うそ800始末40.マネジメントシステムは品質を上げない

20.09.21
うそ800始末とは

前回のうそ始末39回は「ISOで会社を良くするのは嘘だ」と書いた。今回はISOで製品品質が上がるのかというお話である。同じことかといわれると、全然違うと言いたいけど、結論は同じだね、


「ISO規格は品質を上げない」ことは常識だと思っていた。ところが最近読んだ本の中にあったQ&Aで

Q:
当社ではISO9001を認証しているが、一向に製品品質が良くならない。ISO9001には限界があるのか?
A:
ISO9001の認証は、規格要求を満たせば取得できる。しかしそれはあくまでも規格要求を満たしているだけで、品質マネジメントシステムが有効である、つまり良い結果が出せるとは限らない。認証取得だけで満足せず、より良い結果が得られるように、継続的に品質マネジメントシステムを改善していくことが必要である。

というものがあった。
つまり「未だ品質マネジメントシステムが有効な段階まで至っていないのである。継続的に品質マネジメントシステムを改善していくことにより製品品質は良くなる」というのだ。
それを読んで、ISO審査員でありコンサルである人の中に「ISO規格は品質を上げる」という人がいることを知り、私は考え込んでしまったのである。
ISOが品質を上げるなんて言われたのは1994年のこと、それを聞いたとき私は驚いた。
コトアリエネーダロー
私が最初にISO9001の認証に取り組んだ時の目的は、EU統合が目前となり、EUへ輸出するためのパスポートとしてISO認証が必須だったからだ。今気が付いたが、それはまさにパスポートそのものだ。ISO9001は荷物が港 を通過するために必須なのだから。
だから当然というかISO認証が品質を上げるなんて思いもよらなかった。それは私だけでなく、欧州への輸出のためにISO認証した人々は同感だろう。
そして我々がしたことは品質を上げることにつながることではなかった。自分の働いている会社の品質保証を説明することだったから。現状を説明することが、製品の品質を上げると考えたら論理的じゃない。
だから1994年に「ISOが品質を上げる」と聞いたとき、馬鹿言ってんじゃねーとしか思わなかった。

「消防署のほうから来ました」と言って消火器を売りつける詐欺も、流行したり下火になったりを繰り返しているそうだ。それと同じくISOで会社を良くしようとか、ISOで製品品質を上げようなんてのも盛んになったり下火になったりした。
だがISO規格とかISO認証とはそういうものじゃないという説得(?)などによって収まったはずだった。21世紀になって20年も過ぎた今になって「ISOは品質を良くする」と語るISO審査員/コンサルがいたのに驚くのは当然だ。
そしてネットをググっても、この本を批判したものが見つからなかった。ならばこれを否定する発言しなければならない。それは私の仕事であろう(自意識過剰)。

ISO9001が品質マネジメントシステムの規格だといっても、実際には一皮むけば品質保証の実態が現れる。いやいや、品質保証が悪人で品質マネジメントシステムという善人の顔をしていると言うわけではない。品質保証も善人で品質マネジメントシステムも善人である(タブン)。ただ同じではないというだけだ。

品質保証とは何か?
品質保証とは日本語じゃありません。中国語由来でもない。Quality Assuranceを翻訳した言葉です。ですから「品質は絶対大丈夫です」とか、「品質が悪かったら全額返金します」とか、「何事かあったらすっ飛んで行って修理します」ということではない。
むしろ何事かあったとき責任逃れをする仕組みといいましょうか、
いや、訂正いたします。お客様に当方がしっかりやっていることを示す仕組みのことです。
おっ、私が語ることは嘘だと思ってらっしゃいますか?
まあ、用心するに越したことはありません。

ISO9000:2015では次のように定義されています。
3.3.6 品質保証
品質要求事項が満たされるという確信を与えることに焦点を合わせた品質マネジメントシステムの一部

注:ISO9001の中に定義の項番はなく、別規格ISO9000でISO9001で使う用語を定義している。

英英辞典で Assurance は、何かが確実に起きるという約束。心配させないための言葉、生命保険などとある。

あれっ、なぜか私が書いた、何事かあったとき責任逃れをする仕組み、あるいはお客様に当方がしっかりやっていることを示す仕組みのことで間違いないようです。
今思い出しましたが、ISOなんてものにかかわるまで私は品質保証屋でした。
品質保証屋とはお客様に私どもの製品・サービスは大丈夫ですからご安心くださいと説明するお仕事です。決して黒を白、絶対儲かりますなんて騙す詐欺師じゃありません。もっとも説明するだけでなく、説得しなくちゃならないという点では詐欺師と同じですね。

