独書間奏2


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001226 『ライオンハート 恩田陸 新潮社

  5枚の絵画をそれぞれの冒頭に置いて書かれた連作短篇集だが、同時に全体として一つのラブストーリーを形づくっている。
 1978年、1932年、1944年と、点々と舞台は時を飛び越え、そして1603年にまでも遡る。夢の中で、現実の世界で、ほんのひとときの逢瀬をいとしむエドワードとエリザベス。ある時は会った瞬間にお互いをそれと認めるが、ある時は片方だけが相手を恋人と知っている。時間を超えてひとときの巡り会いのために生きる二人だが、ストレートにこの不思議が解き明かされるのではない。
 似たような雰囲気を持つフィニイに比べると、彼女のはねじれた感じ…よじれた感じがある。この捻れ感は、小林泰三などにも通じるように思う。フィニイは過去のある時代が主人公にとって圧倒的な磁力を持っているが、これとは違って、恩田陸や小林泰三は、読者に、自分の立ち位置に心許なさを抱かせるような不安定さをもたらす。時をかける少女がドアを開けたときに、虚空とも虚時間ともつかない時空の大きな渦巻きあるいは流れに、足を、全身をすくい取られるときのように。

 「イッヴァンチッツェの思い出」はミステリ色が濃く彼女らしさを感じたが、私が中でも魅入られたのは「天球のハーモニー」でエリザベスが庭から歩み出たあとのシーンである。時のはざまの、まさに幕間のようなこの場面の美しさと不思議さは、意地悪く言えば多少どこかで見たような気は確かにするが、ともかく、象徴的な色合いの濃いこのシーンは静かな、けれどもずっしりとした印象を残した。
 最後の「記憶」の、恩田陸お得意のあっという落としどころも見ものだ。

 『トムは真夜中の庭で』は言うまでもなく、『ハイペリオン』4部作なども思い起こされる。エドワードの風貌がハイペリオンのキーツにすっかりだぶってしまった。
 またあとがきで作者自らこの作品を「SFメロドラマ」と称しているが、この発言はなくもがなと言う気がする。

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001104 「魔法使いアニタ キース・ロバーツ 
『ウィッチクラフト・リーダー』ピーター・ヘイニング編、ソノラマ文庫海外シリーズ14、朝日ソノラマ 収載 

原題は "Timothy"

 なにもない2月。少女アニタは暇を持てあましている。馬鹿な鶏や森の動物たちの思念に耳を傾けるのもつまらない。アニタはトンプソンおばあちゃんに内緒で、トウモロコシ畑に突っ立っているかかしのティモシーに魔法をかけて命を与える作業を始めてしまった。その空っぽな頭脳に、様々な事物の定義を教え込み、自分でもブリタニカ百科事典で勉強しては次々と彼の質問に答える。彼は問う、「夜って何?」「光って何?」「見るって何?」そして「私は人間か?」アニタは答える「今にそうなるわ」と。
 シェークスピアも読めるようにしてやり、そして感情、第六感、第七感、第八感、第九感までも与えてやり、ティモシーは涙を流すことを覚える。

 しかしこの彼女の遊びはトンプソンおばあちゃんの察するところとなり、もうおやめ、と意見される。4月半ば、春が訪れ、アニタはおばあちゃんが正しかったことを悟り、「古びちゃって」「こわれる寸前」の彼に別れを告げる。「ティモシー、あんたは、その…一種のおもちゃにすぎなかったんだ。」「そう…アニタ…」これを最後に、もう魔法をかけることをやめれば、ティモシーは朝には「何というか、消えて」ゆき、ただのかかしに戻るのだから。
 しかし彼女が彼を畑に置き去りにした瞬間、彼はその小枝と藁の手でアニタにつかみかかり、彼女の身を探ろうとする。「愛して、アニタ、頼むから…」アニタは逃げる。ティモシーが「アニタ…愛…」と執拗に追う。アニタは逃げながら必死に魔法で応戦する。しまいに藁で出来たティモシーは火をつけられ小川に落ち込み、流されてすっかりめちゃめちゃになるが、逃げに逃げてベッドに倒れ込んだアニタの頭には、自分のかけた魔法の力が尽きるまで、流れに漬かったティモシーのかびくさい思念が聞こえ続けるのであった。

 ストーリーとしては、とりたてて際だった点はないが、しずかなテンポ、畑や森の質感、まわりを取り囲む土や木々に潜み満ちあふれる生命そのものが常に感じられて、非常に充実感がある。春を迎えた少女の、自分でもうまく言えない衝動と、罪悪感からくる言い訳など。
 彼の作品を読むと、雰囲気、というよりatomosphereと言いたいような、皮膚から、嗅覚から、聴覚から…五感すべてに訴えてくるものを強く感じる。作中で一見感覚や常識では測れない事物が起こっても、実はそれはまっとうな五感に根ざしているものなので、それに出会ったときの感覚がしばしば郷愁と結びつけて認知されるのではないだろうか。

 まとまった形でロバーツの作品がたやすく読めるようになることを切望する。

◆読了時のコメント

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001007 「ユニコーンの谷 海外ロマンチックSF傑作選1『魔女も恋をする』(コバルト文庫)収載
001007 「薔薇の荘園」 『薔薇の荘園』(ハヤカワ文庫SF)収載
             トマス・バーネット・スワン

 愛くるしい幼い女の子の姿をしていながらじつは植物の変化(へんげ)であるというマンドレイク族。その兄弟や家族はあからさまに怪物の姿をしている。幼女のマンドレイクは無心に人間にキスをするが、それによって人間は精気を奪われてしまうのである。
 スティーブン(スティーヴン)は農奴の息子だ。まだ13歳だが大人のからだを持った彼は、村の女の子をほぼ全員陥落させていると見なされている。ユニコーンに出会ったことがあるという噂の、水仙のようなたたずまいの母を持ち、一方父は見せしめのため領主に耳をそがれている。ある時、大人のマンドレイクに愛する父母を殺され、仇討ちを誓う。
 彼の二歳年下の、領主の跡継ぎジョンは、その父の資質を受け継がず、勉強や学問が好きだ。ジョンとスティーブンは遠くから通じ合うものを感じ合っているが、父母を失った失意のスティーブンにジョンが不器用に声をかけ、以来ふたりは友となった。
 誓いにも関わらず、いざマンドレイクに遭遇するとそれを殺すことの出来ないスティーブンである。マンドレイクをやっつけることが出来るのはユニコーンだけだと言われ、処女ミリアムに助けを借りることになる。彼女の許に現れたユニコーンに導かれて足を踏み入れたユニコーンの谷で、自分だけがユニコーンに、そして虫にすら拒まれたと思った瞬間、彼はかれのユニコーンに会うことが出来たのだった。(「ユニコーンの谷」)

 二年ののち。彼らの元にも少年十字軍の熱気が伝わってきて、スティーヴンはそれに感染し、十字軍に参加したいと憧れている。その美質である優しさを父親に蔑まれたジョンと共に、廃墟で天使のような少女ルースと出会ったスティーヴンは、神のお告げとばかりに3人で十字軍に加わるためにロンドンを目指す。森の中のローマ人の街道をたどるうちに3人はマンドレイク族に襲われてしまう。そして行き着いたのは、薔薇の荘園であった。ルースは天使なのだろうか?もしやマンドレイクでは…?(「薔薇の荘園」)

 13世紀のはじめを舞台に、歴史の分厚い襞に隠されたエピソードを、そっとかいま見せてくれるような、手のひらにそっと載せておきたい作品である。あしうらに枯れ葉の敷き詰めた地面の柔らかさを感じ、鼻腔には森の湿り気と香気が流れ込んで来るかのよう。
 この頃の世界には鹿や小鳥と共にグリフォンやユニコーンたちが棲息している。マンドレイクに父母を殺されながらも彼らを殺さずに済めばよいと感じる少年たち、聖であり同時に人間とは異質のマンドレイクかも知れないルース、跪く足に地面のしたの岩を感じる奥方、彼らには命の豊かさがあふれ、土の中で育つマンドレイクのように、彼らも皆まぎれもなく大地から生まれた生き物なのだ。子供らはその生を人間という皮膜に包まれて大地から遠ざかってロンドンへと弾んで去って行く。一方奥方は大地と同化するかのように生きることを選び、薔薇のようにひそやかに、森の奥深くに…物語の蔭にとひきさがって行くのである。

◆読了時のコメント

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001007 『ローワンと魔法の地図 エミリー・ロッダ あすなろ書房

 弱っちいローワンはリンの村で家畜のバクシャーの世話係をしている。ある日を境に、村を流れる川の水が止まってしまった。水源がある魔の山にその原因を突き止めに行かねばならないが、山に至る森は恐ろしく、山頂には竜が住むという。村人たちは村の魔女シバに助けを乞うが、殆ど助力は得られない。ただローワンがシバに投げつけられた木の枝が、実は山頂に至る魔法の地図であったのだ。勇気ある村の男女6人に加え、弱虫でちびのローワンが、この地図ゆえに水源を探る旅に同行する羽目になる。

