審査員物語 番外編38 ISO14001再考(その7)

16.09.29

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。但しここで書いていることは、私自身が過去に実際に見聞した現実の出来事を基にしております。また引用文献はすべて実在のものです。

*今回から私は自分に新たな目標というか制約を課す。それは1話の文字数の上限を6000字にすることだ。目安や目標ではなく厳守である。もっともその誓いがいつまでもつか定かではない。まさか初回から達成できないということはないだろうと期待するのだが・・・
実は先日N様と飲んだとき、私の文は長すぎると言われた。
最近、たまたまネット小説というのを読んだ。すると1話の文字数が3000字くらいしかない。ずいぶんと短い。それでいくつかのネット小説を探して文字数だけチェックしたら、ほとんどが1話3000から6000、最大でも6600字くらいである。
私の場合7000を目安としているが実際は8000から12000、これでは一般的ネット小説の倍から3倍、正しいとか間違いということではないだろうが、世間並ではないことは間違いない。お忙しい方に読んでもらうにはその程度が適切なのだろう。ISO9001に関わって25年、顧客満足を満たしていないとは紺屋の白袴である。
とはいえ6000も多すぎるのだろうか? 心配は絶えない。

審査員物語とは

三木は二日ほど休暇を取った。この年になると結婚式とか家族の行事などめったになく、また特段持病もない。そんなわけで昨年三木が休暇をとったのは親戚のお葬式で一日だけであとは捨てた。今日も休暇を取る必要もなかったのだが、どうせ捨てるなら休暇を使って勉強しようと思った。
思い立ったきっかけは仕事でいろいろな会社を訪ねる。環境施設や製品の環境性能など技術的なことで知らないことはあっても、そういうことはその場で聞いても恥にはならないし、後で勉強してもいい。しかし経営者インタビューで経営戦略や財務諸表の話とか、ドラッカーやポーターの話が出ることもある。物を売ることは何十年もしてきたが、最近の販売戦略の学説なんて知らない。せめてそんな話のとき相槌くらい打てるようになりたい。 出張の多い仕事がら休日も夜も図書館を利用することができないから、最初の日は本屋に行き面白そうなものを10冊ほど買った。この仕事に就いてからISO規格とか審査の本は読んでいるが、それ以外のカテゴリーの本を買うのは何年かぶりだ。審査の移動のとき読む時間はあふれるほどある。

二日目はすることもないので、三木は買った本を1冊携えて以前陽子と行った公園に行く。平日で公園はガラガラ誰もいない。三木は羽織ってきた上着を丸めて枕にしてベンチに横になって本を読む。ホームレスには見えないだろうと自分は思う。
公園 昼頃、母親と子供が何組か現れお弁当を食べていたが昼過ぎるとまた人気ひとけがない。

同じ姿勢でいると体が痛くなる。寝たり起きたり姿勢を変えながら2時間ほどで1冊を読み終えた。一冊読んですごく知識が身に着いたなんてことはないが、何冊か読めば役に立つこともあるだろうと三木は楽天的に考える。
腹が減ったので200mほど離れた道路沿いのコンビニエンスストアで弁当とお茶を買う。公園に戻り弁当を食う。弁当を食べ終わると横になる。
青い空と白い雲を眺めているといろいろなことが頭に浮かぶ。同僚は今頃一生懸命審査をしているのだろう。ご苦労なことだ。
またいつもの疑問が頭に浮かぶ。自分たちのしている仕事は価値あることなのか? 価値がないなら一生懸命したところで意味のないことではないのか?

