とぜんそう2000年2月分

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00/02/02

たまたま目にしたタイトルが気になって買った漫画『玄奘西域記』(諏訪緑、小学館文庫、全2巻)が大当たり。玄奘といえば天竺取経以外にはまず『大唐西域記』が思い浮かぶのですが、そのふたつをミックスしたタイトルの漫画がどんなものかと思ったら、これがなかなか。

仏教の乱れを憂え、衆生救済のため西天取経に旅立った唐の僧・長捷の護衛兼通訳として供をする長捷の弟・玄奘が、旅の中で人と人、人と宗教の関わりを知り、悩みながらも僧として自立していく姿を描く。少女漫画誌の連載でもあり、ちょっとご都合主義が目に付くし、後半のハザクとの仲がややあれだけど、それを差し引いてもおもしろく読めました。

前半では、突厥が略奪者だというのは唐の人の視点、突厥から見れば牧草地を農耕地にしたあと投げ出して不毛の土地にしてしまう農耕民族の方が略奪者だ、とか、その土地のひとびとの暮らしや文化を理解しなければ本当の意味の翻訳はできない、など、文化と文化のぶつかり合いが中心に描かれ、後半になると、宗教は真に人を救うことができるのか、宗教と政治の関わりは、など、仏教をモデルにして人と宗教の関係を描いています。

内容も半端ではなく、仏教についても結構深いところまで追求してあるあたり、描かれた時代が違うとはいえ仏教の扱いに関しては手塚治虫の『ブッダ』(潮出版社)を軽く越えてるかも。

玄奘が主人公ということで孫悟空や沙悟浄、猪八戒抜きの『西遊記』かと思ったら、前半後半とも玄奘以外に三蔵法師役をすえて、塩の山に埋められていたところを三蔵法師役に助けられた突厥の跳ねっ返り青年ハザク、現れたときには金の亡者だったプラジュニャーカラ、まじめで一途な純情青年の玄奘、ときっちりお師匠と三人の従者という構図になっていて、『西遊妖猿伝』(諸星大二郎、潮出版社)とはまたちがった『西遊記』のバリエーションとしても楽しめます。


Yomiuri On-Lineにこんな見出しが。

◆日米親善願い、桜とハナミズを植樹…憲政記念館


うーん、世の中にはまだまだ知らない植物があるんだなあ、などと思って記事を読んでみたら

 「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄が米国に親善の桜を贈った際に米大統領だったウィリアム・タフトのひ孫のボブ・タフト米オハイオ州知事が1日、東京・永田町の憲政記念館を訪れ、尾崎の三女・相馬雪香さんとともに桜とハナミズキの植樹式を行った。


単純ミスだろうけど、誰も気づかなかったのかしら。


asahi.comの「おくやみ」より。

米SF作家のA・E・バンボークト氏死去

 アルフレッド・エルトン・バンボークト氏(米SF作家)は、1月26日、肺炎のためロサンゼルスの老人ホームで死去、87歳。


聞いたことがない作家だなあ、でもマイナーな人を紹介するわけないし、と続きを読んでみると、代表作として「スラン」(46年)、「非(ナル)Aの世界」(48年)などをあげてあるじゃありませんか。

A. E. Van Vogt を「A・E・バンボークト」はちょっとご勘弁を。ちなみに 在庫目録(ハヤカワ文庫SF)での表記は「A・E・ヴァン・ヴォクト」。

なにはともあれ、ご冥福をお祈りします。


議員定数削減法案が参議院で可決成立。

与党のやり方は論外だし、それを批判する立場の野党議員が職務放棄というのもあれですね。とりあえず解散総選挙に一票ですが、現与党にも現野党にも入れたくないなあ。

それはさておき、先日の四国での住民投票の結果を、反対票が全投票数の90%以上、と報道したり、だれだったかの「投票しなかった人の意見も汲み上げなければ」との発言を批判的に取り上げていたマスメディアのかたがたは、今回の参院での投票結果を「全投票数の99%以上が法案成立に賛成」、「投票しなかった国会議員の意見を汲み上げる必要はない」などと報道するのでしょうか。

