ISOの終焉

15.11.16

私はいくつかクラブに入っているし、興味がある講演会を見つけては聴講に行く。そんな中に「邪馬台国の会」とか地域の「古事記のクラブ」がある。古代についての講演を聞くと、古代日本の社会とか遠い祖先の考えたことなどを思い描き、そこから現代の社会や悩みなどを振り返ると新たな観点から考えることができる。そんなことをしていると、今思い煩っている悩みなどどうでもいいことのように感じる。おっと、そんな気がするだけだけど。
竪穴住居 ともかくそういったところに顔を出すのは、古代を知るというよりもいろいろな見方ができるようになることが目的かもしれない。
ところで古事記とは、天皇を頂点とする体制(システム)が民を支配するための手段だという人もいるし、古代から伝わる神話だという人もいるし、歴史的事実だと語る人も、全くのウソだという人もいる。しかし一行一行読んでいくと単なる妄想とか嘘とは思えないし、支配するための道具とも思えない。
だいたい天皇家の偉大さを民に知らしめるためならば、天皇の子供たちの殺し合い、皇位を狙う伯父と甥の戦い、天皇の横恋慕や残虐な行為とかそそっかしいミスなどを載せるはずがない。だが古事記に書かれる仁徳天皇は女にだらしなく、ヤマトタケルは親父のいじめ虐待に苦しみ、仲哀天皇は意気地なし、武烈天皇は残虐非道、そんなのが延々と書いてあっては天皇家の権威ぶち壊しでしょう。
ソ連や北朝鮮が指導者一族を神格化したり、今現在、韓国の朴 槿惠(パク・クネ)大統領がオヤジ朴正煕を偉大にするための国定教科書を推進したりするのをみれば、わざわざ指導者を貶めるような物語を編纂しないことは自明である。

古事記のクラブの中には大学の研究者顔負けの方もいて、古事記の新解釈を考えたり天皇諡号の意味を推察したりする人もいて面白い。私はそういう方面は全くの素人だから、さまざまな論や意見を聞いて感心するだけだ。
天皇家は万世一系といわれているが、実際には何度も王朝交代というか血統が変わっているのは間違いない。継体天皇は間違いなく血縁のない北陸からきた人だろうが、応神天皇もそれ以外もとか諸説ある。
おっと古事記とか天皇なんて興味のない方もいるかもしれない。まあそんなことから考えたということがマエフリである。

さて当たり前だが永遠に続いた王朝というものはない。中国4000年とか中国3000年というが、現在の俗に中国と呼ばれている中華人民共和国は建国からたった60年ちょっとの歴史しかない。中国の所在する土地には4000年前から人が住んでいたというなら、日本にだって1万年以上前から住んでいたわけで意味のない話だ。
長く続いた国家といえばまず古代エジプトである。古代エジプトは数千年の歴史があるようだが、その間に王朝は10回くらい替わっていて、最長の王朝で800年ほどらしい。800年というとすごいようだけど、血縁が連続しているのが確実と思われる継体天皇からでも1500年以上続いているし、アメリカ政府だって250年の歴史があるから、そんな驚くようなことではない。
おっと話が逆だった。どんな王朝でも国家でも永遠ということはなく皆終わりがある。
国家や王朝の終末がいつかというのは明確だ。新しい君主は自分を民衆に知らしめなければならないから、中国では城壁の上で群集に先王の首を刎ねるを見せるのが習わし。マンガ「封神演義」にもそんなシーンがありました。

最近の私はISO認証制度の寿命が来たのではないか、終焉が近づいてきたのではないかと書いている。 そりゃどんなものにも寿命はある。前述したように体制であろうと物であろうと生き物であろうと始まりがあるし終わりもある。認証制度はシステムそのものだ。
注:
元々システムとは、社会制度とか支配体制という意味である。どんな辞典でもシステムを引くと、真っ先に出てくるのが制度とか体制である。手元の広辞苑第二版(1974)では「@組織、制度A系統、体系」しか載っていない。
現在の広辞苑には「B方法、方式、Cコンピューターを使用した仕組み」などが載っている。
INCOSEの定義では「システムとは、定義された目的を成し遂げるための、相互に作用する要素を組み合わせたもの。これにはハードウェア、ソフトウェア、ファームウェア、人、情報、技術、設備、サービスおよび他の支援要素を含む」とある。
 INCOSE(The International Council on Systems Engine)
だからシステムの三要素を「組織、機能、手順」とするのは正しいと思う。
システムとはインプット・プロセス・アウトプットであると語る人もいるが、それは自動制御などにおける考えのようで一般的ではなく、システムの必要条件でもないし十分条件でもない。