小畑
小畑である
最近三木はいろいろな人に認証の意義について質問したりされたりした。振り返るのも大事だろうと三木は思う。 先日偶然に会った小畑の話を思い出す。小畑はISOについてあまり真剣に向かい合っていないように思えた。小畑はISO認証を目的化している。だから認証の意味などどうでもいいようだ。
そういえば以前山田と話したときは、山田はISO14001のために企業の本来のEMSを悪くしないでほしいと言っていた。山田はISO認証に価値を認めていないようだ。認証などせずとも法を守り事故を起こさなければ良いという。山田と小畑は何が違うのだろう。
直ぐに答えが浮かんだ。実は二人とも全く同じ価値観なのだ。それは職務に忠実だということだ。彼らは与えられた仕事を完璧に達成しようとしているに過ぎない。
山田はISO認証が仕事ではない。彼はグループ企業の環境活動の指導監督が仕事である。そのために最善を尽くし、グループの工場や企業の環境活動を推進する。ISO認証はその目的に有効な時もあるだろうし、役に立たないこともある。役に立たないISO認証なら止めさせるのも山田の裁量範囲なのだろう。
山田
山田である
他方、小畑にとっては、認証すると決定した工場・企業が手っ取り早く認証できるよう指導することが仕事である。遵法や事故防止に全く役に立たない仕組みではいけないが、どうでもいいことは片目どころか両眼をつぶりトラブルなく粛々と進めるわけだ。審査員に好みがあるならそれに合わせることも吝かではない。
小畑より山田の仕事に価値があるというわけではない。単に仕事が違うのだ。山田は環境行政(注1)をしているわけで、小畑はISO認証請負をしているのだから。

注1:
環境行政という言葉を初めて聞いた人がいるかもしれない。行政とは司法・立法・行政ではない。定められたことを展開し実行させること、その管理監督を言う。
ちなみに英訳はAdministrationであるが、この言葉は普通、管理とか統括などと訳される。まさに本社業務である。

そう言えば以前、佐田という男にも会ったことがある。彼はまたスタンスが違うようだ。
佐田
佐田である
彼は元々品質保証屋だったらしい。ISO9001認証も仕事の一環であったが、やがてその腕を見込まれてISO認証請負となったが、それが一巡した後は業務監査で環境を担当していると聞いた。
佐田もISO認証そのものの意義はあまり認めていなかったようだが、佐田は山田とも違う。佐田は環境行政という上から目線ではなく、会社における環境管理をいかに効率的にそして質的向上するかという実務者の観点で考えているようだ。それは企業の価値向上というのとは違い、テーラー以来の科学的管理法の系譜につながる匂いがする。それがいい悪いではない、観点が違うのだ。

氏名生い立ち過去現在望むもの
山田営業矢印ISO事務局矢印環境行政矢印子会社に違反や事故を起こさせない
佐田品質保証矢印ISO認証請負矢印業務監査矢印仕事の質向上
小畑矢印ISO事務局矢印ISO認証請負矢印簡単に認証し、簡単に維持する

みんなISO認証と関わってはいるが、生い立ちも過去も異なる。誰が正しいということもない。それぞれ仕事が違うのだからそこで目指すものもすべきことも異なるのは当然だ。
山田が佐田の立場におかれたら山田は当然考えも行動も変えるだろう。小畑が山田の立場におかれたらISO認証は二の次になり、遵法と事故予防を第一義とするのは当然だ。
そう考えると、山田も佐田も小畑も等しく優秀で、与えられた職務に忠実に見える。そしてもし彼らが三木の職に就いたとしても三木と同等かそれ以上の成果を出すだろう。いやはや世の中にはすごい連中がいるものだと三木は正直思う。

では審査側の人間はどうだろうか?

氏名生い立ち過去現在望むもの
三木営業矢印営業矢印審査員矢印年金がもらえるまで大過なく過ごす
朝倉安全衛生矢印安全衛生矢印審査員矢印
木村品質管理矢印ISO事務局矢印審査員矢印家庭の事情でできる限り審査員をしたい
島田設計者矢印技術コンサル矢印審査員矢印年金が心配なのでできる限り審査員をしたい