00/02/11

『アインシュタインの謎を解く 誰もがわかる相対性理論』(三田誠広、文藝春秋)読了。同じ著者の『聖書の謎を解く』『般若心経の謎を解く』(感想)に続く「謎を解く」シリーズ三部作の完結編で、数式をいっさい使わずに相対性理論や不確定性原理などを説明しつつ、アインシュタインの思想や哲学を紹介した本。おもしろい。予備知識としての元素や力学関連の歴史も楽しめます。

アインシュタイン賛美のための本というわけではなく、人間の認識というものの変化や発展やその限界を描くのが主眼で、そのためもあってかクライマックスは素粒子の認識に関する議論でアインシュタインが宿敵ボーアに敗れるあたりになっています。しかも最高潮は「不確定性原理」への反論のためのアインシュタインの思考実験を他ならぬアインシュタイン自身の「一般相対性理論」を使ってボーアに論破されるくだり。いやあ、物理学の世界ってドラマチックだったんですねえ。

しかもこのへんになると素人にはほとんど禅問答の世界みたいなもんで、よくもまあ著者はこれだけわかりやすい文章で説明できるもんだと感心してしまいます。やや強引なところなきにしもあらずですが。

いろいろな人物の紹介のほかにも、「エーテルの風」とか「宇宙の卵」とか最近は「大変革」みたいな意味で定着してしまったのではないかとさえ思える「ビッグバン」、『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍、早川文庫)で見かけたような「ディラックの深海」など、SF小説でおなじみの物理用語も解説してあります(ただし、SF用語と思われる「ウラシマ効果」なんかには触れずじまいでしたけど)。「イーサネット」の「Ether」はオランダ語でいうと「エーテル」だそうですから、このあたりの話の好きな人が名付けたのかもしれませんね。

そうそう、ひとつ得したと思ったのは、半年ほど前に放送の終わった『ウルトラマンガイア』に出てきた「シュレーディンガーの猫」の正体が判明したこと。なにしろドラマの中では、

「そうだ、『シュレーディンガーの猫』って知ってます?」
「いや」


でおしまいだったんですから気になってしょうがない。とはいえ、シュレーディンガーだったら波動方程式の関係の本に書いてあるかもしれないとは思えども、ちょいと敬して遠ざけたいたぐいだし、架空の話だったらいくら探しても出てこないし。

そんなこんなで悶悶としてたところへこの本。いや、助かりました。

なにはともあれ、相対性理論や素粒子論、宇宙規模の力学なんかを本格的に学ぶ気にはなれないけどあらましだけでもつかんでおきたいという人には絶好かも。


『月刊QCサークル』2月号掲載の吉目木晴彦のエッセーにこんなことが。

 実は作家有志が集まってコツコツ続けているプロジェクトがある。文豪家の経験を反映した究極の(?)ワープロソフトを作っているのである。「原稿プロセッサ」という名前で「超漢字」上で動く。だいたい、今までのワープロは家計簿を作る,などという妙な機能ばかり付いている癖に,漢文の返り点も出せなかったのだ。


漢文の返り点と家計簿ではどっちの使用頻度が高いかちうつっこみはともかくも、白文はいざ知らず、返り点や一二点が付いてれば漢文ではなくれっきとした日本文なんだから「日本語ワードプロセッサ」が扱わなかったらほかの言語のワープロで扱ってくれるはずがない。

発表できる日の早からんことを願ってます。


本日の再認識
プロ野球界のどたばた騒ぎのおかげでシドニーオリンピックは9月ごろだとは知っていたものの、秋口だとばかり思っておりました。考えてみたらオーストラリアだと9月は春先なんですね。

メルボルンに2週間ちょっと滞在したけど、あれは4月だったしなあ。とはいえ、だんだん風が冷たくなっていく不思議な4月ではありました。


本日のとほほ
この前買ったパソコン LaVie NX でマウスを画面の四隅に動かすとスクリーンセーバーが働かない設定をしたところ、まったく設定が有効にならないことが判明。マウスを画面の四隅に動かすとすぐさまスクリーンセーバーが働くほうも同じく。

