私の青空

22.04.04

私が子供の頃、エノケン(注1)という芸人が「私の青空」という歌を歌っていた。
元歌は1929年アメリカの「My blue heaven」という歌だそうで、この歌はアメリカで何人もの歌手がいろいろな歌詞で歌っている。英語の歌詞はいくつもあるが、ささやかだけど幸せだというものや、今まで大変だったけどやっと明るくなったぞといろいろだ。

幸せを感じるのは不安も欠乏もない完全無欠のときかといえば、そうじゃないんだよね。いろいろ問題があったけどやっと解決してほっとしたとき、幸せだなあ〜と感じるように思う。


私にとって昨年2021年は、不運続きの年だった。男の厄年は61歳でおしまいかと思っていたが、寿命が延びたせいで72歳が追加になったのかもしれない。
もちろん世界中のだれもが新型コロナウイルス流行で不幸だったろうけど、私の場合はそれに加えて肉離れとかギックリ腰とか起きて、整形外科に長期間通った。

ギックリ腰肉離れ

医者が言うには、それらは偶発的なことでなく若い時から姿勢が悪かったとか、昔のケガを放っていてそれをかばうような姿勢をしていていたからとか言われた。もちろん原因がそんなことだからこの歳になってから整形外科に通っても、完治するわけはなく寛解さえなく諦めるしかないのが結論のようだ。

普通の人の足は左右対称で平行だが、私の足は右足がまっすぐでなく外側を向いている……立っても歩いても寝る時も……このために股関節に無理がかかり更にひざの関節にも影響しているのだという。自分がわざわざそうしているのではなく、右足がまっすぐ前に向かないんだからどうしようもない。まして70過ぎて言われても…

2021年も過ぎて今年こそ運気が変わるかと思っていたら、3月にコロナワクチン第3回接種した後、副反応で2週間もひどい目にあった。
だいぶ寝込んだがそれもなんとか回復した。ここ数日は調子がよく、ようやく元気になったかなって思っている。となるとこれからは運気が巡り明るいことしかない……と思いたい。私の青空を大声で歌いたい気分だ。

とかく人間は欲深く、また自然や他人から受ける恵みを当然のことと勘違いしやすい。例えば指をケガして不自由になると、いかに指が活躍していたのかを知り、そのありがたみを認識する。しかし回復する頃には、ありがたみをきれいさっぱり忘れてしまう。
猫 まさに猫は三年の恩を三日で忘れるである。
いや私は回復した今、健康のありがたみを知り感謝していると利いたふうなことを語っておく。


話は変わる。
ネットの質問箱に今年定年になった方から、「することがなくて暇で困っている。忙しくするにはどうしたらよいのか?」なんて書き込みがあった。
ヤレヤレ なかなか難しい質問だ……なんて私が思うわけがない。
突っ込みどころがいくつもある。

まず「することがない」なら「する必要がない」のではないか?
会社勤めのときはお金を稼ぐために会社に行くわけで、働かなければ存在価値がない。だから与えられた、あるいは自ら進んで仕事をより良く・より早く処理することに価値がある。
家事であるなら必要だからするわけだ。お掃除も炊事も必要だからする。洗濯物がなければ洗濯したくても洗濯できない。
本当にすることがないならゴロゴロしていたら良い。それに罪の意識を持つこともない。
そもそも労働とは必要だから発祥したのだ。エデンの園ではアダムとイブは遊び惚けいていた……というのはともかく、狩猟採集で食べていけたときは、畑を耕すこともなくパソコンを叩くこともなかった。農耕革命とは狩猟採集生活ができなくなったから、しかたなく農業を始めたのが起こりだという。

次に「忙しくしなければならない」とは、忙しいことは価値あることなのか? ゆっくりとあるいは余裕をもって仕事をしたらいけないのか?
私が現役時代、それほど高度な仕事でもなく職階も高くはなかったが、人が嫌がる仕事でも進んでやったし、どの仕事でも出来栄えが人並以下というのはなかった。
では必死に頑張ったのか、忙しくしたかというと、そうではない。汗をかくような仕事をやせ我慢しても鼻歌交じりでして、こんなの簡単な仕事だと見せたものだ。一つの仕事に全神経を集中してするとか、魂を込めるなんてダサいよ。困難な仕事を片手間でしているように余裕あるところを見せなきゃカッコ悪いじゃないか。