こちらも同じISO審査員をしていても生い立ちも過去もまったく異なる。三木と朝倉は思いがけず業務命令でISO審査員になった。他方、島田は技術士事務所という看板だけでは立ちいかずISO9001・14001の契約審査員になったという。木村はまた聞きだけどご家庭の事情で可能な限り働き続けたいという希望があるらしい。いずれも規格の意図を実現するのが己の理想ではない。諸事情でたまたまISO審査員になっただけだ。では与えられた職務において最善を尽くしているのかというと・・・どうだろうか?
木村も島田もコンサルをしているが、島田と違い木村は金儲けに軸足があるように見える。そして規格解釈などにおいては長いものに巻かれろというスタンスで、まじめに考えているようには思えない。
ともあれ、それぞれに異なる過去と未来があって、ただひとときISO認証という制度で人生のいっときにおいて関わりをもったということだ。まさに一期一会だなと思う。
それぞれが自分の価値観でISO認証制度を解釈し自分の解釈で消化しようとする。当然見解が一致しないしコンフリクトも生じる。ISO規格の理解にずれがあり、その展開・応用において更なるずれが生じ、現実の審査においては同床異夢どころか十人十色でシステム構築なり審査なりすればあつれきが起きるのは当然だ。
ただ・・・審査員という仕事についての認識が一致しているなら認証制度に寄与することはできるかもしれない。つまりISO規格の意図が遵法と汚染の予防であると認識していれば、有益な環境側面や環境目的が3年とか解釈しても大局的にはベクトルがあったのかもしれない。
ちょっと待てよ、ナガスネの立ち上げ時の指導者たちは規格解釈を遵法と汚染の予防から見ていたのか、それともなんらかの偏向を受けて見ていたのだろうか。阿賀野と言ったなあ、あの先輩審査員は環境実施計画が目的用と目標用の二つがないと不適合としたが、ISO規格に書いて「ある/ない」という以前に、ISO規格の意図である遵法と汚染の予防を理解していないのだろう。
ということは立場の違い以前に規格の理解がずれていることになるのだが・・・それは審査員教育が悪かったのか、いや教育以前に国語の問題なのか、それ以前に常識の問題なのだろうか? 何も考えずに言われた通りに行動していただけなのか? 三木は、柴田取締役や須々木取締役との熾烈な規格解釈闘争を思い出した。今考えると彼らはなぜ素直に規格を読めなかったのだろうか。その結果、ナガスネの評判を落とし認証の価値を落とし自分自身の評価も落としてしまった。そういったことの積み重ねでISO認証の価値が上がらないことにもつながっているだろう。

三木はこの休暇を経営の話を理解できるようになろうと思っていたが、結局考えたことはISO認証とは何かということに戻ってしまった。
果たして認証の意味とは何だろう? 自分の仕事の価値とは、自分は何をもって社会に貢献しているのだろうか? あるいは貢献していないのだろうか?

と思っていて山田と小畑の違いに思い至った。
小畑は己の任務を認証請負と割り切っている。認証が価値あるのか否かは彼の議論の外だ。与えられた仕事を完璧に達成することを己の職務と断定している。それが悪くないならば、三木が自分の職務は適合性評価であると割り切って悪いわけはない。適合性評価に価値があるのか否かは己の職務の範疇ではない。
そしてまた規格と認証は違うのだ。三木が規格の意図を考えても仕方ない。自分は認証ビジネスをしているのだ。審査のルールを守り粛々と遂行することが自分のビジネスであり、それを誠実に行うことが己の存在意義ではないか。規格適合を確認することに意味があるのかと問われても戸惑うことはないのだ。それは私のビジネスではない。自分も小畑のように割り切って生きていかねばならない。それは責任逃れとか逃避ではないだろう。与えられた仕事を完璧に遂行することが職業人としての責任である。