じゃあ体制(システム)における寿命というか終末は何で表せるだろうか? どういう事態になったら終末です、ご臨終ですといえるのだろう?
まず一般に言う寿命とはなにかと辞書を引くと、
(1)命がある間の長さ。
(2)転じて、物がこわれずに働く期間。また、その限界。
とある。

生き物の場合、寿命は二つ考えられる。個体の寿命と種の寿命だ。恐竜の平均寿命が何十歳だったかわからないが、恐竜が繁栄したのは2億年前から5千万年前までだから、種の寿命は1億5千万年位だったことになる。
注:
突っ込みを予想するが、恐竜とは「種」ではなく「目」とされている。また恐竜には「鳥類」を含めることも多い。
恐竜 私が子供のときの先生が「人類は偉いといっても哺乳類なんてたった5000万年の歴史しかない。恐竜はその3倍も繁栄したんだから恐竜の方が偉い」なんて言っていた。
ちょっと待ってくれ、恐竜って言ってもさまざまな種があり種の交代があっての1億5000万年だ。たとえばティラノサウルス(レックス)がはばっていたのはたった300万年くらいだったらしい。アウストラロピテクスのルーシーは300万年以上前だから、我々が肩身の狭い思いをすることもない。

おっと、話にとりとめがない。
ISO認証制度が終末をむかえたのではないかという私の仮説に対して、反論が多々あるだろう。それが本日のテーマであった。
どういう状況になれば認証制度の終末がきたといえるのだろうか?
その認証制度の終末を定義しなければならない。
システム(制度)の寿命となると、そのシステムが廃止あるいは消滅するまでではないだろう。そのシステムが社会的に評価され活用されなくなったときといってもよいだろう。
というのは個体の場合は生物であろうと機械であろうと、生きている/生きていない、あるいは動く/動かないというオン・オフ、イチ・ゼロで割り切れる。いや割り切れるから個体の寿命がきたと判断される。
しかし生物の種や機械類あるいはシステムとなるとイチ・ゼロでは判断つかない。たとえば人力車を考えてみよう。1台の人力車であれば故障したとか廃棄したということで寿命がきたと判断できる。しかし交通機関としての人力車であれば、町でリキシャを見かけなくなったときが寿命だろう。では見かけなくなったときとはどの時点だろう?
今でも観光地、浅草とか鎌倉とか各地の観光名所で営業している。しかし現在の日本で人力車が交通機関であるとはみなされてはいないだろう。人力車が交通機関なのか観光施設なのか歴史的遺物なのかは単に見ただけでは決まらないだろう。交通機関かどうかは存在しているか否かで決まるのではなく、損益分岐点のように外部環境によって決まるような気がする。

ではISO認証について言えば、どうだろう。ISO認証制度が社会的に認知されているかどうか、あるいは利用されているかが判断基準と考えてよいだろう。
だがそれでも簡単ではない。では社会的に認知されるとは何を指標で表すのだろう、活用されているといってもどんな切り口でどんな指標で表すのか、そしてその指標のいくら以上なら活用と言えるのか・・・とそんなことを考えるとなかなか難しい。

もっとも素直に考えると、そもそもISO規格発祥の目的であった「商取引における品質保証の基準として活用されているかどうか」の状況であるとしよう。
世の中の商取引の3割とか4割において、売り手がISO9001認証していること求められているなら、活用されていると判断してもおかしくないだろう。しかし現実にはISO9001を二社間の取引に使っているケースというのは私の知る限りまずない
20年も前、EU統合の時に認証していることが条件であったが、それが唯一の例ではないだろうか。それ以外にそんな条件を聞いたことがない。それどころか国内ではよほどのことがなければ独禁法違反のはず。
じゃあ、そもそもISO認証は発祥のときから活用されていなかったということになる。であればもともと認証制度というものは作られたものの、生きて使われなかったということになり、終末以前に誕生さえしなかったことになる。

