*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。
上西は柳田と話した翌日、磯原を会議室に呼んで話をする。
「ちょっと相談したいことがあるんだ」
「ハイ、どんなことでしょう?」
「話は週報のことなんだ。私に甲斐性がなくて、いつも磯原君にも迷惑をかけていて申し訳なく思っている。現在、環境管理課の業務週報を君がまとめて、私と山内さんに送っているのをありがたく思っているんだ。部長にはプリントアウトして私のハンコを押して、課の週報として提出しているよ。
ただいろいろ考えると、君から山内さんに送るのは職制上まずいと思う。それで山内さんに送るのも、部長と同じように私がハンコを押して送るようにしようと考えているんだ。どうだろう?」
「今まで業務多忙で混乱もありましたから、緊急避難的措置と考えていました。課長がおっしゃるのは本来の姿で、けっこうだと思います。来週からでも、そのようにいたしましょう。
それだけでなく転勤者4名の担当や当面の仕事についても、私が課長と話し合った通りに伝えたつもりですが、課長からでなく私から指示している形です。あのときは山内さんが私から話すように指示されました(第74話)。
改めて課長からお話ししたほうが良いというなら、そうするのが筋でしょう。ただ既にひと月以上動いているわけで、今更説明すると余計な疑心暗鬼を招くかもしれませんね」
「それでは週報については磯原君が皆からの報告をまとめて、私と相談するということにしてください。磯原君と話し合って確認したものを、部長と山内さんに送ることにします。
転勤してきた人の業務分担については、既に動いているし、何も変わるわけでもない。改めてどうこうすることもないでしょう。
ところで先週、岡山君の報告会では、岡山君がどんな仕事というか検討をしているかを、みんなに理解してもらえたと思う。それで転勤者に限らず各位の業務報告のようなことを、交代でしてもらったらどうだろう。もちろん岡山君ほど時間をかけずに、毎週打ち合わせの後で10分か20分話してもらうとか。
そうそう来週から、全員集まって私からの連絡と、皆の状況報告をしてもらおうと考えている」
「それは良いですね。定期的に集まって指示と報告をすれば、皆のモチベーションが上がります。
また皆の業務の説明ですが、聞くところによると石川さんは、他の人の業務に興味があるようで、坂本さんや田中さんに、どんな仕事をしているのか、問題は何か、成果は出たかと聞いているようです。
この職場はひとりひとり仕事が違うので、お互いが何をしているか情報共有すれば、多忙や不在のときに助け合いもできるようになります」
「そうだね、その意味では庶務の柳田さんにも出てもらったほうが良い」
「そうですね。今は固定電話でなくスマホですから、電話を受けるのはどこでもできます。
進め方としては、課長が明日でも朝の挨拶のときに、来週から毎週ミーティングをすること、何をするかを話されたらいかがでしょう。
そしてミーティングでは課長が司会するのがよろしいでしょう。何せ人も少なく、例えば私が司会するなんておかしいですから」
「話は変わるけど、全般的な環境課の課題はどうなんだ?」
「先週時点のことは週報で報告しているとおりです。長いスパンで見れば、やはり公害防止体制の強化です。というか2年半前の組織改編によって、ここは公害防止と廃棄物の機能しかありません。過去2年間の工場で起きた問題をみても、廃棄物の不適切な処置……廃棄物そのものだけでなく書面上のことも含めてですが、それと公害関係では漏洩事故が起きています。
そういったことから我々は、それらの作業標準の整備と教育をして管理水準を上げることが責務です。もちろんそれは直接的には工場の仕事ですが、我々としてはどの工場も、管理水準を満たすよう指導しなければなりません。
廃棄物については増子さんが来てくれてから、標準類や指導はかなり進んでいます。その代わり廃棄物削減とリサイクルは進展がありませんでした。それは石川さんが進めるところです。
今年末くらいには、改善計画を対外的に示して活動を始められるでしょう」
「公害関係はどうだろう?」
「正直言って今まで何もしていなかったわけです。
坂本さんや田中さんと話をしたのですが……彼らは単にベテランというだけでなく社内外に広く人脈を持っています……どこの工場もここ20年、公害防止設備への投資や後継者育成がおろそかになっているのを懸念しています。
1990年頃から環境の時代と言われるようになったものの、世間も会社もかっこいいことに目が向いていて、昔からの公害防止とか廃棄物には力を入れていません。
それでご両人にお願いした仕事が一段落したら、各工場の巡回に出てもらい、状況の把握と設備更新などの提言をまとめてもらおうと考えています」
「環境監査の強化も進めるのだろう?」
「もちろんです。そのためには業務分担を少し見直す必要があります。
田中さんは今外部との窓口担当をしていますが、私は緊急避難と考えています。これからは課長に担当してもらいたいのです。転勤者が来る前に、工場や関連会社対応は課長担当と決めたと思います」
「それは気にしているんだ。ただ田中さんを見てると、処理にものすごい時間がかかっている。私がしたらどうなんだろう? ますます遅れるような気がする」
