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日時計 2001. 3月

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▲最新の日記▼読了本

2001.0331(土)

 朝の冷たい小雨がじきにみぞれに変わり、朝のうちだけかと思っているうちによもやの雪になっていた。つい二、三日前、「さすがに真冬の寒さはもうないでしょうね」と話していたばかりなのに、まさかの冬の戻りだ。すっかり咲き誇った川べりの桜並木の雲から舞い上がるように散るのは花びらのような雪である。不思議な眺めに目を奪われる。

 雨が降り出して間もなくと思われる5時起きで、スキー合宿から帰る息子二人を迎えに行く。バスはここが最初の解散地点で、このあとさらに都内二カ所へ回るが、この解散地点が車で数分のところなので助かった。期待の長男は、無事バッジテスト1級に合格し、コーチ一同に「去年から比べて格段にうまくなったよな」と褒められたが、帰宅するなり「くたびれたから寝る」というお言葉を残してほぼ一日眠り続けていた。夕飯に「お祝いにお寿司とろうか」というとそれにひかれて起きてきたが、よく聞いてみると、合宿中から39度ほどの熱があり、バッジテストの前日は半日寝ていたとのこと。「今日も38度くらいあるんだよ」って、それ早く言いなさい!この子は我慢強いうえに、この年頃の男の子らしく何か聞いても「別に」というばかりなので、トロい母は時々こうしてびっくり仰天させられるのである。夕食後には無事体温は36度台に落ち着き、すっきりした顔になった。

 明日はまた早起きして、今回は家族で奥志賀にスキーへ。4/3(火)夜帰宅予定なのでそれまで更新はお休みです。持参するのは『占星師アフサンの遠見鏡』と『ワイズ・チルドレン』、『ショコラ』の三冊だが、たった2泊なので大してはかは行くまい。でもあっという間にリタイヤして読書三昧かも〜。あ、足が…(すでに運動不足でだるい)。

2001.0330(金)

 雨になるかな、と思ったが何とか一日持ち、日の差すことも。午後仕事にかこつけて桜並木の下を通る。木によって匂いの強いものがあるらしく、ある木の下を通ると、例の、桜餅のようなほの甘く桜色そのもののような匂いに包まれるのであった。幸せ。咲き具合は八分から満開といったところか。ああ〜、なんて美しいんだろう!

 今日はこの職場へ就職以来ン年間過ごした部署での最後の日である。来週からは一つ上の階に部署が変わるので、引っ越し荷物を運び終えねばならない。日常業務、引き継ぎのマニュアルやデータ、書類整理、引っ越し、掃除、ゴミ捨て、と、やること満載。運良くか運悪くか、他のメンバーのほとんどが出張で不在なので、だいたい自分の都合で片づけが出来るのは良いが、なんだか心中複雑でもある。ありがたいことに引っ越し部隊が自主的に駆けつけてきてくれて、あっという間に段ボール箱は移動完了。日を改めて引越祝いをしましょう>引っ越し部隊の面々。来週新しい部屋の前で閉まったドアを前に悩むことのないように、異動先での鍵の管理などを聞いておく。

 なんだかんだと、ぬかりのないようにと片づけているうちに、7時半を回ってしまった。ぱそ子も要りそうなデータはMOに落としてから、HDを初期化、OSの入れ直し、ここまでしておけば文句ないでしょう、すっかりさらばぢゃ。でもこのぱそ子、ホントに誰か使うんだろうか?

 ほぼ片づけが終わる頃に連れ合いから電話が入り、風邪もほぼ治まった娘が「お寿司かなんか食べたい」と言っているらしく、すでに職場の近所にいるらしい。うーん、この辺でおいしいお寿司やさんねぇ…。結局本格カレーやさんでカボチャカレー、ほうれん草とチーズのカレー、チキンキーマカレー、辛いサラダ・カチュンバ(おいしいよ)を食べ、車で北赤羽桜通りまで足を延ばして夜桜見物をする。ここは隠れたお花見スポットである!肌寒いどころか、真冬並みに寒い中の花見だ。商店街の中の三十何年続いた酒屋さんが、家主のビル建て替えの都合で3月一杯で閉店との張り紙。シャッターを下ろして棚も空になった店の中では、床に沢山の人が座り込んで酒盛りの最中である。何十年来店主も愛でてきたであろう桜が平年より一週間早く見頃になったのは、何よりのはなむけかと思う。
 帰宅するとどうにもくたびれて、ひたすら寝てしまった。

2001.0329(木)

 出勤時は幾分肌寒い曇天だったが、午前中雨音に外を見ると本降りの雨だ。窓が大きいので部屋が薄ら寒く、軽く暖房を入れる。今の部署最後の仕事をやっつけながら合間の待ち時間には引っ越し荷物作りである。あらかたの箱詰めはできたが、引き出しの中とか机の上のペン立て、小物、お茶道具などが意外に曲者だ。あすはパソコンの必要なデータをMOに落としてから中をさらにしてOSの入れ替えの予定、Officeのインストールまで出来れば親切、てところか。ほかに二つ仕事を並行しての作業だから、みなさんの手を借りなくては無理。それでめでたく月曜は新しい部署、かと言えば違うのである、日・月・火とようやく奥志賀へスキーなのだ(*^_^*)

 ところが昨日から娘が発熱、水っぱなで、さしものフラフラ出歩き娘も「動けない〜」と言って一日寝ていた模様。でも昨日借りてきた「グラディエーター」と「エリン・ブロコビッチ」を赤い顔をして見ていたというのだから困る(ずるーい私も見たかった)。「グラディエーター」の音楽って、アリスの曲にそっくり〜。それはともかく、しっかり治しなさいね。

 おや、おおたさん『占星師アフサンの遠見鏡』を読んでいるんですか?

2001.0328(水)
購入本
ジョアン・ハリス/『ショコラ』/角川書店
クリス・ファーマン/『放課後のギャング団』/ハヤカワ文庫NV
野溝七生子/『女獣心理』/講談社文芸文庫
笙野頼子/『極楽|大祭|皇帝』/ 〃
巽 孝之/『メタフィクションの思想』/ ちくま学芸文庫
J・L・ボルヘス/『永遠の歴史』/ 〃
SFマガジン5月号/早川書房

 はあ、もう木曜日か金曜日のようにくたびれた。異動を前に、残務処理と引っ越し荷物づくりの並行処理はきつい。好意で先取り仕事をしておいたのを、「3月中にやったのは終わらせて行け」とは。でもこっちで意地悪する人がいればあっちで助けてくれる人あり。ありがとう。

 十夜さんのところで教わったフリーソフト「紙」がバージョンアップして「紙2001 ver.1.8」に。これはたいそう便利なソフトで、ほんっとに重宝しています。おすすめ。教えてくださった十夜さん、ありがとう。今日は感謝の日です。

