異世界審査員60.講師求む

18.02.19

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。

異世界審査員物語とは
現代の職業はものすごく多種多様である。職業に限らず学問でもお店でも細かく分かれている。そして今も更に分岐しつつある。何事でも、高度になると狭く深く専門化するしかないのだろう。
レオナルドダヴィンチが絵を描き、彫刻をし、建築をし、発明をしたのは、彼が天才であったこともあるが、昔は職業が分化しておらずいろいろ手を出してもおかしくなかったからというのもあったのだろう。

以前、私が水泳のし過ぎで肩を壊して整形外科に行ったときのこと、驚くことに整形外科といっても、手先、腕、肩、腰、背骨・・・と部位別に専門医がいた。
猫 そういう観点から言えば、獣医の場合、猫も犬もウサギも診るし、外科も内科も一人でするってすごいよね。これからペットの種類が増えてきたら、カンガルーとかコアラとかアイアイ担当とかに分化するのだろうか? でもカンガルーの消化器内科とかナマケモノの呼吸器内科などと、人と同じように細分化したら、患者(患獣)は年に1匹くらいしか来ないかも?

ところで都市部から遠く離れた田舎にいてほしい医者は、心臓外科の権威とかがん治療の名医よりも、心臓移植は無理、がんも無理、でも骨折、食中毒、怪我、風邪、虫刺されなら任せてというドクターの方がありがたいのではなかろうか?
異世界は私たちより100年遅れた世界だ。そこではLSIの権威よりもトランジスターを作れる人の方が役に立つだろうし、NC機械がないからNCのプロがいてもしょうがない。

伊丹は過去数年間、異世界の技術革新を図っていますが、伊丹と仲間たちですべての技術分野をカバーできるわけはありません。ですからそのためにいろいろ活動をしています。本日はそのひとつふたつを・・



私は若林健吉、1935年生まれ。大学を出たのは1957年、なべ底不況ど真ん中で就職は厳しかった。しかしまた同時に高度成長の始まり、技術革新の始まった時期で、明治以上に坂の上の雲の時代だった。そんな時代に生きたことを幸せに思う。
若林健吉
私が若林健吉です
当時はトランジスターを実用化しようというときで、大学で電気工学を学んだ私はその開発部門に回された。
SONYは我々より数年早くWE社(注1)とライセンス契約をしたが、そのとき受領したのは技術資料2冊だけだったという(注2)製造装置もノウハウも提供されず、彼らは自ら研究してものした。すごい努力だ。私が同じことをしていたからその苦労が分かる。
それより少し遅れた我々のときは通産省が介入したこともあり、SONYよりはだいぶ技術支援を受けることができた。とはいえ製造方法や条件を懇切丁寧に教えてもらえたわけではない。ノウハウは我々が試行錯誤の末に獲得してきた。

今でも私が入社してからの数年間を思い返すと笑いがこみあげてくる。当時の上司や同僚はまさに戦友だ。真空炉も加熱炉も怪しいものだし、ろくな測定機器もない。温度を記録するにも自記記録計はなく、一人が時計とサーミスタ温度計を眺めて読みあげ、もう一人がそれを書き取った。連日残業があたりまえ、週に一二回は徹夜、月に二回も日曜休めたら御の字なんて生活だった(当時は休日は日曜だけだった)。休暇をとったのは親戚に不幸があったときくらいで年に1日2日だった。ともかくそんなことをしてトランジスターを生産できるまでにした。
見かたによればブラック企業そのままだが、当時は毎日が上を下への大騒ぎ、大学の運動部というイメージで、それはけっこう楽しかった。あの頃が我が人生最良のときかもしれん。
だが1970年頃になると、私は新しい技術についていけないと評価されたようで、開発から文書管理に異動になり、更に数年後に営業に回された。営業では家電品を売って歩いた。だけど量販店の比重が高まるとストア店の仕事もなくなり、50前に子会社に出向となり、与えられた仕事は、なんと社宅や寮の管理だった。
現場では溶接や工作機械の熟練工が会社を辞め、中国や東南アジアで技術指導をして大金を稼いでいるのを知っていた。しかし韓国でも中国でも今更デスクリートのトランジスターを作ろうなんてところがあるはずはなく、それどころか日本より大きなウェハーでLSIを作っている。私の居場所は社宅の管理しかなさそうだった。悔しいと思いはしても、自分の技術は時代遅れと諦めた。

