ケーススタディ 飯田修行する

13.10.02
ISOケーススタディシリーズとは

ご注意:本日はとても長文ですから、お時間のある時にお読みください。

廣井が飯田を藤本社長のところに勉強に出せと言ったのを受けて、山田は飯田に藤本のところに修行(研修?)させることにした。とはいえ飯田に教育したいことは多々あるものの、特にこれを、といえば済むわけでもない。山田は藤本のところ何をしてほしいのか、いや山田ができないことで藤本のところでしかできないことを考えて、それを依頼した。
それは簡単に言えば、監査の立ち会い(オブザーバーor見習い)、講演会の見学or補助作業、コンサル営業活動に付いていくでもなんでもいいから、藤本のところの仕事を見せて、なぜそういうことをするのかを考えさせてほしいということである。
例えば、監査に参加したとき、一緒に行って見学したり、補助作業をしてもあまり意味がない。監査といってもいくつもの工程があり、準備も後始末もある。そういうことを、それが必要なわけは何か、なぜそうするのか、自分ならどうするのか考えさせてほしいということである。なにごとでも仕事を与えられたとき、自分なりに考えること、あるいは考えなければならないと自覚することが、飯田のこれからに役に立つというか必要だと山田は考えたのだ。

藤本は山田からの依頼をきいて、自分が山田のところで見習いをしたときのことを思い出した。あの頃を振り返ると、藤本には山田とコーヒーを飲みながら雑談したことが一番勉強になったように思える。いや、現地で監査や指導などをしたのち、その反省会を山田としていたともいえる。そんなことを思うと、山田は生まれながらにして教師なのかもしれない。あるいはそれは山田が廣井に教えられた方法なのかもしれない。今回、山田は飯田にそれをするのに、わざわざ藤本にお金を払って依頼してきたのだから、それに見合ったことをしなければならない。
一瞬、藤本は今後のビジネスとして新人教育も請け負うかと頭に浮かんだ・・・だが、その方法は上司が部下を教えるには最善かもしれないが、藤本のようにビジネスとしての教育に使えるかどうか・・・もちろんそれは藤本が考えることだろう。

とりあえず藤本は川端が行う関連会社での説明会の手伝いに二日、五反田の営業活動に一日、藤本と監査に行くのが二日と割り振った。
藤本は五反田と川端に、飯田がなにを目的に来るかを説明し、何を飯田に教えたいかを考えて、あとは適当にやってくれと言う。五反田は間違いないし、川端もここに来て長いから大丈夫だろう。



翌週の月曜日、朝一に飯田がやって来た。
藤本は飯田をふたりに紹介して、本人に「飯田さんに手取り足取り教えるのもなんだから、ここの仕事を一緒にしてもらって、どんな仕組みで動いているのかを体で感じてほしい」といい、今日と明日は川端の指示で動いてくれと言う。それでおしまいである。
川端は部屋の隅にある、大きな机、打ち合わせ場というか作業場というか、そこに連れて行った。
川端五郎
「明日の午後、横浜の会社で私が法規制の説明会をすることになっている。今日はその準備を一緒にしてほしい。明日は朝ここに集合して、午前中は資料や道具をもって移動と会場の設営をして、午後は説明会をした後片付けと引き上げまで一緒にしてもらいたい」
飯田
「山田課長から研修と言われたのですが、このことからどんな勉強ができるのですか?」
川端五郎
「会社の仕事というのは、学校のように、この単元では何を学びますなんて具体的というか即物的ではないよ。これから私と一緒に資料の準備をしてもらうけど、その中から何か気が付くとか改善提案を考えるということかなあ。まあやってみよう」
川端は明日使う資料の原紙を机の上に並べた。
法律の読み方のテキストが40ページ、それと騒音規制法、その施行令、施行規則、そして振動に関する数件の通知のコピーが40ページ、合わせて約80ページある。
川端五郎
「これを人数分コピーして製本する。では一緒にコピーしよう」
飯田
「コピーなんて専門業者に頼めばいいじゃないですか。わざわざ自分でしなくても」
川端五郎
「何を頼むにもお金がかかる。今日は私がなにか金になる仕事をしようとしてもない。だから自分でコピーするのが最善だと思うのだが」
川端はそういって資料を持ってコピー室に行く。飯田も仕方なく後をついていく。 コピー室のコピー機にセットして、部数、ホチキス止め、パンチ穴開けを設定する。プリントが開始されあとは待つだけだ。
川端は飯田に向き直り話しかける。
川端五郎
「資料が80ページあり、20部コピーした。もちろん両面コピーだ。重さは何キロになるかな?」
飯田
「はあ、算数の練習ですか? そんなことが何か役に立つのですか?」
川端五郎
「役に立つかどうかはともかく、知らなければならないこととは思うよ。とりあえずは仕上がったものを事務所まで持って行けるか、台車を借りるかということもあるし、明日は横浜まで資料を運ぶのをどうしようか決めなくてはならない」
飯田
「ああ、そういうことですか。見当がつきませんね。いったい紙の重さってどれくらいなんでしょう?」
川端五郎
「コピー用紙、普通PPCって言われているけどだいたい4グラムだ」
飯田
「1枚4グラムなら、800かければ3.2キロになります」
川端五郎
「とすると事務所までは二人で持って帰れるわけだ。横浜まではどうだろうか?」
飯田
「ちょっと重いですね。これだけでなく川端さんは参考書やその他資料を持っていくのでしょう?」
川端五郎
「そう、パワーポイントを使うのでプロジェクターは貸してもらうようお願いしてあるが、パソコンは持っていかないとならない。今はウイルスやセキュリティのことで先方にパソコンを貸してくれとは言えないのでね」
飯田
「そうすると・・・私がこの資料を持っていけばよろしいですか。パソコンなどは川端さんにお運びいただくとして」
川端五郎
「じゃあ、そうお願いしたい。おお、プリントが終わった」

