ものはいいよう 2007.04.29
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私がウェブに何かを書くというとき、アイデアというかきっかけはなにか・・というと、ほんとうにささいなことから思いついたことを書いている。実を言えば、私の性格か、才能なのか定かではないが、目にするもの耳に入るものすべてからいろいろなことに思いいたり、書かずにいられないというのが本当のところだ。だからアイデアの枯渇なんてありえない。
なにしろ電車の中で隣の人が網棚に載せた紙袋から中身がこぼれ落ちたことでも、電車のドアにこうもり傘がはさまりそのまま電車が走り出したことでも、酒に酔ったじいさんが小学前の女の子に話しかけ母親が困った顔をしていたことでも、ともかくなにを元にしてでも2000字や3000字の駄文を書くことなどお茶の子さいさいなのである。
実を言って上にあげた例はすべて昨日の仕事帰りの電車で見たことそのままである。
じゃあ、なぜ毎日更新しないのか? と質問されるかもしれないが、私の日常をご存じならそんなことを聞くはずがない。私は仕事が多忙である。その証拠に旗日である昭和の日もお仕事をしていたのだから
まあ、それはともかく電車でみたことから駄文をひねることができることを立証しよう。
山手線の電車には出入り口の上に液晶画面があり、ニュースや宣伝を常時流している。情報提供もさることながら、JRの金儲けの才能もたいしたもんだ。
混雑しているときは新聞も本も読めないからやむをえずこの画面を見ることになる。
ニュース画面で「またも強行採決」という文字が流れた。
これを見て、カチンと来た。そしてこれをきっかけで頭にいろいろなことが湧き上がってきた。そう、私の文章はこのようなきっかけで書くことが多いのである。
間違っても構想10年とか、満を持してなんてことはない 

「ニュース」とは原義からすれば「新しい出来事」正確には複数形だから「いくつか新しいの出来事」という意味だろう。人間が生きている限り、いや人間の関わらない自然界にも毎日いろいろなことが起きている。火山が爆発した、都会でカラスが増えている、芸能人が結婚した、なんてことが「新しいできごと」であって、ニュースとして伝えられる。
火山が爆発しても善悪はないし、カラスが増えても主義思想とは関係ないし、芸能人が結婚するのも人として当然なことであるはずだ。
しかし実際に報道されるニュースにおいては「あたらしい出来事」というだけでなく「新しい出来事に対する報道機関の意見と価値観」が含まれることが多い、というかほとんどである。正確に言えば「報道機関の意見を伝えるために新しいできごと」をだしにするとか、新しいできごとが刺身のつまに過ぎないことも多々あるのである。
 ・火山が爆発したために被害が起きたのは行政の怠慢であり、
 ・カラスが増えたのは都市住民が生ゴミを出すからであり、
 ・結婚した芸能人が今まで付き合っていた人を振ったことは許せないとか・・
そんなことにつなげないニュースは存在しない。
つまりニュースとは
 ・行政の怠慢を非難するための火山の爆発を利用し
 ・ゴミの出し方を批判するためにカラスに協力をお願いし
 ・その芸能人の心根をあざ笑うため結婚を報道した
と思えるのである。
私は心の貧しい男だわ〜
山口百恵のノリ 50歳以上でないと理解不能  

さて山手線の社内の画面に流れた「またも強行採決」に戻る。
強行採決とはなんだろうか?
「強行採決」という言葉には公式な定義はない。少なくとも強行採決という言葉を使った法律、施行令はない。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「強行採決(きょうこうさいけつ)とは日本の政治において、与党が野党の了承なく、数の論理で採決をすること。」
かなり恣意的な定義である。この定義を書いた人は憲法を読んだことがあるのだろうか?
だって、与党が野党の了承を得て政治を行わなくてはならないというなら、それは既に議会制民主主義を定めた憲法違反である。
議会民主制とは最終的に多数決で決めるということだ。それは憲法に書いてある

