品質の話 08.12.27

いまどきのマンションはどこも同じだろうが、玄関ドアは鉄製で窓はなく昼間でも暗く履く靴も見えない。毎度々々出かけるときに玄関の電灯を点けていたのだが、これが面倒だ。
何かで見たが、人が来ると感知して自動的に明かりがつくのがあると聞いた。人感点灯なんちゃらというらしい。インターネットで調べるとそういうものがたくさん見つかる。
ケチでお金を使うのは大嫌いな私であるから、そんな中で一番安いものをネットで注文した。3000円くらいであった。
注文したものが到着して驚いた。
箱の中身が空だったとか壊れていたというわけではない。1個注文したつもりが2個入っていたのだ。ネットで改めて見てみると、2個セットであった。私もいい加減な男であるが、それほど安いものとは想像もしなかった。
さて玄関に置くわけだが2個もいらない。とりあえず1個を玄関の下駄箱の上に置いた。
どこでも履物を入れるのを下駄箱というのだろうが、今どき下駄を入れておく家庭はないに違いない。いつの時点で靴箱と呼ぶようになるのだろうか?

さてそれからというもの、毎朝通勤に出かける時そのランプは健気にちっちゃなLEDを光らせて私を励ましてくれるようだ・・ 
と、うれしがっていたのだが、半月ほどして点灯しなくなった。電池が切れたのかと電池を入れ替えてみたが一向に変化がない。分解しようとしたが、このような小物は分解できるようなちゃんとした設計になっていない。組み立てたらおしまいで分解不可という構造である。少し悩んだがどうしようもないと腹をくくってばらしてみた。
何のことはない、基板とLEDをつなぐ細いロード線の半田付けがへたくそでちゃんと接続されておらず当初は接触していたようだが、その後はずれてしまったようである。
半田付けして接着剤で組み立てればまた使えるだろうと思ったが、我が家には半田ごてもなく半田もない。私がラジオ小僧だったのはもう40年以上も前のことである。
半田こてとニッパを買ってきて・・などと思案していたら、わきで見ていた家内が「そんなのにお金を使うなら捨てたほうが安いわよ。もう一個あったでしょう」という。
それももっともなこと
初期不良のそのランプをゴミ箱に入れて、買ったときの箱に入ったままであったもうひとつのランプを取り出して下駄箱の上に置いた。
こいつは半田付けがしっかりしているのだろうか? それから一月ほど経つがいまだに元気に私の出勤時に点灯してくれる。

このメイドインチャイナの製品は不良率が高いから、お客さんが文句を言わないように2個入りにしているのだろうか?
まさか、そんなことはないとは思うが・・

私はそれをきっかけに妄想の世界に入っていった。
1960年代なかばのこと、私は工業高校で品質教育というのだろうかこんなことを教えられたことがある。
あるホテルにある電器メーカーがテレビを納めた。何百室もあるわけでテレビもそれだけの数を納めたわけだ。その結果、一台の不良品もなくすべてのテレビが映ったのでホテルが電器メーカーに感謝状を出したというのだ。
当時は何百台ものテレビを納入すれば1台や2台は不良品があったということだろう。
その話の落ちは、だから良い製品を作らないといけませんということだったように思う。

1970年代になるとPPM管理なんて言葉を聞いた。PPMとは百万分の一のこと、つまり百万台で不良が1台以下におさえなくてはならないという考えである。もっともそれが実現できたのかと言えば部品レベルであれば実現しただろうが、製品レベルでは実現できたはずがない。
東北の田舎では車がなければ暮らしていけない。当然だが我が家にも車があった。車検のとき車を自分で運んでいくと安くなるので私はいつでも販売会社の車検場に自分で持っていき、車検が終わるまで近くのスーパーなどで時間を潰していた。 あるとき仕上がったのかと思い修理工場に行ったらまだだったので仕事場をブラブラしていた。壁にたくさんの紙が張り付けられているのに気がひかれた。近づいてみるとそれはメーカーからの不具合の通知であった。「車名○○の何年式はどこの部品に不具合があるから車検の時に交換すること」といった通知がもうおびただしく張り付けられていた。
私はそれを見て「とんでもないことだ」「車メーカーは悪いやつだ」などと思ったわけではない。どの会社も苦労しているのだなあと思ったのである。人の命に関わるような欠陥車を放置しておくことは許されないし、あるいは秘密裏に改修を行うことも許されないだろう。しかしそれほどの欠陥でなければ非公開であっても自主的に無償で改修するということは許されるどころかほめてよいことではないだろうか?
韓国の現代自動車のエラントラが高速道路で突然エンストを起こし危険だと騒がれても、大丈夫だとメーカーは言っているそうだ。(2008.7.27)
それはメーカーの技術力ではなく、製品への思い入れというか社会に対する責任感の違いだろう。