ところで確信を与える相手は誰なんでしょう?
組織(認証を受ける組織・あるいはISO9001が適用される範囲)の外部の場合と、組織内部の場合の二つがあり、前者を外部品質保証、後者を内部品質保証という。
騙される人、いや安心してもらう人には、社外の人の場合もあるし、社内の人の場合もあるわけです。
社外の人といっても、直接のお客さんの場合も、最終消費者の場合もあるし、取引関係にない利害関係者の場合もあり、そういった人々の代理・代表として認証したい企業を調査して合否判定をする人がISO審査員となります。
そのために1990年頃は、認証機関や審査員は「顧客の代理人」を自称しました。自称しただけで、本当に顧客の代理かどうかは謎です。真の顧客から依頼されていないことは間違いありません。というと嘘つきなんでしょうか? いや単なる大言壮語でしょう。

ISO9001は、2000年改定で品質保証から品質マネジメントシステムの規格になったと自称しています。自称というのは自分が自分を語ること。他人が認めたわけではない客観性のない再帰的なことです。
「おれはジャイアン ガキ大将、天下無敵の男だぜ♪」と歌っても、お母さんに頭が上がらず、先生にも弱く、自分より弱い人にだけ強いというトートロジーのようなの奴を「口だけ男」といいます。
自称とは信用できないことの代名詞です。

おっとISOが自称というのはその序文に書いてあるからです。

注:正確に言えばISO9001:2000にはない。JISQ9001の序文にある。

この規格の表題は変更され、もはや品質保証という言葉を含んでいない。このことは、この規格で規定された品質マネジメントシステムの要求事項は。製品の品質保証に加えて、顧客満足の向上をも目指そうとしていることを反映している。

俺は偉いんだと語ることは、偉いことを意味しない。ISO9001は剛田 武ジャイアンだったのか?
ともかくISO9001規格は品質マネジメントシステムの規格であり、それは品質保証のみならず顧客満足を目指すものらしい。自称だけど、
ウィンブルドンに行くぞ なお、改善については2000年版と2008年版ではマネジメントシステムの改善だけだったが、2015年版では「10.1 a) 製品及びサービスの改善」が追加になった。けれどもそのフレーズが追加されたのみであり、具体的実施事項はない。
サーフパンツをはけばサーファー気分、ラケット持てばプロテニスプレーヤー、品質保証から品質マネジメントシステムに名前を変更すれば……何事も形からというし、気は心なのであろう。
病は気からなら、品質改善も気からかもしれない……いやいや、そんなはずねーだろー、


さて、ISO9001規格は品質マネジメントシステムの規格だから、要するに仕組みだ。仕組みの規格だから、製品・サービスの設計とか製造や保管について、技術的なことや具体的なことを決めているわけではない。
じゃあ品質を上げるための、そもそもの技術仕様とか工作仕様はどうするんだ?

ちょっと待ってください。それは順序が逆というもの。
そもそも製品・サービスを売買しようとしたとき、まずは品目、仕様、個数、お値段、支払方法(FCAとかどの銀行とか)などだけでなく、具体的な製品・サービスの仕様(性能やばらつき)、品質基準(検査基準や合格水準)などを決めるわけです。
しかし図面だけでは性能や品質が担保できないことは多いです。使用する材料は図面で指定する。でも加工順序や使用する計測器の校正基準などは普通図面指定しない。
それに製造工場の環境管理とか作業者の保有資格や力量の指定は、図面に記載するのはおかしいだろう。そのようなことは工作仕様書にするのが一般的だ。
輸送や保管方法となると、図面指定という範疇ではなく、工作仕様でもない。となると購買仕様書になるのだろうか。
まあ製品仕様、工作仕様、購買仕様などに必要事項を決めれば、買い手が期待することを、漏れなく売り手に伝えることはできる。
そして加工順序や特殊工程(行程完了後にどのような処理だったか調べることができなもの)が重要であれば、後でどんな処理をしたか確認できる記録が必要かもしれない。
だけど物を設計し作る、更に買い手に届けるまでの詳細方法を決めて指定しても、その通りしてくれるかどうかわからない。そしてそれだけじゃ不安だ、品質が担保できないというときに品質保証の出番となる。