 掲示板で教えていただき、先日のアカデミー賞授与式で再認識した『ショコラ』は、やっぱりジョニー・デップなんじゃないかー。ぜったい一緒に見に行こうね!と何度も娘に念を押す。
 その娘、『ハンニバル』の映画が見たくてまず『羊たちの沈黙』を読み始めた模様。『ハンニバル』の「記憶の宮殿」あたりは娘にはちょっと難しいだろう。きょう久しぶりに行った本屋で後ろ髪を引かれたのは『ハンニバル・レクター博士の記憶の宮殿』めずらしくbk1にリンク)である。このとき既に上記の数冊を抱えており、しかもこれら文芸だか学芸だかごたいそうな名の付く文庫はえらく値段が高い、4冊で4500円だぞよ、なのでせっかく「本屋に追加が入ってたよ」と情報があったので買いに行ったはずの『ハイペリオンの没落(上・下)』をあきらめたあとだったのだ。従って後回し、あるいは図書館頼み。

 4月29日のソウヤーをゲストに迎えるSFセミナー特別編(カナダSF)、やっぱり行きたいなあ。ほんとに丁度タイミングよく『占星師アフサンの遠見鏡』を読んでいるところでもあるし。しかし、翌30日は次男のピアノの発表会だし、5月3日の本会には行く決心をしたし、でも特別編ご出演のモンちゃんも見たいし。うーん、悩む〜。

2001.0327(火)

 桜はすっかり見頃である。確かに空気には花の匂いが漂っている。職場では半袖。夕方、ああ、今日はもう保育園に迎えに行かなくていいんだっけ、とぼうっと職場をあとにした私、5分ほど歩いてはたと気づいた。あれっ、今朝自転車で来たのに歩いて帰ってきちゃった。

 昨晩はTV夜更かしでまたまた本が読めず、昼休みに本格的に『占星師アフサンの遠見鏡』の続き。帰宅後ソファで読み始めたところ、目の前のテーブルに娘のブルーのマニキュアが目に付いたのでなんとなく左指の爪5本に塗ってみる。目の端にブルーの色がちらちらして妙に気になる、と指を必要以上に曲げ伸ばししながらページに目を戻すと、丁度アフサンが女帝にお目通りするところ。女帝の「鉤爪が一本、するりとあらわれた。」そして「二本目があらわれた。」「三本目。」「四本目。」「五本目。」思わず自分の青い爪をしげしげと見るのであった。

2001.0326(月)

 息子二人がスキー合宿で不在なので、家の中はやけに静かである。夕食がすんだらゆっくり読書だあ、と思っていたが、連れ合いが珍しくTVを見ているのでおつきあい。洗濯物を畳んでいるといつの間にかアカデミー賞の授賞式(録画)が始まっていた。軽妙な司会や、次々登場するプレゼンターたちと、彼らが紹介する映画に思わず時間を忘れて見入ってしまう。はっと気づくと11時、もうやめようと何度も思いつつ結局最後まで見てしまった。「グリーン・デスティニー」の原題は「臥虎蔵龍("Crouching Tiger, Hidden Dragon")」で、これはハイペリオンだあ、などと思う。ラッセウ・クロウよりベニチオ・デル・トロがいいな、ジュリア・ロバーツはなんてチャーミングなんだろう、あ、ウィノナ・ライダーだっ、等々。アニメーション部門やドキュメンタリーに興味あったが、日本では見られないのかな?

2001.0325(日)

 近所へ買い物の帰り、足を延ばして川べりへちょっと気の早いお花見に、のんびり自転車で。あいにくと空一面を覆った白い雲からぽつぽつと雨粒が振り落とされてきて、幾分肌寒い。開花宣言からまだ2日だというのに、木によってはすでに三分から四分咲き位の感じになっている。次男が入学式を迎える四月六日には、もう葉桜になっているのだろうなあ。ちょっと残念。雪柳の白、枝垂れ柳の若緑、白木蓮が終わる頃に咲く紫木蓮、山吹の黄色、そして真打ち桜色と、いきなり色とりどりの、すっかり季節は春。

 昨日届いたまま忘れていて今日開けた封筒は、SFセミナー2001のお知らせであった。昼の部がおもしろそうなら行こうかな?と思いつつ見てびっくり、ゲストその3が池上永一とは!!!ひゃ〜、行く行く、行きます。何気なく(仮)と書いてあるのが気になるところ。まだ SFセミナー公式サイトには2001の情報はあがっていない模様。

 昨日行方不明になっていたソウヤー『占星師アフサンの遠見鏡』は無事発見。上記SFセミナーでもソウヤー氏を別日程でお迎えする模様だ。

 夕食後長男・次男は某スポーツクラブのスキー教室に出発。長男は一級に挑戦の予定である。昨晩遅くにスキー部の合宿から帰宅して24時間しないうちにまたスキーとは、おうらやましいことで。いいなあ〜。小さい子には親の同伴も可なのではあるが、さすがに一週間の休暇をとるのは無理であるよ。というわけで今夜から金曜日一杯は、三人家族になり静かな一週間(の予定)。でも土曜の朝5時起きで迎えに行かなくてはならないのはちょっと辛い。

2001.0324(土)

 なぜか成り行きで夜からぱそのセットアップ。何にも準備していないので困った。その結果しっかり朝寝坊。朝食をとって雑用していたらもう次男のピアノの時間。続いて母の所に介護保険の更新申請のため調査員が来訪、立ち会うというよりいろいろ話をする。これが思ったより時間がかかり、軽く遅めのお昼を食べたりしていると、もう保育園の卒園行事の最終的な集まりの時間になってしまう。そこにまた用事が挟まり…等々、なぜかやたらにせわしない一日であった。座った気がしない。夜遅くスキー合宿の長男が帰宅、さっそく洗濯。うう(疲)。

2001.0323(金)

 長かった保育園の送り迎えは、今日まで。丸6年自転車の後ろに載せ、あるいはお手々つないで朝昼通った道も、これで通い納めである。「もう一緒にこうしておうちを出るのも今日でおしまいだよ」などと言うと何だか胸のあたりや目のあたりが怪しくなって来る。よよよ。園庭の花桃が丁度盛りを過ぎて、川辺の柳と美しい対比を見せる。昼、すでに何輪かの桜が花開いているのを発見。どちらかというと花曇りの空である。思った通り気象庁の開花宣言が出る。

 昨夕いきなり、パソコンが届いた。送り主である連れ合いは留守、というかどうやら確信犯。これまでもなんとなく不調が続いていた私の(あてがわれている)パソコンは、先日からファンのあたりがしばしば「ン〜」「ンモー」という怪しい唸りをあげるようになっていた。連れ合いがオンラインショップでいくつか当たりを付けて「こんなもんでどう」などと呈示されていたのだが、本当に買うとは思わず横目で見て放っておいたら実はしっかり注文していたらしい。「Me搭載でHDはごみ捨て場を兼ねる40GB、CD-RW付き」と言っていたのを思い出し、改めてその時にプリントしたスペックをあわてて見直す。あれこれDLするわるい癖を見抜かれている。うーんCD-RWは連れ合いのに付いているからどうせならDVD付きが良かったなあとか、私にも専用のMOドライブ欲しいとか、今更ながら思ってみたり。本当に買うと知っていたらそう希望を出してみるんだったのに既に遅し。出張中の連れ合いからは「つないでみたか」とメイルが入ったけれど、まだ梱包をほどかず肌寒い玄関先で程良く冷えてます。じつはあたらしいパソコンを自分で設定したことは未だにないのである(*^.^*)。明日おそるおそるやってみることになりそう。職場ではずっとMacを使ってきたが、異動先の部署で買ってもらうのは幾つかの理由からWindowsになりそうなので、良い機会でもある。でもいざMacと縁が切れるとなるととてもかなしい。所得税の還付も決まったから自分でiMac(あるいはiBook)でも買おうかなあ<収入が増えたのと勘違いしてはいけません。