帰り道である。
飯田
「pdfファイルを送って、向こうでプリントしてもらうとか、前もって郵送しておく方が良いのではないですか?」
川端五郎
「これはお金をもらっている商売だから、なるべくお客様の手を煩わしたくない。
次に講習の内容がフィックスしているなら前もって作成して送っておくというのは当然だが、今回は先方の希望が二転三転してね、騒音規制法を例に取り上げてほしいというのは昨日連絡があったところだ」
飯田
「法律を読む勉強ならば例にする法律は、どんなものでも構わないと思いますが」
川端五郎
「そりゃ単に法律の読み方だけ勉強するなら、どの法律でもかまわないだろう。でも客から見れば実際に関係しているというか、規制を受けている法律の方が好ましい。そのほうが興味も持つだろうし、実際の仕事で分らないことがあれば質問したいだろうし」
二人は事務所に戻った。
川端五郎
「ではこれを一人ずつのバインダに入れて、その他ここにある資料、『最近の環境法改正の概要』とか『環境法規制体系図』なんて共通の資料を一緒にとじるんだ」
川端は大きなテーブルに今コピーしてきた資料と一緒にとじる資料、バインダなどを並べた。
飯田は嫌だとも言えずにバインダをひとつとり、ひとつずつ資料をとってファイルしようとした。
川端五郎
「オイオイ、そんなんじゃ早くできないよ。まずはじめにとじる順序で20セットそろえてしまってから、ファイルするんだ。何事も手際よくすることを考えないとね」
川端は一番後ろにファイルするものを机に20個並べ、その上に後ろから二番目にファイルするものというふうに置いていく。飯田は黙ってそれに倣った。
飯田
「あれ、この施行規則というのが1部あまりましたが・・」
川端五郎
「全部20部ジャストコピーしたはずだからどれかに入れてないんだね。チェックしよう」
チェックすると確かに漏れているところがあった。それからバインダをとり、一山とりあげてファイルしていく。飯田と川端の二人でするわけで10分もかからずに終わった。しかし飯田の仕事ぶりは、はた目にもやる気がない。
そんな飯田を藤本が遠くから見ていた。
川端五郎
「資料はできたと・・・それじゃ次は、明日の講習会の概要と、君に担当してもらう手順を説明する。ええと、伺う会社は鷽神奈川機販という会社だ。従業員80名くらいで、各種機械の販売と設置作業をしている」
飯田
「どうしてそういう販売会社が騒音規制法に関係するんですか?」
川端五郎
「そもそもこの会社は鷽八百グループの販売会社として設立されたのだが、その後他社の工作機械や空調機も扱うようになって、更に売るだけでなくのその設置工事もするようになった。
ご存知かもしれないが、そういった機械を設置するには騒音規制法の規制を受けるので、事前に設置許可が必要になったり設置届をしなければならないこともある。
もちろん規制を受けるのは設置した人つまりお客様のわけだが、販売会社がそういう手続きを教えたり、申請書や届書を作成するのをお手伝いするのはビジネスに直結する。もちろん関係する法律は騒音ばかりではない。今回は一番関わりがあるものとして騒音を取り上げたということだ」
飯田
「80名の会社で20名が受講するということは、第一線の担当者を対象にするということですよね。そういう人を対象にするなら法律の読み方ではなく、この仕事の場合は何をしなければならないかという講習の方がベターじゃないのですか?」
川端五郎
「良い質問だ。実を言ってその会社には昨年そういう仕事に関わる法規制の手続きの講習会を行った。その講習会の評価が良かったので、今年は一歩進んで法律の読み方の講習をしてほしいという依頼があった」
飯田
「私の疑問はなぜ法律の読み方を勉強するのかということですが・・・担当者にしてみればそんなことを勉強しても無駄じゃないんですかね」
川端五郎
「もちろん、そういう考えもあるかもしれない。だがそれはその会社の考え方によるだろう。
法改正があったとき、その都度こんなふうに変わりましたよとその会社の法規制担当者が作業者に具体的なことを教えるとか、それとも毎年当社のようなところに法改正説明会を依頼するというのもあるだろう。
そうではなく作業者が法律を読めるように教育して、それぞれに考えて対応してもらう方が良いと考えたということかな」
飯田
「なるほど、魚を与えるのではなく魚の獲り方を教えるということですか」
川端五郎
「そういうことだろうね。
さて話の続きだが・・」

