「自然という幻想」

20.07.02
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

書名著者出版社ISBN初版価格
自然という幻想エマ・マリス草思社97847942234252018.07.191800円

この本は前回書いた「ISO14001の規格と審査がしっかりわかる教科書」を借りに図書館に行ったとき、同じ棚にあったので目に入りついでに借りてきた。
分類が共に「519」で同じ棚にあった。でも「519」は「公害・環境工学」だ。ISO14001は「環境工学」というよりも管理工学なんじゃないのかな? 実を言って管理工学という分類はない。それなら「企業・経営」か「経営管理」ではなかろうか?
ちなみにISO9001の本は分類が「509」で、これは「工業・工業経済」になる。これも分類が間違いだろう。まあ新しい学問とか学際的なものは過去からの技術体系にはうまく入らないのは分かる。ただ区分と中身が一致しないのが気になる。

では本題、
街頭でよくカンパしていますね。でも怪しいのが多いです。横田めぐみさんを救おうといっても、本物ばかりでなく偽物もあるのですよ。私は一度、偽物に1000円寄付したことがある。クヤシイ
東日本大震災の犬猫を救え!なんて言ってますが、犬の寿命は短いから、東日本大震災に被災した犬たちはとうに天寿をまっとうしてるんじゃないかな?
そう言えばチャンチャラおかしい偽ユニセフってのもありましたよね、
環境保護のために募金…なんていうのは100%偽物だと思いますよ。でも面と向かって「自然を守れ!」なんて言われると相手の言うことが正論に思えて、反論できないって気持ちになりませんか? なにしろ買い物のポリ袋は悪、使い捨て用品は邪、分別しない奴は犯罪というご時世です。
自然保護に反対するのは極刑と言われそうです。

勧誘員
「自然保護にご協力お願いします」
困ったな
「自然保護ってなに?」
勧誘員
「きれいな自然の森や海を失いたくありません。それを大事にすることです」
困ったな
「それは良いことですね」
勧誘員
「だから私たちは自然を守っています。ぜひご協力ください」
困ったな
「協力といいますと?」
勧誘員
「じいちゃん、金だよ、金出せよ」

お財布 正直言って、驚きのあまりうすっぺらな財布をとり出すはめになりそうです。
こういったとき、どう対応すれば良いのでしょうか?
あまり専門的なことを言わずに、カッコよく切り抜けたいものです。
この本を読めばうまいテクニックがあるかもしれません。


自然てなんでしょうか? 人間の手が入ってないものでしょうか? もう地球上の森林で人間に一度も伐採されたことのないところはないそうです。ですから原生林というのは存在せず、ほとんどは天然林(自然林)になるそうです。
ちなみに原生林とは過去より一度も伐採されたことのない森林、自然林とは伐採された後 自然の力で出来上がった森林、人工林とは人が植えて維持している森林のことだそうです。
里山を自然林、奥山を原生林と書いている書物もありますが、定義からは奥山でも原生林はないし、里山が自然林なんてことは語義矛盾です。里山は人工林どころか規模の大きな盆栽でしょう。

自然が人の影響を受けていないものとするなら、日本に限らず地球の陸地に自然はなさそうです。あるとすれば南極大陸くらいでしょう。
オーストラリアは白人が入植する何千年も前から、アボリジニーたちが伐採したり焼畑農業をしたりしてきました。それに彼らが持ち込んだ犬が、生き残っていた有袋類を滅ぼしたといわれています。

アマゾン?
アマゾン流域のジャングルには都市の痕跡がいくつも残っているそうです。はるか昔は原住民たちが都市や農地を作って住んでいたけれど、15世紀に白人が侵入してきたのでそこを放棄して奥へ奥へと逃げたそうです。川岸がジャングルになったのはそれからですから、たかだか500年。
最近の研究ではヨーロッパ人が来る前の南北アメリカの人口は、1億1千2百万もいたそうです。未開墾の地にわずかな人が住んでいたわけではありません。

