ISO第3世代 58.人材育成その2

23.03.16

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。

ISO 3Gとは

5月の連休明け、監査部の会議室で打ち合わせが行われていた。
顔ぶれは、監査部の島田、早川、こちら側は山内参与、上西、磯原、増子である。

島田 「環境監査を開始したのが昨年春からで、今までに社内30工場のうち18工場、関連会社では規模の大きな製造業をメインに15社行いました。本日は昨年度の結果をもとに反省を行い、それをもとに今年度の方針というか方向付けをしたいと考えております。
会議室机 2017年度の監査結果ですが、上期は不適合が多数出てさんざんとしか言いようがない状況でしたが、下期は上期に行われた先行工場の監査結果を見て如才なく対応したようで、不適合は大幅に減りました。もっとも監査の目的から言えば、不具合があっても是正すればよいわけで、不適合がないほうが良いと言い切れるものでもありません。
多いものとしては液体漏洩と廃棄物が3割ずつ占めています。残りの4割は多種多様ですね」

注:ここで示す不具合内容は、概ねどこでも似たようなものと思う。もちろん業種により内容と割合は多少異なるだろう。

早川 「漏洩そのものは監査で見つけたわけではなく、それ以前に発生したものです。我々の監査で、本社報告に該当するのに報告していないものを見つけたわけです。
大規模な流出事故はありませんでしたが、配管接続部からの漏洩とか、脱脂槽の加熱用蒸気配管にピンホールが空き、そこから配管側に吸引したとかいろいろです。
廃棄物の多くは契約書の記載不備とか許可証期限切れでした」

増子 「それは重大ですね。どう処理したのでしょうか。罰金かなあ〜(注1)

早川 「幸いに保管期間の5年を過ぎていて時効だったのです。一応県の環境課に相談に行き了解は取りました。向こうとしてもどうしようもないです。今後、指導が入るかしれませんが。
販売会社においては一般廃棄物と産業廃棄物を、ごちゃ混ぜで産廃業者に委託していたのがありました。販売会社が建設業の許可があり、建設工事からのものと合わせて委託したとのことです。業者の許可は問題なく、処理も問題はなかったです」

増子 「現実にはそういうこともあるでしょうね」

注:紙類や木材などは建設工事からでたものは産業廃棄物になり、それ以外の業種では一般廃棄物になる。
建設工事をしている販売会社なら工事から出る廃棄物が大量にあり、オフィスから出たものが少量ならまとめて委託することはありがちだ。

早川 「現象はそのような状況でしたが、原因は次のようです」

区分原因件数%具体例
事故(顕在・潜在)事故の予測不十分311漏洩範囲の予測が甘い
設計・施行不適切28ステンレス材質選択ミス
点検・保守不適切415定期点検で配管の水密検査をしていない
法に関わるもの法規制知らず8l31l書類保管期限・許可証期限知らず
仕事間に合わず14提出書類そろわず
計画性なし28有資格者育成遅れ
仕組み不十分内部監査機能せず622遵法を見ていない/真の原因まで至らず

山内参与 「法規制を知らずが3割か、これは対策が必要だな。
次が内部監査機能せずか……監査部監査に派遣されている工場のメンバーも頼りになる人は少ないな。監査と言わず、環境担当者のレベルアップが必須だね」

増子 「これは廃棄物担当教育を根本から見直さないとなりませんね。そもそも現在、工場で廃棄物を扱っている人たちはどんな教育をされているのかしら?」

磯原 「増子さん自身、入社してから廃棄物の教育なんて受けたんですか? 私の知っている人は皆 見よう見まね、門前の小僧ですよ。
紙マニフェストは前任者の書いた現物をなぞったり、電子マニフェストソフトは、教えられた通りパソコンを立ち上げるのがやっとという感じでしょう。
いっときは年配者もパソコンを使うようになるかと思えましたが、スマホが流行ってパソコンを使う人は増えなかったんじゃないかな(注2)