 道には6たびの難関が設けられ、その度に地図には魔法の言葉が浮かび上がるのだが、「勇気ある」大人たちは誰一人としてその言葉を深く考えようとせず、その結果痛い目に遭い、最後は弱虫ローワンが、バクシャーに対する愛情と彼の弱さゆえに、旅の目的を果たすこととなる。

 特にオーストラリアの作家としての特徴は感じられず、リンの村もどことは言えない物語の中の世界である。登場人物の大半は大人なのだが、どの人物も私には余り魅力を感じることが出来なかった。小道具も魔女、竜、道の途中の色々の難関、など盛りだくさんではあるのだが、それぞれに余り必然性が感じられず、ただそこに持ってきて配置した、と言う印象が拭えなかった。

 道も最後にさしかかった部分で、細く狭い真っ暗な山中のトンネルをを、目指すところもわからずひたすら進んで行く…というのは、指輪物語でも見たし、「光の輪」シリーズにもあった。身体が、折れ曲がるトンネルの中につっかえたまま前にも後ろにも動けなくなるのではないかという恐怖。やはりこれは胎内回帰>主人公の再生なのだろうか。けれどもこの作品のそれは前二者の作品に余りにも似すぎているように思う(他にもこのようなトンネルの例があるだろうか?)。
 この世界は、世界としての感触や匂い、広がりがあまり感じられない。単に一本道が主人公の前に設定されていて、予測通り彼だけが彼の資質=弱さゆえに逆に難関を突破できることになる。お約束とは言え、平面的、直線的でゲームのようだ。旅からはずれた大人たちが、帰り道はなぜか無事に村へ戻れるらしいのも、双六ぢゃあるまいし安易。

 大人たちにふり当てられた職業がジェンダーに捕らわれたものでないあたりが、フェミニズムを柔らかく取り入れているのだろうが、これもいまいち生硬な印象が拭えなかった。

 パトリシア・ライトソンらと同じオーストラリア最優秀児童図書賞(1993年)を受賞しているという。私はライトソンの作品はかなり楽しめた。この『ローワンと〜』とライトソンを比べて考えるに、児童文学の賞だけに選考に当たっては実際に子供らにどれだけ読まれているかが加味されるのではないかと思う。この本は書店では子供らに大変な人気なのだという。邦題ばかりでなく、その点もハリーポッターに似ているようだ。

◆読了時のコメント

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000912 『幽霊の恋人たち −サマーズエンド− アン・ローレンス 偕成社

 どこからともなくやってきた、年齢も素性もわからない男の人が娘たちに物語を聞かせると言う枠組みは、もう『リンゴ畑のマーティン・ピピン』だ。『リンゴ畑〜』は、で始まる名前を持つ女の子たちが、花びらのように、いなせなマーティンのまわりに群がって彼のお話を聞くスタイルで、その舞台自体がすでにお話の中のものだ。リチャード・ケネディの挿し絵が切っても切れない美しさを醸し出している、私の愛蔵本である。この少女たちは年齢の幅がいくらかあって、ほんのねんねの女の子から、娘らしくマーティンに流し目をつかうことを知っている子までいる。そしてマーティンが語るお話は子供向きと言うよりむしろ実は成熟した大人向きの、愛憎取り混ぜた内容のものなのである。

 さて、この『幽霊の恋人たち』というより「サマーズエンド」と原題で呼びたいこの作品は、『リンゴ畑〜』に比べて、幽霊こそ出てくるが遙かに現実味を帯びたもので、内容もお話を聞くベッキー、リジー、ジェニーのボンド三姉妹にちょうど釣り合ったものになっている。中でも長女のベッキーは、学校も卒業して家の手伝いをし始めた、少女時代から娘時代へとさしかかったあやふやな時期の女の子だ。そんな夏の終わりのある日、彼女は牧場の柵にもたれては道の向こうから何かが、誰かが来ないかと待っている。そこにやって来た人影は、さて騎士、魔法使い、あるいはおとぎ話から抜け出した人か。この得体の知れない男の人はベッキーの家の離れに住まうことになる。そこは三姉妹の遊び場でもあったから、彼・レノルズさんは彼女らに「家賃」をお話で支払うことを申し出たのだった。
 こうして、イントロダクションの「夏の終わり」に続き「こわいもの知らずの少女」「タム・リン」「チェリー」「ウィリアムの幽霊」「野ウサギと森の番人」その続きの「泉をまもるもの」「ジェムと白い服の娘」「最後のお話」が、どこか神秘的で風変わりな旅の人・レノルズさんによって語られていく。その間に季節は巡って、ベッキーがレノルズさんに出会った夏の終わりから、秋、寒い冬、そしてキンポウゲの咲く春へと移り変わっていくのだった。

 『幽霊の恋人たち』と言っても必ずしも幽霊同士や人間と幽霊の恋の話と言うわけではない(原題は"Summer's End --Stories of  Ghostly Lovers")。
 「こわいもの知らずの少女」は、何事にもきっちりしている母親が、死んだあとも家の切り盛りが気がかりで姿を現す話。少女プリスが上手にこれを取り仕切って,、しまいにその息子ジョージと結婚する。なき母はそこまで意図していたのかどうか?
 「タム・リン」は昔「丘の人」に捕らわれた人間であるタム・リンを彼の言葉を信じて取り返すジャネットの話。これはストレートな話。
 「チェリー」は少女チェリーが不思議な紳士「グッドマン」さんに雇われ、グッドマンさんはチェリーに好意を抱いたらしいが、チェリーが骨董部屋で不思議な出来事を目撃したことから彼はチェリーを解雇しなくてはならなくなった。この名は妖精を妖精と呼ばず「よき人々」とか「丘の人」「あの人たち」などと遠回しに呼ぶ習慣から。
 「ウィリアムの幽霊」はちょっと滑稽な話。二人の仲良し青年が一人の娘に恋し、めでたく婚約したほうのウィリアムは、しかし結婚前に亡くなってしまう。ウィリアムはその娘マーガレットを親友ジョンに託して行くのだが、マーガレットはウィリアムの墓で彼を偲ぶばかり。ウィリアムはもう幽霊になって出てきたくはないのに、婚約指輪をはめているばかりにマーガレットが彼を思い出すたびに姿を現さなくてはならないのだ。ウィリアムの窮状をジョンはどう助けるか?
 「野ウサギと森の番人」「泉をまもるもの」は、鼻っ柱の強いルーシーが、変わり者の森番と結婚するが、夫の言いつけを守ろうとしないために森の古い魔物の攻撃を受けそうになり、しまいには赤ん坊を川の精霊に取られそうになってしまう。古い魔物の力がはっきりとではなく、しかしすぐそばまで迫ってくるのでかなり怖い。が、ルーシーがそれに怯えてしまうでもなく、どこまでも自分のやり方を通してしまうあたりが古い形のお話と一線を画している。
 「ジェムと白い服の娘」は幻の娘に魅入られてしまった若者という話なのだが、若者ジェムは意外に簡単に娘セアラの言いつけを守ったのでめでたくセアラの魔法は解けましたとさ。ラストの解決の都合良さが何だかユーモラスでさばさばしている。
 「最後のお話」は、縁結びの好きなポコックさんに雇われたのが縁でシーモアと一緒に暮らすことになったケイトの話。子供が出来てもシーモアの正体は分からないどころか、ケイトが里帰りしている間に彼は姿を消してしまう。ケイトはなんとかシーモアの居所を突き止めて知恵を働かせる。終始シーモアに対してきりっとしているケイトがベッキーそっくりだ。

 どのお話も少女たちがそれぞれきりっとしていて自分の意志で自分の行動を決めるところが共通要素だ。昔風の怪奇譚の題材を一見なぞっていながら、ちょっとひねった作りになっているところがこの作者らしい。これ以上ひねるとフェミニズム臭がきつくなりちょっとクサイ話になってしまうかも知れないが、ちょうど良いところで踏みとどまっている。ただ一読して「このお話の教訓は?」がありそうななさそうなというところが、次のベッキーの疑問を誘う点でもあり、同時にこの枠組みのやや無理(極言すれば不要)な点でもあろうかと思えた。

 最後のお話の前に、このお話はみんな自分たち姉妹のことを題材にした「予言みたいなものだったんでしょう」と問うベッキーに対して「予言なんてできるもんじゃない。未来は自分でつくっていくものさ」とレノルズさんは答える。もうひとつだけ「ちゃんと名前のある人たちがちゃんと地図に載っている場所に住んでいるお話」をしてちょうだい、とベッキーはせがみ、「自分で考えてみたらどうだい」といわれると「そのうちにね。でも、いまはあなたのお話がききたいの」と答える。もう少しだけ、子供のままでいさせて…!
 お話が終わると、若い草の萌え出た野原をこえてレノルズさんは行ってしまった。「なにもかも変わってしまうのね」とつぶやくベッキーだが、もういつまでも同じでいたいとは思わなくなった彼女は、また輝く夏が過ぎ秋が来ようとするとき、どこでどんなふうにレノルズさんに会えるのだろうか。

◆日記のコメント

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000830 『手おし車大戦争』 ジャン・メリル 講談社 (絶版)

 1976年、ニューヨークの街の道路という道路は、小さいトラック、大きいトラックで埋め尽くされて交通は大混乱の毎日だ。昔から街のそこここで商売をしている手おし車たちが、トラックの目の敵にされ、半ば公然と無理矢理どかされたり、トラックにぶつけられたり、怪我をさせられたりするようになってきてしまった。ついに堪忍袋の緒が切れた手おし車の商売人たちが、彼らに出来るささやかな方法と知恵で、トラックと、トラックを所有する大企業の親玉たちに大して反撃、いや「戦争」を始める。その方法とは?その顛末は?