定年後も嘱託で働き引退したのは1999年、64歳だった。それから家内と二人で趣味とフィットネスクラブで過ごしてきた。おかげさまで子供たちはみな独立したし、我ら夫婦は年相応ではあるがまだまだ元気だ。最近、自分史を書こうかと、昔の日記を読み返していて思い出した。
あれは今から数年前、70代半ばのときだった。

年の暮れに見知らぬ男が訪問してきた。もちろん10日ほど前に電話でアポイントはあった。伊丹と名乗った男の名刺には「新世界技術事務所」と会社名があり、肩書は理事となっていた。聞いたこともない会社だ。
とりあえずリビングに上がっていただき話を聞く。
「若林さん、お会いしていただきありがとうございます。私は技術コンサルタントをしております」
「どんな御用か知りませんが、私が技術者だったのはもう半世紀も前のこと、今の時代では通用しません」
「まずは話を聞いてください。コンサルタントといいましても、私は大学や企業から、これこれの専門家を探してほしいという依頼を受けて、それにマッチした専門家を探して講習会や実験をコーデネイトをしております。
初期のトランジスター この度はトランジスターの黎明期を学びたいという依頼がありまして、あちこち当たりましたところ若林さんが適任と伺いまして、お邪魔した次第です」
「オイオイ、私は小豆くらいのでかいトランジスターを作っていた人間だ。今のICもLSIも知らないよ。冗談は止めてくれ」
「いえ、今は確かに高集積度のLSIの時代です。でも今半導体製造を学んでいる人たちだって、初期の頃はどのようにして作っていたのか知りたいわけです。ぜひとも講習会の講師をしていただけないかとお願いに上がりました」

そのとき家内がお茶を出してきた。我が家はリビングキッチンだから、今までの話のやり取りはすべて家内に聞こえていた。
「お父さん、最近退屈していたんじゃないですか。自分史を書くなんて言ってましたよね。後ろ向きのことばかりでなく、若い人たちとお話ししたら気分が若返りますよ」
「だけど昔のことなんて忘れてしまったぞ。昔は私の論文が技術雑誌に連載されたこともあったがね、アハハハ」
お茶 「若林さん、そのお話も伺っております。しかし文字だけ読みましても、当時の若林さんのような研究者、技術者の熱気も苦労も伝わってきません。どうでしょう、若者に高度成長期の気骨を伝えるぞという気持ちで一席語っていただけませんか」
「実を言って、そういった雑誌なんてもう何年も前に処分しちゃったよ」
「あら、お父さん、ちゃんと取ってありますよ。10年くらい前かしら、断捨離とか言って捨てたでしょう。あのあと私がゴミ捨て場から回収してきて納戸にしまってあります。お父さんが死んだら棺に一冊入れてあげようと思ってました」
「なんだとう、俺より先にお前が逝ってしまったらどうするんだ」
「そのときはますます暇になるでしょうから、昔自分が書いた論文を毎日読んで過ごしたらいいでしょう」
「ヤレヤレ、伊丹さん、具体的にはどんなことをすればいいのだろう」
「おお、その気になってくれましたか。ありがとうございます。
別にカリキュラムがあるわけではありません。1960年頃はトランジスター開発にどんなことをしていたのか、お話と板書あるいはパワーポイントを使ってご説明していただければと思います。
もし可能なら設備や材料は用意いたしますから、実際に点接触型トランジスターや接合型トランジスターを受講者たちと作ったら面白いかもしれませんね」(注3)
「簡単に言いますけど設備とか材料なんてどうするの?」
「100万や200万かけてもよろしいです。必要な設備を教えていただければなんとかしましょう」
「伊丹さん、あんた正気か?」
「もちろん正気ですよ。おっと、申し遅れましたが講師料は一日10万と考えております」
「まっ、お父さん!」
「からかっているんじゃないだろうな?」
「まじめに商売しております」
「受講者は何名?」
「今回の受講生は大学院生10名ほどです」
「それじゃ、一人当たり何十万もとるわけ?」
「そうではありません。地方で若林さんのような研究者に直接ご指導を頂けないような大学院生を支援しようという篤志家がおられまして、そういった方からの支援で行っております」
「ええと、露骨な話で恐縮だが私が3日講義をすると30万と考えてよいのか?」
「さようでございます。もちろんそれに見合ったお話を期待しております」
「飽きさせないためには最初のつかみも重要だな。場所はどこですか? 歳も歳なので長距離移動で泊りとなると辛い」
「市川に貸工場を借りており、そこに教室もございます。電車でのご移動は大変でしょうからハイヤーをご用意いたします」

