古代の民衆生活と交通・交易
草戸千軒
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古代の民衆生活と交通・交易


 巨大な墳墓築造に象徴される古墳時代は、農具などの進歩によって農業生産力が飛躍的に向上した時代でもあった。古墳時代に、各豪族の支配下にあった農民は、飛鳥時代から奈良時代には律令制の成立によって公民となり、多くの負担を課せられた。
 また、古墳時代から奈良・平安時代になると、瀬戸内海地域は畿内と九州を結ぶ交通路として、重要な役割を果たすようになった。

農耕の発達と古墳祭祀

 古墳時代のムラでは、丘陵地に竪穴住居や平地住居の集落を形成し、水田で米作りをしていた。弥生時代以来進められてきた農地の開墾は、鍬・鋤などの鉄製農具の改良や、用水路・堰などを作り田に水を引く技術の進歩によって飛躍的に進み、収穫量の増大をもたらした。特にU字形の鍬先や鋤先、馬鍬、刈り鎌の出現は大きい。このようなムラでは弥生時代の系譜を引く土師器が古墳時代の全期間を通して使用され、中期ごろからは朝鮮半島から伝わった技術で焼いた硬質土器である須恵器の生産も始まった。

 死者を葬るために土を高く盛り上げて築かれた古墳は、集団の支配者の墓として、4世紀初めごろから造られ始めた。そこには死者とともに、権威の象徴としての宝器や装飾品などが副葬された。例えば新市町の潮崎山古墳や福山市の石鎚山1号古墳などの前期古墳では、三角縁神獣鏡などの鏡、勾玉や管玉などの玉類、剣などが副葬されている。これらの古墳は大和政権と何らかの関わりを持つ地方豪族の墓と考えられている。古墳時代中期になると大きな墳丘をもつ古墳が出現する。広島県最大の前方後円墳である吉舎町の三玉大塚古墳などがそれである。副葬品には実用的な鉄製武器(剣・刀・鏃)や武具(短甲)、農工具(斧・やりがんな・刀子)などがある。また、三次市の浄楽寺・七ッ塚古墳群のような群集墳も形成され、中期から後期にかけて支配者だけでなく、有力農民層も古墳を築くようになった。古墳時代後期には横穴式石室を持つ古墳が築かれるようになり、須恵器や馬具などが副葬された。広島県中部の河内町二反田古墳や向原町千間塚古墳からは、鳥形瓶や環状提瓶など珍しい須恵器も発見されている。

民衆生活と仏教文化
寺町廃寺模型

 飛鳥時代から奈良時代にかけて、唐(中国)にならって、律令制度に基づく強力で中央集権的な統一国家づくりが進められていった。広島県域でも安芸・備後の両国が成立し、土地と人々は従来の豪族の支配から離れ、直接国家や都から派遣された国司の支配を受けるようになった。公民となった農民たちは班田制によって一定の農地が与えられる代わりに、租庸調・雑徭などの重い税がかかり、その負担に苦しんだ。藤原京や平城京からは、地方からの貢納物を記した木簡が多く出土しており、備後国三上郡(現庄原市域)の鍬をはじめ吉備地方からの鉄・塩、備前国児島郡(現岡山県)の塩など当時の地方の特産物もわかる。

 一方、6世紀中頃に伝来した仏教は、国家の庇護のもとに発展をとげた。初期には大和など畿内において、飛鳥寺(奈良県)をはじめ、官寺や大豪族の氏寺として壮大な伽藍が造営されたが、飛鳥時代の後半には次第に地方の豪族の間にも広まり、各地に寺院が建てられた。広島県内でも本郷町の横見廃寺や三次市の寺町廃寺(上の写真:寺町廃寺の模型)、府中市の伝吉田寺などがこの時期の寺院である。また、福山市の宮の前廃寺からは人名を記した瓦が出土しており、民衆が寺院の建立に関わったことがうかがえる。奈良時代になると、国家仏教の様相が進み、東大寺大仏殿の造立とともに国ごとに国分寺・国分尼寺が建てられた。

 仏教の永享によって、従来の土葬に加えて火葬の風習も広まった。本郷町の麓遺跡では火葬人骨の入った蔵骨器が発見され、奈良時代における墓制の一形態がうかがえる。

 平安時代後期には末法思想の影響で、弥勒菩薩の再現を願って経文を書写して経塚に埋納する風習が起こった。本郷町の西野田経塚では経筒と刀子・銅鏡・白磁・須恵器・土師器などが埋納されていた。なお、福山市津之郷発見の阿弥陀如来を線刻した鏡像も平安時代中期の信仰物である。

瀬戸内の交通

 古墳時代には全国各地で多くの古墳が築かれた。中でも畿内をはじめ地方の有力者の古墳には、埋葬施設として立派な石のひつぎ(石棺)が納められている。これらの石棺には石材の産出地から古墳を築く場所まで、瀬戸内海を通って遠くまで運ばれたものがある。

 古墳時代前期から中期にかけては、九州の阿蘇石(安山岩質凝灰岩)や四国香川県の鷲の山石・火山石(石英安山岩質凝灰岩)で割竹形石棺や舟形石棺が造られ、中国・四国・畿内地方に運ばれた。中期には兵庫県の竜山石(流紋岩質凝灰岩)で長持形石棺が造られ、畿内や吉備地方に運ばれ使用された。後期には同じく竜山石の家形石棺が数多く造られ、兵庫県内をはじめ畿内や岡山県・広島県・山口県などにも運ばれた。

 また、古墳時代中期の5世紀中ごろに朝鮮半島から伝来した新技術で作られた須恵器は、わが国最初の硬質土器で、ロクロで成形し、窖窯で焼成された。畿内地方で生産が始まり、交易品として各地にもたらされ、古墳の副葬品などに使用された。その後、生産技術が各地に伝わり、古墳時代後期から飛鳥・奈良時代にかけて広島県内でも、三次市松ヶ迫窯・高宮町明連窯・久井町小林窯など各地で窯が築かれ、須恵器は古墳の副葬品としてばかりでなく、日常的な器として民衆の間にも広まった。

 律令制が完成した奈良時代には、国の地方支配や都への貢納・物資の輸送を容易にするため、海陸の交通網が整備された。陸路としての山陽道は、唯一の大路として都と九州大宰府を結ぶ国の最も重要な道路であり、備後国や安芸国などでは、瓦葺きの駅館も建てられた。福山市の廃最明寺跡は品治駅、府中町の下岡田遺跡は安芸駅と考えられ、奈良時代の軒丸瓦や軒平瓦が出土している。広島市の中垣内遺跡も、大町駅跡と推定されている。兵庫県龍野市の小犬丸遺跡では「駅」銘の墨書土器が発見され、山陽道の「布施駅家」と考えられている。一方、海上交通は海岸沿いの航路が発達し、遣唐使や外国使節の往来などにも利用された。岡山県笠岡市の大飛島遺跡からは三彩や鏡などが出土しており、海の旅の無事を願う祭祀が行われたことがわかる。また、安芸地方は古来から造船技術に優れており、遣唐使船などが造られたことが『日本書紀』や『続日本紀』に記されている。

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suzuki-y@mars.dti.ne.jp
1998, Yasuyuki SUZUKI & Hiroshima Prefectural Museum of History, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.