川端は翌日の段取りを飯田に説明した。
定時少し前、藤本は川端の仕事が一段落した様子を見て、川端と飯田に声をかけた。
藤本
「飯田さん、せっかく来てくれたんだ、居酒屋でちょっと歓迎会をしよう」

飯田はあまり乗り気ではなかったようだが、朝来たときに藤本が飯田の大学の先輩だと聞かされたこともあってハアと生返事をした。



五反田にも声をかけて池袋駅前の居酒屋に入る。
とりあえずビールで乾杯する。


藤本 生ビール サラダ 生ビール 飯田

川端五郎 生ビール 刺身 生ビール 五反田

藤本
「今日一日お疲れ様。今日は川端君から何を教えてもらったんだい?」
飯田
「ええ、何も教えてもらっていないと思います。単に資料の準備のお手伝いをしただけです」

それを聞いて、五反田はアハハハハと笑う。
飯田はそれを見て、不審そうな顔をした。
藤本
「会社では山田さんといろいろ話をしているのかい?」

飯田
「仕事の基本的なことは横山横山さんから教えていただきました。それで山田課長からは何をいつまでにやれとか言われれば、こまかいお話を聞かずとも処理できますのであまり話をしません」
藤本
「山田さんと打ち合わせコーナーでコーヒーを飲みながら話はしないの?」
飯田
「しません。お話をする必要はないように思います」
藤本
「なるほどなあ〜」
五反田
「会社に限らず世の中での勉強とは『さあ、これからなになにについて教えますよ』ということはまずない。周りの人がしていることとか話をしているのをながめて、そこから何かを学ぶということだろうと思う。
山田課長や廣井部長の様子を見ていて気が付くことはないかい?」
飯田
「どういうことでしょうか?」
五反田
「普通の人でもなくはないんだけど、特にあの二人はオーラがでているのさ」
飯田
「オーラ? なんのことでしょう」
五反田
「あの二人は、話しかけてこいというときと、話しかけてくるなというときでは、体つきというか顔つきが違うんだ。そして話しかけてこいというときは、こちらから積極的に話かけたほうがいい」
藤本
「ほう、五反田君もそう感じていたか。わしもそれはものすごく感じていた。私も山田さんの下に2年近くいていろいろと教えてもらった。今思い返すと、彼とコーヒーを飲んでだべったことが一番の勉強になったと思っている」
五反田
「社長、同感ですね。彼は生まれつきの教師なんでしょうかねえ〜」
飯田
「あのう、藤本社長は山田さんより目上なんでしょう」
藤本
「いやいや、話せば長いことながら、わしは4年前まで開発部の部長をしていたんだ。役職定年というのを知っているだろう。役職定年になるとき、これからは環境を担当しようと環境保護部に行って環境業務の修行をした。そのときのチューターが山田さんだったというわけだ。
彼はしっかりとしたカリキュラムを作ってわしを教育してくれた。だけどそれは知識の面であって、仕事に対する心構えとか考え方とかトラブル時の対応なんてことは、山田さんとの雑談から学んだと思っている」
五反田
「私もです。なにかトラブルを抱えていて迷っているときは、山田さんの様子を見て、話しかけても大丈夫と思ったらコーヒーを飲みながら話をしました」
飯田
「解決策を教えてもらったのですか?」
五反田
「そういえばそうなんだけど・・・『どうしたらいいですか』という質問は大人の社会ではありえない。『こんな問題があって、このようにしたいと考えているのだけどどうだろうか』というのが大人の質問だろうねえ」
飯田
「質問する前に対策を考えていないとならないということですか?」
藤本
「社会人は問題のあるなしに関わらず、常に考えていなくちゃいけないよ」
飯田
「日常の仕事や雑談のなかで学べということなんでしょうけど・・・話を戻しますと私は、今日は川端さんのお手伝いをしていただけで何も学んだ覚えがありません」