もしお暇なら私の書いた小説「異世界審査員物語」「第62話 品質保証その2」あたりから「第66話」あたりまでお読みください。


ええと、私の語り口は 日本昔話ぼうや〜よいこだ♪ のようですが、以上で本日の言いたいこと、つまりISO9001は製品品質を上げないことの説明は終わりなのです。
つまり品質保証は製品品質を上げない、ISO9001の本質は品質保証である、故にISO9001は製品品質を上げないということになる。おぉ、三段論法ではないか!
以上、ご理解いただければ幸いです。

と言いながら上記で理解されてないことは間違いない。
多分こいつおばQはバカだと心中思ってらっしゃるだろう。いや、そうお考えなのは間違いない。いえ、ご謙遜なされずに、私だってそう思いますから。

では解説です。
逆に考えましょう。品質保証を取り決めすれば品質は大丈夫なのかと考えるのです。

買い手
「お宅と取引する製品XYZの品質保証協定を結びたい」
売り手
「ハイ、かしこまりました」

それで安心……なことありませんよね。
品質保証をする前段として、製品仕様、工作仕様、購買仕様をしっかりと詰め、それを売り手と買い手が納得することが必要なのです。
製品仕様通り物を作る自信がないとか、工作仕様があいまいのままとか、購買仕様通りの輸送なんてできないよ、無理だけど契約しないと仕事がもらえないから、そんな中で品質保証協定を締結しても、仕様通りのものができる期待は持てません。


品質保証はわかった。でも話はISO9001だった。ISO9001とはどうつながるんだ?
お待ちしておりました。

品質保証とは「品質要求事項が満たされるという確信を与えること(ISO9000の定義)」でした。会社はISO9001の要求事項を満たすように社内の体制を考え、それを社内の文書(会社規則とか規定とかさまざま)に定めます。
ISO認証とは認証機関から審査員がやってきて、その会社の社内文書がISO規格要求を満たしていること、それから現実を点検して社内文書が遵守されていること、実態がISO規格要求を満たしていることを確認したなら、認証機関のリストに掲載するということです。
掲載するって?
ISO認証の最終目的は、認証を受けた会社と取引するところが、その会社が認証しているかどうか、認証機関のリストを見て確認し、ああ、ここは一定レベルなのだなと安心することです。
それが「品質要求事項が満たされるという確信を与えること」です。
認証機関が元々「審査登録機関」と呼ばれていたのは、審査をして良かったら審査会社のリストに登録するから審査登録機関と呼ばれたのです。

閑話: ISO認証を受けると、認証機関から審査登録証、登録証、登録証書など表題はいろいろだが、免状がもらえる。いやもらえるのではなく貸し出しを受けることになる。
最近はその文面は「○○規格の要求事項に適合していることを証する」とかいう表記が多いが、中には「……適合することを確認したので○○認証機関の登録簿に登録したことを証明する」という表記もある。
実はこれこそが登録証と呼ばれる意味なのだ。認証書というものに意味があるのではなく、認証機関の登録簿に登録されたことが認証されたということなのである。
分かったかな? ちなみに1990年代は、ほとんどの認証証/登録証に「登録簿に登録した」と記載されていた。
当たり前だよね、「卒業証書」には「卒業を証する」とある、作業環境測定士登録証には「作業環境測定法第7条の登録を行ったことを証する」、2アマ無線の「無線従事者免許証」には「左記免許を与えたことを証明する」、すべてタイトルと記載は一致している。
「審査登録証」は認証を証明するものではない。審査登録を証明するものだ。審査はわかるけど、登録ってなんだ? と疑問に思っていた方々、疑問が解消してよかったですね。
審査登録をなぜ認証というのかという新たな疑問が出てきましたか? それは認証という言葉から発する、責任を回避するためなのです。話せば長いから省略。そのうち気が向いたら書きましょう。

話が脱線ばかりしていますが、要点はISO規格もISO審査も、設計も工作技術も対象じゃなくて、それらが完了した暁に、それを間違いなく実行していく仕組みをいかに作り上げるかという規格であり、認証とはしっかりした仕組みがあるかどうかを点検したよという証明であるということです。

ここまできて 大変 なことに気が付きました。
私が今まで書いていたことは、既にISO9001の序文に書いてあったのです。

ISO9001:2015 序文 0.1 一般
この規格で規定する品質マネジメントシステム要求事項は、製品及びサービスに関する要求事項を補完するものである。

ISO9001自身が、我は海の子♪ じゃなかった、我は製品やサービスの技術的なことにはかかわりはない、我が関わるのは仕組みだけだよと言っているわけです。
ISO9001がかかわりないと言っているので、今度から木枯し紋次郎と呼びましょう。


ISOとは技術は技術でも、固有技術ではなく管理技術なのです。
管理技術というものはなんでしょうか? 管理技術は品質を上げないのでしょうか?

