本来業務は監査できるのか 08.03.09

規格項番順の昔流の監査方法であれば規格適合か否かの判定は簡単だろうが、プロセスアプローチ監査においては規格適合か否かを判定する監査員の力量は高いものが要求される。そんなことを先日語った。まして本来業務において審査そのものもが可能なのだろかという疑問を本日は語る。
ISO14001が2004年版になって、「紙ごみ電気はだめよ、本来業務を取り込みなさい」とあいなった。
私は「本来業務」という言い方さえ、腰が引けてるというか、規格を理解していないと思う。正しくは「業務そのもの」でなければならないのだ。
さらに言えばISOの活動なんてそもそもありえず、企業の普段の活動がISO規格を満たしているかを外部の人に見てもらうに過ぎないのである。
要するにそれ以前は、いや今でも多くの企業のISO14001活動は会社の業務ではなく同好会かサークル活動あるいはアルミ缶のプルタブを集めるような位置づけであったわけだ。会社のメインではなく気分だけ、形だけ、気は心、会社の経営にはドーデモヨイのである。

さて、本日のテーマは環境活動に会社の業務そのものをあてはめた場合、はたして審査が可能なのだろうかという疑問である。疑問点として、監査可能性があるのかという意味と、審査できる力量を定義できるのかという二つある。
以下にあげる事例は、創作とか私自身の体験ではない。私はISO特にISO14001に関して知り合いが多く、こういった情報には事欠かない。

某社でのこと
開発計画がことごとく、スケジュール通り進捗していた。それを審査員が「そんなはずがないでしょう。計画が遅れたり、プロジェクト崩れといってとん挫したりすることもあるでしょう」と粘ったそうです。その会社は「当社ではそのようなことはありません」と応えたそうです。
事務局の方は私に「社運を賭けるような開発計画になれば失敗は許されませんよ。開発がうまくいかなければ他社から技術を買ってきたり、一部をアウトソースしてもやり遂げるのが当然です。」と語っていました。
聞くところによると、計画がやむをえず遅れてしまったということは決してなく、経営判断で計画の見直しを、つまり遅らせることを経営の意思として決定するのだそうです。

ある販売会社でのこと
「A商品の売り上げが目標を達成していませんが、これに対する是正処置はされたのですか?」
「ビジネスは相手あってのことです。我々は変化する環境に対応しなければならずA商品が売れなければ、規模を確保するためにB商品を売ったりいろいろ対応するのは当然です。」
「ではその是正処置を行った記録とか有効性をレビューした記録はありますか」
「販売会議の議事録がありますし、セールスの週報などに指示事項などを入れてますが」
「はあ?それが是正処置の記録になるのですか? そもそも是正処置って再発を防止することですよね」
この営業部長、相手が仕事を理解してないと受け取って、その後は世間話をしてお引き取り願ったそうです。
この営業部長がISO規格を理解していなかったのでしょうか?
審査員が事業というものを理解していなかったのでしょうか?

某社でのこと
「あなたの部門の環境実施計画には○○が載っていますが、実施したのはこれだけですか?」
「お宅に提出した環境実施計画には○○しか載せていませんが、企業ですから、いろいろな活動をしてますよ。」

人事秘

極 秘

機 密

社外秘

「じゃあ他にどんなことをしているのですか?」
「・・・とか・・・とか、まあいろいろですわ」
「そういった活動計画をなぜ環境実施計画に載せていないのですか?」
「あのね、当社の事業内容すべてを審査の際に提示する必要はないと考えていますよ。厳秘もありますし、一般的なコンフィデンシャルもあります。お宅から来る審査員には他社に席を置いている契約審査員もいるわけで、当社の活動がISO規格に適合していることを示す程度にお見せすればよいと考えています。」
「環境活動をすべて環境実施計画に載せていないという不適合を提示してよいですか?」
「?」