川端は残念そうに
川端五郎
「それは大変すまなかった。私に教師の才能がないからだろう」
藤本
「飯田さんは知らないかもしれんが、川端君はISO関係の雑誌にたくさん寄稿をしていて、その方面では有名な人だよ。それに川端君が教えようとしていることに、君が気が付かなかったということもあるんじゃないか」
五反田
「マアマア、そんな話ばかりじゃ酒がまずくなっちゃいますよ」
五反田は気を利かせて話題を変え、そのあと30分くらい飲んでお開きにした。



翌日、飯田と川端は会社で資料類を再確認し、持ち物を分担して10時半頃に出かけた。湘南新宿ラインと地下鉄を乗り継いで11時半に伊勢佐木町から遠くない目的の会社に着いた。
二人はすぐに会社には行かず、近くの中華の店で早めの昼飯を食べる。
飯田
「お昼は今頃食べるのですか?」
川端五郎
「いろいろだね。お客様の都合が第一だから、それに合わせる。工場などに行くと工場食を出してくれるところもある。そういう時はありがたく頂戴する。お金とかうまいまずいじゃない。お客様のご意向を尊重するということだね。
今日は午後一から講習会なので、昼休みに会場を設営をする予定だ。といっても向こうの担当者がお昼を食べ終わった頃に伺うつもりだ」
飯田
「そうですか、いろいろ気を使うのは大変ですねえ。しかし出張するのが仕事というのは面白いでしょうねえ」
川端五郎
「面白いかどうかはその人次第だね。私はこういう仕事が好きだけど、毎日決まった時間に家に帰りたいという人には不向きだ」
飯田
「川端さんは法律の説明をされるのですが、どんな方法で法律を学んだのですか?」
川端五郎
「ハハハハ、私は元々法律なんて習ったことはないよ。環境のお仕事といってもISO事務局を担当していただけだ」
飯田
「はあ、それでどんな方法で勉強して法律に詳しくなったのですか?」
川端五郎
「興味を持ったからかなあ。元々ISO規格に興味があったから講習会や研究会に参加しているうちにだんだんとそんなことに詳しくなった。法律は今の会社に来てから社長や五反田さんが講習会をするときに手伝ったり、講習会のテキストを読んだりしているうちにだんだんとわかってきたという感じだ」
飯田は分ったような、わからないような顔をしている。
昼飯を終わってもまだ昼前だ。ふたりは大通公園に行ってしばし休憩する。
飯田
「ここは何度も来ているのですか?」
川端五郎
「いや、一度打ち合わせに来ただけだ。耳を澄ましてごらん」
飯田
「何か聞こえますか?」
川端五郎
「近くの人たちが話している言葉が何語かわかるかい?」
飯田
「そう言われると・・・日本語ばかりじゃないですね。中国語、朝鮮語、タガログが聞こえます」
川端五郎
「私は良く分らないが、分る人の話ではその他に英語やロシア語やアラビア語など7・8か国語が聞こえることもあるらしい。この辺りは外国人が多い。みんな水商売関係だろうけど」
飯田
「すみません、それがどういう意味があるのですか?」
川端五郎
「意味かあ〜、観察するということは何事においても基本だと思う。よく観察すると二つのものの違いが分ったり、共通点が見えてきたりする。それがなんだと言われたら、そういうことを積み重ねるとますます観察力が向上するというのかなあ〜」
川端は好奇心をもつことが大事だと言いたいのかなあと飯田は思う。
しばらくして
川端五郎
「12時20分か、じゃあ行こうか」
二人は目的の会社に行く。川端は受付で担当者を呼んで会場設営をしたい旨お願いした。すぐに会場に案内された。
二人はパソコンをつないでパワーポイントの確認、机や椅子の配置、資料の配布などをする。パワーポイントはバージョンによって文字が欠けたり改行位置が変わったりするので常に確認が必要だ。
そんなことが終わると開始10分前になっていた。
手洗いを済ませて待機する。
講習会