 チトが親指を押しつけて回ると大砲や武器から花の弾丸が飛び出して戦争にならなくなってしまう『みどりのゆび』を思い出しつつ読んだ。
 1976年(書かれたのは1971年)のニューヨークは、こんなにのどかだったのだろうか。トラックをはじめとする交通の大渋滞が描かれているのだけれど、あまり殺伐としていなくて、どこかのどかなおとぎ話になっている。手おし車で商売をするおじさんたち、おばさんたちが主役のせいかもしれない。知恵者の手おし車王マクシ=ハンマーマンのユーモアある静かな抵抗に説得力あり。

◆日記のコメント

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000811 『針さしの物語』 メアリ・ド・モーガン 岩波少年文庫

 ド・モーガンの最初の童話集。

収録作:
「針さしの上で」「みえっぱりのラモーナ」「愛の種」「オパールの話」
「シグフリドとハンダ」「髪の木」「おもちゃのお姫さま」「炎のかなたに」
最初の4作は、針さしに乗っている留め針、めのうのブローチ、黒玉のショール・ピンが退屈しのぎに順繰りにお話をするという趣向である。以降は独立したお話となっている。

 導入の「針さしの上で」に続きブローチの語る「みえっぱりのラモーナ」は、自分の美しさばかりを愛でたラモーナが彼女に思いを寄せるエリックに冷たいのを見て、水の精たちが彼女の水に映る影を取ってしまい、しまいにラモーナは自分の非を悟り戦争で片腕となったエリックと結ばれる。
 ショール・ピンの話「愛の種」はブランシュリスとザイールの二人の美しい少女が、それぞれ魔法のろうそくによい願い、よこしまな願いをして、愛の種を得たブランシュリスがザイールの毒蛇に苦しめられる。ブランシュリスが愛の妖精からもらった種から育てた大事なバラを、ザイールの毒蛇が枯らしてしまい、王様の愛を失ったブランシュリスは解決法を求めて愛の妖精を捜す。バラの刺を自らの心臓に突き立てた彼女は王様の愛を取り戻すが、結局そのまま死んでしまう。
 留め針の語る「オパールの話」は日光の少年と月光の少女が叶わぬ恋をし、石のうろに束の間隠れたため、定めに従い彼らが消えたあとで石が彼らの光と色によってオパールになったという話。優しいナイチンゲールが彼らの物語を歌い続ける。

 靴屋の息子シグフリドが魔法で地下に閉じ込められた幼なじみのハンダたちを助け出す「シグフリドとハンダ」。グリムを思い起こさせる。シグフリドのお父さんに靴を作ってもらっていた村のものたちは、新顔の靴売りのおじいさん(正体は地霊)の靴を、安くてすぐ壊れるのに「ただあたらしいというだけで」買うようになってしまった、というあたりが時代を反映している。
 ワシの願いを拒んだが為に国一番の美しい髪をすっかり失ったお妃。まずしいルパートがお妃の夢に出てきた髪の木の種をさがしにゆく「髪の木」。ルパートが途中で得るジルバルの実がとても魅力的で、彼の海の旅自体素晴らしい。お妃がすっかりハゲになってしまう、と言う発想が愉快。しまいに国中の女性が坊主頭にさせられそうになる。
 ひどく礼儀正しい国に生まれた明るい王女ウルスラが、大きくなるまで彼女そっくりのおとなしいお人形に取り替えられるが、王様始め皆、成長した本物のウルスラより礼儀正しくおとなしいおもちゃの王女の方を選び、彼女はそんな宮廷よりそれまで育った海辺でよい伴侶を得て幸せに暮らす「おもちゃのお姫さま」
 病気のジャックが、水の国の王子と火の国の王女の叶わぬ恋に力を貸して北極に旅して知恵を授かり、結果彼らの恋が成就したので、一年後彼の病気がすっかり治ったという「炎のかなたに」

 短いながらどれも美しく、しかも遙かな世界に行ってきたという気分を大いに感じさせてくれる豊かで素敵な物語集であった。個人的には訳文に違和感が残る。
 挿し絵は作者の兄のウィリアム・ド・モーガン。

 ◆読了時のコメント

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000810 『フィオリモンド姫の首かざり』 メアリ・ド・モーガン 岩波少年文庫


収録作:
「フィオリモンド姫の首かざり」「さすらいのアラスモン」「ジョアン姫のハート」
「行商人の荷物」「不幸のパン」「三人のりこうな王さま」「賢い姫君」の7篇。

 いかにも昔風のおとぎばなしらしい体裁の掌編集である。

 美しく邪悪なフィオリモンド姫が、求婚者たちを次々に魔法で宝石に変えてしまう「フィオリモンド姫の首かざり」、荒涼とした村にかけられた小鬼の呪いを解いたがために黄金の竪琴に変えられてしまった妻を捜し続ける「さすらいのアラスモン」、黄色い妖婆の呪いでとられてしまったジョアン姫のハートを隣国のマイケル王子が取り返す「ジョアン姫のハート」、金貨を巡るぐるぐる話の「行商人の荷物」、小鬼がかまどの番をするようになったばかりに、食べた人が皆不幸になる「不幸のパン」、順繰りに王座についた三人の若者が国事がいやでそれぞれ鵞鳥番、鋳掛け屋、煙突掃除になって満足する「三人のりこうな王さま」、物知りの姫がただひとつ「たのしい」と言うことを知りたくてついには「死」にそれを教えてもらう「賢い姫君」

 いずれも時の流れに置き忘れられた「おはなし」の息吹が溢れたものであるが、それとて成立した年代の影響を逃れるものではない。
 妻(である黄金の竪琴)をそれと知らずに抱きつつ長い年月捜して年老いるまでさすらい続ける竪琴弾きアラスモンの物語からは、竪琴や力ある歌、音楽と言うモチーフから、やや神話的なイメージを喚起される。
 ピンク色の羽で羽ばたく鳥のようなジョアン姫のハートを巡る物語は、のちのファージョンをも連想させる。ひたすらジョアン姫にのぼせる気のいいマイケル王子が好きだ。
 「三人のりこうな王さま」は、「のらくらもの」の系譜にも連なる前王の三人の甥っ子が、ぜいたくな暮らしよりあるいは寝て暮らし、技術を磨き、すすだらけになって働くことを選ぶあたりに、時代の投影を感じる。お側のもの達が、最後には三人をあきらめてほかの王さまをさがすことにする終わり方が良い。
 最終話はどこかアンデルセン風であり、ここにも近代性を感じる。
 
 これらの物語を美しく飾るのは、ラファエル前派の画家ウォルター・クレインの挿し絵で、お話の中身と綯い合わさり、物語の額縁として格調高い雰囲気を生み出している。

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000724 『いたずらロバート』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ ほるぷ出版

 ヘザーは、ナショナルトラストが管理するメイン館の管理人の娘である。ある退屈な日、観光客を避けて落ち着き場所を探しているうちに行く先を失い、つい逃げ込んだところは、いたずらロバートが埋められているかもしれない、という館の敷地のはずれの築山だった。何百年もまえに魔法を使ったために処刑されたといういたずらロバートは、ときどき姿を現すという言い伝えがあったが、何のことはない、ヘザーのお父さんが調べたところその築山はただの氷室だという。物事がうまく行かないのにかんしゃくを起こしかけたヘザーが築山の上で「いたずらロバート、本当にこの下にいてくれればいいのに!」と叫んだとき、「だれか、呼んだかい?」と姿を現したのは、350年前に築山に閉じ込められたあのいたずらロバートその人だった!

