草戸千軒
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町の名前


 『備陽六郡志』の記録

 「草戸千軒」という名前は、江戸時代の中頃に福山藩士によってまとめられた『備陽六郡志』というこの地方の地誌に登場します。この書物には、「草戸千軒」という町が寛文13年(1673)の洪水で流されたとも読める記載があることから、洪水によって壊滅した町というイメージをお持ちの方も多いことと思います。しかし記述をよく読むと、「草戸千軒」が寛文13年の洪水まで存在していた可能性はかなり低くなります。まず、そのあたりの問題から考えてみましょう。

 『備陽六郡志』の記載は次のような内容です。

「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、木庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有りけるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築きては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれども、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし。(後略)」

 『備陽六郡志』には「草戸千軒」という町の存在した時期として、「その昔、蘆田郡や安那郡までが海だった頃」と書かれていることにまず注目したいと思います。あまりにも漠然とした表現ですが、蘆田郡・安那郡というのは現在の福山市北部から神辺町を中心に広がる神辺平野一帯のことで、このあたりは昔は海だったという伝承が広く伝わっています。しかし、地理学的な研究からは神辺平野が海だったことを示す証拠は見つかっていません。この平野には縄文時代中期以降の遺跡が存在することから、少なくとも縄文時代中期頃には陸地であったことが明らかですし、そもそも神辺平野まで海水が入り込むような状況であれば、「草戸千軒」の存在する芦田川河口の三角州も完全に海の中に沈んでしまうはずです。おそらくは、神辺平野一帯に芦田川の後背湿地が広がっていて、それが「海」と呼ばれていたものと考えられます。

 つまり、「草戸千軒」存在したのは漠然とした昔のことで、洪水の時まで存在したと書かれているわけではないのです。『備陽六郡志』のまとめられた元文・安永年間(18世紀中頃から後半)には「草戸千軒」に関する情報はかなり失われており、既に伝説上の集落になっていたことが考えられます。「千軒の町家」という以外に、町の様子についての記述が全くないのも、そのためではないでしょうか。しかしその一方で、寛文13年の大洪水については状況を詳しく伝えています。もちろん、この書物がまとめられる百年ほど前の出来事ですから当然のこととも言えますが、それなら洪水の時まで存在したという町の状況についてもある程度記録されていてもいいはずです。おそらく、当時の福山の人々に大洪水の様子がはっきりと伝承されていて、その洪水の場所にはかつて繁栄した町があったと伝えられていることから、洪水の記録と町の伝説とが結び付いたのだと思われます。「忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ」という部分は、編者である宮原が洪水の迫力を書き記そうとして、つい、筆の勢いで「千軒の町家」までを「押流し」たと書いてしまったのだと私は考えています。

 ですから、「草戸千軒」という名前も、町の存在が伝説のものとなった時代ののもで、町が存在していた中世の段階で「草戸千軒」と呼ばれていたわけではないようです。そもそも、「・・千軒」というような名前も、現に目の前で栄えている町を呼ぶ名前ではなく、その昔は栄えていたのだということを語り継ぐために使われる名前なのです。

「草戸千軒」が寛文13年の段階で衰退していたことを史料から論じたものとしては、青野春水氏の優れた研究があります。
青野春水「江戸前期の草戸中島(いわゆる草戸千軒町のあった地域)について」(『福山市立福山城博物館友の会だより』第12号 1982年)
同「寛文の洪水と福山城下の堤防および「江戸新涯」―「草戸千軒町」のあった場所についての一考察―」(『芸備地方史研究』第166・167号 1989年)

 史料に見る地名の変遷

 それでは、集落の存在した中世にはどのような名前で呼ばれていたのでしょうか。戦前には浜本鶴賓氏が、近年は志田原重人氏らが、いくつかの史料の中からそれをさぐっています。

 まず、明徳2年(1391)の『西大寺諸国末寺帳』には「草出(クサイツ)常福寺」という記載があります。常福寺というのは、現在も遺跡のすぐ西にある明王院という寺院の古い名前ですから、14世紀末にこのあたりが草出(クサイヅと読んだのでしょう)と呼ばれていたことがわかります。
 『太平記』には、貞和5年(1349)備後に在国した足利直冬が、鞆→「草津」→尾道と移動したことが記されており、この草津(クサヅと読んだのでしょう)が遺跡周辺を指すのではないかと考えられます。また、観応2年(1351)には上杉朝定が草井地(クサイチあるいはクサイヂと読むのでしょうか)高師泰・師夏を追撃したという記述があり、これも草戸の古名かと思われます。さらに、文明17年(1485)の熊野那智大社の檀那注文には草出津と記されています。
 一方で、文明3年(1471)の西国寺文書には「草土」の名が見えるほか、応仁・文明の乱に際しては、「草土」に西軍方の城があったと記されており、この頃から草土(クサド)と呼ばれるようになったことがわかります。さらに、天正19年(1591)の小早川隆景の書状には「草戸」と記述されており、これ以降近世にかけては草戸と呼ばれるようになったようです。

 このように、遺跡周辺は古くは「草津(クサヅ)」「草出・草出津(クサイヅ)」あるいは「草井地(クサイヂ?)」と呼ばれていたものが、のちに「草土(クサド)」、さらに「草戸(クサド)」へと変化してきたことがたどれます。

 こうした地名のルーツをさぐることによって明らかになるのは、この集落が「津」として成立したのではないかということです。また、「草」というのは「公式でない」とか「民間の」、あるいは「小規模な」ということを意味しますので、地域内交流を主体とした「津」の役割を果たしていた可能性が考えられるようにのです。

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suzuki-y@mars.dti.ne.jp
1996-1998, Yasuyuki SUZUKI, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.