*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
ここは新橋駅から西に歩いて5分ほどのところにある雑居ビルである。雑居ビルといっても、省庁の外郭団体とか本庁舎が手狭になって一部門が賃貸しているところで、一般の民間企業は入居していない。内務省が審査員研修の施設として20坪ほどの部屋を四つ借用した。 伊丹は海老沢から場所は確保したから、審査員研修に使えるよう準備をしてねと言われてしまった。いやはや丸投げである。 伊丹は、ふた部屋を講義をする教室に、一部屋を事務所と所長などの個室に、一部屋を会議室や書庫、備品置き場などに見取り図を描き、パーティションと内装工事を頼む。そして事務所と研修室また書庫などの什器を手配した。パントリーがあるので、お茶の道具などもそろえる。 ![]() そのとき藤田少佐は監査の下請けを依頼するのは構わないが、教育まではできないから、伊丹さんが一人前にした暁に改めてきてよねと言われた。その理屈も分かるが、お前を教えたのは俺だよと内心思ったのは事実だ。ともかく伊丹はドロシーを教え、ドロシーも一生懸命に努力した。それからは砲兵工廠で東北や北陸のほうで監査の仕事があるときは、ドロシーに行ってもらうという流れになっていた。彼女なら講師に適任だろう。 ![]() 次にはやはり教え子である半蔵時計店の宇佐美となるが、彼は審査会社の立ち上げで忙しいようだからとりあえず見送ることにした。 先々のことを考えると、新世界技術事務所も一枚噛んでいた方が良いだろうと、工藤社長と相談した。その結果、若手の飯田を派遣することになった。 ![]()
![]() それから先のことを考えて内務省の人を二人入れて、最初のひと月くらいは伊丹も講師をすることにして、都合講師6名でスタートすることにした。 事務員は受講者の予約とか資料の手配などで4名、管理職1名、給仕1名でスタートした。それらはすべて陸軍・海軍から派遣してもらった。 ドロシーに手紙を出すと、電話がかかってきた。ドロシーは審査員をやるつもりだったが、研修会の講師ができるならそれのほうがいいという。理由を聞くと、赤ちゃんが小さいから、出張の多い審査員より、毎日通勤できる講師の方がいいという。伊丹が当面は現状の仕組みで運用するが、ゆくゆくは講師も審査員の資格を必須にして、毎年一定回数の審査をしなければならないことにするつもりだというと、ドロシーは当然それに対応するという。 黒田准尉は伊丹が政策研究所を訪問したとき、わざわざ顔を出して頑張りますと挨拶に来た。話をすると、やはり定年間近であること、軍縮のために来年大幅人員削減をするのでありがたかったと言われた。喜んで講師業をやってもらえるならありがたい。 ●
審査員研修の講師が決まると、講師の教育を開始した。● ● 伊丹は20世紀末に日本でISO審査員とのトラブルを多々見てきたので、ここではそういうことが起きないように審査員教育をしたいと念じた。そのためには審査員研修の講師の意識を統一していなければならない。 ![]() | |||||||
![]() |
「審査員は審査の会社において、立場的には企業の人と対等のはずです。でも多くの場合、審査で適合にならないと入札も取引もできないことから、企業の人は審査員をもち上げて自分たちは下手に出ることが多い。また審査員もそれを知っているから、相手にお土産を強要したりすることがある。そういうことをしてはいけません」
| ||||||
![]() |
「当然ですわ」
| ||||||
![]() |
「少しであってもだめですか? というのは普通訪問すればお土産っていただきますよね」
| ||||||
![]() |
「ダメです。お土産などをいくらまで良いとか決めようがありません。基本ダメと考えてください。 おっと、みなさんが今のお仕事でお土産をもらって悪いと言っているのではありません。みなさんが審査員に教育するとき、審査員は審査している会社からお土産をもらってはいけないと教えるということです」 | ||||||
![]() |
「現実問題として泊りがけで行きますと、審査が終わってから宴会とかお土産というのは付き物です。そういうのを一切禁止となりますとどうでしょうか?」
| ||||||
![]() |
「本来なら昼食の提供を受けるべきではありません。実際問題、お昼ご飯はやむを得ないとしても、審査後の宴席はお断りしてください」
| ||||||
![]() |
「うーん、世の中には付き合いがあるから、一律的にダメとは言い難いねえ〜」
| ||||||
![]() |
「確かに付き合いもありますし、世間常識もあるでしょう。しかし特定の役割においては、してはいけないことがあります。例えば裁判官が原告や被告から謝礼とかお歳暮をもらってはいけないのは理解できるでしょう。あるいは公務員が外国人と結婚してはいけないのもご理解いただけるかと思います」
| ||||||
![]() |
「ああ、そう言われると分かる。異議を取り下げます。審査員もそれと同等に自分に厳しくなければならないということだ」