驚いたね、まるで売れっ子教授並みじゃないか。ありがたくその仕事を受けることにした。年金生活に数十万の臨時収入はうれしいし、人前で話をするなんて、もう30年くらいしていない。正直言ってうれしい。
知佳さんカナハちゃん
私たちを覚えてる? 42話で出たよ
伊丹氏には構想を練る時間として2週間ほど頂いた。過去の雑誌のコピーとか資料作成するというと、そういう作業はアシスタントが手伝うという。伊丹氏がその場でスマホから電話すると、10分も経たずに若い女性が二名玄関に現れピンポンした。

熱を入れてテキストを作りトランジスター製作の実験も盛り込んで内容が盛りだくさんになった。そのため講習会は休日をはさんで7日間にわたった。
受講生は20代半ばから30代前半と見受けた。ドクター課程にしても、ちょっと年が行き過ぎている。でもまあ、輸出管理令に抵触する内容でもないし、犯罪とは無縁だろう。余計な詮索はしまい。地方の人たちなのか言葉つかいが妙に古臭く、懐かしく感じた。
滞りなく研修は終わり最後の日には受講生だけでなく、伊丹さんと若い女性二人も参加して、謝恩会というか打ち上げまでしてくれた。昔開発で一段落して飲んだときを思い出したよ。そして70万の講師代を札束でいただいた。たまげたね、
翌年は何年かぶりで確定申告をした。税金を納めることは嫌いではない。むしろ、うれしいというか誇らしいことだ。私もまだ一人前だという気がしたよ。

それから半年ほどして、また同じテーマで講習会をしてもらえませんかとアシスタントの知佳さんから連絡が来た。喜んでと応えた。しかし更に1年後三度目の依頼には、もう体が効かないからといって、私よりふたつ若い山内君を紹介した。山内君は高卒でそのぶん入社が早かったからトランジスター開発には私より早くから関わっていて初期の頃を知り尽くしている。講師には適任だ。
実際にその後、伊丹さんから良い人を推薦してくれたとお礼を言われた。金一封付きだった。
でも山内君ももう70代後半だから次の講師を探しておかなくてはと笑った。