 すっかり様変わりした館をめぐっては、ぶしつけな観光客や高校生たちを他愛のない魔法で翻弄するいたずらロバート。肖像の間でのロバートの魔法は、絵の中の人物を絵の外に出して喧嘩させる、と言うものだが、これは『魔女集会通り26番地』で、教会のステンドグラスの人物たちが大騒ぎを始めるのとそっくりで、実に愉快だ。このほかお得意の楽しいどたばた魔法が一杯。
 また明日も話しかけてくれるかい、とヘザーに念を押したロバートは、日没と共に魔法が切れて築山に戻らなくてはならない定めだ。今日のヘザーは彼を塔に残したまま別れなくてはならなかったけれど、彼の一生懸命な頼みを思い出して、また明日彼の名を呼ぼうと思う。つるべ落としの夕日のように、ばたばたとあわただしく名残り惜しいまま話が終わってしまうので、もう一日分くらい話が続いたらよかったのに、と残念に思った。挿し絵もよくマッチしていて、ユーモアある小品ながらロバートにちょっとほろっとさせられもする佳作。

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000724 『魔女集会通り26番地』 ディアナ・W・ジョーンズ 偕成社

 魔女集会通り26番地に住むグウェンダリンとキャットの姉弟は、不慮の事故で両親を失ったが、魔法使いや妖術師、占い師たちが商売をしているこの通りで、魔女のシャープさんに引き取られて暮らしている。グウェンダリンはまだ少女ながら強い力を発揮する魔女になりそうだと自分でも自覚していて、世界を征服しようとひそかに野心を燃やしている。ある時姉弟は、両親が残した手紙がきっかけで、クレストマンシーという名の謎の人物に引き取られ、クレストマンシー城で彼のおかしな「家族」と暮らすこととなる。案に相違して魔法を使うことを禁じられたグウェンダリンは、次第に癇癪を募らせて、言いつけを聞くどころかどんどん自分のとんでもない魔法の力を見せつけるようになって行くが、魔法の力をひとかけらも持たないキャットは彼女をどうすることもできない。彼女の悪さがエスカレートしたある朝、グウェンダリンは消え、代わりに彼女そっくりな少女ジャネットが途方のくれた姿でキャットの前に姿を現したのだ。
 9本のブックマッチはいったい何?キャットが練習していたヴァイオリンがグウェンダリンの魔法でバヨリンと言う名の猫に変身してしまうが、バヨリンの行方は?クレストマンシーとは大魔法使いなのか、それとも…?

 ここは当たり前のように魔法が商売になっている世界。様々な魔法のための材料が売られているが、中でも力のある、ドラゴンの血は高価だ。
 じつはこの世界は一種の並行宇宙で、魔法によってそれらの世界を行き来できるらしい。だからグウェンダリンはそっくりさんのジャネットと入れ替われるが、なぜかキャットはそれができないのであった!

 グウェンダリンの傍若無人ぶりがものすごく、しかもそのエスカレートぶりは痛快と言えるほどだ。彼女が怒ってかんしゃくを起こすところと言ったら!それに引き替え、弟のキャットはこれと言った取り柄もなく、習い始めたヴァイオリンすら、あまりの音のすごさに回りのひんしゅくを買う始末である。姉の言いなりになっているようなうだつの上がらない弟のボンヤリぶりが好対照である。これ以上は何を言ってもネタバレになってしまうのでやめておくが(ううう、その仕掛けと言ったら)、実は猫本でもあるということを言っておこう。彼女の他の作品同様、垣間見えるもうひとつの世界が、話の舞台となっているこの世界の奇妙さを次第に感じさせて行く。
 たくさんの面白そうな作品を書いているのに、日本語訳があまりないのはもったいない。ファンも多いはずなので、ぜひ他の作品が訳されることを希望する。

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000721 『遙かよりくる飛行船』 井辻朱美 理論社

 新大陸のプリオシン市の高層ビルではたらくアスナは、北海に浮かぶ古い島ハイブラセイルの古い家系の娘だ。彼女は、飛行船がビルの間の空にみえる日には何かが起こるような気がしている。
 ある日、ビルの下の地層を調べにやってきた学者、ネヴィルは、飛行船は空中生物であり、この時代の気層の示準化石となるだろう、と言う。彼はアスナが白いハンカチを振るとどこからともなく現れるし、彼と「銀河通信亭」で会うと、天井に描かれた銀河は本物となって流れ出す。ネヴィルは自分でほのめかすように、月の裏側のもうひとつの夢の地球からやってきた宇宙人なのか、それとも大昔に絶滅した羽根のある恐竜、アンハングエラなのか?
 アスナの会社は、プリオシン市の埋め立て地に作られるテーマパークに出資することとなるが、計画に携わったアスナたちは、不思議な少女ハルビカに出会い、命を脅かされそうにすらなる。建物の隙間から生えてくる真っ赤なゼラニウムの鉢、流砂のように足を奪う泥。新しい地層と古い地層が褶曲し入れ替わるプリオシン市で、彼らにあたらしい気層が降り積もる。
 外部の人間ながらハイブラセイルの人間となろうとするボーイフレンド・ハリーと、いつかは結婚して古い島の女として暮らして行く、と漠然と考えていたアスナであったが、次第に彼女のうちそとで新しいものと古いものとの地殻変動が起こって行く。

 あらすじを書き出してしまうと、この様々な要素が満ちあふれた物語の纏う夢や空気がすべてはぎ取られてしまい、ほとんど無意味になってしまう。一方作者があとがきで語るように確かに幸福な恋愛小説であることにはまちがいなく、時折秘密のキイワードのように空に現れる銀色の飛行船が、物語の空を彼女の夢の象徴のようにきらめいて通り過ぎる。

 作者がずっと心のなかに貯めてきた宝や、謎や、夢や、絶望などなどの、様々なほんとうに素直なものたちが「きもちよく」書けて一つの形あるものとして「決着」が付いた、そんな作品だ。
 中盤の山場で寄り添ってくる飛行船は涙が出るほどいとおしい。ハリー、ネヴィル、ダリルらの登場人物もみな魅力的だ。「銀河通信亭」でネヴィルとその相棒フィニストが見せる夢の地球のシーンは、読んでいる私自身の外界の事物の重さや意味がすべて無意味になってしまう心地がして、無限に続くかと思われた。
 今でも飛行船を見るといつまでも見飽きることを知らない私にとって、この作品はまさにツボのツボと言える物語なのであった。
 そして井辻朱美の身上である、澄んだ空の向こうへと吹き渡る風のような透明感と開放感を、最初のページからずっと心ゆくまで堪能した事も付け加えておこう。

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000711 『精霊の木』 上橋菜穂子 偕成社

 主人公リシアとシンの住むナイラ星の先住民ロシュナールは、もともと別な世界の住民だった。その世界で、彼等にとってなくてはならない「精霊の木」が、枯れ果ててしまう事態になってしまった。精霊たちは、精霊の木が生き延びられる別な世界=ナイラ星に道を開く。精霊の木の種を託されたロシュナールの移民は新しい世界で種を蒔き精霊の木を守り育てるが、唯一の大きな問題点は、ふたたび精霊の道が開くまで10年待たねばならないこと、【以下1行あまりネタバレ伏せ字】しかも、ロシュナールのふるさとの世界とナイラ星の時間の流れの速さが異なっているため、ふるさとの10年はナイラ星の957年にも相当するということなのであった。移民達はけた外れに長い時間を、何代にもわたってふるさとの民のため、精霊の木を守り続けてきた。

 一方地球人類は、環境破壊のために母星地球を捨てざるを得なくなり、それでもなお鉱物資源を求めて新しい星を食い尽くし続けた。そんな星の一つがナイラ星だった。ドーム都市に住み、睡眠さえ完全睡眠装置に頼る彼等だったが、少女リシアは睡眠装置を外して眠り、不思議な夢を見始める。そして少しずつ、その夢が物語るもの、自分の背負う歴史を知り、自分自身が何であるかを理解し始める。しかしそのころ、先住民を保護の名の下に抑圧し滅ぼそうとしてきた環境調整局の黒い手がリシア達に延びてくるのであった。

 ロシュナールの世界と、その移民の世界(ナイラ星)の【以下ネタバレ伏せ字】時間の流れを異なったものとする、という設定のために物語はSF仕立てになってはいるが、その実まったくSFではない。SF的ガジェットも稚拙なら、精霊の民ロシュナールもあまりにも類型的ないわゆる原始的な姿に描かれていて気恥ずかしくなるほどである。けれども、作者が描こうとしているもの自体はとても魅力があり、リシアが夢で過去に遡る能力を持つ(アガー・トゥー・ナール)こと、黄昏の民ロシュナールが開く「精霊の道」(リンガラー・カグ)の光景、地底の湖で「精霊の木」(リンガラー・ホウ)に咲く白い花などのイメージは独特で美しい。
 今の自分というものが過去の長い時間を背負っているという意識は、先に読んだ「守人3部作」でも顕著だが、すでにこの処女作でもそれが大きなテーマとして現れている。作者は後書きで環境破壊、異文化に対する理解などの問題が自分にとって大きな問題だと言っているが、この時点では上のような意識についてはまだはっきりと自覚していなかったのではないだろうか。それが次第に作者の中で発酵し、ふくらみ、育ち、あるいは語り直され、変奏曲として繰り返されて守人3部作になっていったのだろう事が(今だから)感じられる。
 とはいえ、【以下ネタバレ伏せ字】それぞれの時間経過に大きなずれのあるナイラ星と元々のロシュナールの世界を「精霊の道」でつなぐという設定には大きな魅力があるので、本としての分量(おそらくジュブナイル本としての体裁を保つためにかなり端折ったのではないか)や対象年齢を気にすることなく、この設定(に近いもの)を生かして、もっと作者が書きたいように書いて欲しかった、あるいはいまからでも語り直してほしいと切実に思う。『夢の守人』が最も直接的なその語り直しの一つであることも明らかではあるが…。