某社にて、(話を聞いて文章にしたので細かいところは異なるかもしれない)
「貴社の環境方針は?」
「当社は年度ごとに、売上、損益、安全、遵法などを包括した社長年度方針をだしています。」
「はあ、環境についてはこの中のどこにありますか?」
「環境という項目はないです。」
「ISO14001では環境側面に適用される法規制を順守するコミットメントが必要です。」
「環境法規制や独占禁止法や下請法とか具体的には書いてませんが、ここで法規制全般の遵守を表明しています。継続的改善も売り上げ規模拡大とか社会の要請に沿った事業活動の推進というパフォーマンスもありますし、IT化推進などがシステムに該当すると考えています」
「どうもぴったりしないですね。規格要求に見合ったエビデンスがないと困るんですよ」
「私どもはISO14001の要求すべてが盛り込まれていると思いますよ」
「環境目的・目標と実施計画はありますか?」
「当社の○年度計画の投資計画部分に環境施設の更新があり、事業計画にエコ製品開発が載っています。」
「どうも環境が埋没しているようですね。環境側面からそれらを選んだのですか?」
「当社の事業計画は当社が勝ち残るために立案しています。もちろん計画策定にあたっては環境法規制などを考慮しています。」
「環境目的は環境側面から選ぶことをご存じでしょう?」
「へえ、そうなんですか?」

「環境目的は環境側面から選ぶ」と語る審査員は多い。はたして、環境目的は環境側面から選ぶのだろうか?
会社は事業を推進していかなくてはならない。そのためには投資や改善を常に行っていくのであるが、それは第一に法の順守、リスク対策、事業拡大、競争力強化などの理由で行うのである。環境側面だから投資や改善を行うのではあるまい。
具体例をあげよう。今環境ではPCB処理が喫緊の課題である。その処理はどうして決定したのだろうか? 環境側面にあるからか? そういう会社もあるのかもしれない。一般の会社ではPCB特措法が要求しているからしかたなく予算をたて実行しているのではないか?
めっき工程や騒音/振動といった環境側面があっても改善目標に取り上げず、維持管理のみ行い、売上拡大を事業目的として推進して何が悪いのか私には理解できない。
省エネを行うのは環境側面だからという会社はいかほどあるのか? ほとんどの会社は省エネ法や温対法の規制のためとか費用削減のために行っているのではないか?
それはISO規格で語る「目的及び目標を設定しレビューするにあたっては、組織は、法的要求事項及び組織が同意するその他の要求事項並びに著しい環境側面を考慮に入れる(4.3.3)」そのまんまではないか?
この文章がどうして「目的及び目標を設定しレビューするにあたっては、組織は、法的要求事項及び組織が同意するその他の要求事項を考慮し著しい環境側面から選択する」と読めるのか不思議である。
結果は同じかもしれないが、「側面から目的を選ぶ」と語る人と私では事業とISOの関係についての認識が違うのだろう。
私は常識でしか物事を考えることができない。

某社にて
「当社ではISO14001対応の内部監査はしてません。監査部の監査で環境についても確認しています。」
「それは結構です。ところでチェックリストを拝見しますと規格項番が記載されていませんが、規格要求を満たしているか確認しているのですか?」
「ISOの要求はマニュアルで引用している各種社内手順書、たとえば文書管理は文書管理規定に展開していますし、教育訓練は新入社員からはじまる社内教育体系の中で行われています。有資格業務は有資格者のみが担当しています。そういうことをマニュアルに書いています。ですから監査部監査では社内規定に適合しているかの業務監査を行い、適合・不適合を判定して社長に報告しています。」
「どうもしっくりこないなあ、内部監査で規格項番をチェックしていることが見えないのは問題ですね。ISO規格では『この規格要求事項を含めて・・適合しているかどうか』とありますよ。」
「あなたはマニュアルを審査して規格に適合しているから現地に審査に来ているのでしょう? マニュアルが規格適合ならマニュアル通りしていれば規格適合なのは三段論法そのものでしょうが」
「?」

某社にて
「当社ではマネジメントレビューという会議をしてません。内部監査は都度報告してますし、事故や違反は即報告し決裁を受けています。パフォーマンスについては役員会議で報告し指示を受けています。規格4.6で定めている各項目だけでなく事業推進で重要な事項は遅滞なく報告し社長決裁を受けています。」
「規格で定めている要素がすべて網羅されたものがないのでわかりにくいですね。年に一度か二度マネジメントレビュー会議を開いて議事録を作ったほうがいいですよ」
「はあ? ISOのために会社の仕組みを変えるのですか? 私どもはISOは手段で、ISOのために会社があるとは考えていません。」と管理責任者が言いました。
これを聞いた審査員、大変気を悪くしたようです。
「それじゃあISO審査を受けなくちゃいいでしょう」
すべて実話です。