俺は矢嶋紀夫、1942年生まれ、中学を出て大手紡績会社に入って、現場で長いこと機械の保守をしていた。
矢嶋紀夫
私が矢嶋紀夫です
1970年頃だろうか、職場の改善活動が流行して我々も色々と工夫した。荷物を運ぶコンベアが直角になっていて、流れてきた品物を、横方向のコンベアに移すのは人がヨイショと移し替えなければならなかった。仲間と話し合って端に荷物が来たらスイッチが入って横からエアシリンダーで押したらどうだろうとなった。
早速、遊休品のシリンダーとか廃棄する機械からリミットスイッチやプランジャを取り外して組み立てた。そこまではあっというまだったけど、動かしてみるとタイミングがどうとか、安全上どうとかいろいろあって、なんとか使えるようになるまで半月ほどかかった。ともかく終わった後に機械保守の仲間で飲んだ。あのときの酒は美味かった。
それを見ていた他の職場から、試験装置にタイマーを付けてくれとか荷物が来たら自動でバンド掛け機が動作するようにとか頼まれて、まあいろいろやった。
それを見ていた係長が、シーケンスを勉強したらいいよと教えてくれた。シーケンスという機械があるのかと思ったらそうではなく、いろいろな部品を組み合わせて決められた順序で機械が動くようすることだという。
学校を出てから本といえば剣豪小説しか読んだことがなかったが、本屋に行ってシーケンスの本を探すと、薄っぺらなものしかない。とりあえずそれを買ってきた。一通り読んでから、係長に上級編はないのかと聞くと、それだけ読めば十分だという。
実際にやってみればシーケンスなんて簡単だ。センサーがありスイッチがあり用途に見合ったアクチュエーターがあれば良い。まあタイマーとかも必要だな。

それからいろいろなことをした。あるとき動作条件が複雑な組み合わせのことがあった。AとBの両方に入力があって、CかDの一方にのみ入力があるとき・・・というような組み合わせのときに、次の動作に入るというようなものだった。
リレー
昔の機械や設備にはこんな形をしたリレーがたくさん使われていた。何十・何百と並んでいると壮観だった。少し高級なリレーには動作を示す豆電球がついていてたくさん並んだリレーがチカチカまたたくのがきれいだった。
今ではリレーなんてめったに見なくなったねえ〜
リレー
条件をそのまま組み合わせるならできなくはないのだが、そうするとリレーの数がとんでもなく多くなる。30個くらいになりそうだ。当時はリレーがいくら、タイマーがいくらと部品の値段が高かった。いろいろ考えたがとても予算に入らない。
そんなところに大学を出たばかりの奴が通りかかって、簡単だよという。やってみろというと、そいつは条件をながめて、なんだか足し算と掛け算の式を作り、その式を変形し変形し簡単にしていって、最後に+と×が10個くらいの式になった。+と×がリレー1個になるらしい。これで目的は果たすという。俺は理解できなかったが、いわれたとおりに回路を作ったら期待通りに動いた。
そいつはブール代数という学問があり、それを使うと論理式・・・シーケンスは論理式なんだそうだ・・・その論理式を最適化できるのだという。
それから俺はブール代数の本を買ってきて勉強した。難しい計算も考え方もない。1週間もすると俺は今まで作ったシーケンスの回路は無駄が多かったと気づいた。それからは条件を最小の部品数で実現するように努力した。だけど、そういう風にして作った回路は、あとで条件が変わるとまた一から作り直さなければならなかった。それ以前の無駄が多いというか、冗長な回路は、後で追加とか修正があっても、すぐに対応できるのに。そこがどうも腑に落ちない。

1980年代に三菱電機がシーケンサというものを発売した。入力と出力の端子がたくさんあって、その間のシーケンスをモニターに描くとその通りの回路を機械の中に作ってくれる。
そりゃ便利だよ。リレーを減らそうとかタイマーを買う金がないという心配はなくなった。
しかし面白みがないんだよなあ〜、10年前、壊れた機械から取りはずしたリミットスイッチやらリレーやらを組み合わせて作ったときの喜びがないんだ。テレビゲームのようで、実際に走ったり飛んだりしない感じなんだよな。
ちょうどその頃、勤めていた紡績会社も最期の時を迎えた。それより前から梱包用テープとか断熱材などの新事業を展開していたが、とうとう創業からの絹糸は終焉となった。
幸い昔から街中に広い土地を持っていて、それを活用して新事業に転身するという。俺はまっさきに新しい職場を希望した。俺はスーパーマーケットの保守業務に就いて、設備保全係長という役目を仰せつかった。スーパーには場所を貸すだけで、駐車場とか上下水道・電気その他のインフラの保守管理を、俺が担当した。