| ||||||
![]() |
「なるほど、よく分かりました。李下に冠を正さずですね」
| ||||||
![]() |
「ご理解いただきありがとうございます。黒田准尉よろしいでしょうか?」
| ||||||
![]() |
「了解しました。教えるだけでなく、常に自分に厳しくありたいと思います」
| ||||||
![]() |
「では次ですが、審査において暴言とか肉体的に暴力をふるってはいけない。これはよろしいですね」
| ||||||
![]() |
「まさかそれはないでしょう。いまどき軍隊でもビンタすれば、した方が注意を受けますよ」
| ||||||
![]() |
「私の経験です。第三者審査でなく客先の監査でしたが、監査に来た方がかなり感情的になって机に置いてあった灰皿、アルミじゃなくてガラスでできた重いものでしたが、それを放り投げたところに居合わせました」
| ||||||
![]() |
「そりゃ犯罪でしょう」
| ||||||
![]() |
「伊丹さんのお話を聞くと当たり前じゃないかと思います。そんなこと起きませんよ。わざわざ語ることじゃありません」
| ||||||
![]() |
「うーん、おっしゃる気持ちは分かりますが、現実に自分が上位であると言葉も行動も暴走してしまうことはありがちです。 続きですが、審査を受ける人を呼ぶときはお名前にさんをつけて呼ぶ、これを原則とします。中村さん、波多野さんです。呼び捨てや小僧といった蔑称もいけません。 同じく審査を受ける会社から呼ぶときもさん付けで呼んでもらいます。審査員を先生とか審査官と呼ぶのは止めてもらいます。審査員は公務員・役人ではなく、委託を受けた民間人です。 おっと、これも皆さんはそう受講生に教えなければならないということです」 | ||||||
![]() |
「それもまた当たり前ですね」
| ||||||
![]() |
「世の中には当たり前の人ばかりではありません。年配の方ですと、坊やとか小僧と呼ぶ恐れがあります」
| ||||||
![]() |
「伊丹さんのお話を聞いていると、常識レベルです。そんなお話はしなくても良いですよ」
| ||||||
![]() |
「ドロシーさんの役目は審査員の講師です。ドロシーさんがどうお考えであってもよろしいが、ドロシーさんの教育を受けた審査員が、暴力、暴言、強要などをすればドロシーさんは講師としての能力を疑われます」
| ||||||
![]() |
「えっ、私が教えても受講生が守らないかもしれません。それを私の責任と言われても、 じゃあ、どうすればいいの?」 | ||||||
![]() |
「ドロシーさんが私の決めたカリキュラムに従って、審査員教育において、審査に当たっては倫理基準を守ること、逸脱した場合は処分を受けることについて教え、それを記録しておくことがあなたの義務であり、そしてその記録があなたの身を守ることになります」 ![]() ![]() | ||||||
![]() |
「私の身を守る・・・わかりました。講義において伊丹さんから教えられたことを漏れなく伝達し、それを記録します」
| ||||||
![]() |
「結構。 審査において今申したような事態が発生した場合、審査を受けた企業は審査会社とこの審査員研修機関のもう一つの役目である登録部門に異議申し立てをすることができます。そして提起された問題と証拠によって採決することになります。最悪の場合は刑事事件として告発することになるかもしれません。そうでなくても事実と判明した場合は、審査員の資格喪失あるいはその他の処分が行われます。 なおそうなった場合、一緒に審査していた審査員に対しても罪一等を減じた処分が行われます」 | ||||||
![]() |
「それはまた厳しいですな。連帯責任というのは不条理だ」
| ||||||
![]() |
「連帯責任ではありません。犯罪を傍観することは事後従犯です。敵前逃亡は死刑というのは古今東西の鉄則です。古代ローマではそれだけでなく、敵前逃亡を阻止しなかった兵士は死刑でした 私はこの第三者認証制度を一部の人のこれくらいいいだろうという甘い考えで崩壊しないようにしたいのです」 | ||||||
![]() |
「そういうご経験がおありですか?」
| ||||||
![]() |
「あります」
| ||||||
![]() | |||||||
![]() |
「要求事項は文学ではありません。行間を読むとか作者の意図を読み取る必要まったくありません。文字に書いてあることがすべてです」
| ||||||
![]() |
「すると「○○する」とあれば○○すればいいのね?」
| ||||||
![]() |
「そうです。「○○以外もしろ」とか、「○○以外はしてはいけない」と読んではいけないということです」
| ||||||
![]() |
「そりゃあれだな、我々が文字解釈と呼んでいる読み方ですよ」
| ||||||
![]() |
