中世の民衆生活と交通・交易
草戸千軒
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中世の民衆生活と交通・交易


 荘園公領制が基盤となっていた中世の村では、農民は領主の収奪に苦しんだが、農業生産力の進展に伴って余剰生産物も増えて次第に生活が向上し、年貢の軽減や免除の要求が行われた。一方、町でも商工業者が台頭し、民衆が歴史の表舞台に登場してきた。交通交易の面では、千石積みを超す大型船が造られ、海上交通が一層発達した。中国や朝鮮とも盛んに交易を行い、貨幣経済が大きく進展した。

荘園と惣

 中世は、荘園公領制と呼ばれる土地所有体系を基礎に成立した。瀬戸内海地域は水運に便利なことから権門を領主とする寄進地系荘園が多く分布し、国衙の支配する公領とともに公家や中央大社寺の財政を支えていた。瀬戸内の荘園は、高野山領備後国(現広島県)大田荘・蓮華王院領安芸国(現広島県)沼田荘のように大規模なものもあったが小規模なものが多く、荘園には主として田地を中心とした荘、牛馬を飼育する牧、魚貝類を供饌・供祭物として献納する御厨など多種多様なものが見られた。また、東寺領伊予国(現愛媛県)弓削島荘に代表されるいわゆる「塩の荘園」も多かった。荘園の内部は、下部組織で通例複数からなる「名」に分割されていた。領主や武士の厳しい収奪あって農民は苦しい生活を余儀なくされていたが、二・三毛作や牛馬耕などが普及して生産力が高まり、余剰生産物が生じ市場へ持ち込まれた。それに伴って商人の活躍が目立つようになり、永享5年(1433)ごろ沼田荘安直郷の本市(現三原市)では在家が300戸、小坂郷の新市(現三原市)では150戸という繁栄を見せている。

 中世後期には、荘・郷・村を単位とする地縁的な結合が強まり、自治組織である惣が出現した。農民は村々の鎮守社の宮座に結集し、自治的に村を経営していくための寄合を持ち、自分の村を戦乱や荘園領主・武士の非法から守るために結束を強めた。安芸・備後では、康正2年(1456)備後国小童保(現甲奴町)領家方の沙汰人と農民が領家祇園社に対して河川の氾濫によって耕作できなくなった河成地の年貢減免を願い出ている。文明7年(1475)には安芸国東西条で大規模な徳政一揆が起こり、文明17年(1485)には尾道浄土寺領備後国櫃田村の農民等33名が神水をもって起請文を作成し、武士の代官支配を拒否する訴えを起こした。これらは応仁の乱後急速に緩んできた社会秩序の中で農民が台頭してきたものとして注目される。

都市と職人

 中世には、一大消費地である畿内を筆頭に九州・瀬戸内海沿岸から東海・関東にかけて多くの町が成立し発展していた。瀬戸内海沿岸では年貢や商品を積み出し荷揚げする港町が発達した。港町は、南北朝時代ごろの作と言われる『庭訓往来』に都市建設の理想の場所と記され、地方における政治・経済の中心地であった。後白河院領(のち高野山領)大田荘の倉敷地から発展した瀬戸内の代表的な港町である尾道には荘園に所属する倉庫が建ち、年貢輸送に当たる梶取や水手などが居住し、次第に他荘の年貢や商品を輸送する船も多く寄港するようになり、鎌倉時代末期の元応元年(1319)には社殿・仏閣をはじめ民屋一千余軒が焼き払われたと記されるほどに大集落を成していた。また、当時「草津」とか「草井地」などと呼ばれ、後背地の長和荘の年貢積出港から発展して次第に都市化し、芦田川流域にある周辺村落の物資の集散地となった草戸千軒のような小さな港町も生まれた。このような中世都市を支えた商工業者や芸能民などは当時「道々の者」とか「職人」と呼ばれ、南北朝時代以前には自らの芸能自身、あるいはそれによって生産された製品を持って諸国を遍歴するか、領主から給田を与えられて生活をするのが常であった。その後職人は各地に定着するようになり、戦国時代には大名が領国経済を確立する必要性から職人やその活動の掌握に乗り出している。漂泊的な性格を持つ手工業者の中で特に注目されるのは刀鍛冶と鋳物師である。中国山地は砂鉄の山地で、日本刀の材料となる良質の玉鋼を多量に得ることができ、備前をはじめとする刀工集団が各地にいた。安芸・備後では鎌倉時代末期の三原鍛冶が最も古く、室町時代に入ると次第に分派して鞆三原・法華三原・五阿弥などを生んだ。鋳物師は三原・廿日市などに職人のいたことが知られ、現在遺された灯籠や梵鐘などから広域的な活動を繰り広げていたことがわかる。