おさらいをしよう。
民主主義国家において、同じ意見を持つ人びとによって政党が発生するというのは自然なことであり、独裁でないのだから当然複数の政党が存在し、そして政党間の見解が異なる場合、政権をとる与党と政権をとれない野党に分かれるというのも必然である。
ここで何事か決定する場合、見解が異なるのだからどのように決めるのかというと多数決で決めると「憲法」で定めているということだ。
話し合いで決めるとは憲法で定めていないことを確認してください。
憲法の定める採決をしないで、議論を尽くせばお互いが納得できる落としどころに到達できるのだろうか?
国民投票法案についていえば、民主党の戦略で民主党自らが話し合い路線をやめたと聞く。
私には真相はわからない。
話し合いで解決しようという人びとは、自分たちの意見が通らない限り話し合いに応じない 
woman6.gif 話し合いで解決しないとき、多数決で決めてはいけないという人々は暴力で解決すれば気が済むのだろうか?
話し合いを主張する人々はテロリストに理解を示す人が多いがそういうことだろうか?
実際に話し合いが大好きな民主党や社民党の主要メンバーが釈放嘆願した辛光洙(シン・グァンス)は北朝鮮拉致事件の首謀者であったし、平和主義者が支援している、よど号のメンバーとか、重信房子なんてのはテロリストもしくはテロリスト支援者であった。

話し合いで解決しないときは「否定されたものとみなす」とか「実行しないこととする」ということは論理的に間違っているし、憲法違反でもある。実行するかしないかを決めるにあたって、意見があわなければ実行しないという決め方そのものが公平でなく憲法の定める民主的ではないからだ。

実は、朝日新聞はそういった主張をしている。少し旧聞ではあるが4月19日朝日新聞の社説をとりあげる。
朝日新聞社説の主張をかいつまんで言えば、憲法改正は超重要なことだから、単なる通常の選挙の方式ではまずいのではないか、だから最低投票率を定める必要があるという理屈である。
そう主張する理論的根拠は何かと考えると、あるようにも・ないようにも思える。しかしそのようなことは約束事(やくそくごと)であって、理論とか法則などがあるわけではない。
約束事とは関係者が同意して決めればよいこと、あるいは決めたことであって、絶対的な根拠や理屈がないことである。
直接税を多くしようか間接税を多くしようかというようなことは約束事といってよい。
一方、円周率というのは自然界の定めであって約束事ではない。国会で議決しようと円周率が3とか3.1になるわけがない。そのような数値で作った桶と底はあわないことに決まっている。
囲碁でコミを五目半にするか六目半にするかということは約束事ではないような気がする。将来囲碁の理論が解明された暁にはコミは理論的に決められるだろう。
さて、憲法改正の国民投票の仕組みや方法は約束事であるので、朝日さんおっしゃることはもっともですねとも言えるし、そうしなくても良いのではともいえる。まあ、そんな程度かと思う。

しかし約束事である以上、朝日の言うことが正しいと言えず、みなの意見できめるしかないというのもこれまた現実である。最低投票率を定めるということも定めないということも約束事であるなら、約束事を決めるのもまた多数決しかない。 憲法改正に限らず、民主主義においては有権者(国民とか住民ではない)の意思をいかに漏れなく集約するかということが鍵である。
問題は憲法改正についての賛否を投票した人だけで決めてよいのかということが一点であるが、実は朝日をはじめ野党はそれだけではない。有権者だけでなくより広い国民も参画する権利があるという。つまり選挙権を持つ成人だけでなく未青年も含めようという。もちろんこれもまた約束事であるので決めればよいことである。
誰が?
そりゃはじめに戻ってしまうのだが、国会しかないのではないだろうか?
国民投票で決めようとしても、国民投票の仕組みが決まらないのだからしようがない。

私たちって誰だ?
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間違っても新聞社の社説や芸能人がテレビ番組で決めることではないと申し上げておく。世の中には勘違いしている人が多いというか、勘違いさせようとするマスコミがあり、日本の行く末は自分たちが決めると思い込んでいるところが多い。 この朝日の社説でも主語は「私たち」なのであるが、「私たち」とは一体誰なのだろうか?
若宮主幹個人のことか、彼を取り巻く数人の論説委員なのか、朝日新聞社全体のウィルなのかはさだかではない。間違っても日本国民のことではない。
ところでこの国の行く末を決めるのに、そのうち在日外国人を参加させようなんて主張をする者もでてくるのだろう。
私はそのような主張に断固戦うことを誓う。
話がとりとめがない、話を4月19日の朝日の社説に戻して論を進める。
朝日の要求は「最低投票率を設けよ」ということである。具体的にどの程度の投票率ならいいのかというと彼らの主張は明白ではないが、韓国50%、英国40%の例をあげている。ということは私たちと自称している朝日新聞は40%なら諾とするのだろうか? そのへんも定かではない。
しかしながら50%とか40%という意味もまた約束事であって、もし誰かから30%あるいは20%という提案がされたとしてもこれを不適切として否定することもできそうない。少なすぎるという理屈も基準もないからである。
現実に国会の定足数は議員定数の三分の一である。朝日新聞が国政において国民の大多数の意思を尊重するなら、それより前に日本国憲法第56条を否定しなければならない。