話をまとめる。
審査機関もコンサルも本来業務をISOに取り上げましょうという。では本来業務を環境目的・目標とした時に、審査できるのだろうか?
本来業務を審査することになると、監査性が低いというか極めて経営判断的要素が大きいものとなり、その業務が適正なのか否か、仕組みが良いのか否かの判断は規格に依って簡単に適合・不適合など断定できないのは間違いない。
監査性(Auditablility)とは可監査性とか監査可能性ともいうが、監査で適合不適合を判定するためのエビデンスが得られるかということである。審査員/監査員に説明しにくい・わかりにくい場合、監査性が低いという。
なぜなら、業務本来の審査となれば、本来業務が適正か否かということをどのような審査基準によって判定するのかということが問題であり、さらに立証するためのエビデンスはISOのために作ったものではなく、仕事に使われているどろどろした手順書や記録となるから。そして最終的には事業そのものにさかのぼってしまう。
例で示す。A分野のB商品を拡販しようという目標があったとする。なぜA分野を選んだのか、B商品を選択したのかという範疇は経営そのものであり、審査不可能であろう。環境側面などと青臭いことを言わないでほしい。経営者の決定プロセスを評価できる力量を持つ審査員はいるのか、いやそれ以前に評価しようとする勇気ある審査員はいるだろうか?
そしてB商品が売れなかったときの挽回策と処置を評価判定することができる審査員はいるのだろうか?
記録があるかないかという範疇で適不適を判断するなら、経営に寄与するなどと大口を叩いてはいけない。
目的目標以外でも同じだ。
手順書を取り上げてみよう。ISO規格対応で作られた為の手順書なら監査性は高い(!)が、現実の仕事のために作られた手順書のどこに環境配慮が盛り込まれているかを読むのは手間がかかる。環境だけを切りだして示すことは困難だ。さあ、この会社の文書体系全体を見て適合・不適合を判定できるのか?
力量に関しても「著しい環境影響の原因となる可能性を持つ作業を・・実施する人が力量を持つことを確実にする」だけでは会社は成り立たない。経理、ガードマン、受付、庶務すべての人が職務を全うできる必要があり、そのために人材育成の仕組みがある。 教育記録にしても環境側面対応で人対応の一覧表があればラクチンである。(それが果たして意味があるのかどうか)しかし、個々人の出張報告や業務週報の中で上長が教え導いている現実を読み取り、力量が向上しているのか、大丈夫なのかを判定することは極めて監査性が低いことはいうまでもない。
本来業務を取り込もうと語った瞬間に、パンドラの箱は開き、そして環境マネジメントシステムから経営そのものに戦線は拡大してしまったのだ。
ライフルしか装備していない歩兵中隊を相手に機関銃を得意げに撃ちまくっていたが、気がつくと敵の戦車群に取り囲まれていたようではないか 

それでも審査を行おうとするなら、最後によりどころとして残るのは組織の経営者・社長方針であり、審査はそれに則り社長方針が展開されていないか、いるかを判定することになるのだろうか。
本来業務の審査は、規格適合ではなく、経営者の意思が徹底されているかを判定することなのだろうか?
実際に、そう考えて審査を行っている審査機関を知っている。

環境の審査でも本来業務となるとこれだけ難解でハードルが高いのである。
何階建ほど高いのかなどと茶々を入れてはいけない。 
統合マネジメントシステムなんて言い出したら、審査登録機関の手に負えるものではない。
最近は審査登録機関ではなく認証機関などと僭称しているらしい


本日の疑問
本来業務はISO審査できるのだろうか?


けんパパ様からお便りを頂きました(08.03.21)
本来業務?は環境では審査できません。
研究所の事務局、コンサル事業推進、審査員と経験したものです。
常々本来業務を、等と審査をしてきましたが、もともと経営監査のスキームをもたない審査機関に本来業務?等審査は出来るわけがありません。環境にとって本来業務とは施策であり、それによる紙、ごみ、電気いわゆる環境負荷を少なくすることを求めることが審査機関にとって重要なことではないでしょうか。パンドラの箱を開けたというお考えには賛成です。
ただ、経営に不適合がないということには疑問があります。コンサル経営をしたものとしては、常に経営での「不適合是正」をしてきました。これが弱小後発コンサルで150件もの実績を積むことが出来た源泉だと思っています。大企業ならいざ知らず、経営とは常に「不適合との戦い」だったということは申し添えます。再拝

