草戸千軒 | ||||||
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旧石器時代や縄文時代の人々の食物獲得の方法は、狩猟・採集が基本であった。弥生時代になると稲作が開始され、人々は定住してムラを作り、やがて小さなクニが生まれた。このような時代の変化とともに、流通・交易も活溌に行われた。打製石器の石材が原産地から遠く離れた集落に運ばれ、弥生時代には大陸から稲作や金属器がもたらされるなど、瀬戸内の海上交通も盛んになった。
狩猟・採集の生活 |
旧石器時代の人々は、氷河期に陸続きとなった大陸から、ナウマンゾウやニホンムカシジカなどの動物を追って日本に移り住んだ。彼らは三次市の下本谷遺跡や大朝町の地宗寺遺跡などのように丘陵上に住み、様々な打製石器を使い、獲物を求めて移動する狩猟・採集の生活を送っていた。吉和村の冠遺跡など、現在県内では約30か所の後期旧石器時代(3〜4万年前から1万2000年前)の遺跡が発見されている。
縄文時代になると、寒冷な気候から温暖な気候へと変わっていった。人々は狩猟・採集の生活を続けていたが、竪穴住居に住むようになり、移動生活を繰り返していた。また、住まいの近くには福山市の洗谷遺跡や尾道市の大田貝塚などの貝塚や墓地もでき、様々な文様で飾った縄文土器を使い、丸木舟を用いた漁撈や水上交通も盛んに行った。県北東部の帝釈峡遺跡群は縄文時代全期間を通して営まれた全国的に有名な遺跡である。(写真は広島県内出土のさまざまな縄文土器)
農耕生活のはじまり |
今から2300年前ごろ、朝鮮半島を経由して中国大陸から稲作や金属器などが伝わり、弥生時代が始まった。人々は定住してムラを作り、共同で水田を開き稲作を行った。また、それらの共同作業を通して、ムラには人々を率いる長(おさ)が現れた。県内では大朝町の横路遺跡や神辺町の大宮遺跡、広島市の浄安寺遺跡など多くの集落遺跡がある。
この時代に使われた弥生土器は、食物を貯える壺、煮炊きする甕、盛る高坏など用途に応じて様々な形の器が作られた。また、石製の農・工具は、後期ごろには鉄製に変わり、開墾や耕作などの労働も効率的になった。
弥生時代も後半ごろになると、いくつかのムラが戦などによって統合され小さなクニが生まれていった。瀬戸内海のムラやクニでは、稲作や海の交通などに関連した、銅鐸・銅剣などを用いた祭祀や、分銅型土製品を用いた「まじない」も行われた。弥生時代の終わりごろになると、稲作とその祭りや戦などを通して指導力を強めていった長のために、三次市の松ヶ迫墳丘墓や、千代田町の歳の神墳丘墓群のような巨大な墳墓が作られた。またこのような墳墓には、山陰に多く見られる四隅突出型と呼ばれる墳丘や、御調町の貝ヶ原遺跡出土のような、吉備を中心に分布する特殊器台などが出土することがあり、クニが生まれる過程の複雑な情勢を示している。