では小話を……

おばさん
「あの人は腕のいい職人だけど、呑兵衛でしらふの時しか仕事しない、それに気分屋だから出来のいい時と悪い時があるのよ、」
娘
「そんな人いやだわ。お嫁に行くなら優しくて、気分屋じゃなくて、いつも良い仕事をする人でなくちゃね。おばさん、そういう人紹介してよ」
おばさん
「お前さん、鏡を見たことがあるかい?」

そんなセリフは時代劇の長屋の場面でよく耳にします。
職人なら、腕前、いつも変わらない仕事ぶり、そしてやる気が重要です。
品質は今も昔も変わりません。固有技術、管理技術、そして士気です。品質維持にはこの3本柱が必須でどれが欠けても倒れてしまいます。

ところで、腕のいいのと、気分屋かどうか、いつも前向きに仕事をするのと、プライオリティがあるものでしょうか?

そもそもそのみっつの関係はどうなっているのでしょうか?

品  質
矢印 矢印 矢印
固有技術管理技術士 気

品  質
矢印
管理技術
矢印
士 気
矢印
固有技術

私は長年、左図であろうと信じていたが、あるとき3本柱ではなく、右図のように3つは重なっているのだという人がいた。
その人は物を作るにはプライオリティがあり、絶対必要なものは固有技術だという。呑兵衛で気が向いた時しか仕事をしなくてもいつかは出来上がるだろう、そして職人の頭で考えられる程度の仕事・プロジェクトなら仕組みはいらない。簡単な仕事は固有技術があればよい、複雑なことになると協力するために士気を保つために監督が必要となり、一大プロジェクトになると組織化が必要になる。つまり3本柱ではなく、三つの重なりなのだという。
だから管理技術であるISOは必須なものじゃないとその人は言いました。

どちらが正しいのか分かりません。あるいは見方の違いだけなのかもしれません。

ともかくマネジメントシステム、つまりしっかりした仕組みを作ることによって、仕組みの欠陥あるいはそもそも仕組みがないために起きる問題、不具合は防ぐことができる。言い換えると仕組みに瑕疵があって発生した問題なら、仕組みを直さなければならない。
そしてマネジメントシステムは固有技術に起因する問題を解決できないことは、上図の左右いずれにおいても明白だ。

ものつくりにおいては様々な問題が起きるだろうし、その問題の原因も多様である。問題対策は原因に対応しなければ意味がない。
会社ではどんな問題が起きてるんでしょう?

具体例を考えてみました。

固有技術の問題 管理技術の問題 士気にかかわる問題

上記した問題でISO規格で対応できるものってどれだけあります?

まず新規の発明発見にISOなど無力です。
技術が確立していないものは技術開発を待つしかありません。新事業進出においては保有しているコンピテンスでは対応できないかもしれません。
要するにISO9001とはまったく新しいことへのチャレンジには向かないのだ。

固有技術の問題においても、技術を買ってくる/外注するという判断はともかく、固有技術を向上させるとか、新しい技術を身に着けるにはISO規格は無力です。

士気ならどうか?
会社とは下がイニシャチィブを取る組織ではなく、上が命令する組織です。ですからISOもそうですが、常に管理者が主体となり部下に向かってボールを投げます。技術がないから自己研鑽するのではなく、技術がない者に対して自己研鑽を命じます。
ISOの管理技術は管理といっても、仕組みを作ることで、人を動かすにはそれなりの技量が必要だ。
管理者は、まずは労働法、雇用促進法、安衛法、民法などの法規制や社会常識、会社の方針、モットーを知り、目的・目標に向かって行動させる力量がなくてはならない。
テクニカルスキル、ヒューマンスキル、コンセプチャルスキルなんてのは、その上にあるのです。
ISO規格に基づく仕組みを作れば、人が動く/人を動かせるなんて考えるのは社会経験が足りません。