アフリカですか?
ルーズベルトは20世紀初めアフリカに狩猟旅行に行き、その自然に惚れこんだそうです。
しかし実はその風景は昔からのものではありませんでした。そのほんの20年前の1887年に、イタリアがアフリカの入植地に持ち込んだ牛から牛痘が大流行し、アフリカ全土に広まり多くの牛が死んだ。そのために牧草地が茂みになり、その結果ツエツエバエが増えて人間に伝染病が流行し今度は人口が激減した。1892年までの5年間でエチオピアでは人口の1/3、タンザニアでは2/3が死んだといわれる。
現代はHIVもCOVIDも未開の地から文明の地に広まったといわれているけど、そればかりではなく文明の地から田舎や未開の地に広まったこともあるのだ。


牧草地
牛がいなくなり
草が伸びる
草がブッシュに代わる
ブッシュが灌木に代わる
ルーズベルトが見たのはこのあたり

草草草草
キリン草草
時間的経過
矢印

草ヤブ草ヤブ草
ヤブ灌木草灌木草灌木

こういった疫病や虫害により牛と人の減った草原は、茂みから灌木に遷移しつつあった。ルーズベルトが見たのは自然の風景ではなく、手入れされた状況から荒れてきたところで、アフリカの原風景とは違ったのだ(注1)。もちろん原風景である草原も自然ではなく、人と牛が作ったわけだけど。

たった20年くらいで灌木の散在する風景ができあがるはずがないと疑ってはいけない。私が田舎に住んでいた時、築十数年の中古住宅を買いました。そこは分譲地でしたが我が家の隣は建物が建てられず放置されていました。そこにはどこかから種が飛んできたのか、ニセアカシアや赤松が生えていて、そのとき既に直径15センチくらいに育っていました。もちろん高さは見上げるほど。
ちなみにソメイヨシノは20年もたてば見ごろ、30年で大木、40年で巨木、50年で虫に食われて倒壊の危険。20年というのは樹木にとっても十分長い時間なのです。


日本の里山はどうかって?
最近では、里山は農村の原風景であるということが既成事実になっているようだ。ところが里山という言葉は古くからある言葉ではない。広く使われるようになったのは1990年以降らしい。たった30年前だ。そして言葉がなかったように、現実にも江戸時代には農村の周辺に里山はなかったという。
ドングリ 江戸時代の浮世絵や幕末の写真では、農村の周辺は草地であり樹木はほとんどない。作物が作れない土地は牧草地にして飼料や肥料にしたという(注2)
里山を保全しようというのは、100年前の風景を知らず、数十年前の風景を昔からの風景と思い込んでいるだけのこと。

私の親父は生粋の田舎者で農民だったが、私が物心ついてから親父が死ぬまで里山という言葉を使ったことがない。自分の実家を「開墾」、本家を「村」と呼んでいた。そして里山に相当する林は存在していなかった。木々が茂っているところは「ヤマ」と呼んでいた。
「ヤマ」とは高くなっているところではなく、人が立ち入れないような林のこと。大人でも立ち入るにはナタをもち、地下足袋と長ズボン、長そで、ほおっかむりをしなければ危険なところだった。親父は地下足袋ではマムシを防げない、ゴム長が良いと言っていた。ともかく地面にはマムシ、青大将、ヤマガジ、高いところにはダニ、ブヨがいて危ないことこの上ない。野生のウサギ、ネズミ、イタチ、リスはごろごろいた。キツネの鳴き声は毎晩聞こえたが、彼らは用心深くめったに姿を見せない。
なかでも私が一番恐れていたのはツツガムシだった。元働いていた会社で40くらいの人が、山菜取りかなにかでこれに噛まれ亡くなった。親父は長そで長ズボンの先をひもで絞って、中に虫が入らないようにしていた。

ヤマはどう使われていたかというと、持ち主も近隣住民も何もせずに放置されていた。10数年に一度くらい炭焼きが来て1反いくらで上物を買った。そして炭焼き窯を作り雑木林を切り出して炭焼きをした。1年くらいで周辺の雑木林を使い尽くすとまた別の土地に流れていった。
20年かからないで炭にできるまで樹木は大きくなるのだ。
そんな昔ではない。私の娘が幼稚園に入る頃までそんな炭焼きがいた。1980年過ぎのことだ。