 さあて『族長の秋』もようやく終わり、次は何にしようかな?作中でのようにこちらにも精神的時間の堂々巡りが起こっているかのような気がする。大統領の海の喪失と結び。

 夕方、人事担当課長から異動の内示を受ける。「○○から△△へ4月1日付けで異動となりますがよろしいですか」「はい」でおしまい。正式辞令は4/1、というか4/2(月)に交付。ここに就職した年と同じ曜日まわりだ。さあ来週は引っ越し作業\(^O^)/

2001.0322(木)

 性急なほどの暖かさに、桜が一輪、二輪ほころびかけている。Tシャツの人、フリースやダウンの人、軽やかなコートの人、マフラーをぐるぐる巻きにした人、春色のスカーフの人、厚さも色も様々な出で立ち。木々の様子と良く似ている。

 職場の異動の準備で過去ン年間につもった文献や資料、私物を選り分け始める。マニュアルやデータは置いて行くけれども、私的なメモがのこっていたらいやだなあ。部署が変わって今いる3階から、ほぼ真上の4階へ引っ越すだけなので、ことさら特別な思いはない。それよりも、保育園の送り迎えが金曜日でおしまいなのが、感慨深い。

 遅々とした歩みの『族長の秋』は、最終章。めろめろに愛した妻子を惨殺された大統領の、孤独と喪失、これまでも通奏低音として響いていたが今はっきりと語られる海への執着。

2001.0321(水)
購入本
妹尾ゆふ子/『チェンジリング 赤の誓約』/ハルキ文庫

 『取り替え子 チェンジリング』は大江健三郎ね(*^_^*)

 なんて暖かい日!ハッと気づけば、水仙の花は満開だし、沈丁花はもうおしまいだし、雪柳は咲き始めているし、こぶしは花盛りだし、木々の枝もうっすら緑色を帯びているし、ここのところの春の進み具合は速すぎるほど速い。桜のつぼみもほんのり色づいている。

 終業後ザ・ハープコンソートへ。先日とは別のプロ。ほんとにここんちは聴いて愉しく眼に美しい。ごはんをちゃんと食べる時間がなかったのでおなかが減った。

 『族長の秋』次第に個人的切実さが強くなってくる。

2001.0320(火)
購入本
ウラジーミル・ナボコフ/『ベンドシニスター』/みすず書房
稲垣足穂/『稲垣足穂全集 5』/筑摩書房

 「今日は火曜日かぁ…」と朝から何度言ったことか。日曜のような気がした、というより土曜のような気が<都合良すぎ

 風は強いが暖かい陽気に誘われて外へ…でも行く先は近所のユニクロ(自転車で数分)。次男の上下と自分用にTシャツなど。この冬は自分の服を買わなかったので久しぶりだ。一旦戻ってきたら、あたりをふらついていた長男が帰っていて、「パンツが足りないから買ってくれー」と言う。明日早朝から土曜まで北海道へスキー部の合宿、日曜の夜から土曜朝まで別口でスキー合宿、さらに日曜朝からは家族でスキーと、都合13日間ほぼ連続でスキー漬けなのである。いいなあ〜!と言うわけでパンツの数に不安があるらしい。それで再びユニクロへ…。ついつい別段買わなくても良い、2点で1000円のバッグなども買ってしまった。

 早川書房の新しい文庫・ハヤカワepi文庫は面白そうなラインナップ、といっても現在予定の14冊中8冊は既読(あらかた忘れてるけど)。

 『族長の秋』4章めを終わる。愛する母が死に、教会権力に拠らずに彼女を列聖した大統領は、妻となる女性を修道女の中から見いだす。次々と切れ目なく話者を変えながら繰り出される語りは、足を止めようとしても止めることを許されない、と言うことに対する無言の叫びを象徴しているかのようにも思える。誰の叫びかというと必ずしも大統領のというわけでもなく、時代の、あるいは読者の、または作者の叫び?『百年の孤独』とはまた違った、けれどもやはり圧倒的な力を持った作品だと思う。

2001.0319(月)

 かなり暖かく、見た目にも桜のつぼみがふくらんできているのがわかる。
 異動のための引き継ぎ準備で帰りがいつもより1時間ほど遅くなる。連れ合いにメイルを入れると、およそ同じ頃帰り着きそうだが、と言って、途中の某駅地下街でお弁当を買ってきてくれた。穴子弁当と海鮮弁当、鯖の押し寿司。そこに青菜たくさんと豆腐を足してごはんにする。しかし先日痛風発作を起こした連れ合い、お気の毒さまに海鮮弁当のイクラはだめなのであった。痛風には悪の元凶・尿酸の素となるプリン骨格、つまり核酸を多く含む食べ物は御法度なのだ。核酸含量は細胞当たりで大体同じだから、鶏卵一個(あれでも1個の細胞なのだ)とイクラ粒一個に含まれる核酸量は大ざっぱに言えば同じくらい。鶏卵を10個も20個も食べることはないけれど、山盛りのイクラ丼を食べた日には、摂取した核酸含量は…。当人、買った瞬間に「しまったー」と思ったそうな。豆腐と青菜で清く正しい生活を送りなさいね。それとイクラ数粒は許す。あっ、先日出張先で頂いてきた明太子もだめだわね(*^_^*)

 『レベッカ・ポールソンのお告げ』(文春文庫)収載のアンジェラ・カーター「ご主人様」を読む。動物をひたすら殺すのに人生を費やしている男がアマゾンに分け入る。途中からインディオの茶色い女を伴って奥地に入り込んでゆく。その部族はジャガーの末裔であるという言い伝えを持つその女は、次第に男に痛めつけられてゆく。銃の魔法を知った女の刺青がいつしか琥珀の斑点に変容して行き…。
 男と女のありように加え、重く濃いジャングルの空気があたかも透明な濡れたレンズのように景色をゆがめ、植物も動物も月も彼らも沈黙の中に形を変えてゆくかのようだ。最後のシーンの、重さを逃れて軽やかに去って行く彼女の姿が与える解放感に、それまでの重圧を改めて感じた。彼女ならではの描写の美しさに魅入られる。
 同書からトーマス・M・ディッシュ「死神と独身女」も読む。書きっぷりの斜めさ加減がディッシュらしい。

 『族長の秋』は3章目。とにかくびっちりと文章がページを埋めていることと、その文章が非常に濃いので、なかなか進まない。語り手の視点が、というより語り手が頻繁に移り変わるのでそれなりの注意を必要とする。色鉛筆で、芯自体が色とりどりになっているものがあるが、言ってみればそんな鉛筆で書いたかのよう。

 ガルシア=マルケスにも出てくる、陸地を行く船というイメージは、他にも時々見るように思うが、そのルーツはどこにあるのだろう、とちょっと気になる。

2001.0318(日)