「確かに田中さんも初めは、朝着ているメールを処理するのに、昼までかかったようです。でも今は1時間半で処理していると聞きます。
課長に担当していただくことには、田中さんに当初の予定だった公害防止と事故対応をしてもらうことだけでなく、もう一つ目的があります。
現実に工場や関連会社でどんな問題が起きているのか、どのような状況かを把握するには、外部からの生情報を見なくては分かりません。逆に日々そういう情報に接していれば問題も改善策も見えてくるものです」
「ということは私がしなければならないということか」
「週報もそうです……今は皆さんの週報を、私がまとめて課長に送っています。私がまとめる過程で情報の取捨選択がされ、各人が伝えようとした何割かは削除されているわけで、実情を知るには元の週報を読むことには及びません」
「以前から不思議に思っているのだが、工場や関連会社からの定期報告などを読んで、どうして問題点が分かるのだろう。これが問題ですとは書いてないだろう」
「私は予防処置というものができるのかどうか、かなり疑問視しています」
「はっ、予防処置?」
「予防処置とはISO規格の要求のひとつですが、問題が起きる前にその原因を取り除くことです。でも私たちは神でもなく天才でもありません。ですからよほどのことがなければ、まだ起きていない問題に気づくはずがないと思います。
理屈はどうあれ、実際問題として起きてない問題の原因など分かりません」
「ええと……ますます意味が分からないが」
「私たちが認識できるのは、起きてしまった問題でしょう。ところが現実に問題が起きても、その原因を正確に究明できるとも限りません。というのは何かに異常が起きたとしても、すぐに問題が起きるとは限りません。異常がひとつなら多くの場合問題になりません。ほとんど問題は、複数の異常が組み合わさって起きます。
寸法公差を考えても片方の部品が公差を外れても、相手方が公差内なら組みあがることが多い」
「ボーナス公差みたいだな
「そうそう。事故でも違反でも問題が起きるのは皆そうだと思います。日々の業務、測定値、あるいは自動車運転などでルールや基準から外れていても、即事故や違反にはならないでしょう。
でもいつもの状態からずれていれば、問題が起き確率が高いと予測できます」
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「なるほど、それで」
「工場からの定期報告を眺めていれば、業務遂行が規則通りか否か分かりますし、測定値などの推移も頭に入りますから、毎週報告を見ていれば平常か異常か分かるようになります。
製造条件をとっていると不良対策に役立つばかりでなく、問題発生の予想がつくようなものです。
つまり課長が常時そういう状況を把握していれば、事故発生を予知はともかく、予測はできます」
「常に生の情報に接しろということですか」
「そうです。私も最近は毎日メールを見ていませんから、そういう感覚は低下していると思います」
「ちょっと待てよ、だが状況だけ知っても、基準を知らなければ比較できないな」
「その通りです。会社の規則や種々数値の標準とバラツキを知るだけでなく、過去の事故や違反がどんなものだったのか、いかにして発生したかを知ることが必要です。それは勉強するしかありません。いずれにしても日々実情を見ていれば身に付くでしょう」
「なるほど、よく分かった。それが経験ということだ」
「そうです。田中さんとか坂本さんのようなベテランは、既にその域に達しているわけです。
課長の職務は我が社の環境遵法と汚染の予防の責任者ですから、人任せというわけにはいきません。それに田中さんは来春定年、坂本さんもあと2年です」
「ざっくばらんな話、磯原君はこの会社で発生が予測される問題は、どんなものと想定しているんだ?」
「日本の公害苦情は時間とともに減少してきています
注:公害苦情とは、工場への苦情だけではない。商業や交通あるいは市民生活などから発生した騒音振動などへの苦情すべてを含む。
環境基本法 第2条第3項
「公害」とは、環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下及び悪臭によって、人の健康又は生活環境に係る被害が生ずることをいう。
「20世紀末から10年間、大気汚染が高いですが、これは大気汚染が増加したのではなく、ダイオキシンが騒がれたためです。ご存じのように大山鳴動して鼠一匹で、ダイオキシンは猛毒ではなく通常の毒物といわれるようになりました
今も大気汚染が多いですが、その4割は野焼きなど工場以外に起因したものです。煙突から黒い煙が出ているなど、ここ10年見たことがありません。
また騒音問題が増えていますが、これも工場騒音が増えているのではなく、建設工事のほか商業活動や家庭生活からのものが増えています
では公害問題で報道されることが増えているものは何でしょう?」
「なんだろうね」
「改ざんです。種々の公害対策の測定値をいじっていたというものです」
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「そういえばそうだな。製鉄会社で煙突の煤煙の測定値を改ざんしたのが報道されたのを覚えている」
「煤煙ばかりではありません。排水の改ざんも多いです。公害ではないですがテッシュペーパーなどで古紙配合比の偽装もありましたね(古紙パルプ配合率偽装問題)。
