TEXT:001:1999/01/08

ウェブ日記にみる生命の技法


ウェブ日記を読んでいると、そのウェブ日記制作者によって、毎日少しづつ織りあげられていく精緻な織物を見ているような気になる。それぞれが独自の美しさを持つその布は、人の生命活動の長さに比例して折り機から床一面へと、漆黒の宇宙の中に美しい光の絨毯を咲かせるようにゆっくりと、だが1日1日確実に広がっていく。

折り機も、糸も、ヒトという種であるという共通点がある以上、個体によってそう隔たったものは使われてはいないと思われる。しかし、出来上がったものを手に取り鑑賞してみると、人々は、明らかにそれぞれが異なった特徴のある布を織っていることに気づく。同じ人でも日によって模様は変異していく。だが、そこには生命が活動を始めてから終わるまでの永劫を貫く共通項が間違いなく存在している。

「幸せ」、この言葉ほど人によって意味付けが違うものはないだろう。ある人は金銭的に恵まれた暮らし、ある人は家族との団らん、ある人は大きな野望の達成こそが、それにふさわしいと判断する。しかし、ぼくはウェブ日記を読み、人が自分の暮らしを自分でどう語るかを知ることで、「幸せ」の記号が指すものについての認識を改めた。「幸せ」かどうかを決定するのは、人がどういう環境に暮らすかによるのではない。幸せな人生をおくるかどうかは、糸でも、折り機でもなく、織っていく個体の技能によるのではないだろうか。ウェブ日記を読むことでぼくはそれを学習した。

生きる技能、この言葉にあてはまるものが人間に存在しているとするのなら、どのような糸が与えられようとも幸せのパターンを創っていく日々の技、その技能こそがそう呼ぶにふさわしいものだ。

幸せというのは、環境と個体との関係を述べた名前なのではなく、特定の模様の織物を織りあげることができる技能についた名前なのだ。おそらく、幸せでない人が、幸せな人が使った同じ糸や、折り機を使っても、幸せな模様を織ることはできない。

そして幸せな模様を創ることができる人は、なぜかは分からないが、数少ないように見うけられる。逆説的であるが、幸せな模様を織ることは、実際は他の模様を織るよりも多大な苦痛を伴う困難で手間のかかる作業なのかも知れない。そして私達は、幸せの模様の織物で時間を満たすことができた個体を「幸せな人間」とよび、強い憧憬の念をおくるのだ。ウェブ日記を読んでいると、そんなことを気づかされた。



bitnik.jp:桜尚航生


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