講習会をしている間、飯田は何もすることがない。ただ見ているだけだ。
川端は話がうまい。話術がどうこうではなく、聴講者に理解してもらうためにいろいろ工夫していることが飯田にも分った。昨夜、藤本は、川端がISO関係の雑誌に書いていると言っていたけど、そういう才能があるのだろうか。
また飯田は川端の話を聞いていて、法律の構成とか読み方ということについてもいろいろと勉強になった。例えば「第一条第二項」と「第一条の2」というのが違うというのを初めて知った。あとでこのテキストをコピーさせてもらおう。
講習の後、質疑応答が続き予定を20分ほどオーバーして終了した。二人は後片付けを終えて5時少し前に帰路に着いた。おかげで通勤時間より少し早くラッシュを避けることができた。
飯田
「今日の法律の講習はとても勉強になりました。あのテキストいただけませんか?」
川端五郎
「いいともと言いたいところだけど、あれは山田課長が作ったものが元ネタなんだ」
飯田
「へえ、山田課長はそういうことも詳しいのですか?」
川端五郎
「あの人はすごい人だよ。法律だけでなくISO規格だって彼より詳しい人は審査員でもめったにいないんじゃないかなあ」
飯田
「飯田さんはISO規格に詳しくて何度も雑誌に寄稿されているとのことですが、山田課長もISO規格は詳しいのですか?」
川端五郎
「アハハハハ、冗談を言っちゃいけないよ。山田さんと私じゃ、比較にならない。彼の足元にも及ばないよ」
飯田
「そうなんですか! いろいろな方に話を伺うと山田さんはなんでもできる人なんですね」
川端五郎
「飯田さんは山田さんのそばにいられるから幸運だ。ぜひとも彼の知識やテクニックを教えてもらうことだ。
おっと、教えてもらうとは、習うことではなく、彼のしていることを見て、その技を盗むことだよ」
飯田
「講習会を聞いていましたが、川端さんのお話はお上手ですね。言葉使いとか言い回しのことではなく、何が重要かということを分かりやすく説明しようとしているのが良く分ります」
川端五郎
「アハハハハ、それも山田課長のご指導だよ」
飯田
「山田さんは話し方の講習をしているのですか?」
川端五郎
「そうじゃないけど、山田さんの講習会でのお話がすばらしいというのは定評がある。山田さんが講師をした研修会では過去、居眠りが一人もいないという伝説があるくらいだ。
私はその点についても、とても山田さんの足元にも及ばない。彼の講演を聞いていると彼が単に話をしているのではなく、講演の目的は何か、その目的を果たすにはどうすべきかということを常に意識しているということがわかる。そして私もそれを真似するようになったということさ」
飯田
「しかしいろいろと意識して話すのも大変でしょう」
川端五郎
「アハハハハ、そのとおりだよ。
実は私もこの年でスイミングスクールに行っているんだ。まだクロールの初歩の初歩なんだけどさ。コーチが息をするときは早めに顔を回してとか、手はもものところから戻すのではなく最後までしっかりと水を押すとか、手は体の真下を通すとか、いろいろと言われると意識しちゃってかえってぎこちなくなってしまう。話すことも同じで、ここに注意しなければとか、次はテキストの何ページを開かせなくてはとか考えていると、かえって支離滅裂になってしまうからね」
飯田
「上手に話すにはどうすればいいのですか?」
川端五郎
「スイミングと同じさ。何度も練習することだ。実は、今日の講習会も家でパワーポイントを使って何回も練習したんだよ。
もちろん単に繰り返せばいいというのではなく、この点に注意して練習しようとか、不得手なところだけ重点的にするとか、パワーポイントの送りなどもパソコンによってページの切り替わりにかかる時間が違うからそれを飲み込むとか、慣れといってしまえばそれまでだけど、いろいろ細かいところに配慮しなければならない」
飯田
「日々勉強ですね」
川端五郎
「当然だよ」