ほんとのことを言って、排水や煤煙の基準オーバーが増えているとは思えません。でも報道が増えているのは事実です」
「排水や煤煙の基準オーバーが増えているとは思えないって、どうしてそう思うの?」
「先ほども申しましたが、排水や煤煙の苦情が増えていないからです。そりゃ水質基準をわずかに超えた程度なら、住民は気づかないかもしれません。しかし水質基準や煤煙の基準は人間の感覚から設定されているわけで、実際にひどくなっているのに気づかないということはないでしょう。
排水であれば、魚が浮いたとか色がついているとかあれば、すぐに大騒ぎになります」
「ああ、そうか。汚染の発生と苦情件数はリンクするわけだな。
でもそれなら改ざんが増えているとはどうしてなんだ?」
「公益通報者保護法は2006年施行でした。これは内部告発をした人を保護するという法律です。
施行されてから通報件数が増えているかといえば、増えてはいないようですが、法律ができる前に比べたら急増していると思いますね
「まあ外部の人が気が付かない基準オーバーは内部告発以外にはバレないだろうな。告発者が保護されるなら、正義感や不満から告発する人もいるだろう。
悪くなったのではなく、悪いものが白日の下に晒されたというわけか」
「そうです。その意味でも状況を常に見ていることが重要なのです」
「熊本では結構大量の重油が漏れたけど、住民や農家から苦情がなかった。あれだけ漏洩すれば排水基準は完全に超えている。ということは漏洩しても騒ぎになるまではそうとうトレランス(許容範囲)があるのだな」
「いやいや、そう受け取られると困ります。あれは幸運だったのです。
漏れた量が同じでも農作物に被害がでたり魚が浮いたりすれば、テレビや新聞で報道されて重大問題になっていました」
「なるほど、そうなれば補償も大変だな。裁判となれば何年もかかるだろうし、会社の評判は落ちるばかりだ。
待てよ、ウチで内部告発されるようなことはないのだろうな?」
「あるとすれば排水の測定値でしょうね。
昨今、ボイラーを保有する事業所はどんどん減っています。また騒音・振動・悪臭は体で感じますから、改ざんしても無意味です。
となると排水です。該当するのは排水処理装置のある工場となりますか」
「排水処理を持っている工場は多数あるのかね?」
「社内で排水処理施設を届けているところは8つか9つです。関連会社になると、メッキなどで10社くらいだったと思います。環境施設のデータベースはありますから、見ればすぐに正確な数字はわかります。
そういえば課長は岩手工場で、排水処理の担当をされていたそうですね」
「担当といえば担当だけど、ハンコを押していただけだな。
一応、電話でもして聞いてみるか」
「それはしないほうが良いですね」
「それはまた、どうして?」
「安全衛生などで、傷病を減らすのは簡単なんです。上の人が怪我を出すなと言えば完了です」
「そう言えば皆が安全に気を使うというわけか?」
「ご冗談を。隠すからですよ。怪我をしても病院には私病でかかれとか、会社の息のかかったところに行かせて治療はしても公的機関に報告させないとか」
「そりゃまた……」
「課長も工場でそういうことを言ってたんじゃないですか?」
席に戻ると上西は磯原に言われたことを忘れて、岩手工場に電話する。
「やあ、俺だよ、上西だ。皆元気にしている?
ちょっと前に、某製鉄会社の煤煙の測定データ改ざんが報道されてたよね。
それでちょっと心配になったんだけど、岩手工場では改ざんなんてしてないよね?」
本日の思い出
ダイオキシン騒動のとき、私は田舎の工場で働いていました。
ダイオキシンが問題だあ〜と大騒ぎになりましたが、私にできることなどありません。とりあえず社内での焼却炉を止めて市にもっていくことにしました。当時、市の環境課長が「私はこの業務について40年も仕事をしてきた。今だかって焼却炉で病気になったことはない」と語っていたのを覚えています。
そのときパナソニックが全社から焼却炉を撤廃すると言ったの聞いて、さすがと思いました。当時勤めていた会社はゆくゆく焼却炉再開を考えていて撤去しませんでした。
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注1 |
ボーナス公差という語は、1972年頃、アメリカ出張した方がお土産に買ってきてくれた「Drafting Technology」という本に書いてあった。 幾何公差の発想はともかくそれが実用になったのは、三次元測定機とCADが中小企業まで広まった1980年以降だろう。 | |
注2 | ||
注3 |
1999年テレビ朝日が所沢の野菜はダイオキシン汚染されていると報道したことで、所沢産野菜が社会問題となった。地元農家がテレビ朝日に訂正放送を要求し、テレビ局側も不適切な表現を認め謝罪した。 またウクライナ大統領であったビクトル・ユーシチェンコ氏は2004年、親ロシア派によって食事にダイオキシンを盛られた。ひどい症状が出たが2023年現在69歳で生存している。暗殺に使われたのだから、当時は猛毒とみなされていたのは間違いない。 20世紀末には青酸カリより猛毒と報道されたが、研究が進むとそれほど毒性が強くないとされた。 | |
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注5 |