80年代に日本に追い越されたと感じたアメリカは、アメリカ産業復活のためいろいろな手を打った。そのひとつに6σ(シックスシグマ)というものがある。
聞くところによるとシックスシグマという手法は1980年代に、モトローラ社で考えられた手法だそうで、シグマとは標準偏差のことで6σからはずれるものは百万個で3.4個だそうだ。それくらいの管理をすれば品質で日本に負けないぞ!ということなのだろう。
すると6σとはPPM管理よりレベルが低いのだろうか?
やがて6σと称する手法は製品品質に限らず、業務改善とか経営改善になっていったようで、は単に間違いが非常に少ないという意味くらいになってしまったようである。
いずれにしても私は6σの手法を実践したことがないので良く分からない。

そんなことを思うと、不具合があってももう一個おまけしているからお客さんは文句を言わないだろうというのは、中国的というか、大陸的というか、おおざっぱというか、開発途上というか、そんな感じがした。
パン屋の1ダースとは13個のこと。1ダースパンを買うと1個おまけしてくれたことから生まれた表現と聞く。中国製品の1個とは不良に備えてもう一個おまけすることだったのか?
ちなみにパン屋の一ダースという言葉は「風と共に去りぬ」の中で初めて知った。
そのとき私はパン屋の一ダースとは数え間違いがあったときの言い訳だろうと思ったのだが・・

本日のまとめ
製造業に関わらず、社会人であるなら、己の仕事の品質を高めようではないか!
仕事の品質とはなんぞや?

品質の話 2 09.01.18

先日品質の話という、品質とあんまりというか全然関係ない話を書いたが、本日はその後日談である。
マンションの玄関が暗いので人が来ると自動的に明かりがつくランプを買った話であった。
通販で買ったら驚いたことに2個セットであったが、1個はすぐ壊れてしまった。壊れやすいから2個セットなのだろうか? などという他愛のない話であった。
それで終われば、それまでのことであったのだが・・・

毎日出がけにランプがポッと点くのが楽しみであったが、ある日再びというべきだろうか? ランプがつかなくなってしまったのだ。
オイオイ、また故障かよと半分あきらめというか、故障しても当然だよなというような感じであった。
まあ、朝は忙しいので、帰宅してから手にとって見るとチカチカ点いたり消えたりする。接触不良であるのは明らかだ。ちょっといじると今度はばらすまでもなく、すぐに故障個所はわかった。自動点灯のON/OFFスイッチがあるのだが、そのスイッチがバカになっているのだ。前回ばらしてどんなものか分かっていた。子どもの頃組み立てた電動おもちゃのような接点がスライドしてオンオフする非常に原始的なものだった。たぶん、はさむ力が弱くなったのか、接点を抑えているプラスチックの焼きとめにガタがきて接触が弱くなったのに相違ない。
ばらしてペンチで固定してしまえば自動点灯を強制的にON状態にできるだろうと思ったが、もうそんな気も起らず、即ゴミ箱に放り込んだ。
メイドインチャイナだから品質が悪いなんて暴言を吐く気はない。どこで作ろうと良いものは良いし、悪いものは悪い。ひとつを見ただけで全体を判断してはいけない・・とは思うのだが、中国製ということでなんか納得してしまったのだ。

本日(08/01/18)のニュースである。
中国当局、メタミドホス混入疑いで「天洋」関係者を聴取
【北京=佐伯聡士】中国製冷凍ギョーザ中毒事件で、中国公安当局が昨秋以降、製造元の天洋食品(河北省石家荘市)の工場関係者数人を有機リン系殺虫剤メタミドホスを混入させた疑いがあるとして拘束し、事情聴取を進めていたことが分かった。
関係筋が17日明らかにした。ただ、混入が立証できず、捜査は暗礁に乗り上げている。中毒被害事件が発覚してから今月30日で1年を迎えるが、解決は難しそうな情勢だ。
関係筋によると、当局は、北京五輪閉幕後の9月頃から捜査を本格化。工場関係者の家族3代まで聴取の範囲を広げ、反日的な背景がないかどうかを含めて調べを進め、数人を拘束した。だが、容疑を否認しているほか、殺虫剤混入を立証できる決定的な物証や動機が見つかっていないという。(読売新聞)