ボディランゲージというのがある。言葉によらず身振りや表情で意思とか感情を表すことだ。
よくスーツのポケットに片手を入れて講義する先生がいるが、あれは「お前たち相手には片手で十分だ」というメッセージなんだそうだ。もちろん先生がそう考えていないかもしれないが、そういうメッセージを聴講者に与える。
もし講師より偉い先生がいたら手をポケットから出し姿勢を正して話すだろう。

仕事をするのに汗をかくとかせわしなく動くなんて美学に反する。と考えると、忙しい状態にしたいと思うこと自体、価値観がおかしいと思う。

もちろんそんなことを私がネットの質問箱の回答に書いたわけではない。いろいろな人がいると思っただけだ。余計なことをして恨まれることはない。


幸せとは物質とか状況など客観的なものではない。幸せは感情・気持ちで主観的なものであり、人により異なりまた変化しやすい。
赤毛のアン
幸せと感じるのは、欠乏がありそれが満たされるときと書いた。ということは幸せと感じることが長続きすることはなさそうだ。お金持ちになったときは幸せでも、時が経てば当たり前のことになってしまう。お金持ちでほしいものは何でも持っていても幸せと感じないなんてお話は童話から大人の小説までゴロゴロある。
病気したとき健康のありがたみを感じても、健康な時は健康のありがたみを感じないのと同じだ。

それなら病気になると健康のありがたみを感じるように、幸せを感じるには時々不幸せになる必要があるのかといえば、それもおかしい。
幸せとは充足していない状態から充足したとき感じる気持ちとしても、わざわざ貧乏になることはない。自分の知りたいこと・したいことを見つけ、それにチャレンジすることで達成感は得られる。それが幸せだ。
常に幸せと感じるためには、絶え間なくチャレンジし続けていくしかなさそうだ。もちろん常にチャレンジに成功しなくても自分の努力と精神に満足できれば幸せのはずだ。

となると幸せになりたい、幸せであり続けたいと願うのが普通の人間であるなら、人は常にチャレンジし続けなければならない。チャレンジとは計画し行動し学ぶことだから、「人は常に学び続けなければならない(注2)というと同義だ。

ちなみに幸福だと感じている人の割合が多いのは、資格試験合格者とジム会員だそうだ。精神的にでも肉体的にでも、成長しよう・向上しようという意識を持つこと、そして実現に努めることが幸せになる道だろう。資格って別に免状っていうわけじゃない。達成目標と言い換えても良い。
更に言えば資格試験合格はいっときであるが、ジムでは自分への挑戦が継続的だ。
結局、することがないというのは好奇心・向上心がない、あるいは自分の望みに気がつかないということだろう。

となると「忙しくなりたい」と思うのは、幸せになりたいが方法がわからない、あるいは方向がわからないということだ。ただそれを理解していないか、表現できないだけだ。私が質問者を批判したのは早とちりだったようだ。きっと定年後しばらくさまようことで正しい道を見つけるに違いない。
いえ、私がアドバイスしないのは冷たいわけではない。人生は算数の問題と違い、正解を見つけることが目的ではなく、正解を見つけようとすることが目的なのだ。正解にたどり着かなくてもチャレンジする・考えることに意味がある。


老人マーク 本日の諦め

私も歳をとったことを認めなければならない。昔ほど速く歩けない、重いものを持てないなど、年々体力が衰えるえていることから目をそらしてはいけない。それは悲しいがしょうがない。

そもそも私の場合、あまりにもいろいろと手を出して無理しすぎ、忙しさに溺れるのは行きすぎだ。過ぎたるは猶及ばざるが如しと論語にあり、中庸が大事と赤毛のアンも語っている(注3)ルーの法則(注4)のごとく、なにごとも適当でよいのだ。
だいぶ前、フィットネスクラブの仲間に「60代の運動は体力低下を防ぐためだけど、70代の運動は体力低下を遅くするためだ」と言われた。そのとき64歳の私は笑い飛ばしたが、73歳になった今、それはまことと実感する。


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学問のすゝめ
すべてはここから始まった
振り返ると私は常にチャレンジしてきたのだな、それは誇りでありうれしく思う。いやいや、やりすぎてはいけません。




注1
榎本健一(1904-1970)俳優、歌手、コメディアン

注2
福沢諭吉の「学問の進め」にある文章。

注3
正しくは「赤毛のアン(Anne of Green Gables)」ではなく「アンの青春(Anne of Avonlea)」だったと思う。

注4
ルーの法則とは生理学のおける古典的な基本法則で「身体(筋肉)の機能は適度に使うと発達し、使わなければ委縮(退化)し、過度に使えば障害をおこす」ということ。当たり前だね。



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