 次の作品である『月の森に、カミよ眠れ』はこれを書いている時点では未読だが、この処女作と守人シリーズを繋ぐミッシング・リンクなのではないかと、いまから楽しみである。

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000629 『夢の守人』 上橋菜穂子 偕成社

『精霊の守人』、『闇の守人』につづく三作目。

 52年前、ひとりの年老いた歌い手ローセッタがいましもその命を終えようとするとき、かれは胸の中に抱いてきた花の種を、昔見た新ヨゴ王国の山々に囲まれた美しい湖で芽吹かせようと決めた。彼の魂は花の種を湖に運び、息絶える最後の瞬間、<花の種が芽吹く夢>を見、その時湖の底に<花>の世界が生まれた。花が人の<夢>によって受粉するまで、<花番>はその世界を大事に守る。

 年月が経ち、湖の底の花の世界でついに花が開き受粉しようとするときが来た。折しも新ヨゴ王国では、短槍使いバルサの幼なじみで薬草使いのタンダの姪っ子カヤが、眠ったまま目覚めないという不思議な症状を呈していた。同じ頃宮殿では、先の皇太子を亡くした一ノ妃も同じく眠ったきりになっていた。タンダの師・トロガイは自分の若い頃のある体験から、これは人の夢によって育ち受粉する<花>の開花が近づいたためではないかと推察する。

 一方バルサは山の中でガルシンバ<奴隷狩人>に追われる男を助けるが、追われるのもなるほど、彼は木霊に愛されて長寿を得た不老長寿の歌い手「木霊の想い人」だったのである。
 彼はたまたまこの時までに、一ノ妃にもカヤにも、夢が叶うほどの力を持つ歌を歌って聞かせていた。宮殿で「木霊の想い人」が歌うのを聞いていた皇太子チャグムは、ゆくゆくは皇帝になるという自らの定めを納得しきれずに毎日を過ごしていたが、ある日彼も眠りから覚めなくなってしまう。

 カヤを眠りから呼び戻そうと「魂呼ばい」を試みたタンダは、逆にカヤを捉えていた花の力の虜となって鬼のような怪物<花守り>に変身させられてしまうのであった。

 人はそれぞれ何を夢見て生きているのだろうか。それはしばしば、美しく快いが、負のベクトルを持ったものでもあり得る。<花>は<花>自体の理由で人の美しい夢を糧に育ち、受粉するが、それがある一つの強い負の力をもつ夢にからめ取られたとき、<花>も人間の意志に支配されるものとなってしまうのだ。

 一ノ妃も、トロガイも、自分自身の「名前」(=意志あるいはアイデンティティ、自分自身のあり方)を取り戻したときに、自分の本当の夢の意味を知る。迷えるチャグムもまたしかりである。
 人の、負へ向かう方向性はいったいどこからこれほどのエネルギーを得るのだろうか。考えれば考えるほど深く不可思議に思える。

 この物語もときを同じくして読んだ井辻朱美『トヴィウスの森の物語』『幽霊屋敷のコトン』と同様、水と樹と血の物語であると感じた。現実世界と異界の境界としての水、生命のそのものである樹木(植物)、生物学的のみならず精神的な繋がりをも表す血(血縁、愛情、憎悪…)、非常に深く神秘的なモチーフだ。

 前2作でも感じたように、この作でも登場人物の誰もが、同じテーマのもとにそれぞれ主人公であり得る。次のように言う星読みのシュガもまたひとりの夢の守人。

すぐに役だたないものが、むだなものとはかぎらない。むしろ、いつ役にたつかわからないものを追いつづけ、考えつづけるという、人の、このふしぎな衝動こそ、いつか新しいものをみつける力になるのだろう。
(…わたしにとっては、これこそが夢だな。)

 花が主要なモチーフだけに、めくるめくような場面が数多くあり、芳しい香りに包まれる心地がするが、また、年老いたトロガイが夢の息子を送り出す場面も美しく心に残った。

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000626 『幽霊屋敷のコトン』 井辻朱美 講談社X文庫whiteheart

 先祖から譲られたアーカンソウ屋敷、別名「幽霊屋敷」の若い管理人、ミリーことコトンは、水の夢を見ては目覚めの岸辺に浮かび上がる。頼りなげで綿花のような印象の彼女は、幽霊の住むアーカンソー屋敷で静かに暮らしている。現実離れした生活、と言ってもいいかも知れない。雨の日に連れ歩く黒い鳥のチェルシーは、人から見るとただのこうもり傘だし、陶器の兎・モプシーは鼻を鳴らしてしゃべるし、普段のおしゃべりの相手は友人のモモのほかはもっぱら先祖の幽霊たちだ。世界を放浪して歩いた、詩の好きなヨールキップ(スナフキンを思い出す)、海に暮らしたドナン、優しい姉さまロザロップ、影しか見えない古い幽霊たち。

 あるとき新聞記者のハートランドがこの幽霊屋敷を取材に来て、屋敷のことが新聞記事となった。まもなく記事を見て占い師デオン女史が訪ねてきて、コトンはこの屋敷に運をすっかり吸い取られている、と言う。コトンは若いのだし、未来がある、幽霊達の力が不必要にリークしないように屋敷の良くないところをきちんとすることができる、と助力を申し出る。一方コトンはハートランドに好感を抱き始め、友だちの働く百貨店で自らも働くようになり、幽霊達と距離を置くのも大切だわ、と思い始める。デオン女史が次々と屋敷の修繕やお祓いを始めると屋敷から水たまりや湿っぽさがなくなって行くが、それと同時に親しい幽霊達も次第に影が薄くなって行くようなのだ…。

 水のイメージが文字通り溢れている不思議な愛らしい物語だ。『トヴィウスの森の物語』とほぼ同時期に書かれたきょうだいのような作品だ、と言う。どちらも水と血と樹木がモチーフだ、と作者自らが語っている。ちょうどこの梅雨の時期そのままのような湿っぽい雰囲気が一杯。ストーリーは単純で、どこかあやしいデオン女史はやっぱり最後まで怪しいのだけれど、ストーリーそのものよりも幽霊達の集う書庫やほの暗い屋根裏や、湿っぽく虹の立つ水たまり、そして渦を巻くぬかるみなど細部の描写が印象的だ。
 このぬかるみのような底のないモチーフにかけては女性作家は男性にくらべ圧倒的に上手なのだろうか。全体にほわーんとした優しい雰囲気の物語なのに、底なしのぬかるみは真剣に想像するとかなり怖ろしい。この渦巻くぬかるみは『トヴィウス〜』の中に出てくる城から森の中につながる泉(その中に螺旋の男が潜む)の別バージョンか。しかし井辻朱美の筆致はなぜかその怖さを増すことはなく、ほのぼのハッピーエンドで終わる。ただし渦巻きは屋敷に内在したまま、幽霊達もコトンも、これと何事もなく共存していく。こんなところが女性らしさではないか。
 占い師のデオンと言う名は何かに似ているようだ。
 ひたすら水っぽい中に、大柄で暖かいハートランドの大きな乾いた手が印象的。

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000619 『エルガーノの歌』 井辻朱美 ハヤカワ文庫FT

 ナルニア物語の最終巻のラスト近くにこんな一節がある(手許にないので大意)。

 あんたがたがナルニアが好きだったとしたら、それはあんたがたの知っているナルニアが、まことのナルニアにほんのちょっぴり似ていたからだ。

 とかくキリスト教的教条主義が鼻につくと言われがちなナルニア物語だが、小学校の終わりから中学生にかけて、すっかり没入するように読んだ私は、ナルニアの世界そのものを存分に味わい、楽しんだ。このくだりを読んだとき、この一文が、なぜ自分がこの世界がこんなにも好きかを的確に表しているのを感じ取り、以来、好きなもの・心惹かれるもの・あこがれるもの・美しいものなどに大きく心を動かされるときにはこのくだりを心のどこかで反芻しているように思える。

 井辻朱美の作品は、この短篇集のあとがきで作者自らも次のように語っているが、私にとってはいわば「まことのナルニア」をかいま見せてくれるタイプの作品だ。

 もちろんトールキンやC・S・ルイスやマクドナルドも好きですけれど、それは彼等をオリジナルとして好きというよりも、わたしの好きな世界を再現してくれた、ひとつのヴァリエーションとして好きなような気がします。
 わたしのほんとうにひかれるものは、もとの叙事詩や伝説に漂う古い時代の匂い、香り、響きといったようなものかも知れません。

 それは3作目の「イスファタル」に見られるように、彼の求め続けてきた世界はこの世にはなく、魔物によってかれが「ほんとうに属していた世界」を見、そこに住まうようになった、というところにも端的に表れされている。このような意識が常に感じられるので、私は井辻朱美の作品(いくつか目にした短歌作品も含めて)に大きな共感と喜びを覚えずにはいられない。

 登場する神々は、怖ろしい振り仰ぐような神ではなく、ただ人の世とは違った理に支配されているだけ。物語では人が神に影響されるのみならず、しばしば神が人に足を取られてしまう。(このようなときの神々のまなざしに、大島弓子『綿の国星』でちび猫を見るラフィエルのまなざしを重ねてしまうのは余計な連想か)