増子 「ま、それが現実か……」

島田 「法規制というか書類についてはそうかもしれませんが、事故の原因としてはリスクを想定するのが苦手なようです。設計や工事が不適切とかメンテナスもしっかりやっていないとは、その設備の機能や重要性を認識していないと言い換えられるでしょう」

上西 「まさにそうですね」

磯原 「あのう〜、どこでも予算不足、人手不足、時間もないという環境下で仕事をしているわけです。現場の責任という表現はしてほしくないですね。

設計とか工事不適切といいますが、現実にはこの設備なら4000万かかるのが当たり前と思われるものでも、事業本部の審査で7かけ、8かけになるのが普通です。紙の上では5000万を4000万にしろとは言えますよ、でも現実にそんなことできません。車なら3ナンバーは高いから5ナンバーにするというのはありでしょうけど、排水処理施設を3割下げるなんてマジシャンにだってできません。

法に関わるもので仕事間に合わずというのは、具体的には役員交代で廃棄物処理施設関係の届けが遅れたとあります。工場で届け出なければならないのが30日以内ですが、本社の秘書課に申請しても時間がかかるといわれて30日くらい待たされることはざらです。
必要資格者の育成に計画性がないというのも見た目はそうですが、現実には定年間近な人ばかりしかいないとか。環境部門に若手が配属されていないのは、事業本部も含めた工場経営全体の問題です」

上西 「磯原君、そうかもしれないが現実として違反とか事故が起きたら現場の責任だよ」

磯原 「課長、そういうのを現場の責任といえますか。まあトカゲのしっぽ切りで課長更迭で幕を引くのが普通かもしれませんが、それは問題解決にはなりません。
責任というなら対策がとれる人や組織でなければ論理が合いません。人モノ金がない部門の責任だというのは、上位組織の責任逃れです。
当然是正処置の責任は事業本部ですし、役員の届け出遅れは本社が対策しなければならない性質です」

山内参与 「役員の届けは、秘書課の役員交代時の実施事項に盛り込んでもらったな」

磯原 「そうです。そういうものが真の是正処置でしょう。今年の株主総会以降は、今までより順調になると思います。とはいえ30日が守られるかどうかは定かではないのです。
ともかくそのような対策をしなければ解決しませんから、問題が起きたのは工場でも、工場が悪いとか環境課が悪いとか、あるいはそう受け取られる表現はしてほしくありません。
客観的に見れば、是正処置をする部門に責任があるはずです。是正処置をとれない部門に責任があるはずがない」

上西 「しかし磯原君、そういう論理では問題をあいまいにするだけで解決にならないよ」

磯原 「いやいや、課長、権限も予算もないところに解決せよといっても、解決できるわけありません。
課長が工場にいて、人も金もない状態でお前の責任だと言われても困るでしょう。例えば公害防止管理者が退職するので有資格者を育成しなければならないとき、50代の課長が一番若いなんて珍しくありません。定年間近で現場の職長を引退したとか、病気で営業や設計や現場では使えないが、環境課の植栽の維持とか清掃の仕事くらいできるだろうと回されてきた人しかいないのが現実ですよ」

上西 「だからさ、そういうことでもなんとかしなくちゃならないんだ」

磯原 「課長の論は現実を見てないし非論理的ですね。
そういう人も使えなくちゃならないでしょう。でもそういう人だけで仕事ができますか?
理想論と根性だけではできないことがあるのです」

上西 「君ならどうするんだ」

磯原 「上に嫌われるのを恐れて仕事はできませんよ。人の確保、資金の確保、それを要求するしかありません。
そしてリソースを確保する責任は経営者にあります」

人

注:「経営者はリソースを確保して提供せよ」というのは、ISOMS規格の嚆矢であるISO9001:1987にあった。もちろん現在に至るまでISO9001でもISO14001でもすべての版に記述されている。
だが企業において経営者にそれを知らしめているだろうか? それを認識していない、あるいは実行していないなら、そもそも認証と縁のない会社である。

