つい最近のこと、「ISOは会社のために使うんだ」と語ったら、「ISOは社会のためのはず、会社のためとは視野が狭い」といわれた。 「あなたの月給は誰からもらっているのか?」と聞かれたとき、「会社から」というのと「お客様から」というのと似たりよったりの気がする。 |
製品に問題があったとき、製造した作業者や直接の管理者に責任を負わせる企業はありえない。形だけでも経営者ご本人がマスコミや社会に頭を下げる。そして頭の下げ具合で一般市民は許す許さないを決める。
おかしなことだがそれが現実だ
審査で問題があったとき、認証機関の社長はマスコミや企業に対して頭を下げる・・のを見たことがない。それは認証機関の経営者が責任を理解していなからと言っては言いすぎかな? |
私が言いたい放題、誰にでも突っかかっているように思われる方へ
椿三十郎で奥方が「あなたは鞘のない刀のようだ」というセリフがある。私も鞘のない刀のように、当たるを幸い切りかかっているのだろうか?
ちょっと待ってくれ、
あなたは、上品に鞘に収まっている刀なのだろうか?
それともなまくら刀なのか? あるいは竹光で抜くに抜けないのか?
ISO審査の価値を上げたいなら、発言しましょう。
------------------------------------------ オバQ様曰く:「なぜ世の中に、ISO規格のおかしな解釈があり、変なISOの活動が行われ、不可解な審査があるのか?」 ------------------------------------------ 私は、ISO9001しか知りませんので9001についてのみ意見を述べます。 ISO9001は有用なマニュアルだと思います。しかしその内容は規定(ルール)であるとはとても思えません。ガイダンスでしょう。ISO9001は、組織へのガイダンスとして扱えばとてもすばらしいマニュアルです。不運なことにそれがあたかもルールであるかのように規定に格上げされ、それに基づいた審査登録制度が作られた。このことが元凶であり、認証機関、審査員は、制度にのせられたのです。認証機関、審査員に、全面的に責任があるとは言えません。 きちんとしたルールが定められており、それが正しく運用されるのであれば、審査は信頼されます。例を挙げますとプロ野球でしょう。ルールは明確です。審判員はルールにのみ従い判定を下します。審判の付加価値なんかありません。経営に役立つ審判などありません。審判によるトップインタビューなどもありません。審判は、厳格にルールのみに従って判定します。審判員の質は均一であろうと思います。他の例として記憶に新しいところでは、大分県の教員不正採用事件があります。採用のルールは明確でした。採用試験です。しかし、その運用は、政治家や教育委員会等の口入れに影響されていました。これは、ルールが明確であっても、その運用で、審査の信頼が失われた例です。 ISO9001では、ルールが明確にされていません。しかるに、”shall”でもって記述されている要求事項が、ルールとして扱われました。 実のところ、ISO9001自身、次のように述べおり、画一的な”shall”は否定しているのです。 ----------------------------------- ●「4.2.1」品質マネジメントシステムの文書化の程度は、次の理由から組織によって異なることがある。a)組織の規模及び活動の種類 b)プロセス及びそれらの相互関係の複雑さ c)要因の力量 ●「0.1」組織における品質マネジメントシステムの設計及び実現は、変化するニーズ、固有の目標、提供する製品、用いられているプロセス、組織の規模及び構造によって影響をうける。品質マネジメントの構造の均一化又は文書の画一化が、この規格の意図ではない。 ----------------------------------- このように、ISO9001では、ルールは、あって無きがごとしにされ、審査員の主観的判断に任せられてしまっています。審査員のレベルに優劣が付くのは当然です。ある場合は、顧客の意向を汲む審査員が優秀であるとされるでしょう。他の場合、認証機関の意向を汲む審査員が優秀であるとされるでしょう。自分の考えをとことん押し付ける審査員も登場するでしょう。 この元凶は、ガイダンスであるべきISO9001を、評価基準の規定として制度化したことにあるのではないでしょうか? 将来の方向として、私は、認証機関は、ISO9001をガイダンスとし、経営コンサルの方向に転進すべきではないかと考えます。 ISO9001を現状のルールとしたままで、認証機関及び審査員の改善を求めるのは、もはやありえないことと思えます。 |
のんきなとーさん様 毎度ありがとうございます。 現状認識と改善方向にはのんきなとーさん様のご意見に同意します。 しかし、今までの経過についての見解についてはいささか異議があります。 そもそもISO9001:1987が制定されたときは認証ビジネスは想定されていなかったのです。その証拠に87年版の「1.1規定範囲 この規格は、製品を設計し、供給する供給者の能力を立証することが、購入者と供給者との間の契約で必要とされる場合に用いる品質システムの要求事項を規定する」となっていました。それが94年改定で少し変わり、現在では第三者認証のためが第一義の規格になったと考えています。 そういう性格の規格を利用して第三者認証制度を作ったのは認証機関です。ヨーロッパでは認証機関が認定機関を作ったことをご存じないですか? 最近でもほとんどの認証機関はビジネスを広げようとしてISO規格がないものは自ら作成したり、あるいはJGPSSIガイドラインのshouldをshallに読み替えて審査していることをご存じでしょう。現状のISO審査にご不満な方のためにもいろいろあります。 ですから認証機関と審査員は被害者ではありません。主犯とは言いませんが、自分自身が主体的に誰に頼まれたわけでもなく、認証というビジネスモデルを作り推進してきたのです。 ISOの認証ビジネスを順調に伸ばしていた90年代半ばは良かったのですが、認証による付加価値を提示できなかったということでしょうね。認証に関わる主たるステークホルダーは、組織、認証機関、顧客ですが、利益を得たのは認証機関だけで、組織も顧客も得るところがなかったと言えばいいすぎでしょうか? 結局、ISO規格の目指すところと認証ビジネスの成果にずれがあり、ビジネス発祥して20年経った今、社会がその齟齬を受容できなくなったということに過ぎないのではないでしょうか? 私が思うに、認証機関が人のふんどし(ISO規格)を借りて相撲を取り、自分でこけたというだけのこと。周りの人が心配するまでのことではないのでしょう。 行政だって認証すれば事故がなくなるとか法違反がなくなるなんて望んでいなかったと思います。現在があまりにも目に余ると言うだけのことではないのでしょうか? お断りしておきますが、私は第三者認証制度の抵抗勢力ではありません。 現時点では、会社があるべき姿に近づくのに認証は役に立たないな、仕事を有効に効率的にするために認証は障害になっていると感じているだけです。 もちろんISO規格は素晴らしいものであると信じておりますし、私はISO規格を愛してます。 |