 どの作品も捨てがたいが、しいて挙げるとすれば「イスファタル」「黄金の髪のロムセイ」「ファラオの娘」、そして「エルガーノの歌」が心に残る。
 中でも「エルガーノの歌」は、ご自身でもヴァイオリンを能くされるという作者だけに、影の女神に出会ったが為に騎士から竪琴弾きに身をやつしたエルガーノとその音楽が見事に描かれていて、白眉。序曲、6曲の掌編と間奏曲、終曲から構成されているが、どれと言い難い8編の中でも間奏曲と終曲の美しさと遙けさは群を抜いている。

 
収録作品:
「魔界の花」「北の娘」「イスファタル」「谷の女神」「雲」「海の王子」「イシルハーンの賭け」「北方の太陽」「魔物の贈り物」「黄金の髪のロムセイ」「赤い石」「ファラオの娘」「エルガーノの歌」

 カバー、挿し絵ともに三月由布子。現在の妹尾ゆふ子であることは、カバー絵の竪琴を持つ金髪の青年の目つき・口元や指の線で一目瞭然。

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000615 『はじまりの骨の物語』 五代ゆう 富士見ファンタジア文庫

 北の魔物の地、ヨトゥンヘイムから<冬>が侵攻して幾とせ、季節は雪と氷の中に失われ、<冬>の勢力は日に日に増す一方だ。
 <冬>と戦う軍勢の中にあって、美貌の魔術師アルムリックとともに果敢に戦う赤毛の女性ゼルダは、魔術師には<焔の華>と呼ばれ、剣の技のみならず炎の魔法に抜きんでていた。自らの出自も知らず幼いときからアルムリックに育てられ、長じてからは彼の情人として過ごしてきたゼルダは、<冬>との戦いの最中に、彼女のすべてであったアルムリックの手ひどい裏切りに会い、彼への復讐を決意する。
 年若い王子ケティルと出会った彼女はその生まれながらの王者としての資質に感嘆し、彼に保護者としての愛情を抱き始める。一方彼女を「嫁」と思い定めるスヴェンがゼルダの良き道連れとなって彼等の<冬>との戦い、アルムリック探求行が続く。

 ゼルダといえば無条件に『雪の女王』(アンデルセン)、というわけで、巻頭間もなく出てくるのは雪の女王である。この名前からの連想で<焔の華>と<氷の華>の伏線はすぐに割れるが、だからといってマイナスポイントにはならず、物語全体が北欧神話に題材を取りそれを生かしながらもまた別の美しい歌となっているのと併せて、作者の秘めた力量を感じさせる。
 中盤以降、ゼルダがグラズヘイムで過ごすあたりは、最近の妹尾ゆふ子『魔法の庭』を想起する。私はこのあたりから後の展開が好きだ。
 ゼルダの絶望と共にアルムリックの真の姿が明かされ、ゼルダが時間の閉じた輪を開くくだりは、ほとんどSFだと思った。時間の螺旋を見ることが出来るのは時間からはずれたものだけ、というところは、時空間(4次元)に生きる我々が「時間」を見るには5次元的存在にならなくてはならないというSF的解釈とイコールなのだ。
 また作者自身もあとがきで言っているように、ゼルダを愛したスヴェンの行く末だけが心残りである。願わくば麗しの地で良き王者とならんことを。

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000514 『鬼の橋』 伊藤 遊 福音館書店
(A Bridge to the Other World)

 814年(弘仁5年)の夏、暦はもう秋だがまだまだ夏の暑さが居座っている京の都。12歳の小野篁(おののたかむら)は、五条橋を渡る時に欄干をけりつけて、一人のみすぼらしい少女に非難される。彼は梅雨の頃、鴨川の向こうの荒れ果てた寺で2歳下の異母妹と隠れ鬼をしている最中、事故で彼女を失ってしまったのだ。妹の死に責任感を拭えず、屈託した心を持って再び訪ねた荒れ寺で、事故現場の古井戸をのぞき込んだ篁の魂は井戸に引き込まれ、気がつくと石ころだらけの河原に立っている自分を発見する。
 
 冥界の川に架かる橋の上で牛鬼、馬鬼に喰われそうになる篁を助けたのは、3年前に亡くなった坂上田村麻呂である。勲し高い武人であった彼は「死後も都を守れ」と命を帯び、立ちながらに葬られたのであった。未だ死すべき運命にない篁は、田村麻呂によって現世に追い返される。

 篁がさきに五条橋で出会った少女、阿子名(あこな)は五条橋の建設に関わった父をなくしたみなしごだが、ある大水の日に橋の危機を救った大男・非天丸(ひてんまる)と父娘のように暮らし始める。しかしその非天丸(じつは田村麻呂に片方のツノを折り取られた鬼)を、冥界からやってきた別な鬼が狙っている…。

 妹を死なせたのは自分の心の中にいる鬼のせいではないか、と思う篁は、父が勧める元服を素直に受け入れることが出来ず、このまま子供でいられたら…と願う。いっぽう鬼の性質を残した非天丸と身を寄せ合って暮らしている小さな阿子名に、篁は自分よりずっと大人びたものを感じる。苦しみぬきながら次第に鬼らしさを捨て、代わりに人間らしさを獲得して行く非天丸との語らいを通し、あるいは決して橋を渡ってあの世での安らぎを得ることの出来ない田村麻呂の悲哀を目の当たりにし、篁の心は次第に妹を亡くした日を離れて明日を考えることが出来るようになって行く。また自分とは理解し合えないと思われた父の苦悩を垣間見、成長へのステップを自ら踏み出す決意を固める。

 鬼の本質は何か、と常に問題提起している一方、兄と妹、父と娘、父と息子、母と息子、夫と妻、さらには友人同士などのさまざまな人間関係を端的に考えさせる。いかにも男の子が書いた、男の子の物語だと感じた。
 足を前に踏み出したくない篁、いつも見ているだけで何の役にも立たない篁、しまいに病に逃げ込んでしまいもする篁は、いわゆるモラトリアム状態そのものだ。負の方向に逃げ込もうとする篁を陽光のもとに押し戻そうとする田村麻呂は、冥界での父役である。また鬼である自分を隠そうとせずひたすら精一杯の自分であり続けようとする非天丸は篁にとって無言の手本である。母の中にすら鬼を見た篁は、「比右子(妹の名)とわたしは隠れ鬼をしていた。あのとき、わたしが鬼だった。鬼は、わたしだったのです」とはっきり名乗ることと、幼いながらに非天丸に対してまるで慈母のような姿の阿子名を見ることで、その母の心の中の鬼をも受け入れることが出来たのであろう。 このように篁の乱れた心をきちんと受け止める場を作ることで読者は安心し、しかも物語全体の安定度が高いものになっている。
 この心の中の鬼については理屈っぽく語らず、常に具体的な鬼の姿にからめて描かれているので、観念的な説教調に陥ることがない。

 先にも挙げたが、静かな場面ながらいちばん心を打たれたのは、非天丸が憎しみからなるその鬼のツノを折り取られた顛末を語り、さらに阿子名と初めて会ったときに彼女を「うまそうだと、思ったさ」と淡々と語る場面である。また、田村麻呂が橋を渡ってあの世に行く友人・俊継を見送るのみで自分はけっして橋を渡れずにがっくりと膝をついたきりになる場面も非情である。

 各章ごとに季節の移ろいが端的に美しく描かれている所も好ましいし、物語に必要以上のひねりが加えられることなくストレートでありながら単純でないことに作者の力量を感じた。
 篁がのちに冥界と行き来して「閻魔大王の右腕として働いた」という伝説を生んだ、その端緒としてうまく物語を構成している点も納得できる。

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000222 『月の石』 トールモー・ハウゲン WAVE出版

 月の神殿の若い巫女エリアムは、月鏡湖に映る月の影を読もうとして、湖に月影がまったく映らないのを見た。月の力が弱まってしまったのだ。七日のうちにこれを救わねばならないのだと大巫女たちは言う。そうしてエリアムは自らが秘めている力に気付かされる。

 これと同時に、遠いオスロに住むフロリンダやその曾孫ニコライたちは、月に照らされつつ、なにかが起きそうな予感を感じていた。
 大きな屋敷に住みながら父、母に放っておかれがちな12才のニコライは、ひとりぼっちの家の中に潜むものの気配を感じる。寒い街をおびえながら歩いているとそこでも見るはずのないものを見、聞くはずのない声を聞く。フロリンダも、遠い昔故郷ロシアに去っていった娘を思いだしては、開けた覚えのない窓や鏡の中の不思議な人影をいぶかしむ。ニコライの父母はそれぞれ、宝石にまつわる悪事に手を染めて背後に迫る手におびえている。

 一方、とらわれの男ダイ・チは天幕の中で「月の石」またの名「ロシア皇帝の宝石」にまつわる七つの物語を話すようにと強制される。月の光を浴びながら語るそれらの月の石の物語には、メキシコの部族の伝説や中国の機織り娘の伝説などばかりか、ネブカドネザル、ミノタウロス、そしてアダムとイヴまでが登場する。