そこでも楽しく仕事をしてきたが、2002年に60歳で定年になった。中卒の俺は44年特例というやつで退職時から年金が満額もらえるので辞めた。
退職して釣りとか山菜取りをした。しかしそんなことを半年もしていたら飽きた。昔の同僚から機械保守の仕事をしないかと誘われた。そこでは保守部門を持てないような町工場の保守点検を請け負っていた。溶接や簡単な機械加工、そしてシーケンサのプログラムくらいできれば結構仕事があるものだ。そんなことを数年やった。だけどどうもシーケンサは合わないんだよなあ〜。俺は原始的なシーケンスが大好きなんだよ。と言ったところでどうしようもない。65になったとき孫が生まれて子守することになり、辞めることにした。
盆栽
それから7年、孫も大きくなりもう爺さんとは遊んでくれない。親父から受け継いだ盆栽がいくつかあって、水やりくらいはしているけど、自分が一から育てようなんて気もない。
昔の仲間もとうに引退している。
さてなにをしようかと考えていたんだが、そんなときあいつがやって来た。

「矢嶋さんですね、伊丹と申します。昔矢嶋さんの上司であられた佐伯さんのご紹介で参りました」

俺は今、市川の海岸近くの貸工場で、若者たちにシーケンス回路の組み方と、それを実際に作るのを教えている。なぜかシーケンサは教えなくていいと言われた。だから昔ながらのリレーやタイマーの現物をリード線で繋ぐ、それが俺好みで気に入っている。
毎日あるわけではなく月に1週間ほどだ。この仕事をするようになって1年になる。日当として一日3万円もらっている。時給にすると3700円、高賃金と言われる薬剤師と同じだ。
70過ぎの俺を使ってくれるとこなんて、せいぜい道路工事の旗振りとかスーパーの警備員くらいだろう。それが俺にとっては遊びに等しいことしてお金がもらえる、ありがたくて涙が出るよ。
そして受講生が皆純朴で、棒を飲みこんだように直立不動で俺の話を聞いてくれる。今どきの若者に見せてやりたい。俺も張り切ってしまうじゃないか。



俺が定年を過ぎ嘱託をしているとき家内は乳がんで亡くなった。まだ55だった。
石崎といいます
私が石崎です
悲しかったがどうしようもない。
娘二人は既に結婚していた。婿さん二人も良い人で、双方から一緒に暮らそうと話があった。
当時、下の娘の2歳の子供は病弱で、生まれてから自宅で過ごしたより入院していた方が長いくらいだった。娘は子供の看病につきっきりだった。俺が手伝えるのは病院の送り迎えと洗濯・掃除くらいだが、それでもいないよりはましだろうと娘夫婦二組と話し合って決めた。俺は嘱託を辞めて、下の娘のところにお世話になった。

あれから10年、その子も中学生となり、乳幼児時代はなんだったのだろうと思うほど元気になった。その後生まれた次女ももう小学3年だ。子供に手がかからなくなって娘も今はパートに出ている。
俺は毎日、洗濯・掃除そして庭の草木に水やりすると、近くの公園に行ってタバコを吸い(家の中は禁煙なのだ)それからそばを流れる川沿いに往復8キロくらい歩く。季節の花、若葉から青葉そして紅葉への移り変わり、そんなものを見るのが楽しみだ。そして娘に頼まれた食材を近くのスーパーで買って帰るのが日課だ。その頃には娘はパート先から帰ってきていて夕飯の支度をする。俺は洗濯物を取り込む。夕飯は婿と一緒に晩酌をする。