上西は先日(57話)、山内からできないというなと叱責を受けたのを思い出した。磯原の発言は、あのときの自分の意見と同じだ。
今、山内は磯原の発言をどう考えているのかと、山内の顔色をうかがった。
ちょうど山内が口を開き、その回答はすぐに得られた。

山内参与 「人が足りないとか金が足りないとかは、今ここでは何とも言えない。
提案だが、とりあえずここでは問題点をまとめよう。そしてその問題の原因対策についてどのように対応するのかは、事業本部と工場で検討してもらおう。人の問題などここでどうすると結論は出せない。事業本部や工場によって、対策が異なるだろう」

磯原 「そうしていただければうれしいですね。ともかく工場が悪いと受けとられる表現は止めましょう」

島田 「磯原さんはだいぶ現場の肩を持つようですが、なにか思うことがあるのですか?」

磯原 「肩を持つわけではありません。それが現実だからです。現実を見ずして改善はありません。
まず私は工場や関連会社の監査すべてに参加しているわけではありません。
しかし監査報告書や是正計画書のとりまとめとその最終確認について、監査部と工場間のやりとりを取り持っています。その過程で工場サイドの本音というか愚痴や悩みは十分聞いています。もちろん片方の意見ばかりでは偏りますが、事業本部の方や他の工場と横通しで見て、人員配置や設備の更新などを考えるといろいろな事情というか障害があります。

私の経験ですが10年前、省エネのための測定にワイヤレスの電力計が必要でした。今はワイヤレス電力計も安くなりましたが、当時はとんでもない値段でした。投資計画を立て申請しても、それがなければ生産できないのかなんて工場で言われました。なんとかそれを説得し、事業本部まで行くとまた同じことを言われ、やっとのことで財務部に辿り着いても同じことを言われました。もう省エネなんてしないほうが、資料を作ったり説得する人件費がかからなくて、コストダウンになるとさえ思いました。

そういう体験を何度もしましたから、国家試験に合格できる人が欲しいとか、老朽化した設備を更新したいという願いは他人事と思えません。
上西課長だったそういう経験したじゃないですか?」

上西は突然名前を呼ばれたのでハッとした。自分はそんな苦労をした覚えはなかった。投資計画などなんでも通ったという記憶しかない。必要なもの、ほしいものは何でも手に入った。
なぜだろうか。工場が大きな黒字を出していたからか? 売り上げが大きく環境関係の予算の比率が小さく見えたのか?
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上西 aser.gif
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俺は恵まれていたんだ!

そういえば他の工場に配属された同期は、投資計画の説明書は100万1センチだと嘆いていた。つまり投資額100万円なら厚さ1センチの資料を作り、1000万円なら10センチ必要になるという。
上西の工場では100万ならA4で2ページくらいだった。さすが1億の設備の経験はないが、6000万かけた排水処理施設ではメーカーのカタログや仕様書を含めて、厚さ4〜5センチだったと思う。
資格取得でも、5年に一人は大卒が配属されていて、技術技能の伝承は滞りなかった。また皆優秀で、配属されて数年以内に公害防止管理者全種目取得していた。もちろんそれ以外の環境の資格も、業務上必要でなくても競って取得していた。

上西はそれが当たり前だと思っていた。もちろんそれだけ環境施設があったわけだが、「人もの金」共に恵まれていたのは間違いない。
現実は上西が思っていたのとはだいぶ違うようだ。

上西 「いや、私はそういう苦労はしたことがない。工場によっては大変なんだね」

山内参与 「当社でも儲かっている工場もあれば、そうでもないところもある。また数千人働いている工場なら環境管理も二三十人いるだろうし、1000人もいない工場なら3・4人というところもある。そんなところでは廃棄物も公害も電気も建屋の管理も、一人何役もこなすから、仕事の深さが浅くなるのはやむを得ない。
なにごとも自分の知見を一般化してはいけない」



