したり念仏には不適に思えます。
えっつ!あなたは毎日電車の中で唱えているのですって!
アブナイカラ近寄らないようにしましょう。

会社で働いていて、仕事の中でISO規格を実践すると人生修業になるのでしょうか?
確かに仕事を通じて人格を高めるという発想は仏教にもプロテスタントにもあります。しかしISO規格を実践することによって人間修業をしようというのは、主客転倒というか手段と目的が逆ではないかと思います。
私は社会に貢献するために会社が存在し、その会社の一員として自分が何をなすべきかという発想ならわかります。そしてその活動や改善のツールとしてISO規格でも使ってみようかというのではないでしょうか? そういう場合はISO道とはいわないでしょう。
どう考えてもISO規格を実践することによって会社と自分を高めるという、ISO道なる発想はちょっとでてこない。
そもそもISOとはキリスト教文化だなんて突っ込みは禁止

ISOは手段でありツールに過ぎないということが本日のメインテーマで、前回のISO改定とは何なのか?の続編なのです。
この駄文がISOを一生懸命に論じている方から見て、不愉快な揶揄と思われたら、それは実は本望です。
私にとってISOマネジメントシステム規格とは、企業など組織の改善ツールに過ぎない。目を覚まして物事のプライオリティを理解せよ、ISOを主と考えず、ISOを従と考えなさいということです。ISOをいかに実現すべきか?とか、どのように解釈すべきか?などというアプローチは百害あって一利ない。はっきり言えば有害である。
ISO規格が会社に役に立つなら使えばよく、役に立たないなら毀釈することがまっとうである。
道だから廃仏毀釈にかけてみた。 

当然だが規格改定されたからそれをどう取り込むかとか、会社の仕組みを変えるべきか変えないべきかという発想はまったくおかしい。
常識で考えてみなさい。何度も言うが企業とは社会の要請に応えるために発生し、貢献する限りその存在が許される。
2008年のISO9001改正を受けて、それへの対応を考えている人々、改正されたから一層役に立つだろうと考えている人々、規格改定の精神を理解したと解脱を誇る人々を、ゼーンブ私はワカッチャイナイと見ております。
規格改正をビジネスチャンスと見ている人は、その意思に同意するか否かは別として、私は合理的であると考える。
この絵を描くのに20分もかかってしまった 刀が武士の魂なんて言われたのは江戸時代以降のこと。戦国時代、刀は単なる道具で消耗品に過ぎなかったという。
考えてごらんなさい。チャンチャンバラバラと何合か交えれば刀なんぞ曲がるし折れる、敵の体に刺して抜けなれば捨ててしまうのも当然。だから戦(いくさ)に行くときはみな刀を何振りも持って行った。実戦においての名刀とは、銘とか見た目ではなく、頑丈さであり切れ味であり価格だったのではないか。
宮本武蔵が二刀流だったのは奇をてらったというより、持っている武器すべてを使わず斃れるのを恥としたからと聞く。
ISO規格とは崇高なものであり、それを理解し道を究めようなんて考えは、「刀は武士の魂」と同じ発想であろう。ISO規格など単なる道具、それに振り回されることは恥ではないか。現代のサムライは得物をビジネスの実戦で役に立つのかという観点で量らなくてどうする? ISO道などと語っていては、我らの祖先に笑われてしまうだろう。
得物(えもの)とは獲物のことではない。手で扱う武器のこと。
ちょっと待てよ
刀が武士の魂と言われたのが、刀が本来の目的に使われなくなった時期ということから類推すれば、ISO道という発想が現れたのはISO規格が既に本来の目的に使われていないからだろうか?
そうだとすると納得できることが多々ある・・