だが、そう割り切ったとして認証ビジネスそのものが先細りであることは否定しようない。それはどう考えるべきなのだろうか?
小畑の立場で考えれば・・・ISO認証に価値はありませんよと言われたら、小畑はどうするのだろう? 彼なら深刻になることなく新しい業務に異動するだけではないか? そのとき必要とされている仕事を人よりも手際よく確実に成し遂げることに違いない。
そういえば小畑は言っていた「掃除機を設計している人は、掃除機を愛することはないし、受入検査をしている人が抜取検査規格を愛することもない」
それは当然のことだろう。三木はISO審査員をしているが、ISO規格を聖書のごとく尊い言葉と思っているわけではない。そもそもISO14001が神の言葉なら、規格改定というものが存在するはずがない。自分の仕事を愛することは悪くないが、行き過ぎて「博士の異常な愛情」のようになってはまさしく異常だ。
結局のところ
ISO認証は仕事だ
と割り切ればいい

三木
三木は体を起こした。割り切るというと語弊があるが、実際問題、仕事をしていく上ではある程度考え方を決めておき、個々の場面において一から考えないようにしておくことは必要だ。
審査でISO規格の意味は何かとか聞かれたら規格の序文を引用すればよいだろう、認証の意味は何かと聞かれたらISO/IAF共同コミュニケを引用すればよい、そして自分の仕事の意味を問われたら職務に忠実に完璧に遂行することだと答えよう。
そして経営者のインタビューでは話題に事欠かないように如才なく、個々の審査の場では紛糾しないように立ち回れる常識と知識そして悪知恵があれば十分だ。そう思うと三木は身も心も軽くなったように思えた。
立ち上がりパタパタとしてごみを払い、弁当のごみをまとめた。
時計を見ると3時を少し過ぎていた。家に帰ったらお茶、いやコーヒーを沸かそう。陽子が最近新しいコーヒーメーカーを買ったといった。前のものはもう10年くらい使っていたはずだ。壊れたわけではないが気分を変えたのよと笑っていた。陽子の笑顔を思い出すと三木も顔がほころぶ。



ISO認証って何だろうと私は20年以上考えてきました。
私とISO9001の出会いは、欧州の客先から認証を要求されたときです。客先の監査員が直接二者監査に来る代わりに、代理人が来ると思えば従来と全く変わりません。そんなわけでISO認証をしましたが、それについてはまったく疑問はありませんでした。
そのうちに客が要求しなくてもISO9001の認証を受けるという発想が出てきて、それも滞りなく対応しましたが、そうなると何のために認証するのかという疑問が出てきました。
あげくに審査に来た人が「御社のシステム改善に貢献したい」なんて言います。1995年頃でしょうか。ちょっと話がおかしいんじゃないかと思いました。当時ISO9001は1994年版で、規格の性格は品質保証そのものでしたから。
まもなくISO14001が現れその担当になりました。
それには二者なるものが存在していません。つまり初めから会社のシステム改善のようなのです。そんな考えで第三者認証が存在するのでしょうか?
ISO認証と言っても私一人でするわけがありません。公害防止担当だった人が言いました、「今まで届け出とかしていたものを改めて調べなおすことにどんな意味があるのか」と。今まで間違えていたこととか知らなかったことがあるわけがなく、なぜそういう発想でISO14001に取り組まなければならないのか。
まあ結局はそういうものだと割り切るしかなかったわけですが、実際の審査では「法違反だ」、「法の基準を満たしていない」など審査員がイチャモンを付けました。行政に相談に行くと、過去の法改正のときに過去の設備は特例があってそれで問題ないとか、あるいは審査員が法律を読み違えていたのだとかで全く問題ない。
ISO審査とは企業を無駄にかき回すだけなのか? いやもう少しましな人を審査員にしなくちゃ認証制度そのものが成り立たないでしょう。そんなことに振り回されていれば、誰だって認証とはなんなのかという疑問を持つでしょう。
このうそ800のたくさんのコンテンツ(多分1000件以上)をパラパラとお読みいただけるとお分かりいただけるでしょう。20年以上前、私は田舎の企業のISO担当者でした。当時の問題は審査員の自由奔放(傍若無人ともいう)な規格解釈でとんでもないいいがかりをつけられ、ユニークな法律の読み方で勤め先が違法状態であると脅迫されたりの連続でした。ですから私は実際の仕事でも悪代官ならぬ悪審査員とチャンチャンバラバラしていましたし、そういう審査員の無能、誤解を叩いてきました。
後に私は仕事を変わり、田舎の一工場の担当者ではなく企業グループの指導監督をするようになりました。そこで私が見たのは、悪代官は少数どころか多数いることでした。そして審査員個人への不信から、審査側全体、認証制度そのものへの不信になりました。
2000年代になると、ISO認証企業での法違反などが報じられ、驚くことに認証制度側は「認証企業が不祥事を起こしたのは、審査の際に虚偽の説明をしたからだ」との賜ったのです。
これに怒らずにおらりょうか
 いえ認定機関を懲らしめて手柄をたてる気もありませんが
ISO審査の問題はすべて認証制度側にあります。企業側が嘘をつこうと事実を隠そうと、それを検出できないのは審査側の未熟であり責任です。裁判を考えてください。被告人が何を語ろうと語るまいと、有罪を立証できなければ検察の負けです。もし検察が被告人が嘘をついたから有罪にできなかったと泣き言を言ったら、笑われるのは検察です。被告人が責められる筋はありません。
認証制度の人は「企業が虚偽の説明をしたからだ」とはどういう意味なのかよく考えなければいけません。自分たちがいかに未熟であるかを認識しなければ是正処置はできないでしょう。そういうことを認識できないから認証の価値が下がり、認証件数が減り続けているのです。
まもなく日本においてISO第三者認証制度は消滅するでしょう。それは当然です。だって存在する価値がないのだから。