早川 「ええと、次の話は、やはり監査員の力量向上というか、ある程度のレベル以上のみ参加させるという制度にしないと問題であると感じました。
今後そういう仕組みを考えておりますが、どうでしょう?」

磯原 「おっしゃることは十分わかります。とはいえ足切りすると監査できる人が減るばかりです。まあ、元はといえば工場の環境担当者のレベルが低いことです。
それについては今年度も環境担当者教育を継続し、今度から現地でも環境施設見学も加えたいですし、それから修了試験を行い一定基準以上を修了者とするようにする予定です」

早川 「昨年度終了した人も再試験ということでしょうね?」

磯原 「具体的方法は未定ですが、いろいろレベルアップの手を打ちます。
今回の監査結果のまとめでは原因に取り上げられていませんでしたが、工場の環境担当者の力量が低いということが、危険予知が不十分、設計や施行の問題、保守の問題、法規制を知らないなどの真の原因の一つでしょう。
監査員教育ということでなく、環境担当者教育を体系的にしたいですね。予算は昨年と同じですが、場所とか方法を見直して効果を出すようにしたいです」

早川 「昨年までいた、ええと……佐久間さんでしたね。彼にもう一度来てもらい、監査の指導監督をさせたらどうですか」

山内参与 「彼もこの3月に定年になりまして、嘱託になったのですが、通勤が辛いとか言われて泣く泣く千葉工場に戻したのです」

島田 「監査部監査の時だけでも応援扱いで来てもらうとか、検討できませんか。よろしく頼みます」

山内参与 「検討します」

山内が両手をテーブルについて頭を下げる。磯原はそれを見て、なんとかせねばと思う。

増子 「せっかく教育しても異動してしまうと意味がないし、定年間近な高齢者しかいないとどうしようもないのではないですか?
山内さんのほうから各工場に、環境教育修了者がいなくなるような人事異動をしないようにと通知を出せませんかね?」

山内参与 「確かにそうだが、今の時代は常にリストラを行っているし、また技術革新と世の中の流れもある。蒸気の用途はどんどん電力に切り替わっているし、ボイラーも更新のたびに小型化が進んでいる。だから必要な資格や技能もどんどん変化している。それを考慮してとなると難しいだろうねえ〜」

注:リストラ(リストラクチャリング)とは本来は「不採算部門の整理、成長分野への転換など業態の再構築をはかること」である。俗にいう、単なる人員整理とか解雇の意味ではない。

島田 「工場の内部監査もレベルアップが必要ですね」

山内参与 「そこんところはまず仕組みをどうするかですね。現在、本社支社はISO審査対応の内部監査を止めてしまい、監査部監査を内部監査に位置付けました。
しかし工場では監査部監査は対象セクションが細かくないし、監査のインターバルも長いので、即切り替えは難しいです……もちろんISO審査に合格するためにはという前提ですよ。
ISO認証が必要かどうかは別に考えるとして、認証をするならISOのためのことをしないとならない。遵法と汚染の予防をしっかり見ようとすると、とても今のように環境部門の内部監査に2時間程度では意味がありませんね。
監査部が行う環境監査は、今は最低二日長ければ三日、しかも監査員は3乃至4名でしょう。監査の密度が違いますよ」

磯原 「工場の内部監査員で遵法と汚染の予防を点検するなら、監査員のレベルアップも必要です。現在工場では監査員の要件として、ISO規格というかISO要求事項についてある程度の知識があればOKとしています。
でも監査部監査で見つかったようなことを工場の内部監査で見つけようとするなら、山内さんがおっしゃったような所要時間だけでなく、工場の内部監査員を監査部監査の監査員と同じレベルにしなければなりません。
先ほどの話からも、とても難しいことはご理解いただけると思います。まして内部監査では、環境管理部門以外の人が監査をしなければならず、そんな人が工場にいるなら、資格者が足りないなんてことが起きるはずがありません」