それでは本来の目的である商取引に活用されないISO9001をなぜ認証していたのかとなると、多くの企業は会社をよくするためとか、売り上げを上げるためとか、品質保証とか顧客満足とは全然違った観点をあげていた。要するに自己満足、いや認証組織内部のためであって本来の目的ではなかった。
まあ、2000年版以降まったく品質保証とは無縁になったわけだから、存在価値は企業をよくするということでもよい。であればISO9001を会社をよくするために活用されているかどうかが判断基準になる。だがそう考えても今QMSの登録数は3万と少々だが、日本には営利企業が300万もあるわけでそのうち1%程度が認証しているから活用されているとはまさか言えるはずがない。
さらに言えば1%の認証企業のうち、少しでも効果がある企業が何パーセントあるものか、まさか10%もないだろう。まあ大目に見て仮に10%とすると、全法人の0.1%、まあ大勢に影響はない。

いやいや割合じゃない絶対数だよ、認証件数が一定数あれば、それは十分に活用されているという主張もあるかもしれない。それも素直な考えである。だが3万の10%として3000社ではねえ。しかも登録件数はどうかとみれば、現実の登録数が減少していることからISO認証は活用されなくなってきているということになりそうだ。
いや、増減ではなく絶対数だという考えもあるだろう。その場合は損益分岐点というか臨界点というか、活用されていると言える基準を決めなくてはならない。だが法人の1%しか認証していないならどのような考えで決めても基準を超えているはずはない。
以前もISOに関する論文件数ISO書籍の出版件数認証売り上げなどを検討したことがあるが、どんな切り口でみても認証制度が興隆を極めているとはいえない。確かに興隆と寿命は等しくはない。しかし、どのような指標で考えればよいかとなるとこれまた頭をひねる。
ちょっと待て!
そもそも話の前後がおかしい。私がISO認証制度が終焉を迎えているのではないかと考えたのは、そう感じることが多々あるからだ。それはなんだろう?
いろいろある。
まずネットでも書籍でもISOに関する新しい情報がない。規格改定についての紹介や対応を書いた雑誌があるだろうとか、認証機関は講演会を開いているじゃないかとおっしゃるかもしれないが、それはほんの一時だ。賭けてもよいが2016年には規格解説本が10や15件発行されるだろうが、2017年にはまずないだろう。そして多分2022年ころにあるだろう次期規格改定までISOについての書籍は発行されないに違いない。
そのほかISOに関する個人のウェブサイトはどんどんなくなり、あっても更新はなく低調である。要するに書くことがないのだ。これは規格改定以降も変わらないだろう。なにせ規格改定とは単に要求が変わるだけであり、規格の考え方、受け止め方が変わるわけではないのだから新しい情報が必要ではないのだ。
そう、新しい情報を提供する必要ないという状況に至ったということだ。だからこそ書籍もネットもその他の手段でも新しい情報提供をする人がいない。
そういう事実を見て私は終焉だと思ったのだ。
終焉とはあるものがなくなることではなく、それに関する情報がいらなくなることかもしれない。
仮に認証件数が大きく伸びても、誰もそれに関心を持たなければそれは終焉を迎えたといってよいのではないだろうか?
フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」とは人類が死滅することではなく、イデオロギーの対決が終わった世界にはドラスティックな変化はもう発生せずに、節目のない時間が過ぎていくだけだという意味だった。

うそ800 本日の誓い
なんだ、これで終わりか?
そんなことを言われそうですね。いえいえ、これは終焉の始まり、これからもISOの終焉とは何か、終焉の後に何が来るのかを書いていきますよ。



ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2015/11/16)
これは感覚ですが、本当に「終焉」がきたと思います。(正確に言うと、そう感じます)
関係者にとってビッグイベントであるはずの2015年改正に関する反応が、得意先を含め私の周囲にまったくありません。
そして、これは世の中全般であるように思います。先日書いた通り、知恵袋において2015年改正に関する質問が皆無に近いことがそれを裏付けています。
今の私の関心は、どういう形で「終焉」を迎えるかです。

 1)認証返上?
 2)認証は維持したまま「ISOごっこ」を全廃?
 3)認証機関が認定を返上?
 4)それ以外

ぶらっくたいがぁさん 毎度ありがとうございます。
同感です。そうなんですよ、誰も大変だと騒いでいないのです。もうあたりまえというか気にしないというか、空気のようになってしまったのでしょうか?
あと半年様子を眺めましょう。

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