ISO変革の始まり 2007.03.04
私は以前は品質も担当していたのだが、現時点は環境一筋で付き合いもほとんどが環境である。それで本日は環境についてのみ論じる。
ISO14001の認証をしている会社あるいは事務局の考えが変わってきたように感じる。
最近良く聞くというか、相談されることは
 「審査機関を変えようかと思っている」
 「審査登録の意味がないから返上しようかと考えている」
 「審査登録をやめて、ISO14001の自己宣言しようと考えている」
などなど、
これは私の創作ではない。実際今まで審査機関のいうがままにシステムを改変してきた知り合いが「自己宣言しようかと思うんだ」と言ったとき、私は正直腰を抜かした。

彼らは、審査で不適合が出されるからいやだとか、細かいことを言わない審査機関に鞍替えしようと考えているのではない。また審査費用を節約しようとしたのでなく、審査費用が高い審査機関に鞍替えした会社もある。そういった会社も事務局も環境活動を一生懸命しており、特に遵法に関して非常に気を使っているところが多い。彼らは品質や環境の重要性を十分に認識しているのだ。しかし、いままでのISO審査に物足りなく、今まで以上の価値のある審査を求めるか、審査を不要と考えたということである。 当然といえば当然であるが、ISO認証しようとしまいと、環境活動の成果は変わらない。ISO認証によって遵法が担保されたり、環境パフォーマンスが向上するはずはない。
man7.gif ISO規格の序文に書かれているのは「組織のパフォーマンスが法律や組織の方針を満たし継続していくためにはEMSが必要」なのだが、認証が必要とは書いてない。それどころか「この規格は認証にも自己宣言にも使ってよい」とある。
当然というか当たり前というか、すべての組織はゼネラルマネジメントシステムの一部として、必ず環境マネジメントシステムがある。ない組織はない。どの組織でも十分か不十分かはともかく、EMSを有しているのである。
ISO規格を満たしているEMSを確立し実施し維持し改善している組織にとって、第三者認証をしてもしなくても同じである。 そしてISO規格を満たしていない組織は元々認証されていない。
少なくとも建前というか理屈はそうなっている。
認証とは単にその会社のEMSが規格に適合か否かを第三者が客観的に判定してくれるというだけだ。ところが、現実には審査機関によって審査基準がばらついていて、判定は客観的でもなく、力量も怪しいということが知れ渡ってきている。
そして一部の審査機関に限定されるのか普遍的なのか私は断言できないが、多くの場合、審査登録のためには多大な文書を作り、また記録を残さないとOKがでないのが現実である。それというのも審査員が企業の現実を見て規格適合か否か判定する度胸がなく、文書・記録があると安心するらしいのだ。
更に言えば、現実問題として第三者認証を得たことと、順守状況とかパフォーマンスはリンクしないようである。また第三者認証は法順守確認ではないといいながら、万一法違反があればアットいうまにその会社の認証を停止する審査機関に対して道義的責任の欠如を感じない人はいないだろう。

EMSの第三者認証制度にはISO14001だけでなく、その代用品、入門コースとしていろいろなEMS認証制度がある。
ISO規格に基づかないEMS認証制度をNon ISO EMSとかLoss formal EMSというそうだ。
冒頭に述べたこの関係者の考えの変化がこれらのNonISOにとってチャンスになるのか考えてみよう。それはISOにアイソを尽かしている人々が期待するものを、これら代用品EMSの認証制度が提供してくれるのか否かである。
私はエコ○テージやエコ○クションの活動もはたで見ているのだが、現状ではその期待を満たしていないと感じている。まず最重要なことだが、それらの規格は、認証を受けようとしている組織の期待に応えようとはしているが、認証を受けた組織の顧客や一般社会の期待に応えようとはしていないのではないか。
mankomatta.gif 組織あるいは社会が審査登録に何を期待しているのか? より正確に言えば審査登録において何を保証してほしいと期待しているのかを考えてみれば明快である。
これらの簡易版EMSの多くは(認証を受けようとする)組織ができるレベルで仕組みと活動を定めている。本来なら社会が要求するレベルで仕組みと活動の基準を決めるべきだ。
顧客満足という言葉は既に市民権を得ているが、顧客とは誰かということを知らない人が多い。著書や講演会、あるいは審査の場で組織を顧客と呼んでいる審査員や審査機関の幹部もいるのである。そういう発想なら、組織ができるレベルで規格を作るのも当然だと思う。
しかしそれでは広く社会から受け入れられることはないだろう。
社会が求めるもの、それは第一義に遵法である。環境改善・CO2削減なども重要なことはわかるが、第一段階で最低限要求されることは法規制の把握と遵守評価である。

