近代・現代の民衆生活と交通・交易
草戸千軒
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近代・現代の民衆生活と交通・交易


 明治新政府は、近代国家成立に向けて富国強兵と殖産興業を進め、国民生活も急変した。瀬戸内における鉄道・道路・港湾などの交通体系の整備は産業を発展させ、人々の生活を高度化・多様化させた。
 やがて経済不況や戦時体制の中、人々は苦しい生活を強いられた。第2次世界大戦後、民主化が進む中、急速な工業化・都市化により、くらしは豊かになったが、環境問題や社会問題なども生じている。

明治維新と民衆

 異国船の来航、長州戦争や「ええじゃないか」の騒動など、諸外国からの圧力や国内の激しい動乱のなか、1867年に明治新政府が発足し大規模な政治改革が行われた。これを明治維新という。

 新政府は、近代国家樹立に向け、廃藩置県・地租改正事業を行ったり、欧米諸国から新しい思想・技術・生活様式を盛んに導入して、政治・経済・社会全般にわたる改革を推し進めた。人々の生活を近代化させた文明開化の風潮は都市が中心で、地方の農村などでは相変わらず昔ながらの生活が続いていた。様々な改革に対する不安や不満から、各地で農民一揆や打ちこわしなども起きた。明治4年(1871)、全県的な騒乱へと発展した武一(ぶいち)騒動はその一つである。また、急激な改革は人々の生活の実情にあわず、国民の意見が政策に反映されないことなどから、反政府運動の一つとして言論による政治活動である自由民権運動へと結びついていった。

 明治政府は、欧米諸国におくれをとらないよう、富国強兵・殖産興業を推し進めた。

 明治11年(1878)官営広島紡績所の設立決定、翌年、政府公認の民間銀行として、尾道に第六十六銀行、広島に第百四十六国立銀行が開業するなど、近代的産業が次々と成立した。また、軍艦・兵器製造のための製鉄などの重工業も発展した。そうしたなか、軍事・経済上の必要から海陸の交通体系の整備が行われ、瀬戸内海航路の整備、明治22年(1889)宇品港の築港、山陽鉄道の建設(明治30年県内全線開通)、道路の整備などが進められた。一方、近世以来の入浜式塩田による塩業や、木造船を中心とした造船業も盛んであった。

 このように資本主義体制が急速に進展したが、人々の生活は相変わらず苦しい状態にあり、京阪神方面へ就職の機会を求めて出稼ぎに行く者、さらに、ハワイ・ブラジルなどの海外へ移住する者も少なくなかった。

大正デモクラシーと戦時体制

 明治23年(1890)の国会開設以来、普通選挙を求める動きは大正デモクラシーの風潮のなか、一層激しくなった。大正7年(1918)の米騒動を契機に各地で演説会やデモが行われるなど、民衆の政治への関心が高まり、労働運動・農民運動・部落解放運動などの大きな社会運動のうねりとなった。しかし、これらの運動に対する国家権力による弾圧も厳しかった。

 昭和になると、世界大恐慌が日本をも巻き込み、国民生活に大打撃を与えた。また、昭和6年(1931)の満州事変勃発により、太平洋戦争が終結するまでの十五年戦争が始まり、日本は戦時体制へと突入し、国民生活は窮迫の一途をたどった。広島・呉は、陸海軍の拠点として軍都的性格を強め、両都市を中心に軍需産業も成立した。しかし、国民生活を犠牲にして進められた戦争は、選局が悪化するにつれ国内の空襲が激化し、昭和20年(1945)世界最初の原爆投下による惨害を残し終結した。

瀬戸内の復興と変貌

 多大な戦災を被り、食糧不足をはじめあらゆる物資の欠乏によって生活が困窮した。昭和21年(1946)日本国憲法公布とともに、国民は復興と民主化へ向けて立ち上がった。昭和30年代の高度経済成長の波にのって、瀬戸内地域では大規模な工場の立地が進められたのをはじめ、山陽新幹線・高速自動車道の建設など交通体系の整備も行われた。それによって人々の生活は物質的に豊かになったが、環境汚染などの問題も生じている。

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suzuki-y@mars.dti.ne.jp
1998, Yasuyuki SUZUKI & Hiroshima Prefectural Museum of History, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.