言いたいことは地球上いたるところで、原風景と考えられているものは、ほんの少し前に人間が作り上げたランドスケープであるということだ。
そもそも自然観察なんていうけど、観察する対象は自然なのか?
ちなみにそれは日本だけではないらしい。この本の中でアメリカ人である著者がイギリスで自然保護地域での野鳥観察に参加したら、場所は農地だったという(p.248)。著者は農地が自然保護地域であることに驚くが、イギリスでは農地は自然であり保護の対象なのだそうだ。
アメリカでは、ヨーロッパから来た人がそれ以前のアメリカのランドスケープを改造したことを記憶しているので、改変前の風景が自然のものと考えている。イギリスはロビンフッド時代から森を切り払ってしまったから、既に改変されてしまった風景を自然と感じているのかなという気がした。
ついでに言えば、ヨーロッパ人が来た時のアメリカのランドスケープは、既に原住民が改変したものなのだ。

この本では地球上に、人間がタッチしていない土地はないという前提で話が進む。タイトルは「自然(nature)」という言葉を使わず「野生(wildness)」という言葉を使っている。本文では「自然」と「野生」の両方が現れるが、原文ではどうなのかはわからない。

カブトムシ 自然を守ろうというのは、1890年代に、都市化、産業化によって、十分な安全と繁栄を手に入れたアメリカ人が自然を愛するゆとりができたのが始まりであると(p.44)。そして人々が思い描く自然はそれぞれの原風景だという。要するに、人々が思う自然とは、その人が子供時代に目にした風景であると。だから守るべき自然は人によって異なる。更に言えば自然を守れというのは豊かな人々のわがままだ。貧乏人や忙しい人は、そんなことに気が回らない。


著者は多くの植物学者とか生態学者あるいは行政機関の環境保護部門の専門家にインタビューしていく。
そして自然を守ろうというのは「何を守るのか」と問う。アメリカ大陸に来た時の原風景は自然ではない。北はアラスカから南はフェゴ島まで15,000年前に人類は住んでいたという。
それどころでない。コロンブスが到達した頃、南北アメリカに1億1200万人が住んでいたという。それは当時のヨーロッパの人口より多い。それがそれからたった100年後に、人口の95%がヨーロッパ人の持ち込んだ疫病そして虐殺で死んだ(p.92)。

ともかくコロンブス以前の南北アメリカは、原住民によって地形も植生も改変されていた。オーストラリアでアボリジニーが焼き畑をしたのと同じく、 京都で日本人が山焼きをするように、イロコイ族はマンハッタン島を毎年焼いていたという(p.93)。
そしてヨーロッパ人が持ち込んだ疫病によってわずかに生き残ったアメリカ原住民の暮らしや植生は、ヨーロッパ人が来る以前とは全く違う。そのとき原住民は土地は白人に取り上げられ荒れ地へ追い払われて細々と命をつないでいたわけで、主体的に狩猟や農業をしていたときとは習慣も暮らしも別物だった。

そういった白人の罪はともかく、本来の人間の手が入らない自然をアメリカ原住民がいじっていたなら、それを更に大きく変えたにしろヨーロッパ人に自然改変の責任はない。そして今ある姿が自然なのだという主張もある。


外来種の話も出てくる。
過失も含めて人為的に持ち込んだ動植物はすべて排除しろという極論もある。
一方現実は、プエルトリコでは外来種の森が国民にとって当たり前となっている。 ハナミズキ さらにはその一種を国の木にしようとしているとか(p.203)。そしてそれが原産地では絶滅に危機にあるとか。人生いろいろ、世の中さまざま……
だけどそういう極論が通るなら、野菜や果物など既に我々の暮らし、それも生存に直結していて排除しようないものはどうするの?
コーヒー豆、大豆、ニンジン、大根、カボチャ、ジャガイモ、ゴムの木、稲、麦、そういったもろもろを原生地に返せとなれば、はっきり言って人間は死滅するんじゃないのか?
トウガラシを外来種だからと朝鮮半島からなくせば、韓国人はどう思うだろう?
私個人としてはハナミズキを日本から排除してほしくない。大好きだから、

ある人は、ヨーロッパ人がたどり着く前のアメリカの植生を復元しようとする。
ある人は、地球温暖化が進んでいる今、温度上昇分調整して北に数百キロずらした地に植生を再現すべきと語る。 気候変動を人間が起こしたならそれを償う義務があると語る。
ある学者は小規模(数キロ四方)でもその土地本来の生態系を作りたいという。
ある人は、現在の生態系を保護しようとする。
ある人はヘラクレイトスを引用して「自然における唯一不変なるものは変化そのもの」といい、移りゆくのを是とする。長寿のモミの木は樹齢700年にもなるが、それは中世温暖期が終わった時からだという。要するに生態系など自然の気候変動によって期間は制限されている。今地球温暖化が叫ばれているけど、そんなものが起きなくても、そもそも一つの生態系というのは12,000年しか継続しないとのこと(pp60-65)。