正確に言えばその前に環境側面があるのだが・・それを言い出すとまた環境側面特定という不毛の論議がついて回る。 規格とIAFノガイドは環境側面の特定を組織に一任すると決めているにも関わらず、自分の好みに合わせようという審査機関がある。
こういった審査機関、審査員はガイド66を読んでいないとしか思えない。そしてそんな審査機関を認定している認定機関は審査機関を管理監督しているのだろうか?
そんな現実を踏まえると、いっそのこと、規格で環境側面を特定するロジックを定めたほうが良いと思う。
環境側面を特定するロジックをそれぞれの認証制度が検討しひとつの基準を作れば、組織はそれに従って自社の該当・非該当を判定するだけで処理することができるだろう。そしてISOと異なる認証制度であれば、審査員とコンサルを兼ねているのだから判定も手伝っても良いはずだ。
法の遵守を確認するとなると弁護士法への抵触を心配する人がいるかもしれないが、組織が判断するのを指導するのはよかろう。そのような仕組みと方法のほうが、実際には日本の環境遵法を改善すると私は考える。そう考えない人は現実を知らないと私は思う。
今現在のISO14001の最大のハードルが側面の特定、著しい側面の決定であること、そして現実の問題は法順守が徹底されていないことを合わせて考えると、そうとしか言いようがない。
環境側面を特定する手順が不明確ですなんて不適合はたくさんあるのだが、法違反がありますなんて不適合は見たことがない。

以前、どのマネジメントシステムが良いかなんてアホなことを書いたが、一企業の内部で働いていて得られる情報が限られている私が一人で考えた結論まで、第三者認証制度に関わっている人たちはまだたどり着いていないのではないか?
そんなこと百も承知だとおっしゃるなら、改善をしたらいいのだ。わかっていてもできないなら40年前の植木等の歌でも歌っていればよい。
分かっちゃいるけどやめられない〜♪

いずれにしても、私のように過激な人もいるし穏健な方もいるのだが、私の知る範囲ではだんだんと多くの人々が「第三者認証制度がおかしいぞ」と気付いてきたのは事実である。
第三者認証制度はまさに裸の王様である。心がけがれている人には見えないと思っていればそれまでである。しかし多くの人が正直に見えないと言った瞬間に魔法は解けてしまう。
企業の品質保証や環境管理の体制が一定レベルになっているかどうか見てあげましょうという制度をこしらえたのはいいけれど、第三者が見て一定レベルですよとお墨付きを与えた会社がバタバタと不祥事を起こしたということは、実際にはお墨付きに値打ちがなかったわけだ。
認証企業も天一坊のごとく獄門磔(ごくもんはりつけ)されたのでは・・

第三者認証制度の改革が社会の変化に間に合うか? 社会の変化に追いつかないか? そこに第三者認証の存続がかかっていると考える。
政治改革を遅いとか文句を言うなら、自己改革をしてみせてみろ!
しかし、もう既に変革ははじまっている。
それは審査機関でもなく、認定機関でもなく、私のような過激なことを言っている者でもない。
ふつうの会社、ふつうの事務局が審査に対して積極的に選択権を行使し始めている。
すばらしいことではないか!
見えざる手によって導かれる、自由社会の具現である。
112×118

私はなんのためにこんな駄文を書いているのだろう。
私が過去に書いた文のいくつかにアクセスカウンターをつけているが、半年で1000回、2年で3000回程度でそれ以上はもう上がらない。要するにあまり多くの方にご訪問していただいていない。
しかし、私が統合マネジメントシステムという考えはおかしいんじゃないか? とか目的と目標のプログラムがあるものか! なんて書いた後に、それに沿った論が本に載ったり、審査でそういった理解が進んでいるように感じている。
誤解のないように、
私に影響力があるわけでなく、私の考えも間違っていないと感じているということだ。
民主主義の世の中だから、正しい考えであっても少数の人が言うだけでなく、大勢が主張しないと影響力を持たないのは事実。ならばこんなウェブサイトで駄文を書く意義もあろうと思っている。
これを書くのに2時間かかった。それだけの価値と効果があることを願う。


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