 午前中まで残っていた雨もいつの間にか上がって、春らしい暖かな日和になった。昨晩はまたもや10時頃から次男と寝てしまい、電気もつけたままの状態で気づくと朝の5時。もちろんコンピュータもつけっぱなしである。それぞれ電源を切って再度寝たら次に意識が戻ったのは9時半であった。ほんとに春って(*^_^*)

 昼過ぎから次男と買い物がてら、あまりの気持ちよさにいつもとは反対方向の、隣の区の大きな公園に行く。途中の川沿いの遊歩道は、もうしばらくしたら桜の雲に彩られるが、まだつぼみは堅く枝ばかりが川面に伸びている。公園のサイクリングコースで彼は自転車、私は腕を振って正しいウォーキング。Tシャツ一枚でも軽く汗ばむ陽気だ。早咲きの桜が所々に咲いているし、柳の新芽の色も鮮やかだ。とある木の下でうぐいすの小さな声。あれっ、と足を止め、そっと見上げると、葉陰にせわしく動く影がある。ホー、ケキョ!とまだ口慣らしのような控えめな声で啼く、ちょっと小柄なうぐいすだ。足元の植え込みの日だまりには、数匹の野良猫たちが、一斉にお日さまの方を向いてぬくぬくとお昼寝中。猫ってどうして日なたぼっこするときに必ずお日さまの方を向いているの?まぶしそうに眼を細めて…。帰るのも惜しいような、穏やかな春の午後である。

 この一週間は、ここ数ヶ月のうちの読書量の最低を誇るのではないだろうか。<誇れない。本の山を右へ移し、左へ積み替え、下のものを上にし、手前と奥を入れ替え、などするばかり。買い物に行っても本屋に寄りたい!という切実な欲求が湧いてこず、やっぱりちょっとした飽和状態かも。たぶん、今日外に出ていい気持ちを味わってきたので、間もなく回復するでしょう。ちょびちょび雑誌や短篇などには目を通していたのではあるが。

2001.0317(土)

 今日が最終日のたむらしげる個展「ファンタスマゴリアデイズ」に再度足を運ぶ。今日はすっかり熱の下がった次男を伴う。彼もファンタスマゴリアは大好きで、一緒にCD−ROMで遊んだりする。2時からご本人がいらっしゃると言う予定に合わせて行くと、すでに小さなギャラリーの中にたむらしげるさんは居られて、サイン書き。私も早速、持参した『ファンタスマゴリア』(架空社)やCD−ROM「ファンタスマゴリア」などにサイン、というよりイラストを描いて頂いた。次男の要望でサメとか、ランスロットとか。写真やTVなどで拝見してはいたが本物にお会いするのは初めてである。少年のような、繊細そうな方だ。たくさんの美しいオリジナル作品が早くまとまってくれることを希望。今は手に入らない名作CD−ROM「ファンタスマゴリア」もなんとかお化粧直しをして再発されるように!これは復刊ドットコムじゃダメなのかな?

 相変わらず『族長の秋』をちびちびと。それと『リトル、ビッグ』を本棚の開かずの扉(棚がスライドする部分にも本が積んであるので一旦どかさないとスライド棚の後ろの本が取れないのだ)をやっと開けてとりだす。

 風野せんせい、もといスペソサー・ジョソソソ M.D.のホラー大作品をご覧あれ。ネズミと迷路と言ったら行動実験と観察者の視点ということを即脳裏に浮かべるけれど、やっぱりジョソソソ氏の解決編も医者らしいかな、と感じた。ジョソソソならぬジョンソン氏のチーズ本はそのへんはどうなのかしら(とりあえず読む気ないけど)。

2001.0316(金)
購入本
アーサー・C・クラーク/『3001年終局への旅』/ハヤカワ文庫SF

 落下間近のミールは、13日の日没後に見えた後は、日本上空を通るのは昼間だけになるらしい。13日の18時30分過ぎに西北西から南へと飛行するのが見えたそうな。それと知らずに私はその30分ほど前にまさにその方向の空を眺めていたのだった。そうと知って余計に口惜しいこと。

 卒園式が無事終わった今朝、次男が38.4度の熱。うう〜、午後は母の診察の予約もあって、そのために年休を取らねばならないし、6時からは学童保育の保護者会だし、もう家族動員でなんとかやりくりして次男と母をバケツリレー、じゃなくてバトンタッチ。子どもたちがお世話になっている開業医は、この時期やはりめいっぱい混んでいた。待っているだけでなにかうつりそう。

 なんだか落ち着いて本が読めない。4月1日付で異動(所内で部署が変わるだけだが)が決まったせいかもしれない。ン十年ひとところにいたので、積もる荷物も結構ありそうだ。まあその多くは本だったりする(^^;;  コンピュータも置いてゆくので、中味をきれいにしていかなくては。後で人に見られて困らないように…ん?

2001.0315(木)
購入本
『失礼文学 ∞』/失礼文学会
『失礼歌謡集』/ 〃

 朝から卒園式、今年からの正式名称は「就学進学お祝い会」である。引き続き昼から謝恩会昼の部(担任向け)、夕方から謝恩会夜の部(他の職員向け)と続き、夜の部を途中で抜けてカザルスホールにてザ・ハープコンソート。もしやこれが今年の演奏会聴き初めか?古楽ファンのみならずワールドミュージックファンにもお勧め。

 『失礼文学 ∞』が届く。封筒から出して、「あれ、また幻想文学が届いたの?」と思ってしまった。すごーく良くできています!ただ今「件人二十面相」の途中。吹き出す箇所多し。ああ件の人よ今いずこ(べつに現れなくて良いです)。

2001.0314(水)

 これで二晩続けて次男と一緒に朝まで寝てしまった。ああ疲れているんだわ>夜更かし続きの自業自得。今日の昼休みも職場のお姉さまとお話をして本読めず。

 明日は次男の保育園の就学祝賀会(いわゆる卒園式+学芸会のようなもの)。終了後に、先生を招いて謝恩会があるので、今晩はその会場の飾り付けである。私は、会場に貼る横断幕「そつえんおめでとう!」とプログラム作り係だったのだが、結局連れ合いに作ってもらっちゃったのであった。

2001.0313(火)

 職場で試薬リストとかマニュアル整理とか科研費報告書とか。三十を少し出た医者が、浮かぬ顔で「マンション買いました〜」と言う。「90何平米で6000万ですー」ひゃーすごい。都心からは2,30分のところという。「2年後に出来るのでまだローンは払わなくていいんですが、果たして買うことにしてよかったのかどうか…」と、一日ぶつぶつその話。うーん新婚で奥さんは年は同じくらいだけれどまだ学生、フルタイムの勤務医ではない彼が、それでも6000万の物件を買う気になれるというのは、うーん儲からないとは言ってもやっぱり医者って、と思ってしまうぞ。昼休み中そんな話で本は読めず。頑張って稼ぎなさいねせんせい。

2001.0312(月)