5月のある日、強い日差しの下で帽子が欲しいなと思いつつ公園で一服していると、そいつがやって来た。無造作に隣に座って、話しかけてきた。
「いい天気ですね」
「そうだねえ〜、俺はもう隠居の身だが、あんたは若いんだろう」
「今、仕事中ですよ」
「どんな仕事だい?」
「釣りですよ、鯛の一本釣り」
「オイオイ、この川じゃ鯛は釣れないぜ」
「どんなお仕事をされていたのですか?」
「溶射をやってた。溶射って知ってるかね」
鯛
「あれでしょう、金属やセラミックの粉末をプラズマで吹き付けて、被膜を付けたり、肉盛りしたりするやつじゃないですか?」
「ほう、よく知ってるな。それだよ、それ。とはいえ昔のことだ。今は洗濯が仕事だ。きれいに洗ってアイロンをかける、けっこう難しいんだ。アハハハ」
「ご家族、仲が良いのですね」
「ああ、婿もいい人だし、娘にも感謝している。それに孫たちが可愛い」
伊丹です
伊丹と申します
「石崎さんもいい人だからですよ」
俺はギョッとして、そいつの顔を見つめた。
「俺はまだ名乗ってないぜ。あんたナニモンだ?」
そいつは名刺を差し出した。
「私、伊丹と申しまして、技術者の一本釣りをしております。石崎さんが溶射ロボットのベテランとお聞きしまして、ぜひとも講師に来ていただけないかと・・
謝礼で娘さんご夫婦を旅行に行かせたり、お孫さんにディズニーの年パスをプレゼントしたらいかがですか」

なんか伊丹氏が悪い人みたいですね・・・・



「充分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない」というアーサー・C・クラークの法則というものがあります。真理か否かはわかりませんけど、経験則としては正しいように思います。江戸時代の人が自動ドアを見たら魔法だと思うに違いありません。我々だって光学迷彩を見たら魔法と思うでしょう。
星型エンジン 過去の回で伊丹たちが未来のエンジンや自動車を入手する時、21世紀のものではなく、1960年代のものにしました。技術というものはレンガ積みと同じで段階を踏まなければならず、途中を飛ばしてしまうとノウハウ・ノウホワイを理解することはむずかしい。
今回のお話でも、LSIではなくデスクリートのトランジスターを手中にすることが重要で、それができればICまでは一直線です。
期待する動きをさせるためにいろいろな部品を集めてシーケンスを組むという発想があり、その基本的手法を確立すればよく、PLCはいつか誰かが考えてくれればいいし、考え付かなくても困りません。
ところでシーケンサというのは、最初に製品を出した三菱電機の商品名だそうです。今ではいくつもの会社がPLC(プログラマブル・ロジック・コントローラ)を製造販売していますが、なぜかみな三菱電機のシーケンサに似ています。でももし白紙の状態でプログラマブル・ロジック・コントローラを考えたなら、現在の形態・形式・表示でなかったかもしれません。
実は私、数か月前パソコンソフトでの電子回路作りに凝りました。今は熱が冷めてしまいましたが、それはそれとして・・それには電子回路シミュレータが必要です(注4)もちろんお金をかけるなんてとんでもない。微分回路 ネットで「電子回路シミュレータ+フリーソフト」とググるとたくさん見つかります。おもしろいことにシミュレータソフトはPLCと違い、回路の組みたて方法も表示も機能もバラエティに富んでます。どれがシミュレータソフトを制覇するのかとなると、過去からずっと群雄割拠状態です。
あっ、言いたいことは「目的を果たす方法はひとつではない」ということです。求めるものが同じであっても、アプローチは多様であり、結果として全く異なってもよいはずです。
固体素子があれば真空管のさまざまな制約から離れ、小型、耐衝撃、低電圧・小電流という特性で活用されるでしょう。シーケンスは自動機械の基本です。溶射はガスタービンやスーパーチャージャーのブレードを作る必須技術です。
きっと伊丹は粉末冶金や潤滑やシールの技術者も一本釣りしているでしょう。