ちょっと困ってます。

00/02/13

本日のおくやみ
先日病気療養のために「ピーナツ」の連載を終えたばかりのチャールズ・M・シュルツさんが逝去されたそうです。残念ではあるものの、死んで絶筆よりは救いがあったと考えるべきか。

ご冥福をお祈りします。


本日の眉間の縦皺
今日の朝日新聞朝刊にこんな記事が。

iモードが@ニフティ抜く

 携帯電話でインターネットに接続するサービスが人気を集めている。(略)来年には動画など大容量通信ができる次世代携帯電話も世界に先がけて導入されるだけに、携帯が日本のネット普及を一気に推し進める可能性がある。  iモードは昨年2月にサービスを開始。固定通信網より通信速度が遅いといった制約はあるものの、パソコンにつながず携帯だけで銀行振り込みや電子メールが利用できることなどが人気を集めた。(略)


日常会話ならいざ知らず、新聞記事の本文で携帯電話を「携帯」と表記するとは恐れ入りました。こうなると辞書に正式採用されるのも時間の問題でしょう。


先日書いた中の「シュレーディンガーの猫」ですが、昔のSF小説などによく出ていたわりと有名な言葉だったようです。ご存じの方はご存じでした。


『空手バカ一代』(梶原一騎原作、影丸譲也作画、講談社漫画文庫)15、16巻読了。

このあたりまでくるとそろそろ物語じゃなくてドキュメンタリーですね。

00/02/15

『板垣恵介の格闘士グラップラー烈伝』(板垣恵介、徳間書店)読了。すごくおもしろい。

著者自身が少林寺拳法やボクシングを実践した経験、格闘技漫画家としての取材、あるいは格闘技をやっている友人を通じての格闘技に練達した人たちとの親交などをもとに、さまざまな格闘技や格闘家を紹介しつつ、自分の格闘技観を語っています。

とりわけ興味深いのが、以前紹介した『格闘家に告ぐ!実戦格闘技論』(小島一志、ナツメ社)とかなり見解が違っていること。これは小島一志がどちらかというと空手中心の人生を送ってきて、板垣恵介が少林寺拳法からボクシングという道をたどってきた違いが出ているのかもしれません。

たとえば、小島一志は正道会館の石井館長をかなり嫌っているし現在ではプロモータとしての才覚以外はあまり認めていないみたいですが、板垣恵介の方はけっこう親しくしていて、あれこれと意見を聞いたりもしています。「牛殺しの大山」のひそみに倣って石井館長が修業時代にバイト先の養豚場で豚に正拳突きをくれていたエピソードなんかも板垣恵介の石井館長に対する好意の発露でしょう。

それから、板垣恵介は大山倍達の晩年について、

 大山倍達の没後、(中略)「空手」という技に対する追求度(に関する話)は、例の、拳の握り方が今のやり方でいいのかどうかという疑問を呈したぐらいしか聞こえてこない。


と書いてますが、実際には大山倍達は小島一志と組んで空手技術の集大成を作ろうと考えていました。

「欲深い俺の願い」と断りながらではありますが

 筋肉がなくなったら、体力が衰えたら、若いころどんなに鍛錬していても、身につけた技はもう通用しなくなっていいのか。
(略)体が小さくなっても、スピードがなくなっても、常識を覆すような技、技術。そう、言うなれば“枯れた技”っていうのかな。マス大山には、そういうものを晩年に見せつけてほしかった。


いわんとするところはわかりますけど、「技は力の中にあり」と、技を繰り出す基本を体力に求めた大山空手にそれはちょっと無理な注文という気がしないでもありません。

そして、これがもっとも大きい違いなのですが、小島一志が違う格闘技同士の戦いに意味はないと断じているのに対して板垣恵介は、

 でも、格闘技は違う。早さの到達点は、いくつかの種類に分かれていても、強さの到達点は一つしかない。(略)やはり、喧嘩というものが存在し、投げと打撃、蹴りとパンチが交錯する場がある限り、どっちが強いんだと考えて当然だと思う。