 この月の力を秘めた七つの石こそが、弱まった月の力を復活させることができるのだ。エリアムたち半月宮のものたちは鏡くぐりによって月の石を求めようとする。いっぽうオスロのフロリンダ、その孫夫婦、曾孫のニコライは、現実の、あるいは非現実とも思われる正体のはっきりしないものたちに「ロシア皇帝の宝石」のありかを言うように迫られるが、彼らのうちの誰もそれを知らない…。

 モンゴルの半月宮と天幕のなかという神話・伝説に近い舞台と、まったく現代そのもののオスロの街という二つの舞台が交錯して、最後にそれらが急速に一カ所に収斂する。
 伝説の部分は、作者の創作の部分が多くふくまれて夢幻的な美しいものになっており、それだけでも読む甲斐があるくらいだ。またオスロでニコライの父母が悪事のために加速的に疑心暗鬼になってゆく有様を描く筆はオスロの冬のように寒々としている。

 これらの重層的なストーリーが最後に一挙にまとめられているが、伝説部分の面白さ、世界的な広がりが、オスロ部分の終幕で家族内の矮小な争いに収束してしまうのが残念であった。行方不明になっているフロリンダの娘イドゥンの存在も、期待した割には今ひとつ効果的でなかった。
 月の神秘の力が積極的に現れず、抽象的な雰囲気で描かれるにとどまっているところも食いたりなさを感じる。
 とはいえ、その、雰囲気自体の描き出し方は尋常ではない。家から逃れて街をさまようニコライや、祖母フロリンダの心理描写も、直接的でなく寒さ、がらんとした家、窓から吹き込む風、などに託してなされており卓越した筆さばきである。全体の構成と言うよりも、各部分の魅力が勝っていると感じた。

★追記:結局ニコライはこの事件を通して「成長」し、曾祖母との生活を選び取る。また半月宮のエリアムはふたたび鏡を通ってモンゴルへ戻って行く。ニコライらにもたらされた結末は、月というものから想像されるひもの語りの広がりから見れば矮小な幸福であるかも知れないが、現代という月の魔力が薄れている時代においては、「現代人」にもたらされる解決はこの程度のものなのかも知れない。一方、神話的世界に生きるエリアムは、驚くべきことに、時代を遡って生きているのではなく、ニコライと同じ現代の時間を生きており、その半月宮では、もちろん月が絶大な力を持っている。
 ニコライは個人の幸福(の入り口)を得たが、エリアムは自分に与えられた力に疑問を感じながらも月に奉仕する生活に戻って行くわけである。しかしエリアムの住む世界にも彼女に羨望と嫉妬のまなざしを送るリガのような少女たちが暮らしているわけである。また半月宮は男性側と女性側に分かれていることが示されているが、エリアムはここにもうっすらと疑問を抱いているかのように感じられる。このような世界で、いったんはオスロの街を歩いたエリアムはどのように生きて行くのだろうか。

 月の石は最終的に海に投げ込まれ、月に再び力を与える。けれどもこの後、時代が巡って再度月の力が弱まったときにこれを救うために一体何が残されているのだろうか。偉大な七つの石の力はこうして用いられてしまったというのに。そのとき、人間に夢を与えて豊かにする月の力は、本当に失われることになるのか。

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000220 『しあわせなキノコ』 寮美千子・文 伊沢正名・写真 思索社

 巻頭の祝辞。「きのこ諸君。肖像写真集の出版おめでとう。きのこは変である。奇妙キテレツな連中である。」と、きのこ人類学者はその変さを分析する。森の中の分解者である「彼らは永遠の光に満ちたもうひとつの世界の反映なのだ」と。 
 巻末の「生々流転していくものたち。永遠に思えた星でさえ、一晩で消えるきのこと同じ運命を持っている」と感慨に耽るきのこ天文学者の目に、星を見上げるパラボラは巨大な白いきのこかと見える一瞬がある。

 普段見なれない姿の、多分にキモチワルクもあるきのこたちの、しかしこれは美しい写真集である。風変わりな巻頭と巻末の辞にはさまれた彼らの肖像の数々。「聞こえる、聞こえる?」ときのこの呼びかけるコーラスについ「なあに?」と耳を傾けたら、おしまいだ。きのこたちの群、細いたくさんの足、ぬめぬめの傘、奇想天外な色と形に目を凝らしている自分に気付く。巻末の解説(ヤマドリタケの仲間)に「このふたりは、木を腐らせるのではなく」とあっても、ははぁん、そうかと自然に納得してしまう。

 彼らの肖像の美しさの理由は、光線がキノコたちを透過するような按配に写しているものが多いことや、マクロレンズによる接写にとどまらず、森や山の背景まで写し込んでいるものが多いことなどだろう。そして、写真家がキノコをアイシテルということ、そのアイシテル気持ちが、ところどころに効果的に配された文によって端的に表されていることが大きな理由だろう。

 写真の伊沢正名の共著として挙げられている『日本のきのこ』という山と渓谷社の図鑑をたまたま持っているので引っぱり出して見た。これもよく見るとかなりヘンテコである。

フキサクラシメジ:傘のはだ色と根もとの黄色が調和した美しいきのこ

のような愛情あふれる形容あり、また食用きのこに関しては具体的な解説がつく。

ホウキタケ:さっとゆでわさび醤油もよいが、カツオを真似た土佐づくりは豪華な山の幸。

ウラムラサキ:さっとゆでて三杯酢に。

シャカシメジ:まろやかな風味は、オムレツやシチュー、エスカベーシュといった洋風料理にも存分に発揮される。

 巻末には調理法に関する詳細かつ長大な表がある。きのこの図鑑なら形態、生態、毒性、食用の可・不可などの解説はあると思ったが、何と奥深いきのこの世界。しかしこれも『しあわせなキノコ』によって見る目を開かれなければ気がつかなかったであろうと思うと、寮・伊沢両氏に感謝である。

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000220 『その日暮らし』 森まゆみ・作 みすず書房

 『みすず』に連載されたエッセイがまず『寺暮らし』として出版されたが、その続編に当たるもの。

 森まゆみはまず地域雑誌『谷中根津千駄木』、略して『谷根千』の3人の編集者のひとりとしての活動を抜きにはその人を語れない。動坂に生まれて以来実際にその生活の大半を谷中根津千駄木あたりに過ごしてきた。『谷根千』がミニコミ雑誌のお手本のように取り上げられ始めた頃、必ずつけられるのが「普通の主婦が」作ったミニコミ誌という枕詞であった。「普通の主婦」というのが、朝ダンナと子供をを送り出してその隙にそそくさテニスやショッピングに出掛けると言うような人種を指し、このテニスやショッピングの代わりに「ミニコミ誌製作」という語句を当てはめたのが彼女らだと想像するのならば、それは大きな間違いである。もっともこういう枕詞のもとに彼女らを紹介した記者らの多くが、彼女らをそういう範疇のイメージに押し込んで卑小なイメージをかぶせ、彼女らの柔軟な発想に対する保身まがいをしたがったのは間違いないと思うが。

 と言う前置きはともかくとして、生まれ育ち今も生活している地域に根づき、地域という足場を持った人間としての彼女が背伸びも飾りもせず持ち前の素直な感覚で書きつづったのがこのエッセイ集である。

 彼女と私はほとんど同年代で、子供の年齢も重なっている。そして何より、彼女の住む町はその片隅に私も数年暮らしたことのある所なのである。千駄木、そして白山(現在の彼女の住まい)に私も若い頃5年あまり住んだ。親元を初めて離れてひとり暮らしを始め、そして結婚生活を始めたまち。ほんの5年とは思えないくらい、私の中に強い印象を残している地域である。今でも根津のお祭りがあるとか、あそこの何が食べたい、とかの理由で時々足を運ぶ、特別知り合いがいるわけでもないが、大げさに言えば第二の故郷のようなところなのだ。そういうわけで彼女のエッセイには人ごととは思えない共感を抱く。前作『寺暮らし』で彼女が移り住んだ、門に石の象が乗っているお寺も、毎日のようにその前を通った。花屋、本屋、旅館、なくなってしまった建物、などなど。この作で彼女が引っ越したというマンションもおよそ見当が付くので、どういう視点から彼女がこれらを書きつづったか、肌で感じられるように思い、勝手に親近感すら抱いている。

 連載のエッセイ集だから、話題は多岐にわたっている。家のこと、近所のこと、子供のこと、外国旅行のこと、取材旅行のこと、須賀敦子のこと、鴎外のこと、その他、その他。それらがすべて、自分の感覚に正直であることが好ましい。自分が、食べて、飲んで、寝て、笑いもし、泣きもする人間であるという原点からその著作がなされているという部分が、いかにもありそうで実はとても貴重なのではないかと思う。生活と仕事が文字通り渾然一体となっている、をかしくもいとしい毎日。等身大ながら、決して卑小ではない。髪振り乱しもする身の丈の生活がそのまま「社会」に繋がっているその視点と感覚が、見事である。その中から我が身にぐっと来るところを少し。