あれほど大騒ぎになって、日本側は中国での混入といっていたとき、中国は日本で入れられたと断定していた。なんのこっちゃ!結局オリンピックの前は騒ぎたくなかったというだけのことだったか。
そんなお国なら政府も下々も、今が良ければ何でもありという発想になるに違いないと思った。

「安かろう、悪かろう」とは私が子供の頃、日本製品の代名詞だった。アメリカの小説で日本製の小物・・カメラとか筆記具などが壊れやすいものという代名詞に使われていた。小学生の頃、先生にそんなことを聞かされて非常に悲しかったことを覚えている。そのとき、いつか日本製品の評判をあげようなんてことまでは考えなかったことは白状する。
私が高校を出て月給をもらうようになって親父にロンソンライターを買ってやったのは、やはり日本製のライターより舶来品が品質が良い、持っているとかっこいいというのが当時の社会常識だったからだ。日本製のライターを親父に贈ってもオヤジはうれしくなかっただろう。
日本人が日本製品の品質を上げよう、ブランドにしようと頑張ったのは間違いない。SONYの盛田さんなどはいつもそう語っていた。
しかしそれは単に日本人が真面目だとか、良心的だということではないと思う。日本人は逃げるところがなかったし、逃げなくても良かったからだと思うのだ。つまり、日本人は日本という国があり、日本人であることはそう悲劇でもなく、搾取されていたわけでもなく、命の保証がなかったわけでもないからだと思う。
今の中国はそうではない。
「中国の危ない食品」の著者 周さんは中国共産党の独裁が人心を荒廃させるのだと書いている。今の中国では明日の保証がないから、事業でも商売でも継続していこうとするより、てっとり早くお金を稼ぐことを考えるという。
ものづくりなら品質とか生産性など、商売でも信用とかのれんとかいうものは、継続して商売するという前提でなければ意味をもたない。一回限りの取引なら品質保証という概念が成り立つわけがない。買い手にものを渡してお金をもらった瞬間に身を隠し、後は野となれ山となれという発想になるのは間違いない。
しかしそうであれば、中国が真に品質保証が確立してブランドとなるためには、政治の安定と人権の保証がなければならないだろう。
政治の安定とは政権が変わらないという意味ではない。政権が代わっても過去の法規制が継続するとか、少なくとも事後法なんてありえないとか、一貫性が保証されなければ貯蓄にしても紙幣ではなく金塊を確保するようになるのはいたしかたない。
考えてみるとブランドというものは国家の体制が安定していないところにはないように思う。そりゃそうだ、企業を興して評価を得てもいつ国有化されてしまうかわからないなら企業にも製品にも愛情を注ぐようにはならないだろう。
ソ連のブランドといえば戦車とかカラシニコフがあげられるだろう。共産主義国家ではそういうものしかブランドになり得なかったのだろう。
中国がブランドを確立するには継続して事業をするという起業家が輩出しなければならないし、そういう背景ができなければならない。
そういえば、韓国のブランドとは何だろうか? サムスンもヒュンダイも安かろうだけではブランドとはなりえないだろう。韓国ももっと国家として安定しなければブランドは出てこないのだろうか?
いや、安物のランプ一つでも時間つぶしにはなるものです。 


KY様からお便りを頂きました(09.01.18)
闇の品質
今年も宜しくお願いします。
さて、最新の「品質の話」で、旧ソ連にも「カラニシコフ銃」などこれは、というような世界中に名の知れた一品はあったのですが、シナチスもとい中国には似たような「一品」はあったのでしょうか?
私の知る限りでは、「どう考えても狙って作ったとしか思えない殺人食品」とか「安価で入手しやすい対人地雷」とかろくなものがなかった気がします。しかも国内の「消費者団体」やら「平和団体」は決まって中国の「闇の一品」に対して異議を唱えるということはしませんでしたよね、現在に至るまで。
今回の殺人ギョーザの続報にも、多分彼らは無反応でしょう。彼らの運動に期待など端からしてませんので(棒読み)。

これはこれは、偉大なるKY様 書き込みありがとうございます。
中国のブランド!考えました。
いや、たくさんあるのですよ・・・
 ・パクリの遊園地
 ・パクリのバイク・パクリの自動車
 ・パクリの新幹線
 ・パクリの航空母艦
 ・パクリの戦闘機
 ・パクリの宇宙船
すごいでしょう!
おおっと、自然破壊による砂漠化とか、水質汚染などオリジナルのブランドもありました 


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