こんなふうに考えて東京ドーム地下闘技場を生んだのだそうです。

しかし、アントニオ猪木の項で板垣恵介自身が述べているように、どんな手段を使ってでも勝つ、というやりかたを認めるとなると、武器はもちろん経済力や政治力すらその格闘士の「力」ってことになるわけで、UWFの項で否定した八百長だって勝ちは勝ちになってしまいます。

相手に襟をとられないように襟の中に刃物を仕込む格闘技を紹介し、その覚悟・心得をすべての格闘家に求めながらも、限られた空間、定められたルールで戦ったヒクソン・グレイシーを(暫定的ではあるものの)世界最強と認めざるを得ないあたりに板垣恵介の説の限界があるような気がしてしまう。小島一志の本でアルティメット・ファイトの柔術有利の「仕掛け」を読んだあとではなおさらです。

もっとも、本人もそのあたりはとっくに気づいてるでしょうし、だからこそ範馬勇次郎オーガには軍隊すら通用しないという格闘漫画史上もっとも過激で魅力的な設定が生まれたのかもしれません。

などと異を唱えることばかり書いてしまいましたが、それだけいろいろ考えさせられ、書きたくさせる本なんです。なんの経験も持ち合わせてないくせに、ついつい語りたくなってしまう。格闘技ファンのここいらへんを刺戟してくれるくれるんですね。けっこう読ませる文章で、わりと矛盾が目につくのに、読んでいてわくわくするし楽しくてしかたがない。

いろいろな格闘技体験は文章だけでも臨場感満点だし、それを絵にして伝える技術も持ち合わせている。そうしてできてくる格闘漫画なんだから、『BAKI』(秋田書店)や『餓狼伝』(夢枕獏原作、講談社)がおもしろくないわけがない。それをさらに楽しむためにもこの本は読んだ方がいい。

丹波文七と範馬刃牙がたがいの顎に拳をあてがっている表紙を見たら買わないわけにはいかないでしょう。ささ、そこのあなたもあなたも、冷めないうちにどうぞ。

00/02/21

困ったことにはまってしまいました>Linkz

現在のところ最短は15×15で6分24秒。


先日、とあるスポーツ新聞系のニュースサイトを見てたら、同じ日の見出しの中にひとつの記事では「撲殺」、別の記事では「殴殺」と書いてありました。

広辞苑によると「撲殺」は「なぐりころすこと。うちころすこと。」、「殴殺」は「なぐりころすこと。」だそうで、イメージとしては「撲殺」の方はなにか得物を持って殴ることみたいですが、「はり‐ころ・す【張り殺す・撲り殺す】」は「なぐり殺す。」とありますから、どっちもそう変わらないようです。

なにか使い分ける際の基準があるのでしょうか。


きのうの朝日新聞の「天声人語」、岡崎京子の漫画のせりふをインターネットのサイトで(おそらくは掲示板で)大勢で出典調査していると紹介してから、

 岡崎さんの博識もすごいが、それを微細に読解するファンの情熱と知識も驚異的だ。情報の公開と共有、そして自由な改良。その活況は、「リナックス」で一躍有名になったコンピューターソフト開発の「オープンソース」方式を思い起こさせる。


と書いているのは、これに対するさりげない訂正だったり……するわけないわね。

00/02/25

行きつけの書店にコンピュータを使った在庫検索コーナーができていて、書名と著者から希望の本を検索できるようになっていました。

店内に在庫がない場合はそれをプリントアウトしてレジに持っていくと注文できるのですが、それを手書き伝票に書き写さないといけないあたりが書店オンライン化の限界なのでしょうか。

何週間か前にそのサービスで本を注文したところ、翌日になって版元在庫も再販予定もないので取り寄せできません、と電話がありました。大手の出版社から年末に出た本なので意外でしたけど、まあないものはしかたがないとあきらめることに。

