草戸千軒
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草戸千軒Q&A


 「草戸千軒」に関して、よく受ける質問にお答えします。皆さんからのご質問をお待ちしています

「草戸千軒」の町は、どうして川の中州にあったんですか?
遺跡は川の中州に残されていましたが、これは河川改修工事によって川の流れが付け替えられたためで、もともと町が川の中州にあったわけではありません。「草戸千軒」の町は、当時の芦田川の河口近くにあり、船着場などの施設も存在していたため、周辺に川が流れていた可能性は十分考えられます。しかし、現在の遺跡のように、川の中州に孤立して存在していたわけではないのです。

「草戸千軒」の町が洪水で全滅したって本当ですか?
「備陽六郡志」という江戸時代中頃の書物には、寛文13年(1673)に町が洪水で流され、それ以後は人が住まなくなったと書かれています。しかし、発掘調査で見つかった町に関係する遺構は16世紀初頭までのもので、それ以後は町としての景観は失われていたことが明らかになりました。かつて繁栄した町があったという伝承と、寛文13年の大洪水の被害の記憶が重なることによって、洪水で町が流されたという伝説が生まれたのではないかと考えています。詳しくは「町の名前」のページをご覧ください。

最近、トイレ考古学という言葉をよく見かけるようになりましたが、草戸千軒町遺跡でトイレの跡は見つかっているのですか?
「草戸千軒」の町に、トイレが存在していたことは当然考えられます。しかし、発掘調査を進めていた頃にはトイレ跡の土壌分析に関する方法が確立しておらず、トイレ跡と確定できる遺構はありません。しかし、形態や位置、堆積土壌の状況などから、トイレの可能性が高いと思われる遺構はいくつかあります。今後さらに詳しく検証してみたいと思います。

「草戸千軒」には、1000軒の家があったんですか?
「〜千軒」という名前は実際の家の数を示しているのではなく、現在は滅びてしまったけれど、その昔は繁栄した町があったという伝説の町に付けられることの多い名前です。したがって、草戸千軒に1000軒の家があったかどうかはわかりません。建物跡の残りはあまり良くないため、発掘調査でも家の跡はあまり確認できませんでした。しかし、よく残っている井戸跡からは、同一時期に20〜30基程度の井戸が存在していたことが確認できます。これらは、何軒かの家で共同利用する井戸だったと考えられるため、町家の数も100軒を超えていたのではないかと思われます。より具体的な数字を出すためには、もう少し分析を進めなければなりません。

遺跡のあった中州は、現在どうなっていますか?
遺跡の発掘調査は、中州の掘削を前提とした緊急発掘として実施されたため、調査終了後の中州は掘削工事が進められています。現在、中州の三分の二ほどが掘削されていますが、遺跡のあった場所や立地をある程度は確認することができます。遺構や遺物は発掘調査によってすべて掘り出されてしまったため、現地には残っていません。
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suzuki-y@mars.dti.ne.jp
1996-1998, Yasuyuki SUZUKI & Hiroshima Prefectural Museum of History, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.