うそ800 本日のまとめ
結局、第三者認証って何なんでしょうかね?
そんなことどうでも良いようです。我々は与えられた職務を完ぺきにこなすこと、それでいいじゃないですか。
キョギノセツメイガーと言う人の相手をするほど暇じゃありません。
そして第三者認証制度がなくなろうと、我々が気にすることもありません。
なお、本日の文字数はほぼ6000文字を達成した模様です。めでたいことです。



PDCA3様からお便りを頂きました(2016.09.29)
初めてメール致します。
9/29付番外編は納得しました。
弊社は先日2015年度版移行審査を受審したばかりです。
本HPを参考に、特別な準備をする必要無し、と判断し臨みましたが、審査員様は水戸のご老公様かと思うばかりの印籠(曰く「規格の要求」とか申す)を持参して降臨し、重箱の隅をつつきながら、下々を制圧するような審査でした。現在先方の営業担当を呼びつけている所です。以前からISOは大いなるダブルスタンダードだとは理解していましたが、今回の2015年度版移行における審査機関だけの「一打逆転好機到来」の騒ぎに辟易しております。
今後もご指導の程、よろしくお願い致します。

天下の副将軍であるぞ PDCA3様 お便りありがとうございます。
悪代官ならぬ天下の副将軍水戸の古老公様の偽者が現れたとのこと、まさに水戸黄門ドラマの定番でござりますな。ひっとらえて磔獄門にせねば・・・
桧垣さん、あなたは間違っている 審査員の多くは自分が企業側と対等の立場であるということを理解していません。上から目線、指導する立場、先生と呼ばれないとふくれる、まあどちらがお金を払っているのかわからないようです。
とはいえ、私の時代と違って蹴とばされる、灰皿をぶつけられる、怒鳴られるという身の危険、命の危険はなさそうです。私は飛んできたUFOならぬ灰皿を身をよじって避けたことがありました。まさに姿三四郎の決闘かと勘違いしそうな場面であります。
そんな無法時代に比べればよくなったものだと老人は思います。
ともかく落ち着いて異議申し立てしてください。可能なら次回から忌避されたらよろしいですよ。○ガイに刃物、○ガイに審査員っていうくらいとんでもない組み合わせになります。
頑張ってください。理論武装が必要な時は声をかけてください。

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