 夏休み45日、子供たちのいる毎日に11日目でお手上げの彼女は、メイ・サートンの「何をしても、しなくてもよい自由」に身を刺すような羨望を感じる。「私がいま欲しいのは原稿料じゃなくて休息だ」

 高校時代の友人は夫婦共々司法試験合格を目指し、彼女が先に合格。2年後にもうやめて、と夫には司法試験をあきらめさせ、「それで家はかろうじて壊れずにつづいている」。いっぽう自分は、同じく司法試験を目指す夫の夢を壊しきれず、「子育ても稼ぐのも家事もひとりでしょい込ん」だ。「ひとの夢をわたしは壊せない、そう思って家の方を壊してしまった日」を振り返る。

 鴎外の母と妻は不和だったので、そのことで鴎外が苦労したのは有名だそうだ。「二人は徹底的に生活相性が悪かった。たとえば早起きと寝坊、きれい好きと散らかり好き、外出好きと家にいるのが好き」そうそう、これって大事よね、と私はうなずく。「鴎外の苦労と克己心ばかりを研究者は誉めるが、私は母と妻二人のつらさを思って何度もあーあとため息をついた」これである。この人の視点の優しさ。

 また私も気になりながら一つも読まないうちに亡くなってしまった須賀敦子の人となりに関する記述もあり、その魅力からぜひにも読まなくてはと言う思いを強くさせられた。

 併せて『寺暮らし』『ひとり親走る』などのエッセイを読まれることをおすすめする。 

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000219 『マツの木の王子』 キャロル=ジェイムズ・作 フェリシモ出版

 フェリシモ出版が、復刊して欲しい本を募った結果めでたく復刊された本だという。

 森の奥の奥、マツの木ばかりが生えているその森の真ん中に、マツの木の王と王妃があった。そばに王子が生まれて喜んだのも束の間、王子の木のすぐそばにシラカバの少女の木が生えてきてしまう。マツの森のそれも王子のそばに生えたシラカバなど許すわけにいかない!と、マツたちはきこりをよんでシラカバを切ってしまうが、すでに彼女を好きになっていたマツの王子は、彼女と運命を共にする。枝を払われ材木になった二人は、やがてある老人のもとに引き取られ、その手によってそれぞれりりしい黒馬とたおやかな銀の鹿に生まれ変わる。楽しい日々の後、老人の病気の治療代を作るためにサーカスに買われた二人は、メリーゴーラウンドの馬として、楽しくも悲しい日々を送る。やがて疲れ果てた二人は、再び姿を変えて生まれた森に戻って行こうとする…。

 老人のもとで、満月の晩の魔法で命を得たたくさんの動物たちが遊び踊るそのさざめき。メリーゴーラウンドの馬になって、首に子供たちの熱心な腕の巻き付く感触の懐かしさ。しとしと雨の降るがらくた置き場に現れる魔法がかった子供たち、そしてラストの、森に向かって流れるひとすじの淡い煙。どれも、どれもはっきり見えるようでいて、どこか月の光のヴェールがかかったよう。子供たちの歓声、サーカスの音楽すらもはっきり聞こえているのに、いざ耳をすますともう聞こえない。
 同じ英国の作家、デ・ラ・メアやキップリングを想起させる、月の銀色の光に満ちた本。

 子どもの時に出会っていたらどのように私は感じただろうか。来し方を振り返る二人が森に帰るところでぐっとこみ上げるもののある今の私であった。

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000218 『精霊の守り人』 上橋菜穂子・作 二木真希子・絵 偕成社

 短槍(たんそう)の使い手バルサは、橋の上の暴れ牛車から川におとされた新ヨゴ皇国の第二皇子チャグムを助けたことから、百年に一度の大きな出来事に巻き込まれて行く。

 チャグムは水妖にとりつかれたがために父帝から命を狙われていた。用心棒を世渡りのすべとしているバルサは、彼の母后からその命を守るようにと懇願される。彼らは帝の放つ<狩人>の手を危うく逃れるが、次第にチャグムにとりついた水妖の正体が、二つの方向から明らかになってくる。一つは帝の星読みのひとり、シュガが新ヨゴ皇国の建国の正しい記録を読み解くこと。もうひとつはバルサを手助けする妖術使いのトロガイ、タンダらが、はるか昔新ヨゴ皇国建国以前からこの地に住む種族ヤクーの言い伝えを辿ること。

 この地には、目に見えるこの世界<サグ>と、別の世界<ナユグ>が重なって同時に存在しており、普通は呪術師が呪文を唱えることによってナユグの世界を垣間見ることが出来る。各章の扉に描かれているまぶたのない、ヒレを持った生き物は、ナユグの世界の「水の民」である。
 じつはチャグムにとりついた水妖とは、ナユグの精霊<水の守り手>が彼に産み付けた精霊の卵であったのだ。迫り来る大旱魃を回避するのはこの卵が無事に孵化するかどうかにかかっている。この事情を知らぬ<狩人>たちばかりか、この卵を食らおうと狙うナユグの怪物ラルンガ<卵食い>もまた<精霊の守り人>であるチャグムを追ってくることは間違いない。果たして、水の守り手の卵は、無事に生まれ出ることが出来るだろうか。

  今年30になるバルサは、まず「化粧一つしていない」と言う描写で女であることが読者に知らされる。既に小皺が見える顔ながら、強い精気を放つ黒い瞳、平民用の粗末な吊り橋をすたすたわたるきりりとしたようすに冒頭からぐっと引きつけられる。どこか日本の上代の都を思わせる一方、ナウシカ(コミックのほう)の南方の国をも想起させる舞台は魅力だ。

 個々人では抵抗しきれない大きな流れにあらがいつつも、登場人物たちは再びその流れにもどってゆく。けれども、以前と同じままではない。星読みも呪術師も遠い将来に再び間違いを犯さぬよう、確かな修正をその流れに加えて。帝の跡継ぎチャグムは「なぜ自分か」という問いと答えを持って自分の世界に戻る。戦うことが好きというバルサも自分の原点を見つめるべく旅に出る。

 二つの世界が重なり合う揺らめくイメージとともに、「自分をいやおうなしにうごかしてしまう、この大きななにか」への疑問と重圧感が全編を覆っているので、美しいと共にかなり重い世界でもある。主人公はバルサかと思えばチャグムでもあり、彼らを囲むトロガイ、タンダ、星読みたち、そして狩人たちでさえ主人公と言ってもよいくらいだ。この重さの方が世界の描写に勝っているので、せっかくの別世界のイメージがもったいないようにも思われる。直接的にこの重さを描かず、別世界の部分をもっとふくらませることが出来たのではないだろうか。
 たとえばチャグムの抱えている卵である<水の守り手>はすなわち雲の精霊なので、チャグムは精霊の夢をこんなふうに共有する。

 さまざまな命ーー(略)
 その膨大な流れのなかに、彼は身をしずめていた。
 (ああ……。)
 ため息をつくように、身のうちに流れこんだ大地の気を、息にかえてはきだすと、意識がその息にのって、ぐんぐんと水面へと上昇し、水面をつきぬけて、みるみる天にのぼっていく……。
 青い空で、息は雲となり、めくるめく高みから、チャグムは瑠璃色の川をーそれがくねりながらながれていく世界をみおろしていた。おのがからだを風がおし、風がすりぬけ、鳥がひゅうっと、心地よげにつきぬけていく。
 遠くから流れてくる雲たちととけあい、異土のにおいをかぎ、うずまき、ふくれあがり……。腹のなかで光がうまれ、稲光と雷のとどろきとともに、雨の滴となってふたたび水底へともどっていく。

 また、上の引用部分でも窺えるかも知れないが、児童文学、と言われる本を読むと、最終的に本になるときに「対象年齢」と言うものを念頭に置くことを迫られるせいか(どうか実情は知らないが)、この作品のようなちゃんとした文章であっても漢字仮名遣いにひどく違和感を感じることが多々ある。この作品ではそれがかなり気になった。一例を挙げる。

「(略)いま金をおしんで、むりに稲をつくらせたら、秋にわが国にみちるのは、ひからびた稲の死骸と、うえにくるしみながら死んでいく人びとの、うらみの声だということが、なぜ、わからぬのだ。……そのうらみが、ふかくしずかにつみかさなって、いつか国をゆるがすこともあるのだぞ。」

 金、稲、死骸にはふりがなが付いている。このほかにも「聖導師」、「膝」「短槍」「柘榴」などなど、ふりがなはついているがかなり難しい字が用いられている。
 これに対して上の引用部分のような「うえにくるしみながら」とか「そのうらみが、ふかくしずかにつみかさなって」などのひらがな表記は、とてもアンバランスに見えるのである。作者の趣味、美的感覚がこうなのだと言ってしまえばそれまでではあるが、ないようとつりあっていないようにおもえるのは私だけであろうか。

 最後になったが、二木真希子の挿し絵が非常に効果的で、切っても切れない。バルサなどは少女のように描かれてはいるが、その点を割り引いてもこの世界を脳裏に形づくるのに大きな役割を果たしていることは間違いない。

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最終更新2001.12.31 01:11:38