で、今度は先週の日曜日に『漱石の夏やすみ』(高島俊男、朔北社)を頼んだのですが、オンラインで確認してみると取次にも版元にも在庫がないという結果。今日は取り次ぎが休みだから明日連絡してみますが、2週間はかかると思います、とのことなので、どうせしばらくいそがしいからまあいいや、とそのまま依頼すると、翌日「ご注文の本が入荷しました」との連絡。

はて、連絡したその日のうちに入荷というのはいくらなんでも早すぎる、ひょっとして以前頼んだ本がなんとかなったのかいな、と今日になって取りに行ってみたら案に相違して届いていたのは『漱石の夏やすみ』。

たまたま取次に在庫があって即座に入荷したのでしょうか。それとも月曜日の入荷分の中に偶然『漱石の夏やすみ』がまざっていて、幸運にもそれが店員さんの目に留まったのでしょうか。

なんにしても書店注文の最短記録を経験してしまいました。


『ゲッターロボ號(5)(完結)』(永井豪原作、石川賢作画、双葉社)、『餓狼伝説―戦慄の魔王街―』(石川賢、大都社)など。後者はゲームコミックらしい。

00/02/29

先日の朝日新聞「閑話休題」が、『文學界』2月号に掲載されたワープロ廃止論を書いた人ともどもずいぶん持ち上げていたので、図書館のバックナンバーを当たってみました。問題の文章は「文学は書字の運動である」というもの。

和文タイプは文字が並んだ中から選ぶのでまだいいが、ワープロ(文中では「文書作成機」に「ワープロ」とルビが振ってありますが、煩雑なのでたんに「ワープロ」とします)だといったん仮名かローマ字で入力し、変換された漢字候補から希望の文字を選択する、と二段階の手続きを踏まなければならず、書こうとする文章とは関係ない漢字を変換のたびに見なければならない状況は、ひっきりなしに電話がかかってくる中で文章を書くようなものだと断じ、さらには、手は文字盤をさぐり、目は画面を追うことによって全身体的思考の分断が生じてしまう、と続けています。

まあこう要約するとよくあるタイプのかな漢字変換批判、キーボード批判なのですが、細部がすごい。

人間は、脳が思考するのではなく体全体が思考する。その証拠に、風邪をひいて全身の細胞が高熱で疲弊したら、人間の思考は極端に鈍ることになる。


と、からだと思考を結びつけるあたりから論は起こされています。

ワープロ使用者が「漢字を忘れる」のは、ローマ字や仮名文字との親和性を高めてしまった肉体つまり無意識の自覚が、徐々に漢字離れを始めたことの結果である。
 無自覚の思考こそが本心であるから、ワープロ使用者の肉体レベルでは、漢字仮名交りではなく、ローマ字もしくは仮名文字中心の思考が行われている。
 無自覚の意識のローマ字思考や仮名文字思考はローマ字語、英米語との親和性の高い思考を生み、日本語の仮面をかぶった、ローマ字語、つまりはカタカナ語の氾濫を招く。
 また、仮名文字思考によって、抽象的な思考へのせり上がりを欠いたおしゃべり文をつくり上げることになる。ワープロによって文章が冗長になる一因はここにある。


うーん、どうやら英米語は抽象的な思考へのせり上がりを缺いた冗長なおしゃべり文の仲間のようです。こんなものを公用語にしようとか、日本語を廃して英語を使おうなどという人の気が知れませんね。

冗談はさておき、かな漢字変換でのローマ字打ちはカタカナ語の氾濫に、かな打ちは冗長なおしゃべり文につながるとはまたなんともわかりやすい論理展開です。世の中には漢字のほうが便利なこともあれば、漢字では表現困難なこともあるのですが。