翌朝、飯田は川端に昨日のお礼を言い、五反田のところに行った。
五反田
「じゃあ今日は私と一緒にお客さんのところを回ろう。君は新人ということにするから名刺交換もいらないし黙っていればいい。もちろん相手から話しかけられたらそれなりに対応してくれ。
今日の予定は浦和にある鷽情報システムというは販売会社だ。その会社から環境法規制の基本的な教育をしてほしいという依頼が来ている。そこを訪問して打ち合わせる予定だ。
午後はそこから移動時間が20分くらいのところにある販売会社で、ここはこちらから売り込みだ。アポイントはとってある。
じゃあ行こうか」

二人は出かけた。五反田は小さめのブリーフケースしか持っていない。そしてリラックスしきっている感じだ。平日の10時過ぎ、電車は空いていて座ることができた。飯田は五反田に話しかける。
飯田
「こういうビジネスの営業は難しいんでしょう?」
五反田
「まず外ではお仕事の話をしないほうが良い。特に固有名詞を出すのは厳禁だ。一般論としてもあまりしないほうがいいね。
とはいえご質問への回答だが、難しくない仕事はない。言い換えると難しい仕事はない。どんな仕事だって、最善を尽くそうと思えば同じようにハードルは高い。例えば君が昨日30分でおえた仕事を今日は25分で仕上げようとか、昨日上長からミスを5つ指摘されたとして今日は4つ以下にしようとすると、毎日かなり努力しなければならないだろう」
飯田
「私はいつも最高の仕事をしようとしています」
五反田
「それはいい心がけだ。とはいえ、プロなんだから当然だな。
だけど最高の仕事をしようとしても、最高の仕事ができるとは限らない。努力とは言葉ではなく行動だよね。例えば君は今どんな勉強をしている? 毎日何を読んでいる」
飯田
「え、特に・・」
五反田
「横山さんをご存じでしょう。彼女は歩く会社規則集と言われていた。会社規則って何本あるんだろう? まあ400本くらいかなあ? ともかく彼女に聞くと細かいところはともかく、どの規則のどこに決めてあるということが分る。あれはすごい」
飯田
「私も横山さんに環境関係の会社規則を読んでおくように言われて、それらは十分読んだつもりです」
五反田
「じゃあ、残りの会社規則を覚えることだ。知識は力だと誰かが言ったけど、単に覚えるだけでなくいつでも必要なことを検索できることが必要だ。もちろん頭の中でだよ」
飯田
「そのほかにどんな勉強をすればいいのでしょうか?」
五反田
「飯田さんは環境監査事務局を担当しているといったね。過去の監査の不適合を読んでみた?」
飯田
「それも横山さんに言われて過去1年間の報告書を読みました」
五反田
「それは良かった。それでどんなことに気が付いたかい?」
飯田
「いろいろな不適合があるものだと思いました」
五反田
「そうだねえ、ところでその不適合のパターンはいくつ位になるのだろう?」
飯田
「はあ?」
五反田
「人間のミスというのはそんなにバリエーションがないもんでね、だからそういったパターンを覚えておくと現場で監査するとき不適合があるのかないのか判断が早くなる。慣れっていっちゃ慣れなんだろうけど」
飯田
「なるほど、データをいかに情報化して自分の頭でそれを検索できるようにしておくということが大事なのですね」
五反田
「まあそうシャカリキになることもないけどね。おおっと、浦和だ、降りるよ」