 休みを取り、娘と一緒に、たむらしげる個展「ファンタスマゴリアデイズ」と、ネコのヤン原画展に行く。たむらしげるの原画はほとんどが売約済みになっていてその人気に驚く。清潔で気持ちいい絵だね!と娘に言ってから、あれ、つい最近誰かたむらしげるの絵について「清潔」という言葉を使った人がいたなあと首を傾げる。たむらさんが手ずからパソコンでプリントアウトされた葉書セットを買う。一枚一枚に「たむら」と鉛筆で細かなサインがしてあるのに感激。また、4月にauのケータイの新製品としてファンタスマゴリアのカラー壁紙付きの機種が出るということで、見本が置いてあった。ほ、欲しいっ!ちょうど私のケータイはauで、先日本来の持ち主である連れ合いが「そろそろポイントが溜まったから換えてもいいんじゃない?」と言っていたのである。その時は、「別に今ので不自由してないしぃ〜」などと生返事をしていたのだが、帰宅後「やっぱり新しいの欲しいかも」などとそれとなくアピール。

 どこでお昼を食べるか迷って、結局また娘の希望でクレヨンハウスの自然食バイキング。ほんとに体にいい食べ物を食べた、という実感がある。満腹でも、気持ちの良い満腹。

 満腹解消に表参道から渋谷までたらたら歩き、パルコパート1でネコのヤン原画展を見る。たむらしげるのいくつかの作品と同じく、モノクロのプリントアウトに手彩色したものだそうだ。本の挿絵のほとんどはモノクロなので、彩色されたものはまた違った味わいがあって美しい。

 娘は渋谷で「あれ買ってこれ買って」とウルサイであるよ。散財。(+_+)

2001.0311(日)
購入本
『季刊 幻想文学 60号』/アトリエOCTA

 朝、bk1から『季刊 幻想文学60号 幻想ベストブック1993-2000』が届いたので、識者の挙げたベストブックにつつっと目を通す。井辻朱美がハリポタを一位に挙げていたのは意外な気がする一方、彼女ならそうかもしれない(以前の書評を見て)とも感じた。残念ながら私自身はこれと挙げられるほどには読んでいないので、人様の挙げたのを貴重な指針として参考にさせて頂くのみ。とりあえず間違いなく積ん読本『リトル、ビッグ』の待機順位が上がったのであった。
 また山尾悠子・須永朝彦の対談が掲載されていたのは意外なプレゼント。巻末のプロフィールによると、山尾悠子は連作短篇を準備中とあり、嬉しい限りである。

 『エレンディラ』読了。どれも皆有り余るほどのイメージの奔流が素晴らしい。狂燥的でいて静けさを孕み、増殖を感じさせながら蝕まれている。死と腐蝕?どれも甲乙つけがたいが、表題作、「失われた時の海」、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」などの名を挙げておこう。
 続いて『族長の秋』に取りかかるが、もしやこれは全然行替えがないのか、と気付きぱらぱらページを繰ってみると、章立てにはなっていないものの、空白部分を挟んで6つの部分に分かれているらしい。それぞれの部分はすっかりベタな文章がびっしりと続いている。はー。

 『季刊 幻想文学59号 ボルヘスとラテンアメリカ幻想』のガルシア=マルケスに関する部分を幾つか拾い読みする。
 野谷文昭「マジック・リアリズムとは何か」は、ガルシア=マルケスの作品を幾つか読んだ現在、結構すらすら頭に入ってきて、うんうんと納得し、頭の中を整理する一助となった。中に、マジックリアリズムとは複数のパースペクティヴがぶつかり合うところに生まれるものだ、という言い方がされていたのには、非常にすっきりしたものを感じた。植民地というキーワードや、ラテンアメリカの歴史と風土、北米のディープ・サウスという地域、等々、地域性、土俗・外来、神話などの様々の要因を包括するうまい言い方だと思う。オキナワン・マジックリアリズムもまさにこの定義(のようなもの)にぴったり。
 この野谷氏は沖縄の作家としてここでは目取間俊の名しかあげていない。最初に目取間俊を読んだとき、私はふと島尾敏雄を思いだしたのだが、やはり彼の作品はいわゆる純文学の雰囲気が強い。マジックリアリズムと言ったときに自ずと想起されるある種の破壊的エネルギーに溢れているという点で、個人的には池上永一に軍配を上げたい。以前も言ったが、この二人は光と蔭、外と内という関係にあるように思う。ルーシャス・シェパードは目取間俊に近い雰囲気がある。

 上記の「定義」からみれば、最近のラテンアメリカではマジックリアリズムがさほど盛んではないらしいと言うのは、パースペクティヴの衝突が薄れているからという理由からもひとつの必然なのだろう。やはりそのうちラシュディを読まなくちゃ、ってこと。またマジックリアリズムとは離れて、ボルヘスらラテアメ作家も読まねば片手落ち。

 ステッパー(歩くキカイ)で、歩くと言うより、腕もせっせと振って速いピッチでほとんど走るように10分。結構息が上がる。真剣に歩く理由が生じたのである。夜再び始めたら、これっぽっちの運動でも腿に疲労物質が溜まっていたらしい。疲。

2001.0310(土)

 東海道線に乗って叔父のお葬式に行く。駅近くのいわゆるセレモニーホールなるところが会場である。すべてホテルのようなビルの中の椅子席で執り行われ、お坊さんと祭壇の様子がビデオで映されていてとてもキレイ。出棺し例のごとく車を連ねて斎場へ行く。ここも黒っぽい石で外装内装とも統一されたピカピカの場所だ。隣り合う家族同志はあまり触れあわないような作りになっている。いよいよ故人が火葬にされるために例の扉の中に棺が入れられ、無情に扉が閉められる…のだが、すうっと閉まるその扉はまるでエレベーターの扉のようだし、点火される時の「ボッ」という音もまったく聞こえない。1時間半ほど控え室で待ち、故人のお骨を拾う。この時も、家族だけが先に呼ばれて行き、我々参列者の前に持ってこられたときには既にお骨は人体骨格の形ではなくて小さな山にまとめられている。頭蓋骨と喉仏の説明の他は特になく、二人一組でお骨を拾って行く。無事収められたお骨を再び先ほどの会場に持って帰り、初七日の法要、精進落としと続く。

 人が一人亡くなって、炎で焼かれればどの人も同じ白い骨になって小さな壺に収められるだけの存在になる。その手続きを目の前に見せてくれるのがこれらの段取りなのだが、今日の舞台装置はあまりにもキレイすぎて、その実感がまるで感じられない。「お葬式」ではなくて、カタカナの「セレモニー」。棺の釘打ちも、私の父や義父、これまでの叔父叔母らで経験したときのように実際にかなづちでトントントントンと音高くふたを釘付けにするという手続きはされず、単なるまねごとだけが行われる。お葬式というとあの無情な釘打ちの音が一つの象徴で、それに続くのは棺が炉に入れられていよいよ扉が閉まったときの、場違いと思えるバタンという音、それに続く点火の音だ。どちらも否応なしに自らはふっきることの出来ない悲嘆の感情に、ばっさりと区切りをつける作用を持っている。今回はこの区切りがほとんど感じられず、ただ一連の流れの中にすべての手続きが組み込まれて、いかにもスマートに処理されてしまった。悲しいことだけれどいつかは誰にもおこること、何でもないことなんですよ、と言わんばかりだ。誰にもおこること、でも何でもないことなんかじゃない。つい1,2日前までは確かに暖かい体温を持った存在だった人が、高温の炎で燃やされるだけの物体になってしまった、お別れするよりほかない。理性はそう言う。でも棺が扉の中に滑り込まされる直前にはやはり取りすがって引き止めたい、その思いも引きずって棺が扉の中に消えてゆく、思いを断ち切るように扉が音を立てて閉まる…。そんな感情の作用がなにもそこには生じず、係員に言われるままに、部屋から部屋へ移動し、お焼香し、型どおりのことを単になぞるだけ。すべてがあまりにも偽物のようだ。
 みんなが大好きだった優しい叔父さんだっただけに、キレイなお葬式だったのは良いのだが、こんなお葬式のあり方はどこか違う!とハゲシク思う。