山内参与 「それにつけてもISOのための内部監査など全く意味がないのだな。ということはISO要求事項も実戦的ではないのだろうか?」

磯原 「ISOの規格要求が間違っているとは思えません。長期的視点でかつ経営者がリソースを確保してくれる環境なら効果はあるでしょう。
しかし現実の、ないない尽くしの環境下で知恵を絞り汗を流して頑張っている状態では有効じゃないのです。金持ち喧嘩せずとも言いますが、けんかに勝つには金がないと勝てません。金がないときにISO要求事項など紙に書いた理想論なんです」

増子 「磯原さんのおっしゃることに同意です。正直言って現状は日暮れて途遠しですね。私には解が見えません」

島田 「増子さん、それを考えるのが環境課の仕事ですよ。監査結果の問題や対策を考えるのは監査部や監査をした人ではなく、環境課だ。そうだろう上西君」

上西 「はい、そうです」

磯原 「ちょっと待ってください。原因究明をするのは環境課でも良いでしょう。しかし是正処置を考えるのは原因部門です」

島田 「原因部門とは?」

磯原 「環境以外の業務監査がどのように行われているか存じませんが、問題の原因は発生部門の責とは限りません。
例えば情報システムにミスとかバグがあって、発注や製造にトラブルが発生したと仮定しますと、 漏洩事故 その原因部門は情報システム部とか外注したソフトハウスになります。
仮に投資を申請していたにも拘らず認許されず、古い設備をだましだまし使っていて、排水処理に異常が起きたときの責任はどこになるのでしょう?」

島田 「仮定のお話ですね?」

磯原 「そうです。しかし早川さんがお配りしたこの一覧表にも、類似の事故はありますね。予算を認めなかった部門の責任とまでは言いませんが、是正処置は予算を認めることになりませんか。いずれにしても設備に金をかけなければどうにもなりません。
そういうことは多々経験しました。もちろん現実には、工場が悪い、担当部門が悪い、担当者が悪いといわれましたよ」

一瞬皆が沈黙してしまった。頭で考えたことと工場の現実は違うのだ。
だからこそ失敗コストと予防コストをよく考えて、どこに線を引くかを決めなければならない。それは経営判断であり、現場の権限でもなければ責任でもない。
わけのわからない人が、現場の責任といい、上に良い顔をしたい人(上西課長とは言わないが)がハイハイと従う構図では、あるべき姿の実現はできないし、改善も進まない。

山内参与 「磯原君の発言で、宮城工場の件(第8話)を思い出してしまったよ。生産性向上のための予算が認められなかったために、環境関係の予算を横流ししていたあれだ。
あの結果、監査部長は辞任、工場長と部長は左遷と……まあルール違反だから罰を受けるのは仕方がないが、考えるさせられることはあるね」

島田 「早川さんと私が今ここにいるのもその影響ですね。組織にいれば個人の意志だけで決定できず、己の不作為によって咎を負うこともあると……」

磯原 「耳障りの悪いことばかり申してすみませんが、不作為というと責任がないように思えますが、それは事後従犯であるということでしかありません。
他人の間違いを見つけたなら、それを指摘しなければ指摘しない人も責任を問われるのは当然です」

山内参与 「塩野七生の書いたものに『ローマでは敵前逃亡は死刑、それを見逃したものも死刑となった』とあったな。厳しいと思うかもしれないが当然だ」

島田と早川が何かこそこそと話をして、早川が立ち上がった。
風向きが悪くなったので話題を変えようとしたのだろう。

早川 「話を変えます。
有資格者の短期育成には何か手がありませんか?」

山内参与 「実現性があるかどうかわからないが、増子さんが監査部監査に参加したとき(第51話)増子さんが薬剤師だから、環境関連の国家資格を無試験とか講習会を受けただけで資格が取れると話をしたそうじゃないか。
それを聞いて私が思ったのは、有資格者が足りないとか試験が難しいというなら、いっそのこと薬剤師を採用して公害防止管理者などをさせるのも考えられる。
増子さん、そういう採用条件で薬剤師免許を持っている人が応募してこないかな、どうだろう?」