火山 人為的地球温暖化説の信ぴょう性はいまひとつだが、それがなくても氷期と間氷期によって一つの生態系が崩壊あるいは変移するなら、特定の生態系を維持あるいは再現する意味はなさそうだ。
それどころかハワイでは活火山が活動中であり、一つの生態系が数百年以上続いたことはない。ある程度生態系が出来上がると、きれいさっぱり溶岩が片付けてくれる。
南洋の島々は規模が小さく、ヨーロッパ人が植物や動物を持ち込んだ結果、既にそれ以前の動物も植物も淘汰されてしまったところが多い。だから原住民も今が本来の生態系だと考えている。
自然保護を語っていても、同舟異夢、考えていることはみな違う。

この辺りを読んでツッコみたくなった。生命誕生以来 地球上には5250万種類の生物が出現したが、同時期には150万種程度しか存在していなかったという。つまり個々の種は1000万年程度のインターバルで交代してきたという(注3)
要するに滅ばない種は存在しない、それどころか1000万年経過すれば概ね滅んでいくこと、ならば多種の種が作り出している自然・生態系も1000万年以下の期間で様相を変えていくはずだ。もちろん火山、海面の上昇・沈降は1000万年どころか、数千年もたたないうちにどんどんと変化する。
そういうことを考えると、自然とはいつの時代か? どの自然を再現しようかと考えることは全く笑止である。

面白いことが書いてある。
今我々が見る川の姿というものは人間が作ったという。おっと、河岸をコンクリートで固めたり桜の木が植えてあるという意味ではない。流れる場所が決まっていて、川幅を定めるしっかりとした岸がある川は人間が手を加える前には存在していなかった。
人の手が加わる前の本来の川は、湿地帯に多数存在する沼地をつないで蛇行する流れだという。釧路湿原を思い出してもらえばわかる。標高差が小さい平原を流れる川は、自由気ままに流れを変える。雨が降れば常に氾濫して低いところ低いところと水は流れ、そのたびに流路は変わる。中国でも日本でも、治水は為政者の義務であり、これを全うできないと文字通り為政者の命取りになった。
もともと田んぼとは湿地帯を探して稲を植えたと古事記とか神武天皇時代のお話にある。そして大雨が降るとか、野分(台風)が来るたびに田畑が流され、また川の流れが変わるというありさま。大雨が降ると村が引っ越す騒ぎになる。時代小説などにはそういった風景が描かれているものが散見される。
しかしそもそも湿地帯を探して稲を植えたなら、嵐が来るたびに稲を植えた場所の様相が変わるのは必然である。
もちろんそれで良しとしたわけでなく、常に流れの変わる沼地のつながりでなく川の流れを一定にしよう、氾濫をなくして、村と田んぼを守ろうとした。治水といっても現在の川の維持、洪水防止とはだいぶ趣が異なる。利根川、木曽三川、もっと身近な墨田川の流路を固定するような工事は、江戸時代のことになる(注4)

大雨や野分だけでなく、ビーバーなどによっても川の流れが止められたり変わったりした。西部開拓で川をカヤックで移動するにも、倒木の排除、ビーバーの排除などしなければならなかった。
大河で幅広く水量が多くても水深が浅く、外輪船が航行できるようにするには浚渫しなければならなかった。
なおアメリカの大河で外輪船が使われたのはスクリューの船よりも喫水が小さいから。第二次大戦が終わってあまった貨物船がその効率性から河川の運搬用に使われるようになり外輪船は消滅したが、そのためには改めて大規模な浚渫作業をしなければならなかった。
もうここまでくると、自然に帰れとか、自然保護なんて言えないよね!