 きのうパソコンがフリーズした時のようになって、電源オフすら出来なくなってイカレたケータイは、なぜか寝る前に見たら独りでに画面が消えていた。もしやすっかり電池切れ状態になって、パソコンで電源を落としたのと同じことになったのでは?と思い、充電器にセットしたら、先ほどはだめだったのに今度はちゃんと充電状態になった。そして今朝見てみると、めでたく回復。あー、やっぱりフリーズだったんだー。では次回は、電池を抜いちゃえばいいのかな?<荒療治

 昨日からの続き『エレンディラ』を読む。もうこの頃、新たなる発見続きで嬉しい限りだ。ツボまたツボ、驚きに次ぐ驚き。現在、表題作、正確には「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」の初めの方。

2001.0309(金)
購入本
日下三蔵編/『怪奇探偵小説傑作選 横溝正史集』/筑摩書房
アンジェラ・カーターほか/『夜の姉妹団』/朝日新聞社

 やっと『エンダーの子どもたち』読了。残りは本当にごく僅かだった。作者後書きに、日本、大江健三郎などへの興味と出会いが述べられていて面白い。しかしワンアイデアのあの最初の短篇「エンダーのゲーム」が長篇となり、しまいにこのような姿に結実するとは。エンダーの3000年ほどではないが、短篇版が邦訳されたときに読んでからン十年、実時間の経過が、シリーズのタイムスパンの長さを多少なりとも味わわせてくれたように感じる。シリーズを終わって振り返ってみると、長篇としては『死者の代弁者』がもっともSFとしての醍醐味が味わえたように思う。『ゼノサイド』以降はまたちょっと違ってきているから。個人的好みから言えばやはり衝撃の短篇「エンダーのゲーム」がベスト。とは言えちょっと性格が違うから厳密にはシリーズには入らないのかも知れないが。

 忘れていたがe-novelsの北野勇作作品も先日読んだのであった。やっぱり、カメの人だった。

 柴田元幸訳の英米短篇集『夜の姉妹団』はアンジェラ・カーターが目当てだったが、ミルハウザーの表題作、クロウリー「古代の遺物」、バーセルミ(題が長〜い)など面白そうなのが載っているおいしそうな本。

 せっかく明日、たむらしげると町田純の展覧会に行こうと楽しみにしていたのに、叔父が急に亡くなって葬儀に行かねばならない。うー、叔父さん。
 このために上京してきた義母に、連れ合いが携帯電話を買ってやったという。行動的な義母、時々出歩いて行方不明になるので。その番号をアドレス帳に登録しようと、自分のケータイをEZ-Webにアクセスしていたら、突然フリーズ!キーを押せども応答なし。電源キーもきかないし、文字通り呼べど答えぬ(ケータイあてに電話をかけてもコール音も鳴らない)状態に。およよ、ケータイもフリーズするなんてえ。問い合わせたらりっぱに修理対象なんですと。こんな時、先日クジでもらったケータイが役に立つのだ(*^_^*)

2001.0308(木)

 PARCOのメルマガ「BOOK Door to Door Vol.29 オンライン書評 MAR.7.2001」に「本のウェブサイト「怒濤の読書記録」」が載っている。見たことのあるサイトばっか。ラインナップ(当方、Life and Dietありさとの蔵読書と日記 まこりんのお部屋八方美人な書評ページ)自体および他サイトへのコメントはともかく、当サイトへのコメントって…。

好きなものへのこだわりと、出会った本にたいする柔軟さのかね合いがほど良いページです。やさしい気分で楽しめそう。

 「出会った本にたいする柔軟さ」とは何よ?「やさしい気分で楽しめそう」な気がして読んでみたら、じつはねぇ。

 せっかく『エンダーの子どもたち』がもう少しで終わるところなのに、職場に置いてきてしまった。がっかり。かわりにガルシア=マルケス『エレンディラ』を読む。海からバラの匂いが漂ってくる…。

 カウンタの下ににじむさん的ぷちbk1および新聞連載寮美千子『楽園の鳥』へのリンクをつけました。

2001.0307(水)

 メールマガジン【児童文学評論】 No.38から目黒強さんの『かめくん』評を転載させて頂いた。

 半日所内のセミナーを聞きに行き、眠い暑いわからないと三拍子揃ってくたびれた。最近はスライドからパソコンを使ってのプレゼンテーションが急に増えて、幾分お年を召したせんせい方もあせって移行中。スライド作成のため写真屋に出す費用と時間がかからず、直前まで直しがきくのも良いところ。でもやたらにデザインがうるさく、シンプルなスライドの方が見やすかったと思わせる部分もある。

 ああ本格的に本を読む時間がもっと欲しい!
 『エンダーの子どもたち』
なかなか終わらず。

2001.0306(火)

 『エンダーの子どもたち』下巻に入る。いろいろな形態の女性同士の嫉妬?愛情?迷い?そしてそれらは男性のなかにも。惑星パシフィカの賢人マルと言う名にはmal(狂った)を想起してしまうがほんとはどんなスペルなのかな?べつにいまのところマルが狂っている様相を見せているわけではない。

 次男の食事が終わるのがいつもいつもいつも遅いので本を読みながら待つことも多い。夕食後に読んだのは『銀河帝国の弘法も筆の誤り』の「脳光速」。何じゃこの題名は。す、すごい「キャベツ」と斧。ああっ、この終わり方って〜。しかしそれにしても犬森望訳って、運悪く先に読んだSFMのアレが既にトラウマになっているのであった。

 さて次男を寝かせて一緒に一寝入り、めでたく11時過ぎに起きてお風呂。さあて、さっぱりしたところでパソコンを立ちあげようっ…あれっ、なんだこれ、止まってる。……数回safeモードを繰り返すばかりであったが、なんとかようやく復旧(してもらう)。何はなくとも、LANでつながっている連れ合いのパソにとりあえずそっくりHDをコピーしておく。最近どうもヘンだったのよねえ。さっそく連れ合いは安くて速くて容量が大きいのをネットで調べている。このパソはどうするの。どうも私の使っているパソは春になるとイカレる傾向にあるらしい。職場のMacもとみに怪しいし。なわけで、一回休み(by 有里さん)。

 朝いちで税務署に行く。出掛ける前になって「控え」という紙にもちゃんとボールペンで書いてハンコを押さなくちゃダメ、と連れ合いに指摘され、あせって記入。税務署は幸いに家から近い。提出は待ち時間も入れてホンの3分ほどで済んだ。ついでに近くの郵便局(本局)に行ったら、窓口が開くのは9時からだと言う。税務署はとっくにやっているのに。シャッターが開くと、局のおじさまがたがデパートの開店時のように並んで口々に「おはようございます」とご挨拶。ううむ。

