学ぶ・教える09・砂の山

21.08.26

不肖おばQは退職してすぐにフィットネスクラブに入り運動に励んだが、それだけでは1週間は埋まらない。いろいろやってみて1年少々過ぎてから英会話教室に入った。しかし早い話、年金生活者は余裕がなく無駄使いもできない。上達しないのを理解して数年でやめた。それから英語をまったく勉強しなかったが、コロナがはやりはじめた昨年の最初の緊急事態では、フィットネスクラブも図書館も長期休館となり、暇つぶしとボケ防止そして頭の体操を兼ねて英語の勉強を始めた。
といっても高度なことではない。中学英語だ。中学校時代の教科書などはるか昔に捨てたので、本屋で中学英語のやりなおしというたぐいの本を買ってきて、毎日数ページずつ、読む、書く、聞くということをしている。

世の中には私のような人が多いようで、本屋の参考書コーナーには「中学3年間まるごとやりなおし」とか、「3年間を1冊に」あるいは「もう一度中学英語」なんてタイトルで、A5サイズ200ページくらいに中学英語をまとめた本がたくさんある。
なお、「60歳から始める英語」という本はいくつもあったが、「70歳から始める英語」という本はなかった。70歳では手遅れなのか?

こういう本は単に読むだけでなく、中にいろいろ書き込むので、図書館から借りるわけにはいかない。とりあえず本屋でパラパラと見て気に入ったものを1冊買ってきた。
さて始めてみたものの、中学卒業から50年以上経っている。定冠詞を付ける・付けないの区分など全く忘れた。そのほか動詞の不規則変化、名詞の不規則な複数形など、ほとんど忘れた。
ただ会社員時代 常に英語のISO規格を読んでいたから、関係代名詞や関係副詞で続く長い文章は怖くないし、修飾語がどこにかかるかなんてのは大体わかる。日常使っていることは忘れない。もっともISO規格は英語というより論理式かもしれない。

忘れただけではない。時代による変化もあった。「as 形容詞 as」の構文は否定になると、「not so 形容詞 as」になると1960年初頭に習った記憶がある。
ところが今はnot as〜as というのだそうだ。現地人が実際どう言うかはともかく、中学ではそう教えている。良し悪しではない、そう覚えよう。
その他、昔なかったスマホとかアプリという言葉を英語でどういうのかわからない。
サッカー そのほかにも昔は教科書に出てくるスポーツといえば野球とかスキーが定番だったけど、今はサッカーとかTVゲームが定番のようだ。私はスペル以前に英語でどう言うのか知らなかった。

昔サッカーのことをフットボールと呼んだように思う。
ググるとそもそもこのスポーツの正式名称は、アソシェーションフットボールというそうだ。アソシェーションを略してサッカーと呼んだ国もあり、後ろのフットボールだけ呼んだ国もあったこと。何事にも歴史というか由来があるものだ。

最初に買ってきた本を最後までするのに52日かかった。最初のページに戻って2回目3回目とやったが、1回やったのを忘れて和文英訳できないものが多々ある。
これは本が難しすぎるのではなかろうかと、本屋に行ってまたパラパラ見てまた1冊買ってきた。前よりは少し易しい感じがする。それでもパーフェクトなんて無理!
その本も2回やった。例題の数は違うが一巡に35日くらい要した。英文和訳はもちろん全部できるが、和文英訳は単語が思い浮かばないものもなくならないし、冠詞忘れとか不規則変化を忘れているものもありミスゼロにならない。
やはりこれも難しすぎるのではないだろうか?

ということで3冊目をやり、4冊目をやり、とそんなことを繰り返している。
📀CD1枚付

もう一度!
中学英文法

英語嫌いも好きになる



旺文社
今取り掛かっているのは5冊目で「もう一度中学英文法」というものだが、一巡してやっと俺にもなんとか満点がとれる本に出合ったかと喜んだ。今2巡目だが、英訳する和文を見ると答の英文が頭に浮かぶようになった。

以前やった本を引っ張り出してみると、意外なことに簡単に思える。というか現在やっている本と似たようなものではないか。使われている単語は中学で習う範囲だし、教える構文も決まっているから、中学英語をまとめた本はみな似たようなものになるのも当然だ。文章の名詞が変わったり動詞が変わったりしているだけだ。

注:「もう一度中学英文法」、大岩秀樹、旺文社、2010
この本が良いというわけではない。この本から始めたら別の本が良く思えたことは間違いない。

ではなぜ最初の本は難しく感じたのか、いや実際に回答できなかったわけだ。そして今のテキストはなぜ易しく感じるのか?
まあ簡単に言えば勉強したからだろう。しかしそれなら同じ本を5回6回とやっていても今と同じだろうか?
どうもそうでもないように思う。似たような課題をたくさんやった結果、その問いだけでなく文章の、名詞、動詞、複数形、時制、相などを入れ替えることが身に着いたということかなと思う。


非常に卑近な私の英語勉強の例を挙げたが、それは一般化できるのだろうか?
私は一般化できるというよりも、必然だと思う。
パソコンやスマホを、取説を読んだだけでは使えるはずがない。しかし何も読まずにカットアンドトライで現物をいじるだけでも進歩しがたい。いじっては取説を読む、取説で分からなければネットで調べる、そしていじってみる、そういうことの繰り返しで操作を覚えやがて自家薬籠とすることができる。