五反田はグーグルマップからプリントした地図を広げて鷽情報システムの方向を確認すると、すたすたと歩きだした。飯田はあわてて五反田を追った。
飯田
「五反田さんは来たことがあるのですか?」
五反田
「いや、はじめてだ」
飯田
「それにしては迷いなく歩きますね」
五反田
「来たことのないところでも地図をみてたどり着くということも営業の大事な能力だ。このあたりなんだけど、鷽情報システムという看板が屋上についているはずだが・・」
五反田は二つ先の雑居ビルに目指す看板を見つけた。
インターホンで来意を告げるとすぐに若い男が現れた。
吉本と名乗る男は二人を小さな会議室に案内する。
既に年配の女性が座っている。立ち上がり名刺を交換する。
小林
「総務部長をしている小林と申します」
五反田
「鷽環境ソリューションの五反田と申します。このたびはご連絡いただきありがとうございます」
小林
「どうせお宅に仕事を依頼するつもりだから、隠すことなしざっくばらんにお話ししますが・・先日のISO審査で環境法規制の把握が不十分だということが分りましてね、その教育をお願いしたいんですけど」
小林部長コーヒーコーヒー五反田
吉本コーヒーコーヒー飯田
五反田
「それはありがとうございます。とはいいましてもその目的を達成するにはいろいろな方法があると思います。御社としてどのようなことを考えていらしゃるのでしょうか?」
小林
「方法と言いますと・・?」
五反田
「環境法規制の教育といっても、環境に限定するのもありでしょうし、御社の業務に関わる法規制全般というのもあります。また別の観点で、お宅の業務に関わる法律を一緒に考えるのもありますし、法律の調べ方をお教えするという方法もあります」
吉本
「具体的に言いますとね、ISO審査で問題になったのは、使っている化学物質のMSDSを入手していないということでした。 調べた結果、幸いなことにMSDSを備えておかなくても良いということが分りました。
問題は、MSDSについての知識が全然なかったことです。そこで疑問なのですが、MSDSに全然関わりがないとき、MSDSについての知識がなければならないか、あるいはまったく知らなくて良かったのかということです」
五反田
「なるほど、おっしゃることはわかります。しかし全く縁がないならISO審査で話題になることはなかったでしょう。関係すると思われる可能性がある場合、御社が法規制を受けないということを理解しておく必要があるのではないでしょうか。その件に関して私は詳細を知らないので何とも言えませんけど」
五反田は小林部長と吉本の話を聞いて、どのような方向で進めるべきか考えているようだった。最終的に1週間後に五反田が研修の方法について提案を持ってくるということで本日の話を終えた。
鷽情報システムを出ると飯田が話しかけた。
飯田
「大変勉強になりました。営業といっても、単に品質が良くて安いですと主張するわけではないのですね」
五反田
「どんな物でも役務でも売るためには、買ってくれという前に、相手が必要なものが何かをしっかりと把握しなければならない。
まあ、そんなことは誰でも知っているが、多くの人が間違えるのは、相手が欲しがっているものを売ろうとすることだ」
飯田
「え、相手が欲しがっているものを売るんじゃないんですか?」
五反田
「そんなアホな、相手が必要なものを売るんだよ」
飯田
「同じじゃないですか」
五反田
「全然違うだろう。現実にはお客様は自分が必要としているものを正しく認識しているケースは少ない。だから話をしてお客様が欲しがっているものではなく、お客様が必要なものを認識していただくことが最初の仕事だよ」
飯田は黙ってしまった。
五反田
「じゃあ、浦和の駅前あたりで昼飯を食ってから次の会社に行くか」



四日目と五日目は、藤本のお供をして関連会社の監査である。
もっとも最初の日は藤本から監査の準備とかの話を聞いて、午後遅く出かけるだけで、監査は翌日の朝から午後3時頃まで、そして帰ってくるという予定である。
藤本
「飯田さんは、もう何度も監査に参加していると山田さんから聞いている。ISO審査員でさえ5回も審査をすれば一人前らしいから、もう飯田さんは一人前だろうと思うよ。とはいえ、まず基本のキの確認をしようか。
監査とは私がやるぞとか、飯田さんがやるぞと決心してやるものじゃない。それは知っているね?」
飯田
「つまり依頼者からの指示があって行うということですね」
藤本
「その通りだ。監査とは依頼者から依頼がトリガになって行う。当然、依頼者から調べてこいと指示されたことを調査する」
飯田
「当社の場合、環境監査においては遵法とリスクだと聞いてますが」
藤本
「会社では指示とか命令というのは、都度示されることもある。そうではなくて継続的に行う場合は、会社規則に定めることにより恒久的な指示をすることもある。環境監査の会社規則に環境監査は毎年1回行い、監査基準は遵法とリスクであると規定されている。環境監査の会社規則は環境担当役員の決裁だから、環境担当役員が毎年そのように指示をしていると理解されるわけだ」
飯田
「なるほど、論理的ですね」
藤本
「遵法とリスクといっても具体的な調査事項は、監査は監査する部門の特性や過去の監査結果などの状況を踏まえて決定される」
飯田
「横山さんからもその説明を聞きました。しかしそれって変じゃないですか。過去の監査で問題がない場合、監査精度をゆるめてしまえばますます監査で不具合を見つけることがなくなってしまいます」
藤本
「調整型抜取検査って知っているかい?」
飯田
「いや、知りません」
藤本
「じゃあ勉強するしかない。要するにそういうことの理論は究められている。監査においても・・」
飯田
「監査と検査は違いますよ」
藤本
「うーん、山田さんから依頼されているのは基礎的な知識やテクニックではなく、仕事に対するスタンスとか考え方という注文だったので、そのカテゴリーについては個人的に勉強してもらおう・・・と言いたいのだが、そうもいかないか・・・」
藤本は首の後ろで手を組んで椅子の背もたれに寄り掛かった。
飯田
「要するに私の知識が不足しているということですね」
藤本
「単なる知識ではなく、アナロジーを考えるとか、二つのものごとを見て相違点や類似点を類推するということかなあ〜」
そのとき飯田は数日前、川端に言われたことが頭に浮かんだ。正確に川端の言葉を思い出せないが、注意深い観察をすれば相違点や類似点が分るとか、そんなことだったような気がする。あの話と藤本がいま言っていることは同じことなのだろうか?
そんなことを考えていて、藤本が話し始めた冒頭は聞き漏らした。
藤本
「・・・実際の仕事をしていて、いろいろな問題にぶつかり、それを解決することによって応用力が身に付くもんだ。そういう経験を積まないと教育だけでは育成はできないのかもしれない。
君の前任者の横山さんは、環境保護部に来て4年でベテランになった。しかしその前に支社の総務で8年近い実務経験があった。そういったことがないと難しいかもしれないね」
飯田は藤本の言葉を聞いていささか憤りを感じた。そして明日の監査では、藤本社長のお手並みを拝見しようと心の中で思った。飯田は横山の助手として監査に行ったとき、自ら法規制の問題を見つけたりしていたのでいささかの自信があった。