 ところで『エンダーの子どもたち』では「神々」ではなく「神がみ」という表記が用 いられている。以前「星ぼし」と言う表記が若干話題になったが、今度はどうなのだろう?特に中国系の惑星パス(Path)で用いられている言葉なので、語感を優先してわざと「神がみ」としたのだろうか?確かに「神々」だと、むしろギリシャ・ローマ系の神を思い出すかもしれない。「神がみ」だと恭しい感じが出てきて東洋系らしい感じが出てくるようには思える。訳者にはこうした表記を選んだ理由について伺ってみたいところ。

 唐突だが、カタカナの「シ」と「ツ」の書き分けがきちんと出来ていない向きはおられないだろうか。早い話「シ」は「よこよこよこ」、「ツ」は「たてたてたて」なのだ。ところが、「よこよこたて」あるいは「たてたてよこ」のハイブリッド文字を良く見かけるのである。先日も保育園の連絡帳に「たてたてよこ」が書いてあったので、「あーこういうのが書いてあるといっぺんで信頼失っちゃうねー」と思わず嘆息。そばでいっしんに数字を書いている次男、○に|をくっつけて9を作成中。こいつ「す」はどうやって書くかというと、たてが長い+に○をくっつけるのである。あー、先生も保育園児並みだ。

2001.0305(月)
購入本
福澤徹三/『怪の標本』/ハルキ・ホラー文庫
おのりえん/『メメント・モーリ』/理論社

 朝、パソの周りをちょっと片づけようと、積んであった古いユリイカのラテアメ特集('79年7月号)を手に取り、ついつい立ったまま、目次で目に付いたマルケスの短篇「大きな翼を持った老人」を読んだ。あらすじを書くとそれでもうおしまい、のような掌編である(>後で見たら『エレンディラ』に収載、これは『百年の孤独』の後に編まれた)。
 マルケス歴の浅い私なので、思い出せるのは『百年の孤独』ほとんど1作のみだが、あの不思議なエネルギーと狂躁感、そしてどこか蝕まれて行くような印象はこの作品でも同じ。「天使」かもしれない無様な老人の美しかるべき翼には、しかし星形の寄生虫がついていたり、彼のそばにゆくと日向くさかったりするといった天使らしからぬディテイルは、最近の『肩胛骨は翼のなごり』がすっかり借り上げたのではないかと思われるようだ。どういうメッセージが送られているのかいまひとつ不鮮明な『肩胛骨はつばさのなごり』に比べ、はるかに輪郭もシャープなのはその舞台の土地柄のせいもあるかもしれないが、アーモンド(『肩胛骨は翼のなごり』の作者)自身のメッセージの核じたいが、凝縮していないからのように思える。
 この作品では彼岸と此岸をつなぐ使者たる天使の登場にもかかわらず、最後に、彼の世話をしたエリセンダが彼がその翼で飛び去っていったかなたを見つめるとき、その脳裏を占めたのは、彼岸や天上に馳せる思いでも喪失感でもなく、彼が二度と再び彼女の日常を脅かさないと言う確認と安堵という、なんとも地に足の着いた感情だった。彼女らにとって翼のある老人はたとえそれが天使であろうとなかろうと、奇跡を生もうと生むまいと、せいぜい見せ物のフリークス(これも何とも度外れなフリークスではあるけれど)程度の驚異の対象であるにすぎず、そもそも彼女らは彼岸も此岸もたいして差のあるものと思っていないのではないかという気がする。となると幻想文学ラテアメ編にあった、死あるいはタブーからはじまった物語、という命題のあたりからふたたび考えてみなくてはいけないように思われる。マルケスにとってではなく、物語の中で、死はタブーか?死と生に、現実と奇跡(魔法)に境界があるのか。奇跡はいつ魔法になり、魔法はいつ科学に矮小化してゆくのか。
 奇跡あるいは魔法と科学について、また科学の発達とその浸透を考えるときに必然的にくっついてくる時間と歴史について、を作品として体現しているのがやはり『百年の孤独』なのだろう。
 
 乏しい経験ではあるが、マジック・リアリズムと言う言葉に、感性としてぴたりなのは、いまのところやはりマルケスであるようだ。マジック・リアリズムふう、マジック・リアリズムの流れ、マジック・リアリズムの範疇にはいるもの、などと言ったらいくらでもあるだろうが、ずばりマジック・リアリズムと言えるのは今の所マルケスだ。ところがその根拠を示せないので、困る。
 またこの掌編には、掌編特有の寓意が秘められているかのようにも当然思える。<だからどうした
 ここでは奇跡もフリークスと同レベルの、一種の日常性の一つとして取り扱われている以上、それはどうしてもリアリズムであって、そこから寓意を読みとるかどうかはすでに作者が最初から放棄していることに思える。この点こそが自家撞着的ながら寓話とリアリズムの違いなのかもしれない。あいまい〜>オボロぢゃ(『エンダーのこどもたち』の中で、オボロという日本語を、オースン・スコット・カードは「あいまい」と言い換えている)。
 
 寓話とは、言ってみれば、その話の登場人物、舞台装置を、そっくり別のワンセットに置き換えても成り立つ話であろう。寓話と、寓意とは、当たり前かもしれないが、切り放されてそれぞれ存在しうるだろう。奇跡もフリークスも寓意を込められてはいるが、『百年の孤独』などのような物語の中では、それ自体の特性が唯一無二の存在価値を持っていて、そのために『百年の孤独』は寓話のくびきを楽々と逃れているように思う。これがジョナサン・キャロルではどうかというと、どうなんだー。アンジェラ・カーターではどうなのだ(<未だ回答なし)。カーターはフェミニズム作家という視点とグリムの語り直しと言う点からどうしてもその作品に寓意を求められることが多いだろう。しかしこれらが寓話かというと、決してそうではないと思う。寓意は多く含んでいるが、寓話ではない。寓話的要素はあって寓話としても読めるが、本質はそうではない。<あー根拠レスな書き散らし

2001.0304(日)

 朝寝坊は嬉しいな。まだ8割以上睡眠モードのまま起きて行くと、朝=晴れといういわば当然の予想に反してしっかり雨。予定通り所得税還付申告の計算をする。最近は国税庁のサイトで親切なマニュアルが出来ているのであるよ。税務署であれこれ説明書やら何やらの一揃いをどさっとくれたので、さぞかし難しかろうとねじり鉢巻き(のつもり)で始めたら、何のことはない、結局私に実質的に必要なのは源泉徴収票プラスアルファだけなのであった。後は清書して出しに行くだけ。

 WOWOWで『ロッタちゃん はじめてのおつかい』『グリーンマイル』の、それぞれ始めの何十分かを見る。上の子たちの定期試験が近いため、気の毒だから録画して後で見ることに。ロッタちゃんの怒れる女の子っぷりが痛快。『グリーンマイル』のトム・ハンクスは、確かに彼にしてはダサさが出ているけれどやはりこの役にはハンサムすぎ。電気椅子のシーンはさすがに本で読んだときに比べリアルさが迫ってくる。髪の毛を剃った頭に水を含んだスポンジを載せるシーンなど、その水の冷たさが頭の皮膚にじかに触れるという、普段あまり感じないだろう感触が、死刑という異様な状況をひどく個人的な感覚を通して身に迫ったものに感じさせる。この後どんなふうに映画が原作を料理して行くのか楽しみ。