「おお、そうですそうです。文字解釈です。みなさんは役人で、日ごろ法律を読んでいるから慣れていますよね。 及び・並びにとかその他などの接続詞の意味や使い方は法律と同じです。おっと、そうすると法律を読みなれていないと講師はできないな。波多野さん、法律用語の本というかそういう基本を書いたものはありませんか?」 | ||||||
![]() |
「入省すると最初に法律の読み方の教育を受けます。そのテキストがあります」
| ||||||
![]() |
「それじゃ、ここにいる人は準公務員というか準官僚ですから、それを読むだけなら許されるでしょう。どうすればいいですか?」
| ||||||
![]() |
「それじゃ、ここの所長にお願いして、この中で読めるよう手配しましょう」
| ||||||
![]() |
「すみませんね、それじゃ、ええと、黒田准尉、ドロシーさん、飯田君は手空き時間にそのテキストを読ませていただき、法律用語の使い方を覚えてください」
| ||||||
![]() | |||||||
![]() |
「審査をするということは、要求事項をしていることの心証を得ることです。つまり「○○をすること」を確認することは「○○をしていますか?」と聞くことではありません | ||||||
![]() |
「質問です。なぜ「○○をしていますか?」と聞いても意味がないのですか?」
| ||||||
![]() |
「言い方が不味かったかな、審査は質問ばかりではないと言いたかったのです。 あなたは「○○をしているかどうか」を知りたいのであって、いろいろな方法があります。それと「○○をしています」という回答はその質問の回答になりますか?」 | ||||||
![]() |
「うーん、おっしゃっている意味が分かりません。審査員になるには高等小学校を出ていることが条件です。それを確認するために「あなたは高等小学校を出ていますか?」と聞くのはおかしくないでしょう」
| ||||||
![]() |
「横から失礼します。でも口頭の返事だけでは信用できません。嘘かもしれませんよ。確認するためには「高等小学校の卒業証書を見せてください」と言うべきでしょう」
| ||||||
![]() |
「なるほど、そりゃそうだ」
| ||||||
![]() |
「あっ、確かに口頭では証拠になりませんね。形ある証拠を見せてもらわなければ」
| ||||||
![]() |
「この場合は卒業証明書を見せてもらうことも一例でしょう。でも書類ばかりが証拠ではありません。例えば工場の温度を測る規則になっていたとします。審査というものは、まず最初に挨拶と審査の予定を確認したら、工場を視察してその次に本格的な審査に入ります。工場視察のとき温度を測っている様子とか測定記録が掲示してあるかなどを見ることによっても確認できるでしょう。 その他にも工場を視察するときいろいろなことを見ることができるます。危険物や毒物を保管している戸棚に鍵がかかっているかとか、日常点検記録があるなら毎日の点検者の名前と点検の印が記入されているかなど、通りすがりでもわかります。 もし施錠を確認する予定があったとしても現場で確認できれば完了です。後でわざわざ「施錠していますか?」と聞く必要はありません」 | ||||||
![]() |
「なるほどと言いたいですが、それって普通に仕事をしていると当たり前のことですね。 部下の仕事が予定通り進んでいるかどうか点検するのに、仕事の1から10まで、1はどうか?、2はどうか?と聞くことはありません。日頃部下のしていることを眺めていれば、心配なことだけ聞けば十分です」 | ||||||
![]() |
「波多野さん、当たり前と言ってしまえばなんでも当たり前です。当たり前でない仕事なんてありません。ただ私の知っている審査員の多くは、そういう当たり前の審査をしていなかったものですから」
| ||||||
![]() | |||||||
![]() 伊丹は内務省の品質保証規格を説明する前に、監査の目的、目的を達するための手段、倫理基準、心構えということを徹底して教えるつもりだ。彼らが講師として受講者にそれを伝え実践してほしい。そう願うのだった。 |
<<前の話 | 次の話>> | 目次 |
注1 |
「ローマ人の物語」塩野七生、新潮文庫より、何巻だったか忘れた。 ![]() | |
注2 | ||
注3 |
正直言って、私を名誉棄損で訴えるのは無理だと思います。というのは、名誉棄損とは棄損された方のご芳名が特定できることが必須要件です。認証機関は50くらいありますから、私が語ったことから社名やご芳名が特定するのはむずかしいでしょう。実際に判例では、特定の個人や法人でない漠然とした集団、例えば それと名誉棄損罪は親告罪ですから、被害者()本人が告訴しなければなりません。私が応対した審査員でないと告訴できません。行為を見た人聞いた人ではダメです。ですから解釈を間違えた審査員が私を告訴すれば、審査で議論になったことはどんな内容だったのかも明らかになります。その結果審査員が間違えていましたとなれば、判決はともかく実質的勝訴は私でしょう。 そんなわけで訴えられることはないだろうと思います。甘いですか? ![]() |