ISO審査登録制度の行く末 2007.08.18

私の同業者、つまり環境監査とか環境遵法などの指導をしている人と雑談していて、ISO9001とISO14001の統合認証の話題になった。
私は会社というものは本来ゼネラルマネジメントシステムが基本であり品質と環境を合わせたところで意味がないのだが、この世の中ディファクトスタンダードとか強い者長いものに巻かれるしかなく、結局統合認証するようになっていくだろう。そのうち私の勤めている会社もそうならざるを得ないのかもしれないというようなことを言った。
man7.gif しかしその人は、統合認証なんてすることないし、そのための活動をすることもないという。なぜかと聞くと、だって統合認証など考えるまでもなく、そのうち第三者認証そのものが消滅するという。それは時間の問題じゃないかという。彼が言うには第三者審査登録制度はもう制度疲労していて長持ちしないだろうというのだ。
私はそのような発想をしたことがなかったので驚いたが、話を聞くうちにそうかもしれないと思い始めた。

私は過去よりISO規格の値打ちを疑ったことはない。それを実現する手段の一つとして第三者審査登録(認証)制度があるが、その認証制度の運用実態の質が低いので改善しなければならないというスタンスでいた。過去よりここに書いているおびただしい駄文はすべてその見解の上で書いている。
それに対して彼は認証制度の信頼性向上や審査の質向上など期待できないし、過去改善しなかったようにこれからも改善しないだろうという。私はいつまでも分かれた女を忘れられないように、現行制度を良くしていかなければという考えにとらわれていたが、彼の話を聞くほどに私の気持ちも揺らいできたのである。
もちろんISO規格の示すところを実現したいという気持ちは変わらないが、それを実現する手段は第三者認証ばかりではないし、そもそも1987年の規格が目指したのは第三者認証ではなかった。何もISO規格の示すマネジメントシステムを実現するために第三者認証という手段にこだわる必要はないことに改めて思い至った。
環境であれば自己宣言もあるだろう。それに規格の要求事項すべてを満たすことさえ必要ではなく、それぞれの組織が自分に合わせて要求事項の項目を取捨選択しても良いのではないか? 14001の序文にもそんな趣旨は書いてある。ISO9001でも87年版にはテーラリングという言葉があり、規格の絶対厳守を求めていなかった。
考えてみれば、すべての企業が環境目的を持ち改善を進めていかなくてはならないこともない。現状を確実に守るという企業があってもそれを非難する筋合いはない。
なにしろこの世には法律さえ守れない会社がたくさんあるのだから。
組織的に内部監査は困難だから上長による業務点検を行うにとどめるという会社があっても悪いことはない。
エコステージがステージと称して段階に分けて継続的改善を指導しているが、そんなアプローチが理想なのかもしれない。もちろんエコステージ方式であろうと認証が必要ではない。
形でなく心、免状ではなく本質である。

品質であれば、BtoBなら製品やサービスをやり取りする当事者間の契約が基本であるし、不特定多数のBtoCの製品ならば、元々ISO9001に基づく品質保証をありがたがった顧客はいなかったのではなかろうか?
コンシューマー向け製品でISO9001認証しましたからといって、それを根拠に購買する一般消費者が今までいただろうか?
そういったカテゴリーにおいてはISO9001認証とはCIと同じような、いやCIそのもので単に箔を付けるだけであったのかもしれない。顧客第一、品質奉仕なんて精神はISO以前からあったし、そうでなければビジネスというのは継続できないはずである。