勉強はレンガを積み重ねるようなことではないと思う。レンガならずれないように積み、モルタルなどで固着すればどんどん高く積み上げることができる。でもなにごとかを習得するということは固いものを積むのでなく、砂の山を作るようなことではないだろうか?
砂をいくら高く積み上げても流れてしまう。砂の山を高くするにはとにかく大量の砂ですそ野を広くして山頂を高くするしかない。

レンガ積み
砂の山
砂山

土や粉粒体を積み上げたとき、自発的に崩れることなく安定する斜面の最大角度を安息角と呼ぶ。安息角は、粒子の形状、角の丸みなどにより決まるが、角がたっているときで40度程度、角が丸い場合は20度以下となる。一般的に乾いている砂で34度、小麦粉は27度といわれる。
当然山の稜線角は安息角より小さくなる。従って山頂の高さは山を形作る岩石とすそ野の広さで決まる。

🗻
富士山
富士山も当然だがこの自然の摂理に従っている。だから写真を見ると富士山の稜線の傾斜角は30度である。だが富士山の絵の9割はこの安息角を無視している。


学校の勉強というのは、そういうことを見込んで作られていると感じる。算数で使われる漢字はそれ以前に国語で習う、歴史で登場する過去の偉人や有名人と音楽・美術・国語で登場する人たち。そういう相互作用により興味がもて理解が深まる。
企業における教育研修も、当然ながらそういう知識や業務の関連の上で一層理解が深まるよう計画される。 言い換えればひとつのことをひたすら一つの方法で極めようとするのは、不効率というだけでなく達成不可能なアプローチなのかもしれない。


学ぶにしても教えるにしても、ある技能なり学問を教えるにしても、それだけでなくそれにまつわる周辺まで教えることで、受講者の関心・興味を高めて技能や知識いっそう確実にできるだろう。

例えば運転教習において運転という作業だけでなく、交通の意味づけ、いかにして安全で円滑な交通システムを運用するかということを理解させれば、交通違反も事故も減るのではなかろうか。

私は2020年に免許を返納したが、それまで免許更新というと毎度事故のビデオなどを見せられて、その悲惨さ被害者になっても加害者になっても地獄しかないと話を聞いたが少しも楽しくない。もっとポジティブなこと、例えば制限速度や交通信号を厳守することにより、到達時間がいかほど短縮されるとか、駐車違反による経済損失とかを教えれば面白いのではないかと思う。いや面白いだけでなく教育効果があるのではないだろうか。


ちょっと違うけど、教師もテキストも一つでなくバリエーションがあったほうが効果的だ。
教師についていえば、誰もが認める優秀な教師/コーチについて学ぶよりも、いろいろな教師複数に習ったほうが効果的に思える。皆優秀な教師である必要はない。上手下手があったほうが、一層効果がある。

スイミングを習う人で一人のコーチについて何年も教えてもらう人もいるし、半年くらいで変える人もいる。コーチだって泳ぎが上手下手もあるし、教え方が上手い下手もあり、いろいろな人に習ったほうが良いと思う。

英会話教室はもう絶対複数の先生に習わなければだめ。出身地とか癖とかいろいろあって複数の先生と会話したほうが実際に役に立つ。

学習するとか習熟するとは、似たような本をいくつも読むこと、いろいろな方法で説明を聞くこと、違う教師/コーチの指導を受けること、そんな方法で多数回の繰り返しを行ってやっと身に着くということなのだろう。
一を聞いて十を知るなんてのは天才だけ、我ら凡人は十を聞いて一を知るレベルなのだ。それを恥じることなく、そのレベルだからこそ十を学ぶことは正攻法なのだ。
そして十を聞くにしても、同じ人の言葉を10回聞いても効果が少なく、10人の講師の話を聞くべきだ。

複数の先生に習うと語ることが違う。そのときどちらを信じたらいいの?と迷うことがあるかもしれない。
どっちが正しいの? 私の経験ではそんなことに迷うことはない。どちらも疑ってかかるのが正解だ。
むしろどちらの語ることが正しいか私が判定してやると食ってかかる程度でよろしい。なにせ我々はお金を払う顧客であり、顧客を満足させない供給者はクビにして当然だ。

裏返しの見方だが、品質保証とか文書管理なんていうと、どの会社でも第一線で活躍できなくなった者がする仕事とみられている。だが言い方を変えるといろいろな仕事をしてきたからできる仕事ともいえる。
全体にかかわる仕事ができるようになるには、それらの仕事の経験が必要ではないか。


私は浪人になって久しく今はノルマとか期限など無縁だが、なにもせずモーニングショー・ワイドショーなど見てるとアホになるばかりだ。それで何かためになるもの、意味のあるものにチャレンジしようと思い、英語ばかりでなく個人的に興味があるものを半分遊びというかゲームの感覚で勉強している。
そうすると現役時代こんなふうに勉強すればよかったなとか、思うことは多い。まあ後悔のない人はいないのだし、満点の人もいない。これくらいの人生ならまあ3σに入るだろうと諦めている。


うそ800 本日のタイトル

別に一条ゆかりの「砂の城」の向こうを張ったわけではない。私は過去より技術というものは砂の山のように底辺を広くしないと高くならないと語っている。勉強も同じで真上に積むだけでなくすそ野を広くしないと高くならない。
それに私は同じ参考書を10回もやる粘りがない。違った参考書10冊勉強したほうが興味が保てる。
そんなに本を買ったらお金がもったいないとおっしゃるな。5冊買っても英会話教室レッスン3回分の料金だ。


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