朝日の社説は憲法改正をするには投票率が低くてはだめという主張ではなく、投票率を上げようということなのだろうか?
朝日新聞は憲法改正を急ぐときではないと書いているが、さすがに憲法改正を禁じようとは論じていない。
もしそのようなことを書いたら憲法違反であることは間違いない。
しかし投票率を上げるということは、実は簡単ではないのである。投票率をあげることができるとすれば事情によって投票できなかった人だけであり、無関心とか政治に関わりたくないという人に投票を強要することはある意味憲法違反であるし、また投票させたとしても意味のあるものではない。アンケート調査での無回答、白紙回答を思い浮かべればわかるだろう。
北朝鮮でもあるまいし、棄権に罰則を設けよというのは憲法違反であると共に無意味である。

そんなことが頭によぎったのは一瞬、ほんの10秒くらいであったろうか。目の前の画面を流れていく「またも強行採決」というフレーズはそうとう恣意的というより悪意的というべき報道であると考えた。
立場を変えるとその論法で「暴力で採決を止めようとした野党」というのが正確であろうし、あるいは「反対しか能がない野党」とも書けるし「議会制民主主義を知らない報道機関」とも書ける。
ところで、「またも強行採決」と報じたこの報道機関は、牛歩戦術とか審議拒否をどのようにつたえたのだろうか?
「玉砕戦術」とか「真偽拒否」だったのだろうか?


本日のことわざ

丸い卵も切りようで四角、

気に入らないのは強行採決、

ものも言いようで角が立つ。



ところで、本日のテーマは、私がいかにささいなことからでも数千字をしたためることができるということを立証することであった。
お読みいただいた方々、あっというまに4千字以上を叩きだした私の才能をお認めになっただろうか?
もし、まともな社説が書けない新聞社から論説委員に招聘されれば応じてやっても良い。 
誰だ? めちゃくちゃにキーボードを叩いただけだなんて言ったのは!



自主防衛論者様からお便りを頂きました(07.04.29)
国会を軽視するマスコミ・国民
「ものはいいよう」を読みました。よくこれほどの長文を書けるもんだと大変感心しています。今回は私も長文になりますが、ご容赦ください。
強行採決と聞いて頭に来る感覚は私も分かります。国民の代表たる国会議員が審議し、民主的な手続を経て可決された法案に対して、マスコミは「議論が尽くされてない」と言います。マスコミの主張の中に、国会軽視・議員軽視の風潮を感じます。本来、国民の代表たる国会議員が出した結論は尊重されるべきなのですが。
先日「太田光の私が総理大臣だったら」(別名、太田光の9条守って国滅ぶ)を見ていたら、「赤坂の議員宿舎を廃止して宝くじの景品にしよう」(つまり、国民に貸し出そう)という愚かな提案がなされていました。番組では「国会議員だけ特別待遇では納得できない」という類の意見が噴出しましたが、そんな意見を言う人は自分と国会議員とが同等の存在だと思っているのでしょう。一芸人と国民の代表たる国会議員とが等しい待遇を受けるべきだという、なんとも思い上がった意見に呆れてしまいます。
しかも、番組が行った視聴者アンケートによると、約8割もの人がこの提案に賛成しています。日本はいつから衆愚国家になったのでしょうか。国民の代表たる国会議員が軽視される国が今後発展することなど無いと思うのですが、いかがでしょうか。

自主防衛論者様 毎度ありがとうございます。
まず長い文章を書くのは感心するようなことではありません。朝日新聞などは意味のないことを毎日社説や天声人語と証して書いていますが、あれには意味はありません。
国民を惑わすという効果はありますが・・・
太田光・・・困ったものです。
パンとサーカスという言葉があります。マスコミが国民をたぶらかすというのは必然なのかもしれません。昔の国民総白雉化という言葉で言い尽くされているのかもしれませんね。
そんなバカばかりの芸人や国民のいる日本ですが、私の祖国ですから見捨てるわけにも行かず・・・お互い難儀なことですが、日本正常化に向けて頑張るしかありません。


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