けんパパ様 お便りありがとうございます。
日本人よの佐為でございます。
このウェブサイトのISOのコンテンツへのアクセスは多いのですが、私を右翼と思う方が多いようでISOに関するお便りはほとんどありません。ご心配なく、私は単なるサラリーマンで右翼ではありません。チベット弾圧反対デモに参加するとか、毎年何度か靖国に参拝する程度の普通の日本人です。
という言い訳はさておき、
審査というのはマネジメントシステムとはいうものの、品質保証とか環境管理という範疇に限定されていると考えます。ですからたとえ放漫経営であろうと、経営戦略がまずくても、それを審査することは適用範囲外であると考えているということです。
現行のISO規格の審査では「管理に不適合」を出しても、「経営に不適合」を出せるはずがない、なぜなら不適合にする根拠がないでしょう。そういうことから「ISO審査では経営に不適合は出せない」と思います。「経営にミスとか失敗はない」という意味ではありません。それを取り上げるなら、審査ではなく経営コンサルになってしまうでしょう。
最近、ネットの同志が、「減収減益ですか。重大な不適合ですから認証一時停止になります」なんてこともありえるのかもしれない、なんて語っていました。
IAFやJABの通知を見ていると今にほんとにそんなことになるのではという気がします。現時点でも、談合は認証取り消しにするなんて息巻いていますから。ただ、そのような判定をするなら、品質保証システムから出発したISO9001はいつ経営品質賞に成長したのかと疑問というか反感を持ちます。
またお便りを頂けたら嬉しいです。


けんパパ様からお便りを頂きました(08.03.21)
よの佐為様
通っている体操教室の先生がダライ・ラマを尊敬していることもあり、チベットの民族運動には興味をもっていますので、よの佐為様のことは正義感の強い代表的な日本人と思っております。
右翼等とは決して思っていませんのでご心配なさらずに。

私はこのウェブサイトのISOのコンテンツは前々からよく読んでいます。私が運営していたコンサル機関に所属していた方にはもっと過激な(失礼!)方がおいでになりましたから、ある意味楽しく読ましていただいています。

ただ、時々思うのですが、なぜこうまで審査機関と受査側が対立の構図になるのでしょうか。受査側が審査機関が煙たくて審査機関があまり言えない「本来業務」を持ち出し、審査機関は審査機関で受査側に無視されたくなくて「本来業務」と言い出す。
環境保全にとっては不毛の議論です。このままではただの免罪符でしか存在価値がなくなります。

私は環境に携わるものとしてはエリートではありません。それこそ地べたを這い蹲って環境保全をしてきました。その経験を生かしてコンプライアンスに絞った監査ビジネスを始めました。事業としては成功しました。しかしそれだけでは世の中の環境保全は確保出来ません。そんな思いから審査員の受け皿会社に潜り込み審査を始めました。
でも、うまくいきませんね、なぜなのでしょうか。
けんパパ