第三者認証の信頼性は顧客が疑ったのではなく、供給者(組織)がみずから暴露したのである。もちろんそのマネジメントシステムを認証したのは審査登録機関であり、その審査登録機関を認定したのは認定機関であった。
第三者認証制度は制度の外部の敵から攻撃されているのではない。制度の内側、制度を構成する組織、機関が制度の外側の社会が期待するものを提供しなかったために、信頼されなくなりつつあり、制度の存在意義を疑われるようになったきたのである。
制度の外側にいる私が第三者認証制度の信頼性を高めよう、質向上を図ろう、少しでも寄与しようと考えるのは元々誤りなのだろう。私の立場なら、第三者審査制度を離れて、ISO規格を活用したもっと良い方法はないのか? いかに利用するかと考えるべきなのだろう。
目的は規格を実現することである。そのためによりよい手段があるならば第三者審査登録から別の方法に乗り換えても悪くもおかしくもない。
品質ISOの審査登録数は減少しているし、環境ISOだって新規登録数は頭打ちで07年は前年度の半減かもしれない。そんなことを考えると制度疲労か時代遅れかどうかはともかく、制度そのものが2010年以降も継続していくだろうという期待は持てない。
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織田信長が妻に「一万の兵がいて一回の戦(いくさ)で千人が死んだら、何回戦をすれば全滅するか」と問うと妻が「10回でしょう」と答えるのを聞いて笑い「3回も戦えば残りの兵は逃げていなくなる」というのを何かの小説で読んだことがある。
ISO認証件数が減少して、ある一定点(臨界点か損益分岐点か)を越えると、激流のように続々と認証を返上・辞退することになるのかもしれない。

そんなことを考えると、「審査登録制度よ良くなれ!」と叱咤激励してきた私がバカで、余計なお世話だったのかもしれない。
審査員の規格の理解がどうのとか、所見報告書がプアだとかいうこと自体まったく無駄なことなのかもしれない。審査はお付き合い渡世の義理、審査費用は税金であるとあきらめて、台風が過ぎるのを待つようにやり過ごすのが大人の対応なのかもしれない。
規格を理解していない審査員の指摘事項には「ありがとうございます、目からうろこが落ちました」と応え、稚拙な所見報告書を見れば「さすが審査員のお書きになる所見は違いますね、内部監査の参考にせねば」と誉めるのが正しい応対なのだろう。
間違っても「規格のどこにありますか」とか「異議申し立てします」なんて言ってはいけない。そんなことはおとなげなくみっともないことなのだ 
だが、私の性格では大人になれそうないなあ〜


本日の疑問

果たして第三者認証制度はどうなるのであろうか?
いずれにしても、すべては時間が決定するだろう。



制度疲労というのはいかなる分野においても必定なのだろうか?
持続可能成長という言葉はあるが現実には存在困難なように、持続可能制度というものは存在するのだろうか?
古くからある第三者による検証という仕組みには会計監査や保険会社の検査などであるが、そういったものは常に間違えたら責任をとるあるいは自分がお金を支払うという前提であった。
自分が判断した結果について、間違っても責任を負わないという仕組みがそもそもおかしいのではないか?
審査登録した企業で品質保証に問題があった場合、審査機関が責任を負うという仕組みでなければ審査機関を信頼する理由がないのではないだろうか?
「品質」に問題があった場合ではなく、「品質保証」
に問題があった場合と記してあることをご確認願う。

環境審査において「これは組織が法を守っていることを保証しない」とある。
じゃあ、環境マネジメントシステムが規格適合であることを保証するのか?
現実は認証した企業で不祥事が起これば、認証取り消しをする。それでは規格適合さえ保証していないではないか!
「認証の価値」となんなのだろう?

責任・権限なんて言葉は規格にあふれかえっているし、審査員もしょっちゅう口にしているだろう。昔から組織論では権限を裏付けるのは責任である。責任をとらない人が発言権を持つはずがない。
責任をとらない制度が信頼されるわけがない。信頼されない制度が長続きするはずがない。
制度疲労とは関係ないのかもしれない。

ここまで書いたら、もうISO論はおしまいか?と問われそうだ。
理屈からいえばそうなるのだろう。しかし、これまた渡世の義理というか、暮らしを立てるためというか、オマンマを食べるためにいやがおうでもISO審査、審査員、審査機関とお付き合いを絶つわけにもいかず、フラストレーションは募るばかり。
文句をいい、ガス抜きしないと腹ふくるるばかりなり・・
おっと、改善提案を申し上げることは決して終わらないでしょう。


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