草戸千軒 | ||||||
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伝説の町「草戸千軒」 |
広島県福山市は、瀬戸内海北岸のほぼ中央に位置する地方都市です。中国山地から瀬戸内海に流れ込む芦田川河口の三角州に開けた平野を中心に発展し、現在の人口は約38万人です。「草戸千軒」とは、この芦田川河口の三角州上にかつて存在した町の名です。「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃に記された『備陽六郡志』という書物の中に、洪水で滅びた伝説の町として登場します。しかし、町に関しての具体的な記述はなく、『備陽六郡志』がまとめられた頃には、どのような町だったのかは既に忘れ去られていたようです。
幻の町「草戸千軒」の存在が注目されるようになったのは、1930年前後のことです。それまで福山市街地を曲がりながら流れていた芦田川を、市街地の西端にまっすぐ付け替える工事が行われ、その際に、工事現場から多量の古銭や石塔、中国産の陶磁器などが出土したのです。そして、浜本鶴賓(はまもとかくひん)氏や光藤珠夫(みつふじたまお)氏など地元の熱心な研究者によって、ここが幻の町「草戸千軒」の跡であることが明らかにされていったのです。しかし、当時は本格的な発掘調査を実施することもできず、遺跡は新しい川の流れの中に孤立することになり、水流によって次第に崩壊していきました。
発掘調査の開始 |
戦後、1961年に初めての学術的な発掘調査が実施されました。「草戸千軒」の解明に情熱を燃やす村上正名氏らの働きかけによって、福山市教育委員会による第1次調査が行われたのです。調査の結果、芦田川の中州として残された部分に、「草戸千軒」の町の跡が存在することが確認され、「草戸千軒町遺跡」として学界にも知られることになりました。
ところが、1967年になると建設省によって芦田川の河川改修工事の計画が発表され、河川管理上の問題から、中州を掘削しなければならなくなりました。そのため、広島県教育委員会では、遺跡の緊急調査を毎年継続的に実施することにしました。さらに追い打ちをかけるように、1971年には芦田川の河口にダムを建設する計画が提示され、遺跡の調査はますます緊急を要する課題となりました。それまでのような臨時の調査組織では対応できず、県教育委員会では遺跡の発掘調査と研究を進める専門機関として、1973年に「草戸千軒町遺跡調査所」(1976年からは「広島県草戸千軒町遺跡調査研究所」)を設置し、大規模な発掘調査を実施したのです。