けんパパ様 毎度ありがとうございます。
まず、私は任田佐為というハンドルネームで日本人よ誇りをもてというウェブサイトを開設しておりますので、「日本人よの佐為」と称しておりまして、決して広く世に知られた「よの佐為」ではありません。
それはともかく、
もしかしてですが、けんパパ様とはどこかで相まみえていたのではという懸念が・・
お断りしておきますが、私はアホな審査員、コンサルを叩いておりますが、実際にはかなりの紳士でありまして、言葉使い、言い回し、態度においては不躾にならないよう気をつけております。もし過去に出会っていて議論を交わしていたとしてもお互いに論理的応酬であったと思います。
けんパパ様の言葉で耳に痛いのが「なぜこうまで審査機関と受査側が対立の構図になるのか」ということですね。
でもこれは21世紀の現在だから言えることです。20世紀は江戸時代、悪代官ならぬISO審査員様が何を言おうと、横車を押そうと引こうと、我々民百姓はお武家さまの言うことには反対できねえ〜とひたすら地面に額をすりつけておりました。
審査員が規格を良く理解して、企業の文化を尊重して、審査を行っておれば双方に不満はなく、第三者認証制度というものが虚像にせよ安定して継続できたでしょう。
しかしそうではありませんでした。
つまり「なぜこうまで審査機関と受査側が対立の構図になるのか」というご質問に対する回答は「対立ではなく、審査員/審査機関が自分でこけたのだ」と私は考えております。
受査側が「本来業務」を持ち出すことと、不毛な議論は無関係です。私は91年ころから審査員と不毛な議論をひたすら続けたおかげで、頭が不毛になってしまいました。だからおばQなのです。
私の価値観と言いますか、環境や品質についての物差しは、企業にそして社会に貢献するかということです。
議事録を作ればよい、会議をすればよい、審査員がわかるようにしてほしい(監査性の向上)などなど、クソクラエです。
企業は社会に貢献するために生れ、そして社会から認められれば存続していくことができます。そのためにいかに貢献する審査をしてもらえるのか、それを見てお金をお払いしましょうと考えているだけです。
もちろんそういうお考えの審査機関の取締役クラスも存じ上げております。そういった方が審査員を指導して良い審査が増えていくことを願っております。私は決して第三者認証制度の単純なラッダイトではありません。
しかしながら、そう考えていない審査機関の幹部も存じ上げております。そういう幹部麾下の審査員はそれなりの審査をし、それなりの結果になるでしょう。
いずれにしても審査制度というものは異なる利害をもつ人々が構成しているものですから、一部の人がまっとうにしようと考えても難しいでしょう。そして業界団体が設立した審査機関はトップからボトムまでそれらの企業からの出向者で構成されているわけで・・
お断りしておきますが、私はこんなところでくだを巻いているだけでなく、現実に審査機関とか関係者と行動しております。それが自分の存在のあかしでしょう。


けんパパ様からお便りを頂きました(08.03.22)
任田佐為様
ウェブサイト全体を見ていませんでしたので、ハンドルネームを取り違え申し訳ありませんでした。深くお詫びを申し上げます。
相まみえていたのではという懸念があると感じられたようですが、ウェブサイトと言うバーチャルの世界で3年のお付き合いがあると感じています。3年というには更新からのひと回りですから、私は任田佐為様のことを実像を見るかごとく存じ上げています。
任田佐為様にとってはアホな審査員、コンサルでしょうが・・・。
任田佐為様の言葉でよく分かるのは20世紀の悪代官の話ですね。確かに第一、第二世代の審査員は「環境」のなんたるかを知らずに、まるで企業にエリートとして残れなかった意趣返しをするかのような言動があったことは「事務局」として覚えています。
何せ、システムを構築した本人であるにもかかわらず、主任であると言う理由で審査には参加できず、裏方(立って記録や文書を審査員に見せていました。)にされましたからね。
ただ、時代が変わりました。私もゆるい連携の仲間を全国に多数持っています。世の中が大きく変わるときには底辺から動いていくといいます。自分も底辺ですからね。任田佐為様とは違った形ですが行動していきたいと思います。

たびたびお邪魔して申し訳ありませんでした。
今は審査員をしておりますので任田佐為様流で言うと審査の場で相まみえることもあるかと思います。
それではその日を楽しみにしております。
けんパパより

けんパパ様 毎度ありがとうございます。
あのう、名前は単なる記号と思っておりますので全然気になさらないでください。

20世紀の悪代官のことですが、20世紀は絶対者として君臨していたというのは事実でした。しかし、21世紀の現在、死に絶えたのか?というとそうではなく、過去の栄光を忘れられずおかしな解釈を押し付けるからあつれきが起きているのではないかと思っております。
お間違えなく、まっとうな審査員も多いことは間違いありません。
ただ、私の駄文をお読みになられたと思いますが、所見報告書に証拠も根拠もあやふやなものが過半あるというのは嘘偽りない事実です。規格の項番を間違えたのか知らないのか、なぜ不適合なのか理解できないもの、部門審査のとき議事録を出そうとしたのをいや見なくてもよいですと言って、クロージングで議事録がなかったなんて不適合を・・・もうハチャメチャですよ。
お断りしておきますが、私は複数の審査機関の多数の審査に陪席していますし、毎年見ている審査報告書は100件を下りません。
もっとしっかりしてくれよ・・というのが本心です。
けんパパ様の仲間が日本の審査を良くしてくれることを祈念しております。
相まみえるなどとは恐れ多いので遠慮しておきましょう。


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