自然保護に関して、面白い比較をしている。
有機農業が自然に優しい、人にやさしいなんて受け止めは欧米にもあるようだ。おっと、そういう発想はあちらから日本へ入ってきたかな?
ともかく有機農業が自然に優しいのか否かの比較をしている。人に優しいかは考えていない。
方法は次のようになる。本書の中では文章で書いてあるだけで、算式?は筆者作成。

 (In−Ia)/Aa > (In−Io)/Ao 有機農業のほうが自然への影響少ない
 (In−Ia)/Aa < (In−Io)/Ao 通常農業のほうが自然への影響少ない
チョウ   ・面積当たり有機農業の産出量 Aa
  ・面積当たり通常農業の産出量 Ao
  ・有機農場におけるチョウの数 Ia
  ・通常農場におけるチョウの数 Io
  ・自然の中の昆虫の数 In
注1:環境への影響は文中ではチョウ1種だけの生息数とする。
本当はチョウの数だけでなくたくさんの昆虫もいるだろうし、昆虫以外の評価もしなければならない。
注2:通常農業よりも、有機農業のほうが面積当たり産出量が少ないので広い面積を必要とする。そのために面積的には通常農業より環境影響が大きくなる。

試算結果はなく、チョウだけでは心もとないという言で終わっている。
ただ有機農業が自然に優しいようではないとも書いてあった。まあ、自然にやさしくなくても、ヒトにやさしいならそれを優先するのも価値観ではある。


圧巻というか私が感動したのは末尾に出てくるお話だ(pp237-240)。
シアトルのボーイング社からの工場排水で汚染された小川(デュワーミッシュウォターウェイ)を、再生しようとしているグループの活動である(注5)
ここでは第二次大戦時はB17爆撃機を毎日数十機も生産したという。 B-17爆撃機 そのときから何十年にもわたり工場排水に含まれた重金属をはじめとする有害物質が、川底に堆積したのを、浚渫しその後川の流れによって空気を巻き込み酸素濃度を上げ川に生態系を作ろう、川岸に昆虫を呼び戻そう、さらには海からも水生動物を引き込もうとしている。そうしても工場排水の排水路として使うことはもちろんだ。
私はこの発想というか目的に全く同意する。
彼らは1850年代とか特定の時代の小川を再現しようなんて考えてもいない。理想とか持続可能なども考えていない。彼らが目指すのは野生動物の生息地であり、かつ工場からの排水路として機能することであり、市民の憩いの場となることだ。

自然保護なんて語っているが、結局は「遵法と汚染の予防」というISO14001の意図に帰り着くのではないだろうか。高邁な理念で原風景の復元とか人間が現れる前の生態系などと語っても、なんら科学的根拠もなく空理空論に終わるのではないだろうか。
そんな自然という幻想にとらわれず、今目の前の環境をできるだけできることをするのがまっとうではないのか? まさに本書のタイトル通り「自然という幻想」である。

実はこの本の終章は「結論あるいは回答はこれだ!」というのは提示していない。いろいろな考え方を並べ、それぞれに簡単な解説をして終わっている。どれを選ぶのかは読者が考えてほしいということだろう。見方によっては無責任かもしれないが、私はそれが気に入った。

環境部門に25年もいると、いろいろな人に会った。
某大手企業で環境部門にいた方はトンボ保護を任としていた。私にはちょっと考えられない。その会社の定款には自然保護も事業にあるのだろうか? 大学の先生が研究のためとか、市の職員がトンボを甦らせて観光名所を作るというならまだしも……
マングローブ ニューギニアにマングローブの植林をしていた人もいた。毎年社内で有志を募って実行していた。中国の内モンゴルで植林に行って、地元で苗を買って植えるとすぐにその後 地元民が苗を抜き取り、次に来たアホな日本人に売っているという話を聞いたことがある。そんな目に合わなければ良いねと言っておく。
埼玉の某市職員は、江戸時代の田んぼの風景を復元したいと言っていた。機械も入らない不定形で小さな田んぼ、そういうのを何十枚も作っても、今の農家はうれしくないだろう。それがいかなる効用があるのかの説明はなかった。農家のメリット? 近隣住民のメリット? 都市の価値は向上するのか? ただ個人の趣味ではないかと思えた。

冒頭に戻れば、自然保護を語るときは、自然とは何か・どんな状態を意味しているのかをしっかりと考えることから始めるべきだろう。そうすれば自然保護といっても、もっと現実的なメリットのあるものが思いつくかもしれない。
もっとも街頭でお金集めをしている詐欺もどきはそんなこと興味もないだろうけど。