民間信仰の展開

 仏教諸宗派は鎌倉時代中期まではときの政権の所在地である関東に布教の目標を置いてきたが、後期になると畿内に転じ、ついで瀬戸内に進出してきた。いわゆる鎌倉新仏教のうち、浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・禅宗などもこの時期に伝わった。安芸・備後における浄土真宗の最初の寺院は備後山南(現沼隈町)の光照寺である。光照寺に伝わる絵系図などから遅くとも鎌倉時代末期にはこの地方一帯に真宗教団が成立していたことが知られる。なお、その後教線は北上して出雲・岩見にまで延び、五百余りの末寺を擁していたと推定されている。宗祖一遍以来の遊行上人の回国に伴って、時宗もかなり広まった。時宗は内海の要衝を拠点に展開したことが知られ、摂津兵庫の真光寺、備後尾道の常称寺、西江(郷)寺、周防山口の善福寺などが同情として地方の中心となっていた。日蓮宗は日像と弟子の大覚妙実などによって堺・尼崎・牛窓・鞆・尾道などの港町に広まり、瀬戸内海によって結ばれた商工業者達の厚い信心を得た。旧仏教では南都西大寺に拠って戒律の復興に努めた叡尊と、慈善救済事業に尽力した弟子忍性によって広められた西大寺流律宗が注目される、律僧の活躍は各地の建造物や石造遺物から知ることができる。

 一方、平安時代後期から中世を通して仏教の諸尊を本地仏とし、これが神の姿となって現れる本地垂迹説が一般化し、神仏習合を示す懸仏などが造られた。なお、中世には戦乱や飢饉が相次ぎ疫病が頻発したが、平時にも地鎮や物忌みなど日常生活の隅々まで「まじない」が浸透していたことが中世遺跡の調査で明らかになった。この「まじない」に深く関わっていたのが真言密教系の勧進聖や熊野・弥山などの山伏(修験者)で、行者として加持祈祷を行って多くの信者を集め、民衆にとってはまさに夢売人であった。

水運の発達と対外貿易

 瀬戸内海は中世前期には年貢を輸送する水路としての役割を担っていたが、後期になると年貢物以外の商品化された物資の輸送が主流となり、民間船の活躍が見られるようになった。この輸送船は尾道をはじめ鞆・因島・瀬戸田・高崎など安芸・備後の港湾に所属する者が多、船の運漕に習熟した水手も育っていた。高野山領大田荘の場合、鎌倉時代には年貢は荘園に専属する梶取によって輸送されていたが、室町時代になると荘園との従属関係を絶って、自己の負担で運送を営み一艘を管理支配する先導によって輸送されていた。尾道にはこうした船持のほか、数艘の船を一手に集積している有力商人もいた。この時期の瀬戸内海水運の実状を示す『兵庫北関入船納帳』は、文安2年(1445)の一年間に東大寺領の兵庫北関を通過した船舶の関税台帳とでも言うべきもので、船籍地は百余港に及び、瀬戸内沿岸の代表港を網羅している。積載物資のうち圧倒的な量を占める穀物と沿岸各地で取れる塩のほか、備前の陶器、備後の筵(むしろ)など特産品も見える。

遣明船模型

 瀬戸内の社会経済にさらに活気を与えたのは、中国や朝鮮との交易であった。平氏政権は日宋貿易に力を入れ、おびただしい量の宋銭が輸入されて貨幣の流通が始まった。その後二度にわたって蒙古が襲来し日元関係は悪化したが、日宋貿易の繁栄を受け継いだ日元貿易は、依然としてつづけられ多くの文物がもたらされた。つづく明との勘合貿易は幕府の公貿易であったが、実験は瀬戸内海地域に勢力を持つ大内・細川・山名などの諸大名と、これと結ぶ西国商人に握られていた。貿易船としては瀬戸内海中部の大型船が多く使われていたようで、宝徳3年(1451)の遣明船の一艘は安芸国高崎浦の船を用い、梶取・水手として近隣の人も雇用されている。日明貿易の主な輸出品は刀剣・銅・硫黄などであるが、刀剣と銅は主に中国地方のものであった。明からは専ら銅銭が輸入され、そのため室町時代の瀬戸内ではいっそう貨幣の流通が促されていった。朝鮮とは室町時代のはじめから使者が交換されていた。応永年間(1394〜1428)に盛んに朝鮮貿易を行っていた安芸の小早川則平の輸入品は正布(綿布)が大部分であったが、輸出品には銅・鉄・硫黄などのほかに、琉球船で博多にもたらされた蘇木・丁香・犀角など南海諸国の特産品が含まれていた。早くから瀬戸内へ進出していた博多商人の協力があったことが知られる。

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suzuki-y@mars.dti.ne.jp
1998, Yasuyuki SUZUKI & Hiroshima Prefectural Museum of History, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.