私の文章を読んで勘違いする人が多い。私の文章が論理的でないからなのでしょうか?それとも私のダジャレというか言い回しに目くらまされて大事なところを読み落としてしまうからでしょうか? 
というわけで蛇足でありますがご注意申し上げます。
ISO道なんて聞いたことのない人、わしはISO道ではなくISOツール派であると思っている方の中にも、多くのISO道信者がいるのでご注意ください。
ISO9001規格は2008年に改定されたのか、改訂されたのかという言葉の違いに関心がある人もいるようだが、私から見るとおよそ実戦とは無縁の針の上に天使が何人立つことができるかという神学論争に過ぎない。

本日の気づき事項
貴社のマネジメントシステムは会社の真実の姿ではなく、ISO規格を満たすためのもののように思えます。実際の会社の仕組みを表に出すべきでしょう。

最後のお願い
私に突っ込んでくる人がいます。ツッコミは歓迎ですが、ぜひとも私の文章を読んで意図を理解してからにしてください。日本語の読解力のない方には困ります。



のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.11.16)
ISOと聞いてアレルギー反応をおこす層があるそうです。
それを避けるかのように、「ISOとは経営なんだ」と言う人もいるようです。彼等には「ISO道」なんていわず「経営道」と言ったほうが良いですね。
組織は次の層から成り立ちます。
 1.リーダーシップ
 2.マネジメント
 3.オペレーション
そして、組織の目的は「製品・サービス」を生み出すことです。
「アウトプットマターズ(結果が重要)」の考えから9001は、
 1)「製品・サービス」をチェックして「オペレーション」を改善する
 2)「オペレーション(現場作業員、品質管理、工程管理)」をチェックして「マネジメント」を改善する
 3)「マネジメント(管理者層)」をチェックして「リーダーシップ」を改善する
 4)「リーダーシップ(経営者層)」をチェックして「リーダーシップ」を改善する、という方向に進みます。
9001の源流が求めてきたものは「1)」ですね。
しかし今では、マネジメントシステム規格として「2)、3)、4)」に移行しているのだそうです。特に審査員氏には「4)」で「経営の知識」が求められます。これは当然でしょうね。「経営」を知らずして、経営者層のチェックはできないでしょう。経営者の指南役ともなるべく、審査員にも経営道が求められるのでしょうか?
それにしても、1)から4)まで、審査員氏はこなせるのでしょうか。
「はっきり言って、無理ですよ」と私は感じるのですが・・・

のんきなとうさん様 毎度ありがとうございます。
おっしゃる意味はよくわかります。
私はISO規格を読んでものんきなとうさんがおっしゃる1)については書いてある、2)はかすっているかと読めますが、3)とか4)を定めているとは読めません。
日本語で管理といっても、英語ではマネジメントとコントロールがありますが、せいぜいのところコントロールについてしか書いてないように思います。そういう意味で「ISOとは経営」ではなく「ISOは管理(オペレーションコントロール)」ではないでしょうか?
昔の規格では「マネジメントレビュー」が「経営者による見直し」と訳されていましたが、多くの人は故意か間違えてか「経営者の見直し」と読んでいました。ISOがマネジメント改善の規格なら真に「経営者の見直し(あるいは経営者を見直し)」なのでしょうけど、現実の規格の内容はどう読んでも「経営者による見直し」ですね。
某認証機関は審査の初めに経営者にヒアリングして経営理念が良いか悪いかではなく、経営者が審査に何を期待しているかを聞き取ります。そして現地に行って経営者の期待するものを調査して、経営者に報告するという形をとっています。
某審査機関では経営者のスタンスをヒアリングして、経営者がISO規格で定めていることをしているかを判定しています。そして環境方針や経営方針が規格不適合なんて指摘を出しています。
まあいろいろな審査があって良いのでしょうけど、規格が語っているのは「経営者を評価すること」ではないように思います。
ところで経営道を究めた審査員が経営を審査して適合かつ有効であると判定された会社なら、事業活動は上向き、営業利益は二次曲線を描くのでしょうか?
これもまた認証機関と審査員にとって踏み絵のようです。

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