「雨が降る」と書きたいのに「amegafuru」や「アメガフル」と打たねばならない分裂は、手の動きと思考との間にずれを生む。(略)文字を書くことさえ豊かな――と感じられる――思考の流れを阻げるというのに、ワープロにおいては手の動きは思考とは別のことを考え別の動きと化す。この、肉体のローマ字・仮名思考と意識の漢字仮名交り思考の分裂は、必ずや思考の混濁と頽廃を生まないではおかない。


混濁と頽廃の進んだ思考の持ち主としては、「雨」を「ウ」「あめ」「さめ」「あま」と読み分けたり書き分けたりするほうがよほど思考の分裂を生むのではなかろうかと思うものであります。ついでにいうなら、ローマ字・仮名思考のかたがたにおかれましては、「そのとうり」とか「もとずく」などで変換できないことのほうが理解困難のように見受けられます。

(手書きだと全体的に見れば)手は上から下へ、右行から左行へと進行することに自然に馴染んでいる。
 ところがワープロにおいては手は、文字盤の上を右へ左へ、上へ、下へ、斜めへと右往左往する。身体は、かつてのタイピストのように右往左往の思考に馴染んでいく。身体は錯乱の運動と親和性をもち、文字盤上を駆けめぐる錯乱の運動を詩や小説は生むことにならざるを得ない。

(略)
(さらに、手は文字盤をさぐり、目は画面を追うことによって)全身体的思考の分断が広範囲、大規模に生じるのである。
 つまり、ワープロによっては、人間の思考は線性の歴史的、文化的なそれではなく、千々に乱れ、支離滅裂に分裂し、粉々に砕かれ、その破片やブロックを寄せ集めた隙間だらけの「コラージュ」となっていかざるを得ないのである。


英米の文学の多くは歴史的、文化的思考からかけ離れた錯乱の運動が生み出した隙間だらけの「コラージュ」なのでしょうか。ワープロを使ったとしてもできあがる文章は縦書きにせよ横書きにせよ統一された方向に向かっているように思うのは私の僻目ひがめなのかも。

書くことの痛み、無自覚の意識に目をつむったワープロ作文は、どのようなことでもどのようにでも発想できる幅が広がる。奇想天外の作品が作者の自省をくぐらずに生まれることになるのだ。(中略)現在の文学は推理小説やホラー、怪奇小説で活況を呈している。実はこれはワープロ文字の運動、換言すればワープロ文学なのだ。


と、ワープロによって紡がれる文章は奇想天外で現実離れしたものばかりみたいに書いてありますが、ご本人はといえば、

(中国の殷に甲骨文が生まれた時代にワープロがあったとしたら)その字数は三千字のままで増えてはいかず、文化と文明は登載された三千字の範囲内にとどめられる。具体的には、現在もなお殷は王と呪術師と史官を中心とした祭祀と呪術に満ち溢れた古代宗教国家にとどまり、民衆は神の徒隷にとどまっていたことであろう。


じゃあ英米は26文字の範囲内の文化・文明にとどまっているのでしょうか(まあある意味そのとおりなんだけど)。

にしても、技術的にも論外だけど、甲骨文が生まれた時代に、あるていど固定的な文字が使用されることを前提としているワープロが成立するかどうかなど考えてみなくてもわかりそうなもの。それに文字が固定されることと文化・文明が進む・進まないが無関係なのは欧米を見れば明らかですね。少なくともワープロを使っている人間にはこんな「奇想天外の」発想は不可能でしょう。

というあたりまで読んで図書館の閉館時間になってしまったのですが、よくまあこんなに前後の見境もなくすほどワープロをこきおろせるもんだ、いったいどういう人なんだろう、ともう一度朝日新聞を確認してみると、「書家」だそうで。なるほど、ワープロはいわば商売敵かも。

なお、私自身はかな漢字変換使いの立場から批判的に読んでしまいましたが、ほかのかたはまた別のものを感じ取るかもしれませんので、ご一読のほどを。

それにつけても、やはり「閑話休題」のチェックは缺かせませんね。今後もおもしろい話題を提供してくださることを希望いたします。


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庵主:matsumu@mars.dti.ne.jp