ボールベアリング そしてもうひとつ大事なことがあります。今自動車のエンジンや機構や用途を開発していくとき、未来の自動車を与えられるよりも、ほんの少し進んだ自動車をみて、ベアリング、モーター、ねじなどの機械要素を見て考えてもらった方がためになると思います。

今回登場した時代遅れの技術者たちは、異世界よりちょっと進んでいますが、その違いは大きすぎません。だから学ぶ人たちの目標になるのではないかなと思います。とはいえ異世界よりほんの半歩だけの先行では飛躍とは言えません。
頭にあったのは、明治維新で外国の文物が入って来たとき、日本の人たちは異国が進歩していることに驚きました。でもその差はまだ理解できる範囲でした。もし明治維新のとき20世紀の文化が押し寄せてきたら圧倒されて萎縮してしまったかもしれません。あるいは初歩の蒸気機関が入ってきたら、なんだこんなものと驕って真面目に学ぼうとしなかったかもしれない。そんな風に思います。

うそ800 本日のいいわけ
私はシーケンサが嫌いでもないし三菱電機に恨みもありません。ただドンドン便利な機械がでてくると素直に喜べないのです。年を取って、新しいことを覚えるのが苦手になったからかもしれません。
スバル360 私が運転を覚えた1960年代はじめ、当然マニュアルトランスミッションで、シフトダウンの際にはダブルクラッチを使わないとギアがはじかれたりエンジンが異音を出したりしました。シンクロメッシュになって良かったと思います。
最近、フィットネスクラブの友人が買った車は半自動運転というのでしょうか、縦列駐車でも並列駐車でも車がひとりでしてくれます。運転者はハンドルを軽く握っていれば良いそうです。そんな話を聞くと、ナンダカナーって気になります。
とはいえ私も毎日風呂はタイマーでお湯が入り保温も湯量もキープしてくれるのを当たり前として暮らしているのですから、文句を言える立場ではありませんね。

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注1
ウェスタン・エレクトリック社の略称。トランジスターを発明したショックレーらはベル研究所というところで働いていた。当時、ベル研究所の親会社がウェスタン・エレクトリック社であった。変遷を繰り返し現在はWE社は消滅した。
なお、有名なホーソン実験が行われたのはWE社の工場であった。

注2
「SEAJ ジャーナル」の「半導体の話」(奥山幸佑)を参考にしました。

注3
「手作りトランジスター」とネット検索すると、多々見つかる。しかし大学の実験室クラスの設備がないと、実用的な物は作れないらしい。確かにhFEとか言い出したらハードルが高すぎ手におえないだろう。
ショックレーたちができたのはやはり専門家だったからだ。

注4
電子回路シミュレータソフトとは

入力
矢印
微分回路
矢印
出力

上図はシミュレータソフトでの表示例です。パソコンモニターの上でCRをつないで微分回路を作ると、インプットとアウトプットの波形を見ることができます。CRの数値を変えると出力波形が変化します。もちろん実際の回路では電源の能力とか、ノイズ、アースなどの問題でシュミレータのようにはいきません。
ロジック回路の最大の難問はアースだとノイズ対策の専門家から聞きました。確かにノイズは実機でないと分からないし解決できるとも限りません。
シミュレータソフトは電源不要、危険なし、お金もかからない、とても便利に思えます。私は紙に回路を手書きするようなものかと思っていましたが、実際に使ってみると簡単ではありません。アプリにもよりますが部品は一定の向きにしか置けないので、素子と素子をつなぐ線は遠回りしたり、素子をつなぐとき一定の距離にもっていかないとつながらないとか、かなりクリティカルなのです。笑ってはいけませんが、素子をつなごうとドラッグしたマウスで微妙な調整しようとして持つ指が震えました。


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