翌日の監査では、飯田はひたすら藤本の行動と発言に注目していた。そこで飯田は横山と藤本の監査の作法がまったく違うことに気付いた。横山はあることについて調査するとき、そのことについてヒアリングとか文書や現場の確認をしていた。横山が何を調べようとしているか知らない人から見れば横山がしていることはまったくわからないが、横山が調べようとしていることを知っていればそのアプローチが一直線であることは明らかに見て取れる。
しかし藤本の監査の仕方は、藤本が調べようとしていることを知っていても、今している質問がどんな情報を得るためにしているのかわからない。それよりもどのようなアプローチをしようとしているのかさえつかみようがない。傍目にはいい加減というか、一体この人はなにを考えてヒアリングをしているのかつかめないのだ。
監査の図 しかし監査結論になったとき、藤本の集めた情報がどのように組み合わされてその結論に至ったかということが論理的に明白になる。それは横山よりもはるかにうわてだ。飯田は藤本が只者ではないと感じた。
そして藤本は見つけた不適切なことをすべて取り上げるのではなく、既に対策しているものでもOKとして無視してしまうものもあり、問題であるととりあげるものがあり、その判断基準は飯田には理解できないところもある。
昨日、藤本が言った調整型とはそういうことなのだろうか? それとも違うのだろうか? 飯田には分らなかった。いや、分らないことはそれだけではなくたくさんある。学ぶことは多いなあと改めて思う。ただ勉強することがたくさんあって大変だと思うよりも、勉強することがたくさんあっておもしろそうだと感じた。



監査から帰る新幹線の中で藤本が飯田に話しかけた。
藤本
「どうだい、少し勉強になったかい?」
飯田
「はい、藤本さんの偉大さが良く分りました」
藤本
「ハハハハハ、偉大というなら山田さんにはかなわないよ。私は山田さんに習ったけれど、山田さんはだれに習ったのではなく、自分で自分を教えてきたんだからね。
飯田さん、ゆくゆくは飯田さんが私の会社の監督業務に就くんだ。君は仕事に就いたばかりなんだから学ばなければならないことはたくさんあるのは当然さ。でもこの1週間は少しはためになったかね?」
飯田
「はい、とても勉強になりました。しかしこれだけのことで私の教育費用として20万請求するとはすごいですね。暴利じゃないですか」
藤本
「ほう、金額まで知っていたのか。暴利かどうかは考え方次第だよ。1週間前に来たときよりも、君は相当パワーアップしているはずだ。それを考えたら安いものだ」
藤本は平然と答えた。

うそ800 本日の言い訳
仮に1週間の実習で、これほど無知の知を自覚し何をしなければならないかを理解する人がいたならば、それは天才でしょう。まあこれはお話ですから・・・




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