 『エンダーの子どもたち』では神道の惑星ディヴァイン・ウィンド(神風<またかよ〜)に乗り込んだワンムたちが、日本人哲学者オボロ・ヒカリと会見する。

オボロ・ヒカリが著作を発表しなかったら、日本人はだれも、あえてアメリカの原爆投下を賞賛したりはしなかっただろう。オボロ・ヒカリのおかげで、原爆投下を、日本が犠牲になったというのではなく、人間の贖いをしようとする神がみの試みだとみなすことができるようになったんだ。(上巻、p.142)

の付近ははっきり言って不快だ。作者の見解を遠い未来の日本人哲学者に託しているというわけか。ふん。まあこのあとどのようにヤマト魂のオボロ・ヒカリをはじめ、日本人惑星が動いて行くのか、見てみないと。

 有里さんの『エンダーズ・シャドウ』を読んでの感想、『はみだしっ子』の頃の三原順に挿絵描いてもらえたらいいのに。エンダー=グレアム、ビーン=アンジーの目をしたサーニン、というキャストは変か?はドンピシャ。私も同じマンガを脳裏に浮かべていたので。

 田口ランディのメルマガ最新号は「ガン検診の憂鬱」と題して子宮ガン、乳ガン検診のつらさを訴えている。これと並行して3/2(金)読売夕刊にも同趣旨の彼女のコラムが載っており、「命の象徴 慈しむ医療を」という大きな文字に飾られている。これによれば、メルマガに対して二日で300通の反響メイルがあったという。また日本の研修医の男性からのメイルとして「私は先輩医師から、この検診のときは相手が恥ずかしがったり誤解をしたりしないように、なるべく事務的に処置をすすめるように指導され、そのようにしています」という意見が載せられている。この考え方にも一理あるとは思う。が、我々はモノではない。移植のために摘出された臓器でも単なるモノとしては扱われないではないか。なのに、たとえば、検診台に乗って、担当の医師が来るまで、(いくらおなかから下はカーテンで仕切られているとは言え)なぜ下半身はだかでしかも足を開いたまま待たされなければならないか?足とおなかの上には、心臓も頭もくっつているんですよぅ。心配だから毎年検診には行っているものの、断固イヤですこんなの。

2001.0303(土)
購入本
イタロ・カルヴィーノ/『遠ざかる家』/松籟社
 〃 /『砂のコレクション』/ 〃
 〃 /『パロマー』/ 〃

 三月ひなのつき、ひな祭りの今日は何となく暖かい。デパートの地下で桜餅を買おうとしたが、皆考えることは同じらしく、桜餅、草餅、ひなケーキ(変な日本語)などにはどの店も行列である。

 夕食後WOWOWのプログラムガイドを見ていた娘が、「ママっ、今まで『ナビィの恋』やってたんじゃん!」あいやー、あと10分で終わるところ。知っていれば事前にここで告知したのに!でも大丈夫、またやるから。未見の方はこの機会にぜひご覧あれ!
>18(日)午後8:00から30(金)深夜1:00から

 ほかに『ロッタちゃん はじめてのおつかい』(4、17、30日)、『グリーンマイル』(4日)、31日に『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』、『ノイズ』(ジョニー・デップ、11、16日)などなど。映画は見始めるときりがない。4月からは次男が小学生になって保育園のお迎えがなくなるから、時々終業後に映画に行けるかも…!

 ださこん5も順調に参加枠が埋まっているそうであるが、当方は、24日(土)に長男がスキー合宿から戻り、翌25日(日)には長男次男が一緒にまた別のスキー合宿に出掛けるため、洗濯とか洗濯とかで家が空けられないのである。参加すればクラゲとカメと猿人関係のお話が心おきなくできるのだろうに、うーんくやしいのう、チャットでも出来るようにセットしておくんなまし>心当たりの方々

 ただいま『エンダーの子どもたち』続き。この宇宙航法!はエンディミオンを思い出してしまうぞ。執筆年は『エンダーの子どもたち』’96年、『エンディミオン』’96年、『エンディミオンの覚醒』’97年だから何とも微妙なところ。どこかで同じアイデアが提示されていたのを見たのか、あるいはいわゆるシンクロニシティなのか?

2001.0302(金)

 朝出掛けるときに、また吐く息が白い。立春からひと月、桜の開花予想も出たのにこの冷え込み。けれども冷たさの中にふと甘く匂ってくるのが沈丁花の香りだ。

 『ゼノサイド』読了。いやそれにしてもびっくりしたなもう。あんまり驚いたので、最後の5mmほどを一気読みして即『エンダーの子どもたち』に突入する。全くの続編なので、『ゼノサイド』を読んだきりだった人はさぞかしもどかしかったろうと思う。一見問題が解決したかのような気になってしまう終わり方だったが、実はまだスターウェイズ艦隊とその本体の脅威は以前として消えていないからである。今度は神道の惑星、ここがワルモノの本拠?そう、次男はすぐ「○○はいいもん?わるもん?」ときっちり決めたがるのだ。

 『クラゲの海に浮かぶ舟』を、付箋を貼りながら駆け足で復習する。ちゃんと読み直そう。かめくんはかめくんでかめくんなんだろうけど、クラゲのほうはそういうわけじゃないのだ。【○○で☆☆で△△】なのよ〜>これでじゅうぶんネタバレでしょう。

 それで思い出した、先日食べた、いちご桜餅、思いの外においしかった。桜餅といっても道明寺のほう。小ぶりな道明寺に大きないちごが入って、その酸味と、あんこの味・量ともうまく折り合いが付いている。いちご大福なども、邪道なんていう人もいるが、私は好きだ。いちごジャムがはいったいちご大福なんていうすごいのにぶつかったこともあったが。これはさすがに勘弁。ちなみにヤマザキの雪苺娘も好き。これから桜の時期までが桜餅、桜が散ると一斉に柏餅。みそ餡の柏餅(はあと)。

2001.0301(木)

 早くも3月。一日霧雨、ときどきちゃんと降る。

 今日は雨で見えない月星であるが、最近の金星の美しさに、ずっと気になっていた、内惑星の満ち欠けを調べた。何となくは知っていても実はちゃんとわかってない。満ち欠けをすること、内合と外合くらいしか知らないのであった。先月22日が金星の光度がもっともあがって−4.6等、地球までの距離と欠け具合との兼ね合いで最大光輝の日がきまってくる。そういえば確かにその頃、ものすごく輝いているように見える日があったっけ。これから内合に向かい、急激に光度・高度を下げて行く。28日に内合となって4月からは明けの明星になる。ちょうどその頃には帰宅時間の夕空もだいぶ明るくなっていることだろう。しばらく金星ともお別れになる。

参考
三月の惑星内惑星と満ち欠け内惑星 (<ここの下位ページらしい)内惑星最大光輝

 『ゼノサイド』では窩巣女王がじつは何であったかが明かされようとする。エンダーとその家族の軋轢が大きな割合を占めるが、こうした方向が、カードのSF以外の作品群を指し示しているのだろうか(未読)。

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ニムの木かげの家
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最終更新
2001.12.31 01:11:49