増子 「まず、内定は国家試験の前でしょう。そして合格率は7割弱、受験回数制限はありませんが二度目三度目になると合格率は5割を切ります(注3)
ということは試験合格すればめでたしめでたしですが、そうでないときは処遇をどうするか問題ですね。不合格ならダメヨではひどいし、次年以降当社を希望する人はいないんじゃないかな。
賃金を考えると、若い時は薬剤師の方が高く、40を超えたら一般企業の総合職の方が薬剤師の平均賃金より高くなりますね。
ただ薬剤師の6割は女性です。今は出産や育児の休職の扱いはよくなりましたが、当然総合職でしょうから自分の転勤もあり、夫は夫で転勤がありますから……どちらも難しいですね。私だって有資格者がいないから転勤してくれと言われたらいやですよ。キャリアとしてどう評価してくれるのか?
それなら薬剤師はパートと割り切り、夫の転勤についていくという選択のほうが良いかなあ〜」

注:薬剤師試験不合格になった場合、ドラッグストアや調剤薬局での採用がどうなるかは、企業によっていろいろだそうだ。そのまま採用もあるし、そうでないところもあるそうだ。
薬剤師の平均賃金は、大卒大手企業の総合職に比べて新卒時から30歳くらいまで高い賃金を得ているが、30過ぎでほぼ同じになり、35すぎでは逆転する。
これは女性の薬剤師の場合、出産や夫の転勤などで正社員からパートになる人が多いことかと思える。一般企業の総合職では、基本的に転勤がある。純粋な性差別より雇用形態や労働力の流動性の方が男女の賃金差に影響が大きいのではないだろうか。

山内参与 「まあ例えばだよ。
ブレインストーミングでは、ダメもとでもいいからいろいろなアイデアを出すじゃないか、そんな発想と受け取ってください」




解散すると磯原がすぐ会議室を出たので、上西は山内に声をかけた。

上西 「山内さん、質問です。以前、私が環境課には人がいないと申し上げたとき、山内さんは実情をよく見て考えろとおっしゃいましたね。
本日の磯原君の発言はそれと同じと思いました。しかし山内さんは磯原の意見には賛同したように思います。なぜでしょうか?」

山内参与 「わしはあいつと2年付き合ってきた。その結果分かったことだが、あいつはうそをつかないし、発言にはすべて裏付けがある。あいつができるといえば実行可能で、ダメと言えばまずうまくいかない。だからあいつには考え直せとは言わない。
先日、君に言ったことだが……鈴木課長と奥井の仕事ぶりを知っていれば、今現在環境課で人が足りないという考えはありえない。わしだってできないと思っていることは命じない。
ところであの後、柳田にいろいろ教えてもらったのだろう。彼女は君の仕事が大変ですねとは言わなかったはずだ。現実を認識している者なら見解は同じだ」

上西 「私が現実を認識していなかったということですね」

山内参与 「そういうことだ。工場からきて本社が伏魔殿とは知らなかったというならともかく、工場から来て当社の工場の実態を知らないとはいささか問題だ。
それから磯原が悪を見逃すのは事後従犯だと言っただろう。あいつは他人に厳しいし、自分にも厳しいんだ。そういう価値観・倫理観を持って仕事にあたってくれよ。
それから気になったことがある。君の真意を聞きたいが、監査部の早川から監査結果の問題や対策を考えるのは環境課だと言われて Yes と答えたのはどういうわけだ」