ISO規格では開発といっているぞ、開発にも使えるはずだ!
そうおっしゃるな、

参考までにそもそもISO9001は開発(development)であって、研究(research)ではない。
「development」は「開発」と訳されているが、英英辞典を引くと、
the process of gradually becoming bigger, better, stronger, or more advanced
 だんだんと大きく成長する過程
the process of working on a new product, plan, idea etc to make it successful
 新製品、計画、アイデアなどを実現する過程
等の意味である。日本語の「開発」もいろいろなニュアンスがある。ひとつに土建屋が宅地造成することを「開発」というが、それがdevelopmentの意味ズバリである。新しいものを創造することではなく、計画を実現することだ。ノーベル賞を取る方法やエジソンの発想が標準化できるわけがない。

ISOマネジメントシステムではノーベル賞はとれない、とれないけど取るための作業や基礎をしっかりするためのツールである。金メダル それで十分じゃないか。
1990年代、多くの人がISOは何でもできる、会社を良くする、ISOで儲けよう、ISOで不治の病も治るなんて言ったかどうかは知らない。
だけどそういうできもしないことをできるといった嘘、あるいは贔屓の引き倒しがISOに対する信頼をなくしたことを忘れてはいけない。
あれから20年が経ち、そういったことを忘れたか知らない人が増えてきて、またISOが品質を良くするとか、ISOで会社を良くしよう、ISOで利益を上げようなんて言い出し始めたのかもしれない。
あるいは、もうほとぼりが冷めただろう、あのレトリックをもう一度と考えているのかもしれない。

警告です。
ISOで製品品質は上がらない、ISOで会社は良くならない、ISOでは儲からない。
でもISOは製品品質を上げる基礎である、ISOは会社を良くするベースである、ISOは損失を少なくする手法であることは間違いない。
それで十分じゃないですか?


うそ800 本日気づいたこと
論理学というと難しいことを考える人がいる。私も中学校か高校で、三段論法とか、逆は常に真ではないなんてのを習ったような気がする。でも全部忘れた。
しかし論理学を忘れても日常生活で見聞きすることは、ちょっと注意すれば嘘かほんとか分かるだろうし、判断できないから考えさせてくれというくらいはできるでしょう。
このところ新型コロナウイルス流行で毎日のモーニングショーやワイドショーで、自称専門家たちがコロナ流行について言いたい放題。しかも語ることが日々変わる。
君子豹変するということわざがあるけど、それって誤りに気が付けば直ぐに過ちを改めることです。気分で語ることが変わるのは単なる考えなしです。中には昨日言ったことと今日言ったことが全く違うコメンテーターもいる。認知症かな?
政治家にもコンクリートから人へ、ダムを作るな自然を守れといっていて、いざ大災害が起きると道路や河川護岸を怠ったのが悪いという人もいます。
2019年に千葉県の送電線網が大被害を受けて停電が長期間続きました。行政の不手際を非難する政党や人々がいましたが、コンクリートから人へと言って公共投資を減らしたことはお忘れですか?
今日本に必要なのは高速道路、橋梁、送電線網などの国土インフラのメンテナンス投資である。
私は「コンクリートからへ」は「コンクリートから人柱ひとばしらへ」の間違いだと思う。

人柱になりたい人いますか
人柱とは 昔、世界のどこでも工事完成、戦争勝利、天災を払う祈願の際に、人間を犠牲にした。旧約聖書を読むと普通の祈願では牛を神に捧げたが、重大な時は人を犠牲にした。
日本でも橋を作る工事では無事完成を祈願して人を埋めたので、これを人柱と呼んだ。
犠牲の本来の意味は、天災などで亡くなることではなく、重要な目的のために命をささげることです。しかし、現代では本来の安全や完成のためというポジティブな意味でなく、単に無為無策による犬死などネガティブものを人柱と呼ぶ。危険だといわれても死者が出なければ対策しないのはよくあること、

そしてISO9001認証したけど品質が良くならないと頭をひねっているISO事務局もいるし、その問いに対して御社のマネジメントシステムが未熟と答えるコンサルもいる。
まあ、人生いろいろ、いやいや、いろいろあっては困ります。あるべき姿は一つ、論理的に考えることと思います。

書き始めたときは4,000字にまとめたいと思いましたが、非論理的な私なので不要不急の文字が多すぎ9,000字にもなってしまいました。まだまだ未熟であります。




外資社員様からお便りを頂きました(2020.09.29)
>品質保証
>(何事かあったとき責任逃れをする仕組みといいましょうか)
>お客様に当方がしっかりやっていることを示す仕組みのことです。
仰る通りですね、前提として事故や不良は当然にあるのだという事とおもいます。