蛇足である。
この本を読んで「環境原論」という本を思い出した。
あちらは廃棄物をもとに環境問題を考えているし、この本は自然をもとに環境問題を考えている点は違うが、些事はどうでもよくて本質に切り込んでいることは同じだ。そして残念ながらどちらも明るい未来は見せてくれないんだよね。


うそ800 本日の本音
田舎に生まれ育ち、農家ではなかったが本家の代わりに下刈りに駆り出され毎年えらい目にあっていた身としては、毎年職場でしていた里山保全の植林も下刈りもご遠慮していた。
いろいろ体験するのは良いことだし面白いと思う。だけどなんか偽善的に思えて仕方がない。いや、本音はつらい仕事はしたくないからです。
会社でしてたのはお遊びで真面目な仕事じゃなかったの



注1
「地球温暖化問題の探求」杉本大志、デジタルパブリッシングサービス、2018

注2
「森林飽和」太田猛夫、NHK出版、2012
「草地と日本人」須賀 丈、岡本 透、丑丸敦史、築地書館、2012
「外来種は本当に悪者か?」フレッド・ピアス、草思社、2016

注3
「自滅する人間」坂口 謙吾、日刊工業、2012

注4
注5
英文Wikipedia Duwamish River
Duwamish River Superfund Site
こんな駄文を書くにも、参考文献を読まなくちゃならず、結構大変!


マンタロウ様からお便りを頂きました(2020.07.11)
ご無沙汰しております。久しぶりの投稿でございます。
大学院生マンタロウでございます。
「自然という幻想」を拝読いたしました。で、ずいぶん前に読んだ『「奇跡の自然」の守りかた ─三浦半島・小網代の谷から』という本を思い出しました。
その本、荒れ放題の里山を復活させるために立ち上がった人たちの活動です。その中に書いてあったのですが、遊歩道の周囲をきれいに伐採していると、散策中の人から「自然破壊をするな」みたいな視線で見られるという話。そういう人は人間が手を入れなくても、自然が自ら景観を作り出していると思い込んでいるんでしょうね。
あ、そういえば。明治初年、京都の嵐山を愛する大久保利通が明治維新の偉業を成し遂げ、久しぶりに嵐山に来てみたら荒れ放題になった嵐山の姿。「どうしたこっちゃ」と呆然としていたら、地元のお年寄りが「嵐山は江戸幕府が景観を保全するために毎年、出資していたのです。今はご維新で、お金を出してもらえなくなったので、手を入れられずにこうなったのです」と。その話を聞いた勝海舟が大久保に「政治とは、そういう目に見えない所にも手を届かせるものなのさ」とたしなめた、とか・・・。最近は「コンクリートから人へ」が再び、ブーメラン飛行していますねwww。

帰ってきたマンタロウ様〜
懐かしさのあまり、涙 涙 涙でございますよ。
サラリーマンから大学院生に出世していかがでございましょう? 論文に追われ、研究で眠れず、パチンコにもいかねばならず、酒も飲まねばならず、どんな立場になってもお忙しいとお察しいたします。
私はその「奇跡の自然の守り方」という本を読んだことがありません。でもマンタロウ様のお話を聞いただけで想像がつきます。
誰でも自分の好きな風景が好きなんだと思います。それが人間の手が加わっていないにしても、人間が作り上げたものにしても、どうでもいいのでしょう。そういう話を聞くとナンダカナーってなりますね。
三浦半島の遊歩道のメンテナンスしている方々の心中に同情申し上げます。
一昨年、家内と安いバスツアーで白神山地に行きました。本来の自然を守るのか、多くの人に来てほしいのか、地元も悩んでいるようでした。その気持ちわかりますが、回答はわかりません。
ところで私のふるさと、郡山市ではサツキの盆栽がメジャーな趣味。でもあれって若い木を針金でグニャグニャに捻じ曲げるわけです。それが5年10年たつとすばらしいというわけです。
そういう人は昔の中国の纏足(てんそく)のように人間を奇形にしてしまうのが素敵なのかなと私は引いてしまいます。街路樹だって枝を伸ばすと邪魔だからと毎年丸坊主に枝落としされてしまいますが、見ていてかわいそうです。とはいえ、こちらは人間社会に便利なようにという意味合いがあるのかなと思えば妥協するしかありません。
毎年12月になると都内の各所で街路樹に電球をつけイルミネーションがきれいですが、樹木がかわいそうという投書も毎年のこと。折り合いをつけるのは難しいですね。



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