上西 「えっ、そういうものじゃないんですか」

山内参与 「そういうものかどうかわしは知らんな。磯原は黙っていないで思うところを語った。君はどう思う」

上西 「まあ〜、磯原君の話にも一理あるかなと……」

山内参与 「わしは磯原の話が正しいか適切か分からない。しかし彼はあの場で責任あることを語っていたぞ。もし環境課が問題の対策を考えるという結論ならば、やらなければならないと考えている。彼はそうではないだろうと考えて、それを責任を持って発言しているのだ。環境課長として上西君は言われるがままなのか?」

上西 「目上の方の意見ですから否定するのもなんだと思いました」

山内参与 「それこそ不作為だな。過ちを見逃すのは罪なのだ。社内犯罪の多くは、上司の決定をそのまま受け入れたことによる。後で自分は従っただけと言ってもせんのない話だ。その結果は自分が負うしかない。せめて課員を巻き添えにするなよ。

ところで見たところ磯原はもちろんだが、増子もなかなかの人物だ。君は安心してやっていけるぞ。
もちろん人や能力が十分でも、丸投げではだめだ。常に状況を見て負荷や繁忙をならすとか、不得手な仕事はアシストする、そういうことが管理職の仕事だ。
君のいた工場は当社でも大きなところだから、人も十分にいて皆自分の担当は詳しい。だから管理が放任でも動いていく。だが少人数の職場では管理者は無駄なく効率良く進むように指揮しなければならない。まして君はプレイングマネジャーだ。やりがいはあるはずだ。

上西 「分かりました。山内さんの信頼を得るよう励みます」

上西は入社してから20数年、今まで仕事をしていた姿勢を否定された気がする。上司の命令を疑うことなく実行し、達成してきた。それではまずいのか?
もちろん様々な改革や新しいアイデアを出してきた。とはいえそれも上司はこう考えているだろうと思っていたからだ。自分はそんな気遣いが大事なこと正しいことと考えている。少なくても高く評価され同期では常に昇進のトップグループにいた。
本社では違うのか? いや他の工場ではみな自分で考えて行動しているのか? そんなことで仕事は進むのか?


うそ800  本日の注意事項

私は現役時代、上に良い顔をするより、下に誠実であろうと務めました。それが私の誇りです。組織人としては失格ですね。別に正義感に燃えず、ハイハイと応じていた方がえらいさんに好まれ良い目を見るのはわかりきったことです。
まあ、それができないから今があるわけです。
とはいえ齢70を過ぎた今、嘘をつかず真面目に働いたと思えれば心は平静です。少なくても私を恨んでいる人はいないでしょう。


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注1
具体的な事例をいくつか知っているが、ここには書けない。事例によって処分はさまざまである。
現象も条件もみな違うから、相場は分からない。

注2
〈調査報告〉
インターネットの利用環境 定点調査(2021年上期)
インターネットの利用環境 定点調査(2022年上期)
これを見ると、スマホのみ使う人は全体の7割を占め、PCのみ利用者は絶滅危惧種となり、スマホもPCも使う人は減少中である。

注3



外資社員様からお便りを頂きました(2023.03.17)
おばQさま
>過ちを見逃すのは罪なのだ。社内犯罪の多くは、
>上司の決定をそのまま受け入れたことによる。
>後で自分は従っただけと言ってもせんのない話だ。

正にその通り、組織のコンプライアンスって、これに尽きていますよね。
とは言え、出来そうで出来ないから、不祥事は発生するし、最後は担当者が追い込まれたり、内部告発者は、守られるどころか、裏切り者と言われる場合もあります。

世間では、諫めても聞かない上司が当たり前。
その時どうするかは、昔からあった命題で、礼記にあるべき姿が描かれています。
「三度諫めて身を退く」(礼記:曲例下)
三度言えば、ウルサイと言われるでしょうし、それで判らない組織にいたらロクな事になりません。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
いやいや、煙たがられたと思いますよ。そして冷や飯食ったのも事実です。
でも過ぎ去ればすべては小さなこと、生きているだけで金メダルですよ。
生まれてきたことに感謝しかありません。


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