ISO信者の方々と話して違和感があるのは、まさにここ。
「事故や不良は常にある」というのは言ってはいけない、言霊の世界みたいです。
「ゼロリスク要求」も同根。「事故があったらいけない」要求だから、事故対応の計画をすると、「そんなに危険なのか」と騒ぎ始める。
日米の安全教育の比較でも良く出てくるのは、子供の「火の用心」の教え方。
米国では子供は火遊びをする前提で、まず消し方を教える。
日本では「火遊び」そのものを禁止し、その啓発、教育に重点を置く。
原発の訓練でも、些末な事故を大騒ぎする外部から圧力も原因でしたが、事故を前提とした訓練が不十分だったのが災いしました。
どちらが良いかの話はするつもりはありませんが、事故や不良を前提にしないと対策は出来ないですよね。

>「品質マネジメントシステム」
明快な解釈有難うございます。「ISO関係者」を名乗る人々から言われて、この意味が、ずっと解らなくて、自身の理解不足を悩んでいたのですが、やはり「マネジメント」の一部で品質に関連する部分なのですよね。 そして単独ではシステムとなりえない。
この点を勘違いしている人は、未だに多いと思います。特にISO認証にかかわるとなぜかそうなってします。
ビジネスの観点から言えば、製品の品質は、常にコストとの相反関係にあり、出荷判断は、利益が確保出来て、顧客が受け入れられる範囲での品質との妥協の産物なのです。その境界線は時間やロットにより常に動くから、適宜見直す事が必要。
そういう観点ならば「品質マネジメント」と言っても良いのかと思いますが、実際には「利益マネジメント」との両面を持つから、やはり単独では成り立たない概念なのです。
ビジネスの観点で言えば、顧客が受け入れられるならば、利益を最大限に出来るのが正しい品質なのです。 これが理解できないから、日本の一部の企業は「過剰品質」という自己満足に陥ったのかもしれません。

「マネジメントシステムは品質を上げない」に出てきた士気にかかわる問題2つ。
これは、判りやすい事例ですね、いつも参考になります。
>1)病欠が多く出勤率が低い⇒時間外が多すぎる、人の手配
>2)近くに大企業の工場ができて、従業員の3割が転職しちゃいました
1)は労務管理や安全衛生、そして順法の問題で、会社としての管理能力。
まさにマネジメントシステムですが、2)も含めどちらもISO規格とは無関係。
2)は提供されている労働への価値判断に問題あり。 地域の賃金相場はあるでしょうが、それに甘えて低条件だったのでは? 低賃金で原価を押さえても、どこかで無駄な出費が増え利益は増えない。適性賃金を払った上で利益を出せる製品が無ければ、そもそもビジネスとしては不健全。
そういう意味では、低賃金を前提としたビジネスモデルというのは、地域経済の初期段階しか存在出来ない雑草みたいなもので、強い植物が出てきたら消えるか、他の低賃金の地域に再展開するしかないのでしょうね。
そういうビジネスモデルの立ち位置を、そもそも理解しているかが経営者の問題なのだと思います。

外資社員様 毎度ご指導ありがとうございます。
まずおっしゃる通り、原発の事故のときどうするというのは2011年以前、考えてはいけないことだったように思います。言霊じゃありませんが、考えなければ起きないとでも思っていたのでしょうか?
北朝鮮がミサイルを撃つのを考えちゃだめだとか、中国が攻めてくると考えちゃだめだとか、笑うしかありません。

マネジメントとマネジメントシステムは意味合いが違うと思います。私がいったのは「品質マネジメントシステムはシステムでない」ということです。
品質マネジメントは「品質に関するマネジメント」と定義されていて、これもわけわかりません。一般的(というか1990年頃のISOの定義)には「品質管理」「品質保証」「品質改善」を合わせていいます。
品質マネジメントシステムの定義は「品質に関するマネジメントシステムの一部」です。マネジメントシステムとは会社の仕組みすべてですから、当然品質に関するマネジメントシステムは会社のマネジメントシステムの一部であるというだけです。
システムでないものにシステムという接尾語をつけたのが間違いだったと思います。システムが付くんだからシステムだと考えた頭の悪い人が多かったのでしょう。元からISOなんて担当している人たちは、営業や設計や製造の第一線で使い物にならない人たちですから推して知るべしです。

士気にかかわる問題……笑っちゃいますが、私の実体験です。朝から酔っぱらって出勤してきた人がいてなだめすかして帰らせたり、夫婦げんかで当日休暇とか困りました。
長い人生(でもないですが)には、長いみじめさがあります。
引退すればすべては笑い話ですけどね、


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